神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 11

2024年02月13日 19時18分27秒 | 甲越軍記
 伍子胥は、まさに処刑が行われるその時に左右の者に言った
『儂が死ねば、まもなく越王がこの国を攻め滅ぼすであろう、おまえたちは儂の目を取って城の東門の上に掛けよ、必ずこの国の亡ぶ姿を見るであろう』
そう言うと使者の剣を奪って自ら首を切り落とした」

「越の国は呉の国の東方にあり。越軍の大軍が呉を滅ぼすときには呉城の東門より攻め込むであろうと思い、目を東門に掛けよと申したのである。
伍子胥の予言通り、ほどなく越の大軍が攻め入ってきて呉は滅ぼされてしまった、呉王の宮殿は草野の原となった。
いま小澤の和歌にいうところの『目をかくる籬やいずこ』とはこの故事を指すもので、『この館の滅ぶ姿を見るに自分の目はどこに置けばよいのだろうか』下の句の『よもぎさかゆる跡をしもみん』とは、よもぎは全ての草の総称であり、雑草が亡びた館跡を覆いつくすという意味であります」
笠井の故事の解説を聞き終えるや否や、信虎は怒って庭に飛び出し、備前長光の業物を抜き放つやいなや、宙に浮かぶ小澤の細胴を一太刀で真っ二つに切り離すは力量と業物の仕業、水を切るより簡単であった、そして上半身は頭の重みでさかさまにひっくり返るところを、空中にあるまま首を切り落とした。

惜しむべし槿花朝の露と化し、夕を待たずに消失してしまった。
小澤が死に臨んで「三代にて滅ぶ」と言ったことはまさに少しもたがわず、信虎の孫、勝頼の代で武田家は滅んだのはまことに不思議であった。
諺に「一婦、恨みを抱く時は、六月霜を降らす」とは、まさにこのことであろう。
これより国中の士民は信虎の所業を恐れおののいた
そののち、信虎が言うには「この世で無用の者は盲人なり、これをこの世に置くのは国土の費用の無駄である、すぐにとらえて参れ」と命ずると
信虎に気に入られようとする佞臣たちは四方に散って盲人を捕えては連れて来た、その数、およそ30名にのぼった。
城外に大きな穴を掘ると、そこに盲人を投げ入れて生き埋めにして殺した。
これを見聞した人々は皆くちぐちに、信虎は古今未曽有の悪人であると一様に憎んだ。
秦の始皇帝、天下を統一してその勢いのまま増長していく姿を臣下の儒者が苦々しく思い諫言した。
しかし始皇帝は自重するどころか、儒者の小理屈は儒書によっておこるものであるから国内の儒書すべて焼き尽くせ、儒者は全て生き埋めにせよと臣下に申し付けた、そのため書物は次々と焼き尽くされ、儒者数百人を穴に入れて生き埋めにして殺害した。
これも暴虐であるが、儒者の諫言に腹を立てた悪行である、しかし信虎の悪行は何ら罪のない盲人を、ただおのれの残虐なる楽しみで殺害したものであると心ある者たちは嘆いた。

このような話を聞くにつけ、あの四臣の残る二人、工藤下総、内藤相模は歯がゆく思い諫言しようにも、あの定国の事件で無様にも生きのこってむざむざと戻ってきたことを今さらながら悔やみ、今こそ再び命を投げうつときが来たと思ったが、傍に近づくどころか館にも近づくことを許されず、いかにして信虎に会って諫言しようかと毎日のように相談していた。
そして一計を図ることに決した。




2月11日 散歩道

2024年02月13日 08時06分05秒 | 散歩道
16時半でも、まだ陽は高い 春がどんどん近づいている気がする

この川は行くたびに流れが変わる、今日は複雑に蛇行してアマゾン川のよう

子供の頃、この道路は国道でバスが往来していた
今は商店も無くなって、夕方と言うのに人の気配すらない


この坂は今は舗装だが、母が若いころは土埃が舞うもっと急な坂だったそうで
木炭バスが走っていて、この坂にかかると乗客は全員降りてバスを押し上げたそうだ。

このあたりの町内の半分はこの工場の敷地になっている
その工場も不景気で最近幕を閉じた


やはり路地を見つけると入って行きたくなる
路地には不思議な宝物が埋まっている

忘れていた暮らしを見ることもできる

今年初めて海に沈む夕日を見た