
[ 武士 もののふ③ ]
すべては、織田信長からはじまった。
近世の基本については信長が考え、かつ布石した。中世の呼称で総合される諸慣習は、この人物によって打ち壊された。だけでなく、新しい社会をつくろうとした。
中世は商工業から芸能にいたるまで「座」という特権的な協同組織ができていて、ときに独占権をもち硬直化していた。彼の領土が広がるにつけ、彼が目指す市場経済(楽市楽座)も広がった。
また、農業経済においては、信長は中間の搾取を排し、総ての農民を自作農にし、その個々から直接租税を取り立てたいと考えた。
信長がやった版図拡大というのは、国人・地侍を過去の闇に捨て去ることだった。そのことは、秀吉に継承され、全き実現をみた。
初期の信長の軍団は、多くが知行地をもたない職業軍人から成り立っていたかのような雰囲気がある。多くの家来たちは、信長直轄の米蔵から給与を受けていた。いわばサラリー(蔵米取り)だったようで、信長以前の大名からみれば特異だった。
信長の楽市楽座を阻むものに・・・中世の権威と慣習を武力で守ろうとする・・・宗教勢力があった。信長は不合理性を憎み、その代表格ともいうべき叡山を容赦なく攻めつぶした。
秀吉の天下統治の画期性は、それら国人・地侍を全国規模でつぶそうというところにあった。(信長の構想)
国人・地侍という中二階を取り払って、階下に居る農民を抱き起して自作農にし、新たに上に立つ領国大名がそれら新・自作農から直に租税を取るという体制だった。
つぶした後の国人・地侍については、彼らを大名側に引き寄せて知行とりといういわば給料制の家臣団に組み入れるか、あるいは刀槍を取り上げて百姓に戻すかした。「刀狩り」である。
④にもどる つづく
「この国のかたち」司馬遼太郎をピックアップ要約
すべては、織田信長からはじまった。
近世の基本については信長が考え、かつ布石した。中世の呼称で総合される諸慣習は、この人物によって打ち壊された。だけでなく、新しい社会をつくろうとした。
中世は商工業から芸能にいたるまで「座」という特権的な協同組織ができていて、ときに独占権をもち硬直化していた。彼の領土が広がるにつけ、彼が目指す市場経済(楽市楽座)も広がった。
また、農業経済においては、信長は中間の搾取を排し、総ての農民を自作農にし、その個々から直接租税を取り立てたいと考えた。
信長がやった版図拡大というのは、国人・地侍を過去の闇に捨て去ることだった。そのことは、秀吉に継承され、全き実現をみた。
初期の信長の軍団は、多くが知行地をもたない職業軍人から成り立っていたかのような雰囲気がある。多くの家来たちは、信長直轄の米蔵から給与を受けていた。いわばサラリー(蔵米取り)だったようで、信長以前の大名からみれば特異だった。
信長の楽市楽座を阻むものに・・・中世の権威と慣習を武力で守ろうとする・・・宗教勢力があった。信長は不合理性を憎み、その代表格ともいうべき叡山を容赦なく攻めつぶした。
秀吉の天下統治の画期性は、それら国人・地侍を全国規模でつぶそうというところにあった。(信長の構想)
国人・地侍という中二階を取り払って、階下に居る農民を抱き起して自作農にし、新たに上に立つ領国大名がそれら新・自作農から直に租税を取るという体制だった。
つぶした後の国人・地侍については、彼らを大名側に引き寄せて知行とりといういわば給料制の家臣団に組み入れるか、あるいは刀槍を取り上げて百姓に戻すかした。「刀狩り」である。
④にもどる つづく


「織田信長」先ず 思い浮かべる人物ですね
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」は・・・
本当に信長の性格を表しているのでしょうか?
豊臣秀吉 「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
徳川家康 「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
当人たちが詠んだ川柳ではないはずですが、おのおのの性格を的確に言い当てているように思えます。
歴史は、こんな塩梅に進みました。
「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うが徳川」
明智光秀なら、「鳴かぬなら わたしが鳴こう ホトトギス」 とでもいいそうです。
ボクはこの那古野(なごの)(現名古屋市西区那古野)に産まれました。
4歳ころ、父(公務員)の勤め先の関係で中村に移住、大学を卒業する22歳までここで育ちました。
この中村の住まいは秀吉の生誕地より50mほど南で、加藤清正の生誕地の二軒東側でした。
子供の頃はまだ和服で小1になって初めて洋服を着ました。
そんな時代です。
母型の祖父は蜂須賀城(小六の本拠地)に努めた家臣で、
明治になり廃藩置県でお殿様は、お金も
貰らったのでしょうが使い方を知らなくて、
すぐに一文無しになり、祖父に借りに来たようです。
祖父は自宅を残し、田畑を全部売り払い、昔仕えた殿様にお金を差し出しましたが、
返るはずも無く、一生かけて売った田畑を買い戻したと言います。
そのため娘一人を残し、我が子(母や妹)を養女に出しました。
その心がけが良いですよね。
一番出来の悪い子を手元に残し、あとの娘を養女に出したと言います。
養女に出された母に残した遺言は
「お金は貸したら返ってこないと思いなさい、
貸すなら差し上げるつもりで貸しなさい」
でした。
それがボク達兄弟に残って居て、
お金を貸すときは差し上げるつもりで貸していますし、
借りることは殆ど有りませんが、
借りるときはボクは頂戴と言います。
頂戴と言っていますが、返すあてが無ければ借りませんし、
きちんと返します。
立派な豊国神社です。^^
(hide-san)さんが幼いころに暮らしたのが、秀吉や加藤清正たちの生まれた地にわずか50mほどであったとは、
世が世なら秀吉に登用されていたかもしれません。
母方の祖父が蜂須賀城(小六の本拠地)に務めた家臣とは、由緒ある家柄ですね。
> 廃藩置県でお殿様は、お金も貰らったのでしょうが使い方を知らなくて、すぐに一文無しになり、祖父に借りに来たようです。
いまつづけているシリーズの「幕末から維新」篇の大名たちの処遇について採り上げます。9月8日予定。
iina様のブログ楽しみにしてみております。
司馬遼太郎さんの見識凄いですね。
歴史を動かしたブログにコメント有難うございました。司馬遼太郎も次のように評価しています。
「中世の呼称で総合される諸慣習は、この人物によって打ち壊された。だけでなく、新しい社会をつくろうとした。」
「坂の上の雲」での乃木将軍の評価に関して、
一部異論の評価する専門家もいますが?
司馬遼太郎さんは、乃木希典が兵隊を殺され過ぎだとして評価していません。
日露戦争で旅順要塞を乃木将軍が落とせず、陸軍大将・児玉源太郎が指揮権を取り上げて落としました。でも、その栄誉を乃木に譲った英雄と持ち上げています。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/f2abb63a3bfcd57369bdcbec38c86b09
人気の高い源義経も評価していません。
兄の頼朝が武士の世の時代をつくろうとしているのに、義経は頼朝に無断で後白河法皇から検非違使を受けています。
兄は、源氏という血筋だけでもっている危うい立場であることを理解できなかったと指弾します。
源氏が鎌倉三代で絶えたことを思えば、頼朝は義経に噛んで含めるように己の立場などを教え諭していたら、その後の世はどのように展開したでしょう・・・。
随分以前ですが、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」
を読んで、中国を旅行し見学しました
旅順港(想像していたより難攻不落の感じ)
203高地(思っていたより低い丘)
乃木将軍が会見した場所
その旅行、懐かしく旅行を思い出しました
異国から渡って来た者たち(自称、秦の末裔)が、中央の政権に近づいたのですね。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/5a49f2f0f673dde220c70383ffd76375
法然の浄土宗は、南無阿弥陀仏と唱える必要がありますが、親鸞の浄土真宗は唱えなくても信ずればよし「心があれば救われる」とします。
ところで、他力本願の極致である「悪人正機」は、法然が先に説法していました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/ad96714062fa7417545dc3b97a0142fa
もっとも、親鸞本人はあくまでも法然の弟子としてお浄土に行きましたから、子孫が浄土真宗を立てたと知れば怒るでしようか ❔
> 旅順港(想像していたより難攻不落の感じ) 203高地(思っていたより低い丘)
満州の旅順は、荒涼たる台地ですね。「満州」の語感から森林の豊かな地を連想しましたが、日露戦争の写真を見ると荒地でした。