神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

軍記資料「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 1

2024年02月03日 20時39分48秒 | 甲越軍記
今また一つのチャレンジ、楽しみが浮上してきた
それは江戸時代前期に書かれた「甲陽軍鑑」「北越太平記」を併せて編纂された幕末の「甲越軍記」撰者は大坂の画工速見春暁斎
旧字体で書かれた上に漢文調なので、そのまま読み流すだけではまったく意味が分からないので、時間はかかるが1ページずつ現代文に訳して読み始めた
先の長い作業になるが、まあ楽しみとしてやれるところまでやってみよう。

甲州の武田家のこと、越後の長尾家のこと、両者が相まみえた信濃川中島を中心にした戦の事が書かれている、未完のまま撰者は亡くなった

 かって漢土(大陸)では周王朝が栄えたが春秋・戦国の時代には七雄の国がそれぞれに王を名乗って驕りと淫らな心を持ち、王朝をないがしろにして互いに干戈を交え併呑を競い合った。
わが皇国においても同様のことが起り、山名宗全、細川勝元と云う人があり、足利家の執権として国家三分の二を二人で得て、国家をないがしろにして応仁の大乱を引き起こした。
文明年間より天文年間に至り、漢土の七雄の世と同じく東国には北条早雲、今川義元、西国には大内義興、尼子、大友、竜造寺の輩あり
そのほか南海、北陸の諸国も大いに競い合い狼煙の消える日はなくいずこも平穏な時が無くなった。
本邦において今日まで軍事の規律法令は定まらず、それぞれが思いのままに兵を交えて戦を行っている。

そんな天文年間に武田大善大夫、後に入道して法性院殿信玄公という人が降臨されて、初めて城の縄張り、攻城野戦の為の練兵も漢の策士が開いた戦法を自然に得て行った。
清和天皇より六代にあたり鎮守府将軍兼陸奥守源頼義朝臣を祖とする。
頼義には3人の男子があり、すなわち三社の神に託して氏子として、長男は石清水八幡宮に寄せ奉り、八幡太郎義家と号し、二男は加茂皇太神宮に寄せ奉まつり加茂次郎義綱と号し、三男は江州三井寺の鎮守新羅明神に寄せまいらせ新羅三郎義光と名付けた。
義光は後に刑部丞に任じられ従五位下に叙せられた。
甲斐の国に住し、この子孫はみな甲斐源氏と号する。 武田はその嫡流である
家は次第に繫栄して逸見、板垣、一条、小笠原、南部、下山、井澤、佐竹、錦織、平賀、柏木、加々見、櫻井らとなり、いずれも武田の支流である。




 









越後 春日山城と高田城 2

2024年02月03日 09時41分14秒 | 日本の城
 豊臣秀吉が死ぬと、まだ幼い息子の豊臣秀頼があとを継いだ
五大老筆頭の徳川家康は得意の狸寝入りをしていたが、唯一目の上のたん瘤、秀吉と若い時からの盟友だった前田利家が死ぬと本性を現した。
秀吉が禁じた大名同士の縁組も勝手に仕切り、五奉行筆頭の石田三成の抗議も無視、
しかし家康が手に入れたい越後は豊臣家の大番頭ともいえる忠臣堀秀政の長男秀治が春日山城30万石で入城、若い秀治を補佐するため家老として入城した堀直政がいる限り手が出せなかった。
秀治の父、堀秀政と堀直政は従兄弟で互いに若い時より羽柴秀吉、織田信長の出世に大いに貢献した猛将であり、家康とて一目置かねばならなかった

秀治は春日山城を廃城にして直江津に福島城を築いた。
しかし、秀治が死に、直政が死ぬと、堀家のお家騒動に乗じて越後国を手に入れた家康は全国の大名に命じて越後高田に防御力が高い高田城を作るよう命じた、完成後に福島城を廃城にした。
高田城には家康の六男、松平忠輝を入れて越後および信州川中島合わせて60万石の大名とした。

1610年の時点で家康の11人いた息子は二代将軍となった三男の徳川秀忠と六男の松平忠輝、大人はこの二人だけ、あとは家康が60歳を過ぎてから作ったまだ幼い九男から十一男、後に御三家(尾張、紀州、水戸)となる三人
あとの6人は皆家康より先に旅立ってしまった。

忠輝が兄の秀忠を立てて大いに忠誠心を見せれば目出度かったのだが、秀忠はのんびりとしてしょっちゅう家康に叱られていたから、それを見て育った忠輝は兄に従う気が無い。
むしろ自分の方が勇敢であり、才能もあると思っているから不満タラタラ
さすがに「おれが天下人にふさわしい」とは言えないが腹の中はわからない
後に大坂城攻めの時には秀忠の家臣を無礼討ちにしたり、家康に「大坂城と100万石をいただきたい」と言ってみたり
さすがの家康も自分が死んだ後で忠輝は秀忠に対してクーデターを起こすのではと疑念を抱く。
更にまずいことに「遅れて来た戦人(いくさびと)」超危険人物伊達政宗の娘が忠輝の奥方、政宗も未だ天下に未練を持つ野心家、しかも今が一番脂がのっている、さらに伊達政宗は南蛮人に近づき家臣をキリスト教徒にしたうえでローマに使節団を送った
正宗の領地の仙台には異国船がたびたび訪れていると言う、軍事面でも異国と手を結べば海上から江戸への砲撃の危険もある。
政宗が南蛮の武器を手に入れ、忠輝と手を組めば秀忠の将軍も危うい。
徳川将軍家が伊達に乗っ取られる危険性は無視できない。
ついに家康、秀忠の親子は決断、家康が忠輝を勘当留置、家康が死ぬと秀忠は家康の言いつけ通り有無を言わせず忠輝から越後の領土を取り上げ、信州諏訪に流罪とした。忠輝は92歳まで流人のまま生きた。

忠輝流罪の後、高田城には譜代大名の酒井家次が10万石で入城、越後領は分割されて、それぞれの小藩主に分け与えられた
その後も高田藩は続き、8家目の榊原家の時に15万石で明治維新を迎えた、高田藩は新政府軍の先頭に立って道案内をしながら奥州征討に向かった。

高田城、復元三層櫓



高田城公園は4月には桜の名所となり、4000本の夜桜は日本三大夜桜に数えられる。

高田城外堀  夏の午前には紅蓮で19ヘクタールの外堀全体が埋め尽くされる
その姿は東洋一と称される。

高田城内堀

まるで浮き城のような江戸時代の高田城