2024年の最初の記事は、米国最貧州ウエスト・バージニア州のハーパーズ・フェリー(Harpers Ferry)という町の話からスタート。
まだ見ぬ米国12州の中からウエスト・バージニア州を最初に選んだ理由は、最も行く気にならない州だからであった。しかし、調べてみると、最貧州ではなるが治安は全米平均よりも良く、国立公園ができ、歴史的に重要な町もあり、モチベーションは少し上がってきた。
その歴史的に重要な町の一つがハーパーズ・フェリー。一部が国立歴史公園(NHP)に指定されており、街並みがきれいでカミさんも喜んでくれそうだ。
Harpers Ferry National Historical Park (U.S. National Park Service)
ハーパーズ・フェリーは、ワシントンD.C.から北西へ約100km、ウェストバージニア州の最東端の町で、メリーランド州とバージニア州との境となっているポトマック川とシェナンドー川との合流点に位置する。人口は約300人。
ハーパーズ・フェリーは南北戦争における激戦地「ハーパーズ・フェリーの戦い」として知られ、1733年に入植者によって渡し船(フェリー)が設けられ、1747年にこれを買い取ったロバート・ハーパーが自分の名を付けて「ハーパーズ・フェリー」と呼ばれるようになった。山に囲まれた土地で、日本の関ケ原をイメージするとよいかも。
1859年10月16日には過激派の奴隷制度廃止運動家であったジョン・ブラウンらが、この町の武器庫を襲撃したが失敗に終わり、ブラウンは捕らえられて、同年12月2日絞首刑に処せられた。この事件は南部の独立、南北戦争開戦の一因になったとされる。
『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』(J.M.バーダマン著、村田薫訳、㈱ジャパンブック)にも、この顛末が記述されている。
ハーパーズ・フェリーの戦い(Battle of Harpers Ferry)は、南北戦争のメリーランド方面作戦の一部として1862年9月12日から9月15日にかけて行われた戦い。ロバート・E・リー将軍の南軍がメリーランド州に侵攻したとき、その一部であるストーンウォール・ジャクソンの軍団がハーパーズ・フェリーの北軍守備隊を包囲して砲撃し、降伏させた。南北戦争の中で北軍最大の降伏となった。
南北戦争は、1861年4月12日から1865年4月9日にかけて、北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦。奴隷制存続を主張するミシシッピ州など南部11州が合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成。合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。
日本語で「南北戦争」と言われる戦争だが、米国のWeb Siteではそれに相当する言葉、例えば、War between south and north statesと言った言葉は見当たらない。ほとんどがThe Civil Warという言葉で「内戦」の意味である。
その他には、州間戦争(War Between the States)、反逆の戦争 (War of the Rebellion)、南部独立戦争(War for Southern Independence)、第二次米国革命(Second American Revolution)、 北部侵略の戦争 (War of Northern Aggression)といったネーミングがあるそうだ。
南北戦争は、1861年4月12日から1865年4月9日にかけて、北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦。奴隷制存続を主張するミシシッピ州など南部11州が合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成。合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。
中国語や日本語、および朝鮮語では北部と南部の間の戦争という意味の言葉「南北戦争」が広く使われている。1867年にアメリカ留学中だった新島襄が書簡に「南北戦争」という言葉を用いているほか、岩倉使節団の『特命全権大使米欧回覧実記』(1873年)や『福翁自伝』(1897年頃)に「南北戦争」の名称が登場しており、軍事史学者の友清雄士は日本史や中国史における南北朝時代の表現が下地になったと想定しているとのこと。
さて、次回はウエスト・バージニア州でもっともおどろおどろしい陰気な場所を紹介。そこは休み中の調査で一番興味をひかれた場所だが2024年最初の記事にはふさわしくないと思いハーパーズ・フェリーにした訳。
まだ見ぬ米国12州の中からウエスト・バージニア州を最初に選んだ理由は、最も行く気にならない州だからであった。しかし、調べてみると、最貧州ではなるが治安は全米平均よりも良く、国立公園ができ、歴史的に重要な町もあり、モチベーションは少し上がってきた。
その歴史的に重要な町の一つがハーパーズ・フェリー。一部が国立歴史公園(NHP)に指定されており、街並みがきれいでカミさんも喜んでくれそうだ。
Harpers Ferry National Historical Park (U.S. National Park Service)
ハーパーズ・フェリーは、ワシントンD.C.から北西へ約100km、ウェストバージニア州の最東端の町で、メリーランド州とバージニア州との境となっているポトマック川とシェナンドー川との合流点に位置する。人口は約300人。
ハーパーズ・フェリーは南北戦争における激戦地「ハーパーズ・フェリーの戦い」として知られ、1733年に入植者によって渡し船(フェリー)が設けられ、1747年にこれを買い取ったロバート・ハーパーが自分の名を付けて「ハーパーズ・フェリー」と呼ばれるようになった。山に囲まれた土地で、日本の関ケ原をイメージするとよいかも。
1859年10月16日には過激派の奴隷制度廃止運動家であったジョン・ブラウンらが、この町の武器庫を襲撃したが失敗に終わり、ブラウンは捕らえられて、同年12月2日絞首刑に処せられた。この事件は南部の独立、南北戦争開戦の一因になったとされる。
『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』(J.M.バーダマン著、村田薫訳、㈱ジャパンブック)にも、この顛末が記述されている。
ハーパーズ・フェリーの戦い(Battle of Harpers Ferry)は、南北戦争のメリーランド方面作戦の一部として1862年9月12日から9月15日にかけて行われた戦い。ロバート・E・リー将軍の南軍がメリーランド州に侵攻したとき、その一部であるストーンウォール・ジャクソンの軍団がハーパーズ・フェリーの北軍守備隊を包囲して砲撃し、降伏させた。南北戦争の中で北軍最大の降伏となった。
南北戦争は、1861年4月12日から1865年4月9日にかけて、北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦。奴隷制存続を主張するミシシッピ州など南部11州が合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成。合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。
日本語で「南北戦争」と言われる戦争だが、米国のWeb Siteではそれに相当する言葉、例えば、War between south and north statesと言った言葉は見当たらない。ほとんどがThe Civil Warという言葉で「内戦」の意味である。
その他には、州間戦争(War Between the States)、反逆の戦争 (War of the Rebellion)、南部独立戦争(War for Southern Independence)、第二次米国革命(Second American Revolution)、 北部侵略の戦争 (War of Northern Aggression)といったネーミングがあるそうだ。
南北戦争は、1861年4月12日から1865年4月9日にかけて、北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦。奴隷制存続を主張するミシシッピ州など南部11州が合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成。合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。
中国語や日本語、および朝鮮語では北部と南部の間の戦争という意味の言葉「南北戦争」が広く使われている。1867年にアメリカ留学中だった新島襄が書簡に「南北戦争」という言葉を用いているほか、岩倉使節団の『特命全権大使米欧回覧実記』(1873年)や『福翁自伝』(1897年頃)に「南北戦争」の名称が登場しており、軍事史学者の友清雄士は日本史や中国史における南北朝時代の表現が下地になったと想定しているとのこと。
さて、次回はウエスト・バージニア州でもっともおどろおどろしい陰気な場所を紹介。そこは休み中の調査で一番興味をひかれた場所だが2024年最初の記事にはふさわしくないと思いハーパーズ・フェリーにした訳。