◆葬儀に見る「東西」◆
ついさっき、叔母の葬儀にいって帰ってきたところです---。
いや、葬儀じゃないな、正確にいうならお別れ会ですか。
葬儀自体はすでに去年の11月末に、群馬の老人ホームで済ましてましたから。今日のは、純粋な意味でのお別れ会---仏教でいうなら、告別式というのにあたるかと思います。場所は、お茶の水の教会でした。
イーダちゃん自身はぜんぜんクリスチャンじゃないんですが、叔母の親戚系列はむかしっからプロテスタント系の敬虔な信者さんでして---というか、叔母の旦那である叔父さんがそもそも有名な牧師さんだったのです---その関係で葬儀なんかもキリスト教式でいったわけなんです。
で、それを体験してきて思ったのは、プロテスタントの葬儀ってシンプルでいいなあ、ということでした。
いいなあ、なんていうと不謹慎に受けとられるかもしれませんが、ほんと、これ実感です。
というのも、これと相反する、いままで体験してきた仏教の葬儀の数々を反射的に思いだしたからです。
仏教の葬儀って、ほら、なんというか基本的にリアリズムの世界じゃないですか。
----人間は死すべきもの。
死んだら腐って土に還るもの。
死は定め。悲しいけど仕方ない。
諦めましょ。諦めて悟るしかないよ。
あーみーだーぎゃー わーてるろー
(ここで銅鑼がゴーンと鳴る。読経する坊主の脇の、障子の木枠の手掛けの付近を、大きめの蠅が一匹飛びまわっているのが見える)
永遠につづくんじゃないかと思うくらいの、長いながーい読経。
それとともに募っていく無常観と退屈と。
あと、重ねあった足指に兆す周期的な痺れの感覚。
少しのあいだ故人の死去の悲しみにひたっていても、あまりにも長い読経のせいで、ああ、こんな風に悲しんでいて何になるんだろう、悲しんですごしても、ぼーっとお経を聴いてすごしても、この世の無為は所詮おなじじゃないか、ばかばかしい---みたいな東洋的ニヒリズムの諦念のなかに、結局、すべてが溶かしこまれていってしまう…。
もっとぶっちゃけていうなら、悲しんでいるのがだんだんアホらしくなってきて、当人自らがその悲しみを放棄するような位置まで、流れ的にもっていかれるわけ。
というか、仏教の葬儀ってあらゆるメカニズムが、そのような慰め配列にならんでる---あるいはならべられている?---気がする。
でも、ほっぽらかしと紙一重の、このいい加減な慰め方って、実は、案外効果的なんですよね。
ええ、仏教のあのだらーんとしたほっぽらかし感覚って、東洋の歴史が紆余曲折したあげくたどりついた、最終的な「親切のかたち」なんじゃないか、とイーダちゃんは思います。
東洋的親切ってそうです---基本的にはあんまり世話を焼かないし、おせっかいもなるたけしない。
でも、視野のはしっこのほうでいつもそのひとの様子を窺うともなく窺っていて、いざ窮状となったら、こそっと背中のほうからそのひとのほうへ近づいていって、そのひとの家の石垣のうえに笹の葉にくるんだ団子を秘密裏に置いてくる---とか、なにかそういった感じ。
それ喰ってそのひとが元気になってくれればいいんだけど、団子の存在に気づかずに死んでしまったとしても、それはそれで仕方ない。
そうなってしまったのは、たぶん、ひとの「理」を超えた「天」の配剤であるんだろうから。
で、両掌をきちっとあわせて、
----あーみーだーぎゃー わーてるろー
とやるわけです。
いってみれば天然自然流ってとこ? 神サマは自然、自然が神サマであり、すべての規範であり御心でもあるわけ。
うーむ、ひとの力の有意性といったものを、これっぽっちも信頼してないとこがいいですね。
西洋的な視点からだと、これ、下手したらニヒリズムと取られちゃうかもしれないけど、虚無的な無神論めいた信仰じゃまったくなくて、「運命」という天上の厳粛な宿命に対して、人間の介在できる余地はあまりない、というあくまで謙虚な立ち位置と思想とが、そのような夕映え模様の諦念曲線を結果的に描かしているんじゃないか、と思います。
ええ、ニヒリズムというより、やっぱり、これは一種のリアリズムでせう。
一見したところ、いかにも薄情で取っつきにくそうなんだけど、入口のとっかかりのところを抜けると、実のところは案外細やかで優しかったりね。
東洋流のリアリズムって総じてそんな感じかも---一見取りつくしまもないくらいの仏頂面をしてるんだけど、障子紙を1枚すーっと横に引くと、草木の香りと秋の虫の鳴き声がかすかにしてる、こじんまりとした庭がそこにあるんです…。
じゃあ、西洋の葬儀はどんななの? というと---これがまたぜんぜんちがってくる。
なんというか、小中学校で我々がよくやった、始業式とか終業式の形式に非常によく似てるんですよ。
というより、これは西洋の伝統的なそのような行事のやりかたを、たぶんそのまま明治日本がパクっちゃって、それがそのまま現在まで持ちこされてる、ということなのかもしれません。だとすると、ある意味、似てて当然かもね。
まず、議事の進行役の牧師さんのお話があって、故人の思い出を語る来賓の方々のお話なんかもあり、それらの議事進行のあいまに今度は皆で立って讃美歌を歌ったりもするわけです。
----いつくしみ深き 友なるイエスは
罪 咎 憂いを とり去りたもう
こころの嘆きを 包まず述べて
などかは下さぬ 負える重荷を (讃美歌312番「いつくしみ深き」より)
それからも、説教があり、弔辞があり---しかも、それらの話が皆さん、教会関係者で話しなれているせいか、けっこう面白かったりするんです。
故人の愛すべき逸話のいくつかをジョークをまじえて話して笑わせたり、あるいは、そのあいまに故人との別れの悲しみをはっとするほど真剣に吐露してみたり---そうすると会場全体が悲しみのオーラに包まれる瞬間が、誇張でなく、なんか目に見えるんですよ。
見事でした。僕も、つい泣かされちゃいましたねえ…。
ええ、こんないいかたは不謹慎だと思うのですが、仏教の単調でモノトーンな葬儀とくらべると、プロテスタントの葬儀のほうが断然カラフルで面白いんです。
非常に演劇的というか、総天然色というか、メリハリも起承転結もちゃんとあって、人間の力への信頼がそこかしこに溢れてるっていうかね。
仏教の葬儀が「自然主義」なら、プロテスタントの葬儀は「人治」じゃないでせうか---。
たとえていうなら、仏教葬儀には幹事がいないんですよ。取りしきる人間がいない。責任者不在、というかよく分からない。先祖霊と仏とがどうちがうのか、明確な定義もないし、たぶん、その点を誰も分かっていない。でも、そのへんはあまり問題ないみたい、強力なリーダーや引率者はたしかにいないけど、つつがなく会はつづいていき、自分の番がまわってくれば、皆、渋々とそれなりにその役を務めてくれ、そのような「だらんこ」「ふんわか」したノリで、会はいつまでもまわっていくんです…。
ところがプロテスタント流はちがってる、この会のなかには強力なワンマン幹事がいらっしゃる。
それが、「人間力」なんです。
神の国と現世との交流を一手に取りしきるのも人間だし、神の栄光を讃えるのも人間。
最終目標の神サマにしたって、人間の敷いた信仰のレールのうえを歩いて、我々のいる下界へと降臨されるわけですから。
まごうかたなき「ニンゲン主義」とでもいいますか。これほど無垢なニンゲンへの肯定思想というのは、東洋にはあまり見られないので、この屈託のない明るさにはある意味とても驚かされました。
とりわけ僕が感じ入ったのは、次のような発言がもたらされたときでした。
----故人はいまやすべての苦しみから解放されて、神様の御許で安らいでいるのです…。
あるいはおなじ文脈でいわれた同様の言葉、
----いずれ我々がみまかって天国で永遠の命を得たとき、どんなに楽しい暮らしが待っていることでしょう…。
こういう台詞は、僕は、小説のなかでしか読んだことがなかったから、実際に耳にしたときは、ちょっとびっくりしました。
もちろん、これらの言葉を口にされた牧師さんたちをからかう気なんて毛頭ありません。そのへんは誤解なきよう---これらの台詞はみな真情をこめて発言されていたし、聴いている僕も牧師さんのおっしゃられる天国のヴィジョンの眩しさに圧倒され、まちがいなく感動していました。
僕がびっくりしたというのは、まったく別の理由からです。
それが、あまりにも東洋的な文脈から外れたコトバだったから---だから、つい匂い的に違和感を感じてしまい、結果的にびっくりしたんじゃないかなあ?
実は、これらの言葉を聴いたとき、僕は、
----すわ、これってファンタジーじゃん! と思ったのです。
そう、仏教が自然主義なら、キリスト教はファンタジーじゃないかって、そのように感じたのでした。
信仰というのも、もしかしたらファンタジーの亜種なのかもしれませんね。そんな風に感じてしまうのは、信仰をもつことのできないイーダちゃんの不徳がなせる、あざとい遠回りなものの見方なのかもしれないけど。
ただ、正直にいわせてもらえば、僕は「永遠の命」っていうのはよく分かりませんね。
いってる意味自体はわかるし、内容も充分共感できる、そうなればいいな、と思うこともたしかにあります。
ただ、腹の底からこの言葉が分かるか、と問われれば、首を横にふらざるを得ない。
イーダちゃん的には「永遠の命」は、翻訳したての耳慣れぬ言葉のように、ええ、微妙な齟齬感のある、垣根むこうの隣人みたいな存在でしかないのです。
しかし、その点は置いておいても、プロテスタントの葬儀、マジ素晴らしかったんですよ。
可愛がってくれた叔母がどこにいってしまったのかは、あいにく僕にはちょっと分からない---なにせ見えないし、話も通じない国にいっちゃったわけですから。
叔母のプロテスタント仲間のひとたちは、皆、叔母が天国にいって安らいでいる---ちなみにそういうときの皆さん、心からそういってられるのが分かるんですよね、これは、羨ましかった---といってましたけど、その種の信仰の乏しい僕なんかから見れば、その手の話を無条件に信じこむのはいささかむずかしいのです。
心のなかに架空の天国をイメージするよりさきに、「ほんとかな?」って疑惑のフレーズでたちまち頭がいっぱいになっちゃうんですからねっ。
だから、亡くなった叔母に義理立てて、むりに敬虔気分を繕うことはやめておきます。
叔母にしても、そんな風な「うそっこ」の追悼なんてきっと願い下げでせう。
結局、僕は僕なりのやりかたでいくしかないように思います。ですから、今日のところは、正直に、子供っぽく---うむ、叔母が叔母らしい、いいところにいければいいなあ、と願っておきませう…。(^.^;>
◆東洋流たしなみ「含羞」について◆
西洋思想史におけるニンゲンの立ち位置は知りません。
ただ、東洋的視点からいわせてもらうなら、東洋における人間の立ち位置って、たぶん低めぎりぎりの設定じゃないかと思うんです。ぶっちゃけていうなら、東洋ではニンゲン、そんなに偉いものとは考えられていないと思うんですね。
要するに、塵芥とあんま変わらない。
せいぜいが畜生の一変種といった程度の認識ですか。
世界からすると、いてもいなくても、どうでもいい存在。
このあたりの低設定事情に通じているから、坊主にしても庶民にしてもどこか含羞があり、なにかを発言する際にも、つい猫背気味に、おのずからペシミスチックになっちゃう傾向があるように思うんですけど。
思うにこの種の謙虚さって、東洋の本能なんじゃないかなあ…。
この先験的な心理的トラウマは、戦後育ちのクールな世代であるはずの僕のなかにも、いまだに根強く巣食ってます。
けど、このトラウマ的「含羞」って、僕は非常に大事なモノじゃないかって、いまさらながら思うんですよ。
これのあるなしだけで世界との関わりようが180度変わってしまうかもしれない、と思っているくらいです。
ちなみにイーダちゃんは、この「含羞」のあるなしだけでひとを判断していますね。
僕にいわせれば、この「含羞」は美徳ですよ、すでに。
これがあるひとは---信用できるし、トモダチにだってなれる。
これがまったく見あたらない自信満々のおかたとは……正直、あまりお会いしたくないですねえ。
いずれにしても、ちょっと今夜は話しすぎのようです。話が流れて、なんの話だか分からなくなってきちゃった。
僕の暮らす関東は日本じゃまだマシなほうらしいけど、それでも外の冬空はキンキンに冷えてます。
もしかしたら雪になるかもしれない、帰りのとき、襟元がなにかそんな感じでありました。
ということで皆さま、どうか風邪に気をつけて---明日の朝はこの冬最高の冷えこみだそうです---お休みなさい---。<(_ _)>