<上写真・2004.3.11早朝.伊勢神宮「内宮」にて>
ヘロー、温泉、音楽、神秘好きの、わたくし、不肖イーダちゃんと申します!
先月の5月19日、あろうことか旅先の福島で自損事故をやってしまい、相棒である愛車が無残な廃車となり果ててしまったのですが、幸いなことに運転手たる僕自身はかすり傷ひとつ負うことがなく、これは、ひょっとして助手席のサンバイザーにくくりつけてあった、伊勢神宮のお守りのお蔭なのではないか、と思い---もっとも、全面的にそう信じてるわけではありませんので念のため---今回、伊勢神宮の特集を組んでみる気にあいなりました。
実際、お守りの紐は、事故のショックでフロントまでちぎれ飛んでいたのですよ。
もしや、護符として働いてくれたのではあるまいか、と考えるのは、これ、自然な人情の流れというものではないでせうか?
ところで、古くなったお守り、役目を果たして壊れてしまったお守りっていうのは、神社に送り返すのが正しい対処法なんでっすってね。
自分で捨てたりしちゃイカンそうなのです。
ということでイーダちゃんは、いまさっき郵便局までいき、さんざん働いてくれたこのお守りさんを、深い感謝の意をこめて、伊勢の故郷の神宮さんに送り返してきたところです。
今回はほんとにお世話さまでしたって---。m(_ _)m
で、ひと息ついて、ひさびさPCなんてぱちぱちと打っていたら、そうだ、お伊勢さんに関する話を書いてみようかな、とふいに思いついたってわけ。
実は僕、伊勢神宮のマニアでありまして、何年かに一度かは、必ずこちらに訪れることにしてるんですよ。
あ。いっときますけど、今回ここで僕が展開しようと思っているのは、ほとんどトンデモネタね---。
月刊ムーの主筆である、敬愛する飛鳥昭雄先生の説を、僕なりに噛み砕いて敷衍させたもの、とでもいいますか---そういったわけであんまり独創性はないと思う---ただ、飛鳥先生の言説は、面白くて深くって凄いんだけど、唯一の欠点としてあんまり長すぎるんですよねー---飛鳥先生の伊勢神宮に関する考えを一応知ろうと思ったら、学研ムーブックスからでてる先生の著書を、最低10冊以上は読まなきゃいけない!
まったくの門外漢に、このハードルはかなり高めなんじゃないか、と僕は以前から憂慮していたんです。
ですので、まあ、完全な受け売り紹介ページとなりそうなんですが、先生の言説の方向性をざっと紹介することだけでもそれなりの意味はあるのかもしれないと思い、以下のページをはじめさせていただきたい所存です。
伊勢神宮とは---いいや、正式にいうなら「神宮」ですね。数ある神社のうち、伊勢神宮は最高の格式ですから、正式には「神宮」だけでいいのです---いったい何なのか? 誰が、なんのために建てたのか? そして、伊勢神宮の最終的な使命とは---?
それでは、神宮のお守りが機縁になって生まれたこのページ、あなた好みの幻想を自分内の脳髄に花びらのように豪奢にちりばめて、どうぞごゆるりとご賞味ください---。(^.-)y
1.「旅する神社」伊勢神宮
伊勢神宮を一言で形容するなら「旅する神社」というあたりが適当でせうか。
こんなにも移動しつづける神社なんて、まるで聴いたことがありません。
伊勢神宮の最古の記述は「日本書紀」のなかに見つけられます。それによると、むかしもむかし、ほとんど神世の時代ですね---第10代崇神天皇の御世に、国内で疫病が大流行して、深刻な政情不安がおこり、そのときに天照大神(アマテラスオオモカミ)と倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)、このふたりの神を皇居内に祀ったのが、そもそものことのはじまりなんだそうです。
けれども、政情不安は一向に収まらず、なにより天照大神の霊力が強すぎてさわりがあるというので、倭国---いまでいう奈良盆地のあたりですね---の「笠縫邑」に堅固な神社を建て、天照大神の御神体を祀ったそうです。これが、いわば伊勢神宮の原点なのだということなんです。
しかし、荒ぶる天照大神の御霊はそれでもおさまらず、やむなく丹波国に新たなる「吉佐宮」を建立したものの、政情不安は募る一方、で、再び倭国にもどってきて「伊豆加志本宮」を建立、それから南下して今度は「奈久佐浜宮」、次に西方面・吉備国の「名方浜宮」建立、そうして倭国にまた回帰して「御室嶺上宮」を建立---このあいだ、わずか21年しかたっていないというのですから、恐るべき速度の巡礼です。
しかも、お伊勢さまの巡礼は、この程度じゃまだ収まりません。
次の第11代垂仁天皇のときには、大和の「宇太秋宮」から「佐佐波多宮」へ、さらには伊賀から淡海、美濃から尾張、伊勢国、鈴鹿国をぐるぐると遍歴、そうして、再び伊勢の国にもどってきます。
その巡礼箇所---なんと27か処! 現在、これらの地は、すべて「元伊勢」という名で呼ばれています。
その巡礼の足跡を、ちょっと図にしてたどりなおしてみませうか。
いやはや、これは、凄い旅ですよ---!
交通機関の行きとどかない当時のことですから---道のない場所、獣道みたいな危険な道程も山ほどあったことでせう、文明の行きとどいたいまの旅とじゃ比較にならないほど危険で困難な道のりだったと思います。
しかも、個人じゃない、神社の社を建てながら次々と移動するわけですからね---宮大工、人夫、その家族、神職者、官僚、料理人や女官の集団、いずれにしても並大抵の財力じゃやっていけなかったことと思います。財力だけじゃない、異常な覚悟とよっぽど深い決意とがなくっちゃ、こんな壮大な旅は打てませんよ。
最終逢着地である伊勢に回帰してからもそのなかで何度か転々とし、ようやく現在の伊勢神宮の場所にきたとき、この壮大な旅は終わりをつげたかに見えました。
----常世の浪の重浪帰する国なり。傍国のうまし国なり。この国にをらむと思う…。(天照大神)
けれども、これほどの遍歴を経て、ようやく五十鈴川のほとりに安住の地を得たというのに、いまから1300年まえ、第40代天武天皇の御世に、天皇御自身の勅命により、伊勢神宮にまたもや「式年遷宮」がはじまります。
「式年遷宮」とは、20年ごとに神社の社殿を移す大行事のことです。
伊勢神宮とは、内宮に天照大神、外宮に豊受大神を祀っている、日本最高の神社です。これらのほかにも別宮や摂社、所管所等を含めると、125もの社から成っている、いわば神社の都市みたいな場所でもあるんでよよ。
その都市の建物すべてが、この20年に1度の式年遷宮で、すべてが新築され、神社内の別の敷地に移動するのです。
第1回目の式年遷宮は、690年、第41代持統天皇の御世に行われました。
いわば、律令政治のスタートと同時に、現代人の感覚からすると、なんとも無駄で神秘的な、この「式年遷宮」がはじまったというわけなんです。
戦乱などで一時中断したこともありますが、基本的にこの20年に1度の遷宮はコンスタントに着実につづき、なんと、現代にまで至ります。
ええ、いまもこの行事、現在進行形で脈々とつづいいておるのですよ!
ということは---お伊勢さんって、いまもって旅をつづけておられるってことではないですか---律令政治以前の元伊勢巡礼のあのころと同様に。
これって、ねえ、ちょいと凄くありません?
僕は、個人的に、この伝統はもの凄いと思う。
前回の式年遷宮は、1993年のことでした---したがって、今度の第62回目の式年遷宮は 2013年の予定---つまりは再来年、平成の25年ですか---そういえば前回、僕が訪れたとき、内宮の神楽殿で式年遷宮の寄付を受けつけているのを見ましたよ。
----しかし、冷静に考えてみますと、このお伊勢さんの旅への情熱は、いささか常軌を逸したモノがあると思いませんか?
僕は、ええ、完全に、常軌を逸していると思います。
だって、国庫への出費は超・莫大ですよ。
なのに、伊勢神宮は、いまに至るまで1000年以上もこの行事を担い、ひたすら運びつづけてきたのです。
何故、そうまでして---?
こういう発想が、ここで湧いてこなくちゃ、むしろおかしいのではないでせうか?
そう、ここに至ってようやく「式年遷宮」への疑問符がほの見えてくるワケなのですよ---だって、ふしぎですもん---言葉のまんまの素直な意味で。
世の中の学問研究が、こうした経路を辿らないことのほうが、むしろふしぎのことなのでは?
ええ、伊勢神宮の「式年遷宮」には、それなりの強力な「動機」が絶対なくちゃいけない---。
しかし、どうやってそれを調べたものか……?
飛鳥先生の非凡なところは、ここで、伊勢神宮の建設者について思いを寄せたところでせう。
ええ、初代の倭国の「笠縫邑」を、先生はお調べになったのです---。
「日本書紀」に記述された「笠縫邑(かさぬいむら)」がどこだったかは、学問的にも諸説があり、限定は難しいのですが、ただ、現在の近鉄電車の「笠縫駅」近郊に「秦楽寺(じんらくじ)」という寺があり、その敷地内に「笠縫神社」という小さな祠が、摂社のようなかたちでいまも残っているというのです。
そして、「秦楽寺」を建てたのは、どうやらあの秦氏(はたし)だったようだ、という状況証拠があがってきます。
ええ、日本古代史を研究するひとが必ず突きあたる、あの謎の渡来豪族・秦氏です。
「笠縫邑」だけでは限定は難しいものの、元伊勢の多くの神社が秦氏関連で建てられたらしいことが、最近ようやくわかってきたのです。
ふむ、では、その「秦氏」とやらは、いったい何者なのか---?
上図:「内宮(ないくう)」隣りの式年遷宮予定地---。「覆屋」と呼ばれる小屋が建っているのは、「内宮」のほぼ中心部に祀ってあるという「心御柱(しんのみはしら)」の位置を示すため。 次回の「式年遷宮」のときには、この「心御柱」の位置にあわせて「内宮」及びすべての社殿が建てられる。右手写真、木の根元にいるのは鹿。
2004年撮影---。
2.「秦氏」とは誰だったのか?
この問いがいかに難問なのかは、日本古代史をちょっとでも齧ったことのある人間なら、誰でも推察可能なことかと思います。
秦氏---それは、それほど謎の一族なのです。
秦氏は、非常に優れたテクノロジーと莫大な富をもった、渡来人の一大勢力でした。
毎年のように氾濫して、莫大な被害を与えつづけていた京都・山瀬の鴨川---いままで誰がどうやってもどうにもならなかったこの難関工事を受けもち---もちまえの最先端の技術を駆使した大規模な治水工事を行って、ついには鴨川の流れを変えてしまい、危険な川でなくしてしまったのが、彼等・秦氏でありました。
「794坊さん平安京」の平安京建都のために、資本・設計・施工の全分野で動いたのも、ほかならぬ彼等・秦氏です。
実際、長いこと天皇の居住されていた、あの京都御所は、元はといえば、秦河勝の個人邸宅だったのですよ。
古代の戸籍を見れば、渡来後の秦氏が繁栄を遂げ、それぞれ性を変え、全国に散っていった様子を追うことができます。
秦、畑、波多、端、羽田、八田……これらは皆、秦氏源流の名前です。さらに秦野、畠山、畑中、八幡なども秦氏系列の名---さらには、林、長田、小松、高橋、神保、さらには九州・薩摩の島津氏なども秦氏源流の姓名だそうです。忍術で有名な伊賀の服部氏も、さらにさらに能の世阿弥、陰陽師で有名な芦屋道満なども秦氏の直系の子孫だといいます。
要するに、古代における超エリート集団といったところでせうか---。
しかし、古代史の超実力者・藤原氏などと比較すると、秦氏は、その存在がずいぶん蔭になっているきらいがあると思いませんか? というのも、これほどの破格な勢力があったにもかかわらず、秦氏は、有名な政治家を一族のなかからそれほど輩出してはいないからです。藝術、著述、建築方面などではあれほどの人材を輩出してるくせに。
それは、ちょっと不自然なくらいの、歴史の蔭への籠り方、といってしまってもいいかもしれません。
これほどの富と知力があったなら、あの藤原不比等なんかともタメを張れたのではないかな、と僕なんかは思っちゃう。
しかし、秦氏は、それをやってない---というか、<あえて>そうするのを避けたのではないか、と見るのが、サイエンス・エンターテイナーであるところの飛鳥先生の視点です。
この視点は、僕は、とても面白いと思う。
なるほど、秦氏は、あえて有名になることを避けていたのかもしれない、というのは、非常に筋の通った仮説ではないですか。
そう読むと---秦氏のこれまでの歴史的な身の処し方の理由も、すべて呑みこめてくる---。
----うーん、でも、なんのためにそんな超謙虚な身の処し方をしなければならなかったんですかね?
すると、飛鳥先生が、びっくりするような返答をするわけ。
----それは、秦氏が、何をさしおいても守りたいものをもっていたからですよ。いわば、秦氏の民族的アイデンティティ。それを守りたいがゆえに、すべての行動を取っていたんです。そう取れば辻褄があうでせう? 要するに、自らの繁栄より重要な目的が、彼等にはあったんですよ。
----自分たちの繁栄より重要な目的…? 解せないな、なんですか、それは…?
ここで、飛鳥先生、悪戯っぽく、にかっと笑ってみせて、
----それはね、信仰なんです…。
----信仰…?
----そう、信仰以外ないでせうね…。
上図:宇治橋より眺めた五十鈴川の清流。2004.3.11早朝撮影。
3.秦氏はユダヤ人景教徒だった!?
明治41年に、東京文理科大学の学長・佐伯好郎博士が、「太秦(うずまさ)を論ず」という論文を学会誌に発表しました。
この論文の中身がぶっトンでる---なんと、博士は、謎の渡来人・秦氏の正体を、ユダヤ人景教徒だと断じているんです!
景教っていうのは、ええ、世界史で習いましたよね?---ヨーロッパでキリスト教信仰が普及する以前、主に東洋で広まった原始キリスト教のことです---。
フツーの感覚では「えっ!?」ですよね。僕等の感覚では、キリスト教の日本伝来は「1549広まるキリスト教」とあるように、ずーっと後世の近世ごろの舶来イメージなんですから。
でも、それは、あくまでカトリック教会がもちこんできたヨーロッパのキリスト教であって、この佐伯博士のいってる原始キリスト教とはまったくの別モノなんです。
カトリックは、あの325年の宗教会議「ニケーア公会議」で生き残った、あの「アタナシタウス派キリスト教」の系列であり、分派なんです---これは、三位一体の教義をもち、主に後世のヨーロッパなんかで広まったキリスト教の宗派のことです。僕等の知ってるキリスト教っていうのは、実は、こっちサイドのキリスト教オンリーなんですね。
ところが、佐伯博士がここでいっているキリスト教はちがう---それは451年の「カルケドン公会議」で異端として教会から追放された、ネストリウス派キリスト教のことなんですね。
教会から追放されたネストリウス派は、シリア教会と合流し、やがて東方へ---シリアやイラン、印度へと布教の方向を見出していきます。やがて、その教えは中国まで達し、皇帝はそれを「光り輝く教え」という意味で「景教」と呼び、中国国内への布教を正式に認めたそうです。
それが、638年のこと---ほう、ちょうど日本の「大化の改新」あたりの出来事じゃありませんか。
ただ、これはあくまで中国政府が正式に布教を認めたエポックとしての年であって、それ以前から「景教」は、色々な国のさまざまな層に---貴族から民衆まで---我々が思っているよりもはるかに広く、そして深く、浸透していたにちがいない、というのが最近のアカデミックな視点なんですね。
先日発見された法隆寺の「聖徳太子の地球儀」じゃないですけど、聖徳太子の家庭教師のひとりが景教徒のペルシャ人だったのではないかという説は、あの「隠された十字架」の梅原猛先生も提言してられたように思います。
僕がこういうと、
----馬鹿な。日本人は単一民族じゃないか。ユダヤ人なんかと関係あるわけないじゃないか。
といった対応が必ず出てくるものと思います。
けれども、その単純な「単一民族信仰」こそ迷信じゃないのかなあ?---と、いまの僕なら自信をもっていいきれちゃう。
僕の少年時代にはまだ根深かったあの「日本人単一民族信仰」---あれが、戦時における国家体制が強いた、政治的な、イデオロギー的な思想の残滓だったということが、遺伝子研究の進んだこのごろ、明確にわかってきました。
証拠だって腐るほどありますよ---先住民族のアイヌでせう、琉球でせう、それに最近の遺伝子研究。
ええ、「単一民族思想」は、学問じゃなくてイデオロギーだったのですよ。
でも、少しでもまじめに世界史をかじったことのあるひとなら、このような結果は自明でしたろうねえ。「単一民族国家」なんて思考実験みたいな純粋培養の国が、そもそもこの世に実在できるはずがありませんもの!
日本列島は、ほかの圧倒的多数の国々と同様、さまざまな人種がやってきて住んでいた、多民族国家でありました。
秦氏も多数訪れた、渡来人の派閥のひとつでした。
ただ、秦氏においては、渡来人の移民集団のなかでも、破格に大人数で、巨大な富と技術をもった集団であったということが、いまにも残る多くの資料から推察することができます。
佐伯博士の学説を独自に敷衍させた飛鳥先生は、この秦氏がユダヤ人景教徒である、と断言します。
いや、さらにそのさきまで進んで---彼等・秦氏は、紀元132年、信仰を守るために古代ローマ帝国と争って破れた、古代ユダヤのエルサレム教団の末裔ではないか、とまでいうのです---!
正直いって、最初にこの説を聴いたときには、僕も多少引きました。
あまりにも世に出まわっている定説とちがいすぎてましたから。
しかしながら、飛鳥先生の論述を追うごとに、その理性的な語り口にだんだん説得されていく自分を感じないでもいれませんでした。
なにより強力な状況証拠がありすぎるんですよ---この飛鳥流の日ユ同祖論のアングルからいわせれば!
その1として、秦氏が建設した「平安京」について---。
試しに「平安京」をヘブライ語に訳すと、平安は「シャローム」、京は都だから「エル」、つづけると「エル・シャローム」となって、なんと、これ、古代ユダヤの首都の「エルサレム」そのものの読みじゃないですか---。
その2として、京都の秦氏の根城であった地「太秦(うずまさ)」について---。
「太秦」と書いて、なぜ「うずまさ」と読むのか?
これは、長いこと---いや、いまに至るまで謎のままの事象です。実際、「太秦」をなぜ「うずまさ」と読むようになったのか、これまでどんな歴史学者も解明したことがありません。
「太秦」に近い「大秦」というコトバなら、これは、まだ手がかりはあります。
これは中国語で、ズバリ古代ローマ帝国のことを意味します。
もし、秦氏の源流が古代ユダヤのエルサレム教団なら、以前属していた国家の中国風の呼び名を、自らのアイデンティティを示すための外向きの屋号として使用していた理由は概ね理解できますよね?
でも、その読みの「うずまさ」ってなんなのさ?
当テーマに関する飛鳥先生の名解釈を聴きませう。
----第6章のヘレニストの分裂のところで紹介したように、イエス・キリストや12使徒、マリア、そしてイエスの兄弟など、エルサレム教団が日常的に使っていた言語は「アラム語」である。…(中略)…イエスが十字架上で、『旧約聖書』の一節「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」を読んだのも、御父なる神に対して叫んだ「アッパ(父よ)」も、みなアラム語である。
では、このエルサレム教団が使っていたアラム語で「イエス・キリスト」のことをなんというだろうか。ここがポイントだ。
アラム語でイエス・キリストは「イシュ・メシャ(Ishu Messiah)」と発音する。ところが、だ。アラム語は、メソポタミアからオリエント一帯で広く使われていた言葉であるため、地方による訛りが非常に強い。東のほうへ行くと「イズ・マシ(Izu Maeikha)」とか、「イザ・マサ」などと発音される。
賢明な方は、もうお気づきだろう。これが、「ウズマサ」である!
(飛鳥昭雄『失われた原始キリスト教徒「秦氏」の謎』学研ムーブックスより)
うーむ、ちょっと呻っちゃいますねえ…。こいつは面白い---。
先生の細かい論述のポイントだけを挙げてズバズバ進んでいくから、必然的に語り口が香具師じみてきちゃってるんですが、飛鳥先生がおっしゃられているように、賢明な方は、僕のこんなザッパな論述のなかにも、一抹なりの真実を見つけて、「!」とのけぞってほしいと思います。
その3として、秦氏がユダヤ人景教徒だったとするなら、神社の建設の意味あいが、徐々ににわかってくるんですよ---。
ユダヤ人原始キリスト教徒というのは、実は、ユダヤ教のことなんですね。イエス自身にしても、彼的にはユダヤ教の預言者のつもりであって、新しい宗教をはじめてるつもりはまったくなかったらしいのです。
ユダヤ教といえば、ヤハウェから授かった十戒石板、あと、それを収めるための主自身が設計して創らせたあの棺---ハリウッド映画「レイダース」なんかでも取りあげられた「失われたアーク」あたりが有名ですね。
紀元前13世紀、エジプトの奴隷生活から脱出した古代ユダヤ人は、絶対神ヤハウェから直接、神殿を作るよう命じられます。
当時、ユダヤ人は大預言者モーセに率いられて砂漠を旅しているとちゅうでしたから、作れる神殿といえば、それは、移動式の神殿でしかなかった。周りを厚い布で覆っていたことから、その神殿はいつしか「幕屋」と呼ばれるようになりました。
この「幕屋」を描いたイラストをひとつ参考までにUPしておきませう---このシンプルで虚飾のないスタイル!---ねえ、この美学は、日本の神社にいささかなりとも通じるところがあるとハッとなりませんか!?
僕あ、正直ハッとなったな…。
理性じゃなくって、ストレートに感覚にきた。
だって、これ、まごうかたなきジャパニーズ神社のスタイルだもの---偶像崇拝を禁じてる部分まで完璧一緒だし…。
僕が飛鳥先生の説を本気になって追っかけはじめたのは、この「幕屋」のイラストを見たときからでした。
間違いなく、日本の神社の前身は、この古代ユダヤの神殿「幕屋」だと思った---。
そう思っていったん受けとめてみるなら、僕がこのページの冒頭部分に書いておいた、伊勢神宮の「式年遷宮」についての謎にもいくらかは近づけるのではないでせうか?
ユダヤの神殿「幕屋」は---ええ、はるけくむかし、砂漠を旅する民のための---移動式の神殿だったのですよ。
ひとつところにいちばん長くいたのが20年だったと「旧約聖書」には記述されておりまする。
だとすると、伊勢神宮の「式年遷宮」の20年周期とも、これは一致してくる…。
----なんと、伊勢神宮は、絶対神ヤハウェのための神殿として建てられたものなのかもしれません…。
かっ飛びすぎてる? うーむ、僕もちっとはそう思う。
しかし、完璧な、100パーセントの間違いだとは、どーしても思えない。
いくらかの真実が、必ずやこの言説のどこかに混じっているものと考えています。
しかし、あまりにも大急ぎでザッパに飛ばしすぎたので、今日の飛鳥説紹介は、このあたりまでにしておきませう---お休みなさい---。(^.-)y☆(次号につづく)
参考文献◆飛鳥昭雄「失われた原始キリスト教徒『秦氏』の謎」「失われたイスラエル10支族『神武天皇』の謎」「失われたイエス・キリスト『天照大神』の謎」「失われたカッバーラ『陰陽道』の謎」(学研ムーブックス)◆宇野正美「古代ユダヤの刻印」(日本文芸社)◆神宮司庁「伊勢神宮」(伊勢神宮崇敬会)◆アーサー・ケストラー「ユダヤ人とは誰か?-第13支族カザール王国の謎-」(三交社)◆久保有政「日本の中のユダヤ文化」(学研ムーブックス)◆ケン・ジョセフ「隠された十字架の国・日本」(徳間書店)ほか◆