兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

神聖モテモテ王国

2012-03-20 02:00:10 | アニメ・コミック・ゲーム

 

 もう十年以上前でしょうか、伊集院光のラジオで「ダメにんげんだもの」というコーナーがありました。『にんげんだもの』のパロディであることは言うまでもありませんが、ダメ人間である伊集院リスナーたちが自らの体験言動などを告白し、(共感的に)笑っていこう、そうした主旨のコーナーだったかと思います。
 ここで読まれたネタで、「ナンパに繰り出したはいいが女の子を引っかけること適わなかったモテない三人組、しょげ返る一同だがその一人はどういうわけか妙にハイテンションで『もし俺が女だったらお前らにバンバンやらせてやるよ!』と言っている」みたいなのがありました。
「あるあるネタ」というにはいささかスットンキョウで、ぼくには違和が残ったのですが、伊集院さんは妙にお気に入りのネタのようで、「泣けるんだよなー、これ」と感想を漏らしていたのを覚えています。
 さて、とは言え、それに近しい読後感を残す漫画がここにあります。


 

『神聖モテモテ王国』。
 他愛ないギャグ漫画とも思え、しかしその背景には深遠な謎が隠されているようにも思え、結局、未完のまま終わってしまったのでその真相は作者が再び筆を執らない限りは永遠の謎、となってしまった作品です。張り巡らされた伏線はあまりに曖昧で、その「謎」部分についてはあまりファンサイトなどでも定見めいたものは見られないように思います(何か面白い考察をしているサイトなどがあればお教えください)。
 ごく簡単に概要を(ウィキペディアからの引用で)説明するならば、


 

謎の宇宙人ファーザーとその息子とされるオンナスキーが「ナオン」(女性)にモテるために四苦八苦するギャグ漫画。


 

 ということになるでしょうか。この二人が毎回毎回ナオンをナンパしようとしては失敗する、というのがお話のパターンです。
 ファーザーは宇宙人を自称してはいるもののその正体は一切不明、オンナスキーは常識的な普通の少年なのですが記憶喪失によってその過去は謎に包まれ、何故か(まだ十五歳であるにもかかわらず)ファーザーとアパートの一室で二人暮らしを続けています。二人は働くでもなく(オンナスキーは学生なのに学校にもあまり行かず)ただ日々を成功もしないナンパに費やし続けます。そして近年の作品のお約束として、そうした「謎」を解く鍵だと思われる伏線めいた描写だけは折に触れ、意味ありげに繰り返されるわけです。
 要するに本作は、「下宿もの」の一ヴァリアントなのですね。
 青春時代の仮宿としての下宿住まい。そこにおける、おかしな同居人たちとの非日常的な毎日。
 例えば、『
マカロニほうれん荘』。この作品こそ、サブカルとオタク文化が未分化だった70年代の若者文化を活写した作品です。が、そうした非日常的な生活は当然、青春期にのみ許されたものであり、その時期の終わりを悟ったきんどーちゃんとトシちゃんは最終回、そうじに別れを告げることもなく旅立っていきます。
 しかし80年代に至り、明確な「青春期の終わり」は失われます。『
陽あたり良好! 』は主人公たちの三角関係に明確なケリをつけることなく終了し(それは丁度、ライバルとの勝負を放棄した『タッチ』同様に)、『めぞん一刻』で五代君と響子さんは仮宿であるはずの一刻館に居着いてしまいます。
 これらの作品が連載されていた頃、評論家の大塚英志さんはこの種の下宿を民俗学で言う「ネヤド」に準え、大人になるイニシエーションのための装置と位置づけて盛んに論考し、現代にイニシエーションが失われつつあることを、危機感溢れる筆致で指摘していました(『めぞん』のオチにブチ切れていたのが印象的です)。
 子供向けアニメなどでも、例えばですが「他の星から来たキャラクターが地球の少年と別れを告げ、故郷の星に帰る……かと思いきや、また舞い戻ってきて共に暮らすことに」といった「外し」たオチで「別れ」を忌避するようになったのも、丁度この頃です。
 そして本作は90年代の終わりに描かれました。
 ぼくたちがもう、「就職」→「結婚」といったルートを喪失してしてしまったことは、この時期には既にわかりきっていました(何しろ時期的には『エヴァ』の直後です)。
 この頃の「評論」からは上に挙げた大塚さん的な、「卒業や別れを忌避せずに描け」といったよく言えば「良識派」、悪く言えば「保守的」な言説がめっきり聞かれなくなっていたように思います。「就職」→「結婚」という決まり切ったコースを辿ることがそもそも困難になってしまったからでもありますし、「結婚することが幸福」などと言った者は「女性差別だから」との理由で死刑になるようになってしまったからでもあります。
 つまり本作の根底にはそうした「ルート」を、ぼくたちが「男としての幸福」を喪失してしまった後の、ゼロ年代的とでも言うか、keyのゲームなどにも顕著な空虚さが常にあるわけです。


 

 さて、少々話が前後してしまいましたが、本作における主人公たちの目的は「ナンパ」です。それは、上にも挙げたラブコメ漫画の目的がヒロインとの恋愛の成就であるのと同じように。しかしどういうわけか、ファーザーはそれを「神聖モテモテ王国」と呼ばれる国家の「建国」に準えています。つまりファーザーにとってナンパとは、彼を中心としたハーレムのような王国を建設するための手段らしいのです。が、オンナスキーは彼とは裏腹に、「建国なんかどうでもいい、ただモテたいだけだ」と繰り返しており、実は最初からこの二人は根本的なところで噛みあっていません(そもそもファーザーは言っていることの九割方は理解不能な、電波キャラなのですが)。
 そんなファーザーの立案する作戦を元にしたナンパですから、最初からうまく行くわけがないのです。
 ナンパは大体「作家がモテる」「Jリーガーがモテる」「ミュージシャンがモテる」とモテそうな人物像にコスプレしてはナオンの前で自己アピールし、呆れられてふられる(というより、より正確には、相手には意図が全く伝わらず気味悪がられる)、というのがパターンです。
 自分たちがモテないのはあまりに物欲しげだったからではないかと考えたファーザーは硬派に扮し(二巻「硬派になれば軟派じゃない」)わざわざナオンの前で「ガッハッハ、ナオンなどどうでもいいぜー押忍。まさにどうしてももてたくねーにゃ――――」と叫びつつ、「さあわしはこういう者じゃぜ?」と、すかさずナオンに名刺を手渡します
すべてはモテるためである』の著者、二村ヒトシさんは本作にいたく感動し、「一読、負けました」とまで述べています。要するに本作で描破されている男性側の自意識の過剰さ、過剰な自意識が生じさせる男女のディスコミュニケーション、それこそがモテない原因である、と二村さんは言いたいのでしょう。


 

 さて、そんなわけで本作のテーマは、男女のディスコミュニケーションだということがひとまず、言えるかとは思います。
 凡庸な著者ならばこの辺りで「男子諸君、女の子の話に耳を傾け、女の子と一対一のつきあいをすればキミにも彼女ができるヨ」とでも薄っぺらにまとめてしまうところかも、知れませんね。
 しかし恐らくそれだけでは、本作のホンの表面の部分をなぞったに過ぎません。
 ここではもう少し、本作の根底に秘められた真のテーマについて、考えていきたいと思います。
 オンナスキーは親戚の援助を受けて生活しています。それはオンナスキーのいとこである知佳さんという女性が時々彼の様子を見に現れ、また彼の口から「ぼくはずっとあの一家に厄介になっていたらしい」と語られることで説明されます。が、知佳さんたちは何故そんな少年を自分たちの家に招くでもなく、アパート住まいをさせておくのかについては、語られません。
 ファーザーはある時、いきなり空から落下してきてオンナスキーと出会った存在であり、オンナスキーは彼をまるでネコの子をママに隠れて飼うかのように自分の部屋に住まわせています(事実、彼は度々ファーザーを「飼っている」と表現しています)。知佳さんが家にやってくると、ファーザーとの同居がバレてはまずいとアタフタします。
 こうしてみると二人の結びつきは本当に、危ういバランスの上に乗っかった不確かなものなのですね。
 一方、では二人の間にはそこまで純粋で利他的な友情が成立しているのかとなると、それは疑問です。僅かばかりオンナスキーがナオンに気に入られただけで、ファーザーは彼を攻撃したり、一方的に離縁(というより
オンナスキーの殺害)を考えたりもします。
 そもそもファーザーは男というものを大変に憎んでいます。むろん、その心情の何割かは「モテるヤツは許せぬ」という嫉妬心で占められていることでしょうが、彼の発言を見ていくと(三巻「独裁者の孤独」)、


 

 わからんのか、男などという醜いバチ当たりなよく分からん動く物体は、地球の美観をそこねる。
 男反対!!
 男は悪しき種なのである、憎むべき突然変異体である。
 今こそ男を根絶して優良種たるわがナオンが…


 

 といささか穏やかでなく、


 

 有史以来あらゆる重要な舞台に登場し、人類の歴史に干渉してきた謎の組織…男。
 米国歴代大統領の全てが男だったとも言われている。


 

 と言うに至っては(四巻「デビル教団乗っ取り計画」)、彼が明らかに陰謀論に取り憑かれていることがわかります。そう、それはまさに男を一枚岩の悪者であると盲信する、フェミニストたちのように
 オンナスキーも彼を評し、


 

 地球上の全ての男が結託して組織だった活動をしているという妄想はどうにかならないのか?


 

 と発言しています(六巻「デビルと男と巨大ロボ」)。
 また一方、ファーザーは男としての業を深く抱えている存在として、描かれています。
 彼は建国を目論んでいるだけあって、政治用語、軍事用語を多用します。つまり彼はナオンとの駆け引きそのものを政治、軍事行動に準え、そしてまた、全てを「勝ち/負け」、「敵/味方」の基準で判断してしまうわけです*。
 オンナスキーは、「過去」というものを持たない、天涯孤独の人間であり、それ故強く「他者」とのつながりを希求する存在です。
 しかしその彼の前に現れたのが、ある種、歪んだ男性性の体現者とも言うべきファーザー(ファーザーの顔は「星一徹」をモデルにしているとの説を、ネット上で見たことがあります)。それが、本作の悲喜劇の発端となっているのです。
 三巻「ファーザーとオンナスキー」では二人の一時的な別れが描かれます。ファーザーを追い出すことを決意したオンナスキーは、今までファーザーを置いていた理由を


 

 ただ…もててみたかったんだ。
 …でも一人じゃナオンに声もかけられないし……一緒にナンパする友達も…
 …というか友達自体いなかったし……
 ただ一緒に飯食ってくれる生き物がいるだけでも、いいかなって感じで……

 

  と告白します。
 本作について精緻な分析を行っているサイト、M2(
http://www17.atpages.jp/pasodobure/m2.html)ではこの両者の同居について


 

オンナスキーがファーザーをいかに好きかということよりは、オンナスキーの抱える心の傷あるいは心の虚ろさが、いかに大きなものであるか(あったか)ということを示しているといえるだろう。
(中略)
ファーザーのもてたさぶりは異常だが、それに付いていき、ファーザーの発案する突拍子もないナンパ作戦に荷担するオンナスキーも、異常なもてたさを抱えているのである。このもてたさはオンナスキーの抱える精神的な飢餓感から来るもの、といえないだろうか。


 

 と鋭く切り込んでいます。
 つまり、ファーザーとオンナスキーの関係は一口に「友情」といってしまえるほどに単純ではないのです。


 

*彼は「ナンパ」のことを「ナオン狩り」と表現し、またそうした時においても、例えば逃げるナオンを追ううちに目的が「駆けっこ」にすり替わり、ナオンを追い抜いてしまい(或いはまたナオンが逃げたのを自分の「勝ち」と認識し)勝利宣言をしてしまうなど、そうした傾向は顕著です。


 

 物語も後半になると、新キャラとしてキャプテン・トーマスという怪人が出現します。
 登場は遅いのですが、その存在は物語のかなり初期から匂わされ、お話の謎に深く関わっている人物であると想像されます。
 彼は劇中では「白人」とされているのですが、ファーザーの同族と見てまず間違いありません。というのも左右非対称な顔、関節があるのかも判然としないぐにゃぐにゃの四肢といったいびつに歪んだキャラクターデザインは彼とファーザーのみに与えられているものですし、行動もまた、完全に非常識です(後述する大王といったキャラクターも充分非常識なのですが、完全に天然なのは彼とファーザーだけと言っていいでしょう)。
 何よりトーマスは、ファーザー以上に「悪しき男性性」の体現者なのです。
 彼もまたナオンに積極的な興味を持つのですが、下着ドロに及んだり、ナオンに下半身を触らせようとするなど、その行動はかなり下品。また彼にはヘビトカゲという子分がいます。ヘビトカゲは見るからにダサい田舎者、そしてまたトーマスの出任せを信じ、彼を善人だと信じるちょっと足りない、純朴な人物として描かれます。しかしトーマスはそんな彼を内心では嫌い(抱きつかれると全力で拒否する)、あろうことか「トーマス団」の会費と称して彼から金をせしめてもいます。
 オンナスキーはそうしたトーマスの下品さ、悪辣さに嫌悪感を隠さず、ヘビトカゲに同情もします。タチの悪さではファーザーも大差ないのですが、一応のルサンチマンや妄想体系という「事情」が裏に隠されていると思われる彼に比べて、トーマスは他者を搾取することをためらわない性格であり、見ていて不快感を催させる人物造形になっていることは確かです。
 事実、トーマスとヘビトカゲの関係を見たファーザーは「ナオンにもてない同士は、未知の力でひかれ合うという。/お幸せに暮らすがいいぜー。」と評し、オンナスキーが「こいつら、そんなホンワカした関係じゃなさそうだぞ。」と述べるシーンがあります(五巻「トーマス団」)。
 要は「トーマス×ヘビトカゲ」の関係性は「ファーザー×オンナスキー」の関係性から更に救いをなくしたものということなのですね。


 

 さて、こんなことを書いているとフェミニストがドヤ顔でやってきそうです。
「即ち、本作は男同士のホモソーシャルなニセ者の人間関係を鋭く笑い飛ばした作品なのだ」との叫びが、聞こえてくるかのようですね。
 しかし果たして、その評は正しいのでしょうか。
 確かにファーザーは頼もしい師でもなければ誠実な友人でもないでしょう。
 けれども、とは言え、上に挙げた別れの時のオンナスキーの言葉は、やはり胸を打ちます。
 もっともこの後、二人はしばらくの別離の期間を経て、元の鞘に収まります。
 この時、知佳さんは


 

 いっちゃんさ……事故当時と比べると色んな事、話すようになったなって思ってたの。
 それって私じゃなくて、ファーザーさん達のおかげなのかもしれないって……
 いっちゃんにとって、あの人達が必要なのかもしれないって……


 

 と、二人のケンカを仲裁し、同居を認める発言をしてるのです(四巻「迷走の果て)。
 オンナスキーがファーザーを好きか嫌いかといえばやはり、「仕方ない」「こんなヤツでも」「いないよりマシ」といった数々の留保はつくでしょうが、やはりそれでも「好き」であったでしょう。一時的に別離している期間も連載は続き、バカなドタバタが繰り広げられるのですが、ところどころで一人食事する、一人背中を丸めてテレビを眺めるオンナスキーの姿が描写され、それはやはり寂しそうに映ります。
 またファーザーは上に書いたように身勝手な存在ではありますが、それでもオンナスキーに対して多少なりとも、情愛を感じてもいたでしょう。上の別れの話において、オンナスキーに「鍵を置いて出ていけ」と言われたファーザーはバン、と叩きつけるように鍵を起き、部屋を出て行ってしまいます。ファーザーというキャラクターの本意を察することはほぼ不可能ですが、それでもその時のファーザーには自分を拒絶したオンナスキーへの怒りの感情があったはずです。
 そうした、「社会の弱者」のギリギリの状況下での僅かばかりの交感に、ぼくたちは心を乱されずにはおれません。
 何となれば、ある意味で男性にとって「友情」とは許より、こうしたものではないかと思われるからです。


 

 ファーザーがオンナスキーを攻撃したように、「ナンパ」が目的のこのコンビは、仮にどちらか一方がナオンにモテたら破局を迎えてしまう性質のものです。仮に二人が同時にナオンとよろしくやることに成功したとしても、その後に待っているのが結婚なり何なりであるとするならば、それはそれで発展的解消をする運命にあります。
 つまり、「結婚」→「家庭」というルートを前提とするならば、男の友情というのはそもそも、初めからそういうものだったわけです。家庭を持ってしまえば男同士というのは、利害を異にする仇同士になる可能性を、最初からはらんでしまいます。
 しかし、うまくしたことに――という形容はヘンですが、この二人は絶望的なまでにモテない。モテないが故に、ギリギリのところでバランスを保った同盟関係を、二人は存続させているということが言えるわけです。
 今までもぼくは「ホモソーシャル」という言葉の幼稚な欺瞞性について、くどくど繰り返し述べてきました。この「ホモソーシャル」という、それこそ政治的な(勝ち負け至上主義的な)用語には最初から、「男たちは男同士でごちそうを独占しているのだ」との、まさにファーザー並の幼稚な妄想が前提されています。
 しかしここまで『モテモテ王国』を読んできて見えてきたのは、「ホモソーシャル」な男同士のつながりとは、何も与えられていない男たちの、与えられていないが故にその間だけ危ういバランスの上に成立する関係性である、それは本当に餓死寸前の人間が冷蔵庫の中を探し回って見つけた、タクアンの尻尾のひとカケラのような、本当に微かな関係性である、ということなのです。
 それは必ずしも常に誠意あるものとは限らず、うたかたのように脆いものでもありますが、それでもそれがぼくたちの胸を打つのは、それでも彼らが何らかの形での情愛を、疑似家族的なものを指向しているからでしょう。
 以前も繰り返し採り上げた「ろりともだち」の赤井と山崎君の関係もこれに近いでしょうし、『じゃりン子チエ』のレイモンド飛田とその秘書の関係なども思い出されます(はるき悦巳作品で言えばダメ男たちのダラダラした日常を描く『日の出食堂の青春』が本作のテイストに近いかも知れません)。
 ぼくはここしばらく、「フェミニストと弱者男性」の関係について言及してきました(「ダメおやじ」、「ダメおやじ(その2)」)。
 しかしこうして見ると世間の男性たちが生きる指針を失い、経済的にも社会制度的にも弱者へと転落しつつある昨今にこの「ホモソーシャル」といった言葉が人口に膾炙し始めたことが、極めて示唆的に思えます。
 それはフェミニストたちが「男性が弱者である」という現実を決して認めまいとしていることの顕れとも考えられますが――もう一つ、更に恐ろしい可能性をも、考えてみないわけにはいかないからです。
 男性たちが必死の思いで見つけ出してきたタクアンの尻尾。フェミニストたちは、それをも手中に収めんと狙っている、のではないでしょうか……?


 

☆補遺☆
 物語にはトーマスよりも早い段階で、二人のサブキャラクターが登場しています。
 アンゴルモア大王とブタッキーです。
 前者は悪の秘密組織・デビル教団を名乗り、使徒と呼ばれる子分たちを率い、オンナスキーのアパートに引っ越してきた人物です。が、彼はそうしたごっこ遊びを(恐らく)自覚的に楽しんでいるだけであり、ファーザーに比べれば遙かに常識人と言えます。また彼はホモ疑惑が沸き上がるほどに女性に関心を示さず、恐らく思春期以前の少年のような無邪気な男性性を象徴した人物だと思われます(彼はまた明らかにトーマスと同じ「謎の組織」に仕える人物でもあり、物語上の登場頻度はトーマスよりも遙かに多いのですが、ぼくの私見では恐らくトーマス出現までの「つなぎ」のキャラであり、物語上の重要度はかなり低いのではないか……と思われます)。
 後者は見るからにダサいデブオタ然とした人物なのですが、どういうわけかいつもナオンに囲まれ、しかもそのナオンに平然と辛く当たっている、言わば超リア充。しかし(ナオンには冷たいくせに)絡んでくるファーザーたちには存外丁寧に対応し、ファーザーとオンナスキーのつるみを見て「あの人たち、なんだか楽しそうでいいよな」と羨ましげな様子を見せます。ぶっちゃけ全く謎の存在なのですが、案外、「結婚後の男が独身男性を羨む」といった、そんなスタンスの存在のような気もします。


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