瑞龍寺
2016年04月25日 | 旅
総門
山門
仏殿と奥に法堂→
仏殿の内部
仏殿の屋根は鉛板を葺き、戰のときは弾にできる。上層軒組は、三手先の詰組とし整然と配列し扇捶等共に、エビ虹梁など妙を得た架構法を複雑に組み込む禅宗様建築。
法堂
法堂内の障子と礎石から明かりを取り込んだ陰影が美しい
坪庭→
石廟は向かって右から前田利長、前田利家(加賀藩祖)、織田信長、織田信長側室、織田信忠(信長の子)の五人 信長の娘が利長に嫁いだ縁で、本能寺の変後、信長父子の分骨を迎えてその霊を慰めた。 |
禅堂 大庫裏 調理配膳や社務を行う堂。 瑞龍寺は、前田利長の菩提を弔うためだけに建てられた寺。 江戸初期・禅宗に典型的な建物群である。 仏殿、法堂、山門が国宝に、総門、禅堂、高廊下、回廊、大茶堂が重要文化財に指定されている。 富山時代に訪ねたころは、回廊が物置のように雑然とほこりまみれだったが、すっかり修理されて平成9年に国宝になり誇らしい。(^^ゞ |
<< もどる < > つづく >>
>前田利長の菩提を弔うためだけに建てられた寺。
そうでしたか
先ず 総門、山門の
落ち着いて重厚な雰囲気がいいですね
富山県を代表する名古刹何ですね
静かで 風情を感じます
とても 厳かな気持ちになり 画面上でご参拝させていただきました。
前田利家は豊臣政権で五大老の一人だったのでよく知られている武将でしたが、息子の利長は、私はあまりよく知りません。
その利長の菩提寺がこのように立派とは相当な人物だったのですね。
>3階建ての豪華な茅葺き合掌造りを「集落」として形成できるほど財力があったと感じています。さらに、五箇山や飛騨は民謡のふるさとと称されるほど文化的にも充実していましたから、貧しいはずがありません。貴重な火薬を作るなど財力があったかもしれません
度々失礼しました。
無知をお許しください。
大崩山からは、絵になる景色です。
え? 「おおくえやま」と読むのでしたか。 「おおくずれやま」と思ってました。
>瑞龍寺 ・・・ 総門、山門の落ち着いて重厚な雰囲気がいいですね
1614年創建なのに、門の板はとても薄いにもかかわらず反ってないですから、風雨に耐えた良質な木材をうかがわせます。
ショウガは、料理の味付けスパイスに重宝されていますから、たのしみです。
加賀藩2代藩主前田利長は、秀吉死後から江戸幕府成立に至る難局を乗り越えました。 子がなかったため弟の利常に譲り、
自分は高岡に隠居しました。利常は恩義に感じて瑞龍寺を建てました。
その利常は、(家康の遺言によると)家康に警戒され、故意に鼻毛を伸ばして暗愚を装ったといいます。
利長が、高岡に鋳物師を移住させたことが現代に続く鋳物町になっています。また、天皇が乗った御所車を町民に与えたのが
いまに伝わる御車山祭で、とても優雅な曳山です。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/3d290896796cdc0cd86bfc97cc145cea
信長の供養塔があることを初めて知りました。
豊臣から徳川の世にも領地百万石を維持できたのは、
前田家の世渡りの上手さにあったのでしょうね。
そのためいろんな文化が育ったのでしょう。
高岡発展にも寄与し町人にも慕われたようです。
>信長の供養塔があることを初めて知りました。
遠い高岡に信長の石廟があるのは興味深いです。 また、本能寺には、織田信長供養塔があります。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/2cad7c3ff7eae9d7f02b4e43310668e3
おわら風の盆、カッコいい踊りで、一度見たいと思っています。
参考にさせて頂きます。
ありがとうございました。
富山時代に雪の五箇山に行く勇気はなく、それでも利賀まで急峻な峡谷の狭い雪道を車で登りましたが怖かったです。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/0fbe835bdb0aa27391ad3c889b4be949
>おわら風の盆、カッコいい踊りで、一度見たいと思っています。
八尾の坂の町を踊るおわら風の盆は、雰囲気が好いです。リンク先の①、②をたずねてください。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/12dcf43dec8e3099070fbb874f8998d0
それに、新聞記載の12メートルの墓碑というのも凄いですね。
横浜の夜景の全貌を見渡せるレストランで、グラスを傾けるとはおとなのムードです。
>瑞龍寺は、加賀百万石・前田利長の菩提寺だけあって、徳川に負けていませんね。
それでも、戰のときは弾にできる屋根を鉛板にしているくらい、いざというときの用意は万端怠っていません。