

いまは、大安楽寺になっていて延命地蔵蔵尊像が建っている。台座には「為囚死群霊離苦得脱」と山岡鉄舟の筆になる。
伝馬町江戸牢屋敷は、取り調べを受けている間、一時的に留置しておくためのもので、斬首刑は、千住の小塚原で行われた。安政の大獄の折には、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など合わせると96人の勤王志士の命と、2百数十年の間、毎年百人を越える者が命を落とした。[牢屋敷跡]
囚獄(牢屋奉行)は大番衆の石出帯刀で、代々世襲だった。その配下として40人~80人程度の牢屋役人、獄丁50人程度で管理が行われていた。首斬り浅右衛門という者もいた。
牢内は、牢名主を頂点とする厳然たる身分制度が敷かれ、収容人員が増えると「作造り」と称する殺人が行われた。暗殺後は「病気で死んだ」と届け、特に咎めが来ることはなかったという。<怖>




「親思う心にまさる親心 今日のおとずれ何と聞くらむ」
親を親とも思わない現在の子供たちには是非とも覚えておいて欲しい辞世の句だと思っています。
ご法度の博打でつかまると牢屋行きです。
100人弱もの囚人が住む牢屋の環境は劣悪。席の位置、食事などの順序、揉め事の種
は多く、そこでサクッさくっと人減らし「作造り」してギュウギュウな牢内を、少しで楽に
しようとしたのでは・・・。悪いことをした奴はヒドイ目に会えばいい、当然だという
のが、当時の思いであったのでしょう。それに、犯罪の抑止の効果を狙って、役人も目
をつむったと思えます。
iinaもそんな牢名主を映画で見ました。
笑点のメンバーなら、座布団を10枚集めるのは容易いでしょう。
冬の熊野古道を歩くとは、達者ですね。濃霧に雪に降られると厄介ですよ。お気を
つけて、歩いてくださいね。レポートをたのしみます。m(__)m
吉田松陰は、幕末に純粋培養されて育ったイメージを抱きます。幕末には列強国
からの脅迫に耐え植民地化されず済むための人材が群がり出ています。真に軌跡
に等しいです。
薩摩藩がイギリス人を斬り捨て英薩で争うも、やがて英薩が手を握り、幕府をバックアップしたフランスに対抗して影で影響しあった
のですから、不思議な縁が新政府になっても続いたのですね。