イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その57☆「ガラスの仮面」でバルザック☆

2011-03-03 21:39:17 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                        

 僕が、美内すずえ先生の「ガラスの仮面」のファンだというと、みんな「えーっ!」っていうんです。
 特に藝術家肌の友人系に、この「えーっ」は多いようですね。
 僕が、この「えーっ」のわけを問うと、なんだってあんな大衆的なのを、とか、驚いた、あんなクサイ田舎芝居が君の好みなの? なんて皆さん、それこそクソミソにおっしゃるんです---ほんのちびっと蔑みのまじった、同情的な例のまなざしでもって。
 で、僕がいつもながら、それにこう反論するってわけ。

----ちょっと待ってよ。大衆的って凄いことだよ。ポピュラーって凄いのよ。だって、5000万部売れてるんだよ。たしかに、フランス映画みたいな、洗練されたポエジー作品とは少々趣がちがってることは認める。詩が物語を追い越すことは決してないし、その点じゃ、まあたしかにいささか俗っぽい話かもしれない。ストーリー自体にしても、演劇界での少女版立身出世物語みたいなところがあるから、アンチ権威肌の君らの感性が鳥肌立って、もう少しひねりが欲しいと機嫌を損ねたがるのも分かる。しかしだね、この大河ドラマは、とっても骨太だよ! 安心して物語展開を見てられる。それに、この作者、物語作りに徹してるから目立たないけど、稀有なストーリーテーラーだよ。やっと取りかかった物語ラストの「紅天女」にしても、テンション全然落ちてない。こんだけ話を引っぱってきたのに、みんな、ちゃんとついてきて、次の展開をわくわくと待ち受けてるじゃない? 凄いよ。こんなこと、誰もできないよ…。

 けど、みんな、どうしてかあんまりまともに聴いちゃくれませんね。
 僕が熱くなってまくしたてればまくしたてるほど、むしろ、にやにや度が募っていくような塩梅。
 そして、僕は、ため息をついて弁護を諦める、というのがだいたいいつものパターンですねえ…。

----なんでかしら?

 思うにこれは、「ガラスの仮面」のなかにしっかりと根ざしている<古典的な物語造形>というものに対する、ニューウェイヴ・カルチャー全体のひがみ・もしくは反発なんじゃないかなあ?---僕等、すれっからしの都市住人の戸籍は、やっぱりどうしても<脱・物語>サイドのほうにありますから。
 でも、なんだってこんなにアーテッステック路線やポエジー派閥の方々が反発するかといえば、その理由はただひとつ、やっぱり「ガラスの仮面」が面白すぎるからでせうね。
 ええ、この物語の圧倒的な面白さは、ちょっと否定できないんじゃないですか。
 誰が読んでも分かるし、わくわくするんだもん---。 
 誰が読んでも分かるというこの大衆性こそ、「ガラスの仮面」のなによりの強さの秘訣です。この点では、これ、ちょっと群をぬいてますね。僕は、時代や風俗をこえて、「ガラスの仮面」は、あらゆる階層のあらゆるひとにアピールできる作品だと考えているんです。喩えはわるいけど、あのエスキモー---古語失礼:イヌイットより知名度あるかと思い、あえて使ってみました---とか、もしくはニューギニアの高地あたりで、むかし首狩りの部族をやっていたような方々だとかも、充分に共感できるし、楽しめる内容だと思う。
 商業演劇って概念が理解しにくいなら、なに、神サマに捧げる芝居のための、巫女の資格争奪の物語なんだといいなおせばいい、そうすれば一発で通じること、まちがいなしです!

 それに、この物語中には、忘れられない名場面がいっぱいあるんです---。
 イーダちゃん的には---そうですね---「ふたりの王女」での北島マヤのアルディス役の笑顔とふるまいとが、まず記憶に焼きついてますね。相手役の姫川亜弓のオリゲルドもハマり役でカッコよかった。
 あと、おなじ「ふたりの王女」のオーディションの二次審査で、受験者みんなが自由課題の創作演劇をやらされるんです。
 閉店間際のレストランで、無言のマスターの一連の動作にあわせて、自分なりの物語を創作して、即興で演じてみせる、という設定のまあ難題なんですが、ほかの受験者がみんな躊躇してかたまってるというのに、主人公の北島マヤだけが、マスターの動きにあわせた即興芝居を次から次へ楽々とつづけていっちゃう、というあのシーンもそうとう印象的でした…。
 それにもうひとつ、マヤが芸能界で失敗して大都芸能から追いだされるとき---最期の芝居の仕事で姫川亜弓の「夜叉姫」の舞台に、百姓娘のたずという役で立つんですね。
 そのときにマヤを厭う役者仲間の意地悪で、本番の舞台上に泥団子がもちこまれるんです。
 マヤはそれを食べる役なんですけど、もちろん食べる予定になってるのは、本物の、食べられるお団子です。それが、本番直前に泥団子にすりかえられちゃう。で、舞台で夜叉姫からの重箱があけられたとき、皆はそれが泥団子だって気づくんですが、本番中にそんな気配を見せるわけにはいかない。マヤは、舞台の流れを守るために、舞台上でその悪戯の泥団子をみんな食っちゃうんですよ。「おらあ、たずだ。おらあ、こんなうめえもん食ったことねえ」と喜びの演技をつづけながら…。
 これは「ガラスの仮面」という物語全般の白眉といってもいい場面じゃないかと、僕的には思ってるんですけど。
 冒頭にUPした写真はそのときのものですね---うーむ、いいなあ…。

 まあ、なにしろ5000万部ですからね---ハンパな数じゃないっスよ---完璧に国民的な漫画になった、といってしまってもいいと思います。
 ただ、こういう際、つくづく思い知らされるのは、「物語」というものの強さなんですよね。
 「物語」って強いです、とても---。もしかしたら「詩」よりも強いかもわからない。
 ただ、この物語を編むがわにしてみるならば、ひとつの資格が絶対に必要なんですね。
 それは「非情」と「鷹揚」の徳ですね---だって、「神」の視座に立って、物語を編まなきゃいけないんですから。そのためには、あっちの登場人物を引きたてたり、こっちの人物を栄華の席から引きずりおろしたり、場合によっては憎ませたり、愛しあわせたり、裏切らせたり、あるいは殺したりもしなくちゃいけないんですから。
 神経質すぎる「神サマ」や潔癖症の「神サマ」じゃ、大きな編物はできやしません。
 というわけで登場するのがフランスの文豪バルザックです---ま、とにかくこの引用をご覧ください。

----長編小説の理想的文体というのは、筋に拘泥しない文体であります。ものにとらわれない文体であります。鷹揚な文体であります。日本の作家でこのような文体をもった人はきわめて少ないので、やむなく外国作家の例をとるほかありません。バルザックの小説は構成そのものが長編的で、彼の書いた短編小説でさえも、ドラマティックな長編的構成をもっていますが、一例が『ランジュ侯爵夫人』のような作品では、悠々たる修道院の描写からはじまり、それが一転してサンジェルマン街の貴族社会の描写に移り、いつまでたっても物語の核心に運ばれません。しかしいったん彼の文体の波に乗せられると、ベートーベンの音楽のように、大きな鬱勃たるエネルギーが我々を運んでいることを感じさせられます。そうして私は筋に拘泥しない精神と言いましたが、バルザックほど筋に拘泥しない作家はないので、ほとんど目前の構成や細部を無視しながら、大ざっぱに書いたプランを次々と破壊しながら、人生そのもののように小説が進んで行くのであります。…日本人のいちばん持つことのむずかしいのは、こうした肉体的エネルギーの持続と、ある鷹揚な鈍感さなのであります…。  (三島由紀夫「文章読本」中公文庫)

 三島さんは好きではないのですが、いいや、はっきりいって大嫌いなんですが、あまりにも僕の思うところをかっきりと明快に代弁してくれているので、あえてここに引用させていただきました。
 そうなんですよ、三島さんが上記の文章でいっているように、日本には、いままで本当の意味での長編作家はいなかった、というのが僕の意見です。
 たとえば漫画家のつげ義春さんだとか、作家の梶井基次郎さん---双方ともとても優れた作家さんなんですが、やっぱり物語作家というよりは、詩人、という感じじゃないですか。
 だいたい、つげ義春さんの書いた長編漫画を、あなた、読みたいと思いますか?
 できあがるのは「未来世紀ブラジル」より恐ろしい、救いのない無力宇宙だってことは、火を見るよりも明らかじゃないですか。
 僕は、御免だな---だって、胎教にわるそうだもの。 
 つげさんは詩人のなかの詩人だと個人的には思ってますが、ええ、三島さんのいってた通り、肉体的エネルギーの持続も、ある鷹揚な鈍感さも、どっちとも持ちあわせがありません。登場人物の嘆きよりさきに、作品のほうがたぶんぐすぐすと無力に崩れちゃう。梶井さんもそのへんはいっしょ。本来的な長編作家って、日本にはほんとに少ないんですわ。

 しかし---美内すずえ先生です!---僕は、彼女のこと、日本においては非常に稀な、本邦初の本来的な長編作家だと思うんですよ。
 小説の時代にはあいにく間にあいませんでしたが、漫画の時代になって、僕等もようやくバルザック並の長編作家を持てるようになったってわけ。わーい、ですよね。ぱちぱちぱち!
 ええ、ここまで誉めまくると異論をぶつけたくなってくるひとも当然多かろうと思いますが、彼女の功績は大なんですよ、藝術藝術と連呼するばかりだった不健康な文壇から、なにせ「物語」を奪還してきたんですから。
 その剛腕な力技には、ひたすら恐れ入るばかりです…。m(_ _)m

 ただ、最新刊では、先生、姫川亜弓さんを失明させようと計ってらっしゃるんですよ---あの「紅天女」の試演をまえにして。
 そりゃあさあ、ちょっと可哀そうなんじゃないですか、とイーダちゃんはいいたい。
 あとですねえ、主人公の北島マヤ---あれだけの天才役者がどうして「紫のバラのひと」が速水真澄だとああまで気づけないの? 気づけるチャンスはいっぱいあったじゃない? 物語の展開のうえの必然とは理解してるつもりですが、いくらなんでもありゃあ鈍すぎですよ。あんなんで演技なんてやれんの? 
 それから大都芸能の速水真澄ね---彼、線、細すぎ。
 あんなキャラで芸能社みたいなヤバめの大会社をひっぱいていけるのかな? 他人事ながら心配になります。それに少女漫画の登場人物だからってあえて設定から外してるんだろうけど、女遊びの気配もまったくないし。同性からすると、いささか不気味な感触を拭えんのですよ。
 ああ、いかん、距離をおいたエッセイのつもりが、悪口まみれのファンレターに変化-へんげ-してきちゃった。
 これ以上進むとさらに聴き苦しくなる恐れもあるんで、今日はこのへんで締めときませう---では、Bye!(^.-)☆