小谷野敦博士というのは、ぼくにとって不思議な立ち位置の人です。
『もてない男』の著者であり、言ってみれば『電波男』のご先祖様のような人。フェミニズムにも辛辣な批評を加えており、その意味でぼくも基本的には「俺らの味方!」という親しみを感じています。
が、正直著書についてはちょっと……という印象を持つことがあるのです。上の『もてない男』からして(すみません、発刊当時に読んだ記憶で書きますが)要は「前近代では恋愛なんてそんな普遍的なモンじゃなかったんだから、恋愛至上主義なんて間違ってんじゃん」みたいな、何かそんな内容でした。
でも、そんなこと言われたところで、モテたいと思っていた男がはたと膝を打って「そうか! ボクは近代的恋愛至上主義に洗脳されていて、モテたいと思うこと自体が間違いだったんだ!!」などと納得するとはとても思えません。
翻って『電波男』の本田透さんは「恋愛資本主義」という、言わば女性優位の恋愛を批判、真の恋愛は二次元にこそあるのだと主張したという点で、小谷野博士とは立場が決定的に異なります。
逆に小谷野博士の方も『帰ってきたもてない男』では本田さんを批判して「恋愛の呪縛に囚われたままだ」などとおっしゃっていました。事実、博士は『もてない男』の後に出された『恋愛の超克』においては、「恋愛結婚はもう古い、これからは友愛結婚だ(大意)」などと主張していたのです。しかし、その肝心の「友愛結婚」とは具体的にどういうものなのか、ということについてはちゃんとした説明があったとは言い難かったように記憶しています。
こういう「○○は近代になって体制に作られた歴史の浅いものなのだから、否定してしまってよい」という論法に、ぼくは随分前からうさんくさいものを感じていました。そんなの、ジジイが「ワシの若い頃にはネットなんてものはなかった」と言っているのと同じ。「でも今は必需品じゃん」と思うだけのことです(本当にネットの害悪を説きたいのであれば、昔のことなど引きあいに出さずに批判すればいいのです)。
てか、そうした論法に対しては小谷野博士ご自身も石原千秋さんが「つくられた系」と揶揄していることを引用して、批判なさっていたはずなのですが。
さて、いささか前置きが長すぎました。
今回は小谷野博士の新刊、『友達がいないということ』について、です。
一冊の新書の、一部だけを採り上げてのレビューになってしまい恐縮なのですが、第三章「友達関係はホモソーシャル」を読んで、ぼくはどうにも奇妙な印象を持ちました。
上に「フェミニズムを批判」と書いたくらいですから、小谷野博士がホモソーシャルに言及したら、いかにフェミニストたちをやっつけてくれるか、どうしたって期待してしまいます。ところが本書で書かれた「ホモソーシャル論」はと言えば、
セジウィックは、フェミニズムの立場から、ホモセクシャル(男女問わず)はいいもの、ホモソーシャルは悪いもの、として記述しようとしている。ところが、『男同士の絆』は、ディケンズなど英文学の論文集なのだが、次第に、ホモソーシャルとホモセクシャルというのは、そんなにはっきり区別できるものなのか、曖昧になっていき、何より、ホモセクシャルの男には、女性嫌悪者が多いという事実が明らかになってきて、結局、ホモソーシャルとホモセクシャルというのは、そうはっきり区別できるものではない、ということになった。
と言ったものです。
何だか、後半の文章がものすごくヘンです。
「ホモソーシャルとホモセクシャルというのは、そんなにはっきり区別できるものなのか/ではない」と一文の中で繰り返されているのは、きっと博士の中でものすごく大事なことなのでついつい二度言っちゃったのでしょうが、「ホモに女嫌いが多いと言うこと」と、「ホモソーシャルとホモセクシャルというのは、そんなにはっきり区別できるものではない」の間には何ら論理的なつながりはありません。
(もし、小谷野博士がフェミニストの「ヘテロ男性はみな女嫌いである」との説を心の底から受け容れて、支持しているのであればつながるのですが、或いはそうなのでしょうか?)
この後も文章は「フェミニストが同性愛者解放運動と手を組もうとしたが、ホモは歴史的に認められてきたことが多く、レズは貶められてきたことが多いこと、またホモには女嫌いが多いことがわかって、その企ては頓挫した(大意)」などと続きます……ってまた大事なことを二度言ってるやん!
ともあれ、博士の指摘にはフェミニストの教条主義への、極めて重要な批判が込められています。
フェミニストはホモと連帯しようと、とにもかくにもホモを素晴らしい高貴なものであるとして称揚する傾向にあります。
ここでフェミニストたちが「公共の図書館にBL本を置かないのはホモへの差別である」と言い募った、例の事件を思い出してみるべきかも知れません。彼女らにとってホモは政治闘争のための「兵器」なのです。
しかしそれだけではありません。彼女らのホモのいやらしい持ち上げぶりの裏には、ホモへの「上から目線」が、当然あります。
まだBLというものが市民権を得ていなかった頃の少女漫画には、ホモネタを振りつつ女性キャラに「オエッ」とえずかせるといったシーンが登場したりしたものです。
また、少女漫画には(むろん、「美しいオカマ」も登場しますが、その一方で)往々にして「醜いオカマ」が登場します。川原泉先生(ぼくも大好きな漫画家さんなのですが)の『メイプル戦記』は、「女ばかりの野球チーム」のお話なのですが、キャッチャーだけはオカマが担当しています。劇中に彼が「醜いオカマ」である己を嘆くシーンがあるのですが、描き手には悪意がなくとも、ここには「健常者が障害者を"哀れむ"」的な無邪気な傲慢さがつきまとうように思うわけです。
ホモやオカマはフェミニストにとっての「人権兵器」であると同時に、ブスにとっての「自分よりも更にブスな、しかし荷物持ちやボディーガードとして重宝する、有能な子分」でもあるのですね。
いささか余談めきますが、更に言えばフェミニストたちは「女同士の絆」を「シスターフッド」「レズビアン連続体」などといって神聖視します。何で男同士の友情は「ホモソーシャル」という悪しきものであるのに女同士の友情は大絶賛なのかさっぱりわかりませんが、女性性なるものは全て善だというのが彼女たちの大前提なのですから、そこは考えても仕方のないことなのでしょう。レズビアン連続体とは「性的な関係だけでなく、母娘関係、女同士の友情、さらに政治的連帯まで含む、広い意味での女同士の親密な関係を指す」ものだそうで(『ラディカルに語れば…―上野千鶴子対談集』)、普通に友情と呼べばいいものをどうしてわざわざレズ呼ばわりなのか、全く理解ができません。
小谷野博士はそれに対して「ホモは正義、ヘテロ男性は悪だなんてあんまりにも単純な善悪二元論じゃないか」とツッコミを加えているわけですね。ホモを「我々女性と同様、性的弱者だからイイモノだ」とするフェミニストたちの短絡を批判している点については、大いに頷けます。
更に博士の言は「ホモには女嫌いが多いのに、ヘテロ男性だけを女嫌い扱いかよ、勝手じゃねえか」と続いているわけです。
ただ、傍から見ているとホモに女嫌いが多いことなんて、最初っからわかりきったことじゃん、と思ってしまいます。本当に博士の書いたような経緯があったのでしょうか。想像するに、フェミニスト村、ジェンダー村で象徴的な事件があったのでしょうが……。
(博士はこの後、上野千鶴子キョージュの件について言及していますが、キョージュはフェミニズムの中でも例外的なホモ嫌いですし)
しかし、そうしたフェミニストたちの「ホモの政治利用」に釘を刺しておきながら、小谷野博士は何故か、一体どうしたことかこれ以降、古典に描かれた男性同士の友情をピックアップしては「この関係は同性愛的」と称するという、それこそセジウィックの『男同士の絆』と同じようなことを始めてしまうのです。
例えば「世界の文学は同性愛から始まった」という節タイトルがあるので読んでみると、文学に描かれる友情を「同性愛的だ」とか言っているだけだったりします。そんなの、「兵頭新児はキムタクである」という節タイトルで引っ張っておいて、本文を読んでみると「兵頭新児もキムタクも目玉が二つあるところが共通点だ」と書いてあった、みたいなモンです。
いえ、「俺はキムタクだ」と主張することは兵頭新児にとっては益があり、それ自体は(正しくなくとも)犯行の動機は明白です。しかし「友情」と「ホモ」とを同列にして一体、博士に何の益があるのか、それがさっぱりわからないのです。そうまでして古典に描かれた男性同士の友情を「ホモである」と強弁して、はて、それで博士が何をしたいのか、困ったことにぼくにはそれが少しも見えてこないのです。
そもそも小谷野博士のご専門は日本古典であり、無知なぼくにとってはそこが取っつきにくいところなのですが、もはやこうなると博士のやっていることはフェミニストたち、そして腐女子たちと同じです。
いや。
しつこく「わからないわからない」と繰り返してきましたが、ちょっと白々しかったかも知れませんね。
オタクにとって、ある意味で小谷野博士の振る舞いは身につまされる部分もあるのではないでしょうか。
オタク男子というのはオタク女子とおしゃべりしていて、ついついリップサービスで彼女らのBL談義に乗ってしまったりします。何とか共通の話題を見つけようと、ついつい「原作版『仮面ライダー』の本郷猛と一文字隼人って妖しいよね」とか「満賀道雄と才野茂って妖しいよね」とか、言ってしまったりします。むろん、そのカップリングでは腐女子も喜びませんが。
そしてまた言ってしまった後、「あぁ、俺は女に媚びようと何てことを」と内心忸怩たる思いに囚われたりします。
そう考えると博士のBLトークの本質も見えてきそうです。
つまりそれと全く同様な、リップサービス、ということです。
言い過ぎでしょうか?
しかし同性愛を友情の上位概念であると位置づけているのは、何も腐女子ばかりではありません。上にも書いた通り、昨今のインテリ層はフェミニズムを真に受けて、「同性愛は友情の上位概念である」との意味不明な妄想を抱いているのです。
当たり前ですが、友情と同性愛は全く別物です。ただ、「同性愛」で頭がいっぱいのフェミニストや腐女子が「友情」を目撃すると、それを「同性愛」と誤認してしまうという、ただそれだけのことです。
男の友情というものに性的、ホモ的要素が潜在していること自体は、多くの男性も殊更異論のないところだと思います。しかし「友情」と「同性愛」の違いである相手の肉体への欲望の有無というものが極めて大きなものであるため、ぼくたち男性にとって両者の差異はあまりにも自明です。
しかし自分自身の感受性や思考よりもご本に書いてある「正しいこと」を優先させるインテリたちには、それがわかりません。
彼らは往々にして「ゲイを差別するどころか、ゲイに寄り添い、その感性を理解できる最先端な自分」を押し売りしようと、得意げにホモトークをしたがるのです。それはまるで、腐女子に媚びようとしているオタク男子の如くに。
もちろん、小谷野博士は上に「俺らの味方」と書いた通り、決してフェミニズムに親和的な考え方を持っている方ではありません。ですから、「ホモを持ち上げることで利を得よう」などという政治的な計算を彼がしているというのは、大変に考えにくいことです。
しかし、それでも、ついつい、(ぼくが想像するに半ば無意識に)博士もインテリ層にとってお約束となっている言説のテンプレートに、陥ってしまった。
それは丁度、博士が「つくられた系」を批判しつつ、『もてない男』ではそれと同じ論調に陥ってしまったのと、同様に。
それが真相ではないでしょうか。
学問の本質は思考停止です。
「ホモソーシャル」などという(無意味な)「学術用語」を一つでっち上げただけで、何となく何かがわかった気になって、そこで考えることを止めてしまう。
理系の学問の場合は定理だ法則だといったところで幾度も追試がなされたりするのですが、文系の学問の場合、言い切っちゃったらそれまでの世界だったりします。
そうした学問の罠に小谷野博士もまた、引っかかってしまった、ということではないでしょうか。
本来小谷野氏はそうした実証性がないのにインテリ様の間でもてはやされている似非学問を攻撃する立場にあったと思うんですけどねえ。
なぜホモソーという、それこそフェミが男叩きのためだけにでっち上げた宗教用語を無批判に受け入れてしまうのか。
あ、それともう一つ。実は前回の自分のコメントについて一つ補足をさせてほしいのですが……。
前回は少々頭に血が上って大学でのフェミ汚染がどうこうと言ってしまいましたが、別に大学も田嶋某女史のような人々が火を噴いて闊歩する人外魔境というわけではありません。
自分の知る大半の研究者は、文学者であれ歴史学者であれ心理学者であれ、自分の研究に誠実かつ真摯に取り組んでおられる立派な方々です。そこだけは言っておきたかった。
ただそうした誠実であるはずの人々が、こと男女問題に関することにはどうも無神経というか、ふとした拍子にフェミのイデオロギーの丸写しのようなことをさらりと言ってしまったりするのです。そうしたところが自分の目に汚染という風に映ったわけでして、こういう現状を見るにフェミが本当に衰退したのか、実は社会の見えない無意識の領域に潜ってしまっただけなのではないのかと、不安になったりもするのです。
相変わらずの長文乱文失礼しました。
>なぜホモソーという、それこそフェミが男叩きのためだけにでっち上げた宗教用語を無批判に受け入れてしまうのか。
そうなんですよね。
門外漢であれば、「エラい先生が言ってるんだから、まあそうなんだろう」と短絡的な判断をしてしまっても仕方ないですが(仕方ないってことはないですが、原発とかもそうだったわけですし)、何故小谷野先生が、と思います。
>自分の知る大半の研究者は、文学者であれ歴史学者であれ心理学者であれ、自分の研究に誠実かつ真摯に取り組んでおられる立派な方々です。そこだけは言っておきたかった。
>ただそうした誠実であるはずの人々が、こと男女問題に関することにはどうも無神経というか、ふとした拍子にフェミのイデオロギーの丸写しのようなことをさらりと言ってしまったりするのです。
それはおっしゃる通りだと思います。
特に後者は重要ですよね。
極端なことを言えばぼくだって世間一般の人と話す時は(例えばですが、萌えラノベの編集者さん相手の会話などもそうです)ある程度は猫を被らなければ仕方がない。
殊に学者という立場に立つ人であれば「何か、自分の守備範囲とは違うけど女性学というものがあるのだから、一応それを尊重した発言を心がけねば」となってしまう。
内心多少の疑問を感じつつ、触らぬ神に祟りなしだと思っている人が多いのではと思います。
(もちろん、一定層、完全に懐疑精神を失った信者もいますが)
だからネットの書き込みなどの方がまだしも実態に近い、という逆転現象が起こってしまっているわけですね。
自身も不細工だけど美人が好きで何が悪いって言ってるくらいだし。
「ともだちがいない~」でも童貞を初恋に捧げることを否定してないし。
そうではなくて誰にでも恋愛は平等にできるし、男女の結びつきは恋愛が
真実で、尚且つそうするべき(当為)とする考え方をイデオロギーとして批
判しているだけです。
恋愛できる人は勝手にやればいいし、恋愛できない人も燃え上がるような
恋愛はなくとも友愛結婚という落ち着もあって、しかもしれは普通の恋愛結婚
に劣るものではない、ということです。
後の文章もちょっとどうなのかな…という内容で、
小谷野と会話してみればいいんじゃないですか?
ツイッターやってますから。
確かに小谷野博士は『帰ってきたもてない男』ではミソジニー(笑)に対する警鐘を鳴らし、何とか恋愛を成立させようと模索していましたね。
しかし一方、『もてない男』や『恋愛の超克』などでは(まさに書名が示す通り)恋愛を超えたいと切望していたように感じます。ぼくは決して小谷野博士に詳しいわけではないのですが、ぶっちゃけその論調からは(それこそ進歩派が陥りがちな)現状からの逃避を感じるのです。
だって「女性と恋愛したい」と言っている男に「友愛」を持ち出してもそれが代替物になるかとなると疑問でしょう。「なる」ような「友愛」はそもそも「恋愛」とどう違うのか。「恋愛」ができないけれど「友愛」という関係なら成立する、といった保証はどこにあるのか。正直あの辺りは空論にしか思えませんでした。
ぼくには彼が恐らく近年、「恋愛、或いは自分の中の恋愛欲求から逃げても仕方ない」と思い直したのではないかと思えるのですが。
>小谷野と会話してみればいいんじゃないですか?
ぼくも小谷野さんのことは嫌いではないので、そういう気持ちもあるのですが、同時に気難しい方という印象を持っていて、(殊に今回のような話題の場合)ちょっと気後れしますw