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では、そのコーカス・レースとは、いったいどのようなものなのでせうか?
てっとりばやいとこで原作から引用いきませう---それほど長くもないんで。はい。
----「コーカス・レースってなあに?」とアリスはききました。べつだん、それほど知りたかったわけではないのですが、ドードー鳥が、だれかが質問するはずだというように間を置いたのに、だれも何も聞こうとしないようだからです。
「いや、やってみるのが何よりの説明になるんだ」とドードー鳥はいいました。
ドードー鳥はまず、レースのためのコース線をまるく書きました。(正確な円でなくてもいいのだとドードー鳥はいいました)そして、一同は、そのコースのあちこちに位置を定めました。「一、二、三、ゴー!」というような出発の合図もなく、みんな、好きなときに走りだして、好きなときにやめればいいのです。だから、レースがいつ終ったかを知るのは、必ずしもやさしくありません。とにかくみんなが三〇分も走って、すっかり乾いた頃に、ドードー鳥がとつぜん「競争おわり!」と大声でどなりました。一同は輪になって集まると、息をはあはあ切らせながらききました。「でも、誰が勝ったんだ?」
(ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」講談社文庫より)
と、まあこのような塩梅---すなわち、コーカス・レースとは、以下のようなレースであったのです。
1.スタート・ラインがない。誰が、いつ、走りだしてもかまわない。
2.ゴール・ラインもない。誰が、いつやめてもかまわない。
むーっ、なんという自由なレースなんでせう! というより通常の視点からいくと、これはもはやどう見てもレースじゃありませんよね。
はじめのうち、僕は、それをルールに厳しい英国社会で育ったキャロル少年の、押しつけられたルールというものに対する本能的な反発の表現じゃないか、みたいなラインで捉えようとしてたんですが、どうやら、そうではないようです。
反発、というような気構えの気配は、文中にはありません。
それよりも濃く漂っているのは、「ルール」という存在そのものに対する、先験的な疑惑であり不信です。
キャロルさん、ここで、非常に無邪気に、ふだんはしかめっつらをしている「ルール」というモノを、縦に置きなおしたり横に倒したりして、もう玩具扱いしてらっしゃいます。
あえて学術的な言葉を弄するなら、これは、いわゆる思考実験という範疇に属するものと思います。
それを、こんなささやかな空想童話のなかで、見事に物語中にはめこんじゃった手腕には敬服しますが、それよりも僕が感じ入るのは、キャロル氏がふだんから使っている目線のなかにある、なにか非常に相対的な、場合によっては虚無的にすら見えるくらいの、一種独特な、暗いまなざしの翳りなんですね。
ええ、前ページの末尾のヴァン・ダインからの引用のなかにあった、あの数学者の病についての検証です。
あのなかで語られていた数学者の病についての症例に、僕は、キャロルが創造したこのコーカス・レースは、見事にかっちり当てはまると思います。
コーカス・レースには、勝者も敗者もない。
コーカス・レースには、スタートもゴールもない。
さらには、もしかすると参加者がいてもいなくてもいいのかもしれない…。
これは、童話のメルヘンの衣で上手にくるまれてはいますが、よくよく見るなら非常に虚無的な発想ですよ。
物語から「絶対」の秤が取りのけられて、「相対性」のほうに傾くと、物語は限りなくナンセンスの谷にずり落ちていくのです。
やっぱり、人間が人間として生きていくためには、絶対的な何者かに対する帰依の心が必要ですよ。
偏見でも執着でもなんでもいいの、憎悪でも金儲けでも---何者かに対する強力無比なこだわりってやつは、絶対要る!
これがなかったら、大事なものがなにもない人生は、ただのまったいらな、茫漠たる無価値の砂漠でしかないんですから。
あらゆるものの価値が等価であるという相対論的な世界は、僕には、非常に非人間的な、虚無的なざらざら地点として感じられます。
しかし、僕は、キャロル氏が生涯を通じて間借りしていたのは、このような部屋にちがいなかった、と思いますよ。
というより数学者って人種全般が、そもそもそういうキャラなのかもしれませんね。学のないイーダちゃんとしては数学という学問の深遠は推し量ることしかできないんですが、そのような危険な存在の根源領域に接近するには、日常の場合とは逆に、むしろ存在係数の低い人間でないといけないのかもしれません。
非常に特殊な世界ですよね---そこで遊戯するということは、ある意味、飛行機乗りみたいに危険と隣りあわせになるっていうことなのかもしれない。
けれど、どんな優秀な曲乗りパイロットにしても、地上というものがあるから飛べるんですよね。
地面がなければ、そもそも平衡感覚自体の意味がない、どんな曲芸飛行もただの無意味なきりもみ状態でしかなくなっちゃう---それを見て感嘆してくれる人も、心配してくれるひともいない孤独な曲乗り飛行に、いったいなんの意味があるでせう?
だからこそ、キャロルは、この茫漠たる手狭な思索部屋に居住している息苦しさと虚脱感をひとときでも忘れるために、アリス・リデルという一少女が必要だったのです。
生きるために---あるいは、呼吸するために。
主人公のアリスが生き生きと笑うから、不思議の国のもののけたちもヘンチクリンな言葉遊びに嬉々として熱中できたのです。
主人公のアリスむきになって怒るから、不思議の国のトランプの兵隊たちも最後にあんな風にそろって天空を飛翔できたのです。
結局、アリスがすべての蝶番だったのですよ。
彼女がいなけりゃ、キャロル世界はなんにも廻らぬ、というわけです。
さて、そのような処々の事情をつらつらと考えますと、「不思議の国のアリス」という作品世界の全体が、我々の暮らす実在世界に対しての反証の意志をこめて創造された、一種の逆ユートピアとしての世界なのだ、というようなことがいえるかと思います。
ユートピアはいつでも孤立者の夢想から生じます。
そして、孤立者は、たいていの場合不幸であり、自分を生みだした世界を恨んでいる---もしくは、実存的な対立関係にある。
あからさまな反逆の棘こそ作品内には描かれていないものの、アリスという作品内に、そのようなほのかな敵意の兆候は、いくらでも見つけだすことができます。
時間と喧嘩したおかげで時間にそっぽをむかれ、時間を6時にとめられたままお茶会をつづけるしかない、気狂い帽子屋---。
空中で笑いながら徐々に透明化していき、実体が完全に消失したあとでも笑いだけが残る、チェシャー猫---。
あるゆる問題に対して、「その者の首をはねよ!」と叫ぶよりほかの解決法を知らない、権威の権化・ハートの女王---。
彼らの存在がかもしだしている「棘」の気配は、そのままキャロルが世界に対して抱いていた「棘」の心理の表象だ、と読んでもあながちまちがいではないと僕は思います。
しかし、そのような世界に対する強硬な「否-ノン-」の姿勢が、最期の最後にくるりと反転するのです。
「不思議の国のアリス」のラストは、いわゆる夢オチパターンで仕上げられてます。
アリスのいた不思議の国は、実は、草原で昼寝していたアリスが見ていた夢だった、という例の種明かしです。
ここで思いもかけぬエンディングがふいに訪れるのですよ---それは、世界と現実とを厭い、架空の数学の国を長らく漂泊していた、稀代のすねものであるルイス・キャロルが、突然、世界と和解するのです。恐らく自分でも直前になるまでこんな事態になるとは予測していなかったんじゃないかな。
アリスを見守るお姉さんの目線を借りてささやかれるその「告白」は、非常に優しく、真情のこもった感動的なものです。
それは、本当にふしぎな、どこか恩寵めいた凪ぎの訪れなのです。
ここでキャロルは、数学者キャロルとしてのひねこびた眼鏡を捨てて、ごくありきたりの、素朴な一生活者としての目線の高さで、柔和に現実を見守っています。
そこのところのラスト文だけ書きぬいておきませうか。
----最後に、お姉さんは、このおなじ小さな妹が、やがていつの日にか、一人前の女になったところを想像してみました。アリスは、だんだん成熟していくでしょうが、それでも少女時代の素朴で優しい心を失わず、ほかの小さな子どもたちをまわりに集めては、いろいろな不思議なお話をして---おそらくは、はるか昔の不思議の国の夢の話もしてやって、子どもたちの目を輝かせるだろう。そして、子どもたちの素朴な悲しみをよくわかってやり、子どもたちの素朴な喜びに共に喜びを見いだし、自分自身の少女時代と、幸福だった夏の日々を思いだすだろう---お姉さんは、そんなことを空想したのでした。
こんな素晴らしいエンディングをもちだされちゃあ、こりゃあ、もうなにもいうことはないですね…。
ちなみに僕は、ここの部分を個人的に「キャロルの里帰り」と呼んでます。ここのところを読んでいると、どこからか肉じゃがの香りがしてくる少年時の夕暮れのことが、いつもなぜだか連想されるんですね。
どうしてこんなエンディングになったのか、作者のキャロルに聴いてみたい気もしますけど、恐らく当のキャロルにしても、自分がこんなエンディイグを書いた理由は、うまく説明できないんじゃないでせうか。
でも、それは、それでいいんじゃないかな---。
小学年の低学年にここの部分をはじめて読んだときから、僕は、このラストが大好きでした。
いまだってむろんおなじ---もし、この物語に魔法があるとすれば、恐らくその魔法の鍵は、このラストの部分にこそ隠されているにちがいないと思います…。
(第二部、ようやく了)