イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その52☆「赤毛のアン」の地平線☆

2011-02-16 11:58:00 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                      

 いま、なぜだか「赤毛のアン」にハマってます---。
 といっても、僕のいっているのは、モンゴメリの原作小説のほうの「アン」ではなくて、1979年にフジテレビの世界名作劇場の枠組で放映された、アニメーション版の「アン」のほう。
 最近、この懐かしい連続シリーズが、 you tube で無料で視聴できることを発見したんですよ。
 で、その第1回目のをたまたま見てたら、たちまちのうちにハマっちゃったってわけ。
 おしゃべりで、利発で、空想家で、くるくるよくまわる眼をした赤毛の少女、アン・シャーリーの可愛いことったら---!(^o^;/
 世界に冠たるジャパニーズ・アニメって、このころから凄かったんですねえ。
 その骨太の描写力に脱帽です。登場人物のデッサンといい、会話や表情の呼吸といい、もうていねいで、繊細で---しかも、原作には忠実だというスタイルをしっかり守りつつ---これ以上はないってくらいの、リアルで、ジューシーなポエジー満載の、見事な仕立ての物語としてできあがってるんですよ。
 原作を知らないひとのために、大まかなストーリーをひとくさり披露をば----
 えーと、カナダのプリンス・エドワード島のアヴォンリーという田舎町に、初老の兄弟が農業をやって暮らしてるんですね。マリラ・カスバート(妹)とマシュー・カスバート(兄)という、ひとり者同士の同居兄弟なんですが、ある日、農作業の手伝いが欲しい兄のマシューのほうが、孤児院から10くらいの男の子をもらってくることを思いついたんです。
 で、人伝に頼んでおいたのだけど、いざ約束の日に馬車で迎えにいってみると、手違いでやってきたのは、予定してた男の子じゃなくって女の子だったんですよ。
 駅に迎えにいったマシュー・カスバート氏はびっくり---。
 家に連れてこられた予定外の女の子を迎えた、マリラ・カスバート(妹)もびっくり---。
 やっと、自分をもらってくれるひとが現れたとうきうきしていた、孤児のアンも予想外の自体にこれまたびっくり---といった、まあシチエーションなんですよね。
 で、やっと自分の家ができると思っていた小さなアンが、自分のささやかな希望が裏切られて、もといた孤児院にまた送りかえされてしまうと知って、嘆いて、号泣するんですが、そのときのセリフがとってもいいの。

----あたしがいらないのね…。あたしが男の子じゃないからいらないのね…!? (いいながら背中側に立つマシューのほうを少し見て)そんなことじゃないかと思ってみるべきだったんだわ。いままで、あたしを欲しがってくれるひとなんて、いなかったんだもの。なにもかもあんまり素晴らしすぎて、長続きするはずないって考えるべきだったんだわ…。ああ、あたし、どうしよう! 泣きだしちゃいたいわ---あーん!…(顔を伏せて激しく泣きはじめる)……
                                                                 (赤毛のアン 第二話「マリラ・カスバート驚く」より)
       
 胸をえぐられるような率直で深刻な嘆きようなんですが、このときのアンの絶望顔---はっとして、その一瞬後絶望して、くしゃくしゃっと顔が崩れて、わーっと号泣するまで---その自然な、生命力にあふれた「泣きっぷり」に、イーダちゃんは、もう最初から心を折りとられる感じでしたねえ。

                      

----あたしがいらないのね…。あたしが男の子じゃないからいらないのね…!?

 と、こんな風にはじまったら、だいたい次の連では、ラフマニノフみたいなお涙ちょうだい的世界に突入するものと、相場は決まってるじゃないですか。
 スレきった男の観客としては、このさきのでろでろ情緒氾濫を瞬時に予測して、「あちゃあ、愁嘆場がはじまっちゃうのかー 勘弁してよ…」と天を仰ぐべき場面です。
 ところが、このちっちゃなアンはちがうんです、そんな安っぽい流れは辿らないんです。

----…そんなことじゃないかと思ってみるべきだったんだわ。

 折れそうになる心を一瞬くっと支えて、そのような展開になるかもしれないと予測しきれなかった自分の判断力の甘さを、まず批判しはじめるんです。
 いわば瞬時の自己反省。そして、さらには、

----…いままで、あたしを欲しがってくれるひとなんて、いなかったんだもの。なにもかもあんまり素晴らしすぎて、長続きするはずないって考えるべきだったんだわ…。

 なんて不幸に慣れたひと特有のいいまわしで自らの不遇を嘆きつつ、とっさの帰納法推理まで展開しちゃってる。
 このひとも自分を欲しがってくれない。悲しい→しかし、今回この悲しみの生じた理由は、自分が過去の経験から、今度もこのような不測の事態におちいるかもしれないという推理と予測とを怠ったせいだ→いままで誰も自分を欲しがってくれなかった、ということは、今後も当然そのような事態がつづくということで、その心構えを解除すべきではなかったのだ---といったような俊敏な論理展開。
 もちろん11才の子供らしく、こんな理屈だけで自分を突き放したままもちこたえらえるはずもなく、やがては勢いよく泣きはじめ、最初の嘆きにまた舞いもどってしまうわけなんですが、なんというか、この子、とても自分を知ってる子ですよねえ。
 聡明さもなかなかだけど、感受性の繊細さは、それ以上にハンパない感じです。
 なんというか、非常に詩人チックな生地を感じさせられる子じゃないですか。
 繊細で、傷つきやすく、でも、それとは逆の---喜び、幸福---といったプラス側の諸要素にもひどく敏感な自分内センサーをもっていて---。
 あと、頭の回転も心の回転も、どっちともとっても速いの。くるくるまわる言葉と表情とは、ぼんやり見ていると振りおとされちゃいそうな爽快な速度感でもって、リズミカルなスキップをきゅんきゅん踏んで小走りしてく感じです。
 喩えていうなら、ええ、アン・シャーリーは、たぶん風ですね---。
 グリーン・ゲーブルスの美しいもみの林のすぐうえの空を、さらさらと愉快そうに、笑いながら駆けぬけていく5月初頭の南風---「赤毛のアン」の少女時代のイメージは、僕にはいつでもそんな風な印象なんですよ…。

                                

 そう、「赤毛のアン」は、物語としても完璧だ、とイーダちゃんは思います。
 シェフであるモンゴメリの予想よりもはるかにグレートな作品に仕上がっちゃったんですね。藝術の世界では、ときおりそのような有難い偶然が起こることがあるんです。ええ、世界文学の最高峰「カラマーゾフの兄弟」、それにジョイスの「ユリシーズ」なんかとも充分にタメを張れるんじゃないかな。
 影の部分の彫りの深さが「ゲンダイ文学」として足りないといわれれば、まあそうですねえ、とうなずくよりないんですが、そのような部分を割り引いても「アン」のなかには、前者ふたつの大文学を足しても敵わない、一種鮮烈な魅力があると思います。
 それは、キャラが生きてるっていう一点です。
 主人公のアンが、なんといっても可愛いすぎる! これはもう譲れないです。
 あと、「アン」の喜びの表現ね---アンの唇が動くたびにきらきらとこぼれおちる、あらゆる生命に対する共感の念のみずみずしさはどうでせう!
 僕はオタクではないつもりなんですが、このシリーズを見てるときにかぎっては、完璧なオタッキーと化してる自分を発見していつもドギマギしちゃう。アンの住むアヴォンリーは、ほとんど僕のエルドラドなんですよ。いったんここに入ったら、もう2、3日は部屋から外に出たくなくなりますね。
 だって、現実よりはるかに魅力的なんですから…。

 ギルバート・ブライスの頭に石板を叩きつける、怒り狂ったアン---。
 ジョーシー・パイの挑戦を受けて高い屋根の梁に登る、誇り高いアン---。
 初めての友達ダイアナと「腹心の友」たるべく、永遠の誓いを詠みあげる、ロマンチックなアン---。

 どのアンもこのアンも、あまりにも正直で、そのうえ懸命で、もう見てるだけで胸底が痛痒くてたまらなくなってきます。
 あと、「アン」の世界って、なんだか愛し方教室みたいな部分があるんですね---この物語全般の提示する、素朴で純真な家族や友達に対する愛情のありかたは、見ていてときどき気恥しくなることもありますが、僕はね、これ、正しいんじゃないかと思います。
 ええ、アンのほうが正しい、世界はまさにこうあるべきです。
 欺瞞やエゴイズムに満ちたこんな現状は、本来の姿じゃない、と思ってもみます。
 ただ、みずみずしくも懐かしい、このアン世界のなかの小路を歩いていると、ときどきイーダちゃんは、現実世界に順応しきった自分が薄汚い罪人のような気がしてくることがままあると、ここに告白しておきませう---。

 ここでいきなり川端康成がでてくると、「なんだあ!?」と思う方もあるでせうが、その川端さんの醒めきった意見をひとつご拝聴ください。ほい。

----瀧子の四つの小説は皆彼女の生活の日記みたいなものだったが、そこに現れる親きょうだいや、友達や、恋人に対する、彼女の無条件で、無制限の愛情は、全く私を感動させた。無論こういう女性の愛情は、古今東西の数知れぬ作品に、もっと美しく、深く、高く、書き古されてはいるが、それらの文学とは確かにちがっていた。また、こんな愛情が現実に存在していたならば、ちょっと正視に堪えないであろうと思われた。文学としても、小説にも文章にもなっておらず、常日頃なら正視に堪えないであろうが、たまたま疲労という私の無警戒の状態が相手の裸の暖かさを感じさせたのであったろう…。
                                                                        (川端康成「散りぬるを」より)

 いかがです? アンと川端さんとじゃまったくの対極世界なんですが、アンとダイアナの美しい「きらめきの湖」にいきなりテンの死骸を放りこむような、この興醒めの川端式文章が支点としてぜひ必要と思い、ちょっとばかし引用させていただきました。
 情からも共感からも遠去かった、この冷酷で投げやりな視線って、僕は、これ、男性の視線じゃないか、と思うんですよ。
 僕も男ですから、そのへんの感触は非常に分かる、男って性のなかには、なにかアンの敬虔でささやかな小宇宙を根本から裏切るような不信心が、あらかじめ混入されている気がします。もっとも、みんながみんな川端さんの視線ほどざらざらと冷酷なわけじゃありませんが、そもそもの世界へむけるまなざしの質が、まるきりちがってるんじゃないんでせうか?
 僕が少しまえのページで取りあげたルイス・キャロルのアリスにしてもそうです。
 あれのラストで、作者のキャロルは、お姉さんの視線を借りて世界とひとときの握手を交わしていましたが---そして、それは大変感動的な1場面でしたが---僕にはあれが恒久的な世界との和解だとは、とても思えない。
 あの感動のたそがれどきがすぎれば、恐らくキャロルはいまさっき胸に感じた暖かいぬくもりなんか煙のように忘れて、自らの冷たい板張りの数学部屋にとぼとぼとひとりで帰っていったことでせう。そして、生涯そこにとどまりつづけたことでせう。
 そもそもキャロルはそっちがわの代表的な住人なんですから。

 僕はねえ、この男女間の本来的な溝っていうのは、埋めようがないくらい険しくて深い、と考えているんです。
 だって、アンの少女時代の憧れは、アヴォンリーの新任牧師夫人の、若くて魅力的なミセス・アランですよ。
 それにひきかえ、同時代のアメリカ文学の主人公トム・ソーヤ少年の憧れのひとは誰でした?
 宿なしの浮浪児の、ハックルベリー・フィンじゃないですか!
 このギャップはどうよ? いやー どうこうしようにもどうにもなりませんって。
 イーダちゃんは思うんですよ---あらゆる少年の憧れは、結局はこの「放浪」という1点に帰着するんだって。
 ええ、もしかしたら「放浪」っていうのは、あらゆる男性の心の故郷なのかもしれません。
 去年の8月、退社といった個人的事情からイーダちゃんはまる1月北海道各地をさすらってきたのですが、いま思えばテント暮らしの風来坊としてのあの8月は、もう心の底からむちゃくちゃに楽しかったですからねえ!
 考えようによっては「不思議の国のアリス」の不思議の国も、キャロル教授の架空の数学世界も、ひょっとしたらこの生来的「放浪」の一種のヴァリエーションとして読めるものなのではないのでせうか?
 そう、ランボー少年が「地獄の季節」のなかで視たというあの「架空のオペラ」も、川端世界のなかにあるあのひんやりした薄情地獄も、あるいはモーツァルトの音楽のなかに常にあるあの快活な運動性も---ひょっとしたらすべてのルーツは、この少年時の「放浪」というおなじ根っこ始発のものなのかもしれません…。

 「赤毛のアン」のラスト部分で、最愛のマシューを失ったアンは、すさまじい速度で成長していきます。
 眼のわるいマリラを助け、故郷のアヴォンリーにとどまることを決意し、せっかく得たエイブリー奨学金も辞退してしまう。
 そうして、ある夜半、子供のころから住んでいた自分の部屋の窓辺から、16才半のアンはこんな言葉をささやいてみます。

----神は天にあり、この世はすべてよし…。

 これ、世界文学10傑にランキング入りOKの、素晴らしいラストなんじゃないでせうか。
 ただ、このラスト、いつ触れても感動はするのだけど、このフィナーレって、イーダちゃん的にいうと、なんというかいささか淋しいものも少々混入してるんですね。
 そりゃあ、アンの居場所は正しいですよ。そうするしかなかったんだし…。そして、いってることも、思ってることもたぶん正しい、とは思います。

 でもですねえ、ひとつだけ質問---なんでそうまでして自分の絵にそんな地平線を引こうとするの?

 ええ、ここで僕がいいたいのは、アンの世界の底に常にある「地平線」についてなんですよ。
 腹心の友であるダイアナに対する---または育ての親であるマリラ、マシューに対する---あるいは親しい隣人としてのミセス・アランやジョゼフィン叔母さんに対する---アンの無条件の、みずみずしい愛情のほとばしりを、僕は、「赤毛のアン」世界の一種の竜骨、いちばん底にある地平線とまあ称したいわけなんです。
 あの、これには異論むちゃくちゃあると思うんですが、大抵の女流作家には、この地平線があるとイーダちゃんは思うんです。
 そう、女流さんって、愛情でも信仰でも故郷でも家庭でも---最終的には常に定住するんです---自分の絵のなかに地平線を一本ひいて、そのうえにがっちりと裸の足裏で着地するんですよ。
 そういえば幼稚園児ってみんなそうなんですってね! 物心つきたての園児にみんな絵を画かせると、あらゆる女児は自分の絵のなかに、自分と家族と一本の地平線とを画きこむそうなんです---それこそ95パーセント以上の確率で。
 ところが男児は、地平線なんかまず入れないっていうんです。
 いわれてみれば幼少期の僕もそうでした、絵のなかに地平線なんかまず入れてませんでしたね。
 してみると、これはもう本能的な性差というよりないですね。
 だから、僕的には、地平線ってなんか複雑なんですよ---いわば体質的ジレンマ---見るとつい淋しくなったり、ほろ苦くなったりして、背を向けて、つい逃げたくなってしまう…。
 憧れて、惹かれているくせに、接近したら妙に息苦しくなって、逃げて、離れて---そうすると今度は淋しくなってきて、またもや遠くのほうからそろそろと憧れて、接近して、もういちど話しかけて…。で、その後も、この接近したり離れたりの無限ループが、人生の虚構の遊戯空間のなかで、くるくるとくりかえされるというわけですな。はあ。
 書いているうちに、なにやら作品から離陸した男女論につい話が流れてしまいましたが、この「赤毛のアン」自体は冒頭でも述べたように素晴らしい作品ですので、ご自宅でのPCでのご視聴をぜひにもお薦めする次第です。
 イーダちゃんはね、ええ、この「赤毛のアン」を見ないのは、人生の損だとまでマジ思っているのですよ。
 狂ったように長くなりました---ここまで読んでくれた方がもしおられましたら、心からお礼がいいたいです---有難うございましたっ---。m(_ _)m


  P.S. 時代設定にあわせて計算してみたら、わあ、アンはあのフルトヴェングラーより年上でした。
      ぎゃー、びっくり! そんなむかしのお話だったとは……(xox;>