前々回の☆徒然その42☆では太宰さん特集なんていう線の細いページをやっちゃったんで、今回はそれとは逆路線の、たくましくってふてぶてしい、人間臭さぷんぷんの、ブルーズ特集ってやつをやってみたいと思います。
現代ポピュラー・ミュージックのすべてのルーツといってもいい音楽---ブルーズ。
ほんとはこのページの代わりに 60'S ロックの特集を組もうかと最初は思っていたんですよ。キース・ムーンの写真なんかもちゃんと用意してね。
でも、書くまえの参考にって you tube の動画をいろいろ見てたら、途中からブルースマンの動画に脇見したあげくハマっちゃって、とうとう抜けだせなくなりました。
ただ1本のギターの弾き語りでしかないくせに、ビッグバンドみたいに自在に、豪華絢爛と鳴り響く、Rev.Gary Davis の神業ギター…。
(見たい方がおられたら、Dailymotion Rev. Gary Davis Feel Like Goin' Home で検索されてみて下さい。超絶品プレイが拝めます)
そんなに複雑なテクは使ってないのに、どうしてこんなに力強く、ふてぶてしいノリが生みだせるのかいつもながら首をひねるしかない、テキサス魔人 Lighnin' Hopkinns の超したたか・粘り腰のミュージック…。(こちらは youtube ですぐ検索できまする)
ついつい魅了され、1時間弱があっというまにすぎちゃいました。
結論---やっぱ、ブルーズって凄いです。
なにより、ふてぶてしくって明るい点が、僕的にはちょっとたまんない。
もっとも、明るさだけを特別視して、暗さをおとしめるつもりはありません。たしかに、笑おうとしても笑えないシチエーションっていっぱいあると思うんですよ、人間って。
ブルーズにしても、もともとは米国南部にむりやり連れてこられた黒人奴隷の音楽じゃないですか。
公民権法なんてはるか未来の夢物語---職業選択の自由も移動の自由も恋愛の自由もなく、定められた土地のプランテーションで綿の収穫に携わってるだけの、重労働の、くりかえしばかりの毎日で。
うさ晴らしといえば、許可された祭りのハレの日の、酒か博打か踊りか、あるいは派手な色恋沙汰か、もしくはやけっぱちの、ナイフをふりかざしての命がけの喧嘩とか…。
考えられるのは、まあその程度。文無しとかいう以前にもう奴隷なんですから。所有権すらない。所有物といえばせいぜい、ごろんと寝っころがったときに見える、だだっぴろい青空ぐらい---。
未来の展望も財産も家族もない、宙ぶらりんのからっけつ状態ってやつ。
その瞬間の彼等の胸をひらいてみたら、恐らく、不安と臆病とがいっぱいにつまってるのが見つけられるでせう。
なのに、明るいんです、連中、ブルーズマンときたら。
女に逃げられて酒びたりになって泣いていたとしても、涙と同時に顔をくしゃくしゃにして笑ってるんです。
むろん、完璧な笑いにはなりきってないし、笑いのかたちにしてもちょっと歪んでる。
しかし、唇の両端をきゅっともちあげて、少なくとも笑おうとはしてる。
こんなに何重にもねじくれたどん底の逆境なのに…。
純粋に凄い、と感じます。
どん底で笑える精神って凄い、こういうのが真の意味の「高貴」なんじゃないか、とイーダちゃんは思います。
いつも一緒にいたい…
だけど そんな楽しい時はもう終ったのさ
いまはちょっとツイてないけど 諦めやしない
俺は歩きつづける
なに 別れなんて出会いのはじまりなんだから
時がすべてを変えてくれる
そうさ だから Don't Kid Me…
(Brownie McGhee「Don't Kid Me」より)
ちょっとクサいといえばクサいんですがね、そういうブルーカラー的ないいまわしの一種のよどみや、語り口のクセをいったん歌の表面から全部取っぱらって、純粋な精神として対峙したなら、このいささか苦めのオプティミズムは素晴らしい、と僕は感じます。
それは、もうひとつ別口の視点から見たら、こういうことかもしれない。
----安楽なくらしをしているときには、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生の喜びを書きつづる。(太宰治「晩年」より)
いささか大正文学的な「衒い」が行間に入ってますけど、ブルーズの精神ってたしかにこのなかに脈打ってますよね?
ええ、いつも猫背気味の太宰さんが、このセリフのときだけは珍しく背筋をしゃんとさせて、まっすぐ遠くの山々の稜線を眺めてる。この香り、明らかにブルーズ的なものですよ。あ。ゴスペルもちょい入ってるかもしれません…。
そうそう、冒頭でちょっとだけ取りあげた Rev. Gary Davis のフォト、忘れないうちにUPしておきませう。
これが、ギターの神サマ、レヴェレンド・ゲーリー・デイヴィスです。超カッチョいいっしょ!(^o^)/
彼、1896年の牡牛座生まれのアメリカ人。まだ3才のときに、目薬が原因で失明してます。
見た目、チンピラがかったちょいワル親父って感じなんですが、どうしてどうして、彼、実は本職は牧師さんなのでありまして、名前の頭にある Reverend っていうのは、聖職者に対する敬称なんですよ。
20世紀初期のディープ・サウス(南部)では、ブルーズはどうも悪魔の音楽なんて呼ばれていたらしいんです。
なぜ? 清教徒的世界観に収まりきれない、生きのよすぎる音楽だから?
あるいは、ドロドロの恋愛について歌ったりもするし、なによりセクシーだし、白人の歌みたいに教養がなくて下品だから?
まあ、理由なんておおかたそんなところでせう。
B.B.キングもときどきそんなことをいっていたような気がしますし、あと、そのころの南部関連の著作なんて読んでいても、そのようなフレーズにはときどき出会えます。
だもんで、その時期、聖職者をやっていたこのひとも、当然ブルーズはやらない---やれない?---んです。
ブルーズを歌うかわりに、いわゆるゴスペルを思いっきりがなりたてるわけですよ。
ギター一本で超絶ラグタイムをスキップさせながら、1度聴いたら忘れられない、あの吐き捨てるみたいな、超・野太い胴間声でもって、
----Say No To The Devil, Say No…! (Rev. Gary Davis「bluesvilli」より)
と、勢いよくぶわーっと、かぶせてくるわけ…。
この迫力、マジのけぞりますって。
ゲイリー・デイヴィスのブルーズって、リアル志向のブルーズマンのなかでもとりわけリアルな感触なんです。
あんまり正直に、朴訥に、真正面からやってくるから、聴き手にまったく逃げ場がない。
ジョン・レノンのページでもちょっと述べたと思うんですが、あんまり正直なものって、なんか逃げたり何気にやりすごしたり、やりにくいところがありません? 狡猾なもの、たくらみっぽい香りをさせてるものならまだしも対処できるのに。
なんででせう? 人間心理の妙っていうんでせうかねえ。
ゲーリー・デイヴィスのブルーズを聴いていると---厳密にはさっきもいったようにブルーズじゃなくてゴスペルなんですが---自分がいかにひとの道から外れた生きかたをしているか、金稼ぎと現状維持だけの毎日に追われ、いかに大事なことを置き去りにしてきてしまったか、なんてことがふいに思いだされ、とても気になってくるんです。
特に体調のいいときの晴れた日曜なんかにひとりで彼を聴いてると、自分がなんだかいつのまにか年端のいかぬ子供に帰っちゃって、どっかのお午すぎのうららかな町角で、近所の悪童連といっしょになってわいわいと彼を囲んでる、なんて幻想が脳裏にうかんでくることがままありますね。
----ねえねえ、おっちゃん、次は…次のは、なんの歌…!?
----そうさなあ…次のは、坊主はどんなのが聴きたい?
----俺はね! 俺は…銀行強盗の歌が聴きたい!
----なら、そっちの坊主、おまえはどんなのが好みだい…?
----俺は! 俺はさ! ガンマンの歌がいい! ガンマンの決闘の……
----こら、袖を引っぱるんじゃねえ!…ガンマンに銀行強盗か。ちょい、むずかしいな…じゃあな、若いときに銀行強盗をやって…馬車で逃げるときに保安官を撃ち殺して、そのままうまく逃げおおせて、長いこと過去を隠して裕福なくらしをしてたんだけど……20年たったある晩……ふいにむかしのことを思いだしちまって---罪の意識にかられて---泣きながら悔いあらためる…「年老いた男が悔い改めた晩のブルーズ」だ……いいかい、いくぞ……。
(で、鳴りはじめるギターと凄いヴォーカル)
なんちゃって---(プライベート幻想失礼)---。(^.^;>
ええ、やっぱり、金があるから、地位が高いから、セレブだから「高貴」ってわけじゃないんですよね---本来の人間っていうのは。
どんな分野でも高貴なひとと下卑たひととの両端っていうのは、やっぱりあるのではないかしら。
たとえば、それがどこかの国の皇族といったようなロイヤル・ファミリーであったとしても、その気になって探せば、性根の卑しいかたは恐らくいくらでも見つけられることでせう。
そう、作家の村松友視氏がいっていたように、「職業、ジャンルに貴賤なし。されど、それぞれの職業内、ジャンル内においては貴賤あり」というアレですよ。
むかしの映画なんか見てると、「あれは偉い奴だ」なんてセリフがときどき聴けるんですね。成功者でも金持ちでもない貧乏な若者にむかって「偉い奴だ」と。いまでは、そんな流れ自体をどの分野でもめっきり見かけなくなりました。僕は、21世紀のニッポンが失ってしまったのは、この「偉い」と「偉くない」とを見分けるための、計量の秤なのだと思います。
自分で感じて、自分で苦労して考えないと、この計量はちょっとできない。
周りのみんながいってるから、といったような理由だけで、まわりの秤の計量に従い、なんも考えず、それぞれが自分の日々の欲望を満たすためだけに生きていったら---これは寓話めかして書いてるけど、あくまで「現代」のデッサンのつもりです---この社会はいつか地獄そのものになる、いや、もう、そうなっちゃっているかもしれません…。
「いま」ってそういう人間の内面に目をこらすような態度をダサイと蔑むような時代ですが、はっきりいって僕は、このような時代のありかたって根本的にまちがっている、と思うんですよ。
たしかに、ブルーズは生々しくって、汗臭くて、みじめです。
恋の歌だってあるけど、それより陰々滅滅とした失恋ソングのほうがはるかに多い。
人間、暗いものはなるたけ見たくないって生き物ですから、小金持ちになったなら、そんなみじめで忌わしい過去の呪縛は振りきって、毎夜にぎやかなパーティーづくしでドンチャン生きていきたい気持ちも分からないじゃない。
でも、悲しみや失恋のみじめさ---孤独や愛されない切なさって---これは、人間の故郷ですからね。
そうして、ブルーズって音楽は、そのような人間の業のデッサンなんですから。
土から引きぬかれた野菜が乾いて死ぬように、こうしたブルーズ的土壌から切りはなされた人間も、やがては乾いて、狂って死んでいくんじゃないか、とイーダちゃんは思います。
あらら。明るいブルーズ讃歌で終らせるつもりが、えらいハードでプロテストな内容になっちゃったぞ…。
しかしまあ、ブルーズはほんと、いいですよ。
今回セレクトした Rev. Gary Davis なんて、僕、聴くたびにビビりますもん、マジで。
毎朝、起きがけに聴く音楽としたらたしかにハードで、あまりに人間臭すぎるきらいもあるけど、これがまったくない世界というのは、僕にはちょっと想像できかねます。
ブルーズは僕の芯棒であり、僕の世界の芯棒でもあるんです。
このページにこめたメッセージにしても、種明かしをすれば実は超単純なんですよ---ブルーズを捨ててはなら~ぬ!(「風の谷のナウシカ」の大ババさまの声で)---そんだけ。
どうやらまた語りすぎてしまったようです---しんしんと冷える睦月の夜を今日はシンプルに締めませう---お休みなさい。<(_ _)>