以前、ぼくはアルファツィッタラー*1の東浩紀センセイが、かつてオタクをホモソーシャルであり、ミソジニストなのだと言い立てていたこと、そして先日も近い発言をしてあっという間に論破され、あたふたと逃走したことについて書きました。
そこでぼくは、「ホモソーシャル」についての上野千鶴子センセイの発言を引用しました。
*1ツイッターで面白発言をする人。今、ぼくが勝手に考えた肩書き。
が。
……すみません。
実はぼく、偉そうにいっている割にはこの「ホモソーシャル」、或いは「ミソジニー」にいかなる学術的な根拠があるのか、知らなかったんですね。
ごく簡単に、この二つの概念に対するぼくの認識をまとめてみたいと思います。
要は、「男同士の強い結びつき(=ホモソーシャル)」が女性を排除している、即ち男たちは「女が嫌い(=ミソジニー)」なのだ、という、何だか赤ん坊のだだのような幼稚な論法です。
ただ、とは言え、ここまで彼女らがこのフレーズをあちこちで振り回している以上、ぼくが不勉強なだけで、それなりの根拠のある言葉なのかも知れない。
そう考えていた折、当の上野センセイがこのような本を出版なさると知り、早速購入することにしました。
てか、図書館に置いてもらおうと思っていたんですが、Amazonで調べると偶然にもその日が発売日、しかも紀伊國屋書店でセンセイと北原みのりさんとのトークライブ「女嫌いニッポン!」まであるというではないですか。
暇だったことも手伝い、ついつい行ってしまいましたよ、トークライブ。
――以上のような感じで、今回、トークライブについて書こうと思っていたんですが、え~と、正直あんまり面白いこともありませんでした。
ただ、客層は結構意外でした。
何しろ後述するように、十年一日のフェミニズムです。
北原さんご自身も本書を上野センセイ久々のフェミニズム本と繰り返していらっしゃったように、既に凋落の一途を辿っている思想です。
さぞかし取り返しのつかなくなったご年配の婦人たちばかりだろう……と想像していたのですが、結構妙齢でおきれいなお姉さんがいらっしゃったことに唖然とさせられました。
何しろテキは教育機関を牛耳ってますからなぁ……。
まあいいでしょう。
そんなことより、「ミソジニー」について、本書ではどれだけ深い分析がなされているか、です。
が。
残念なことにぼくの希望が叶えられることはありませんでした*2。
*2 てか、本書、ぼくが東センセイのエントリでリンクを張った連載をまとめたものに過ぎないんですね。しかも本が出た途端、リンク先の上野センセイの文章、読めなくなってしまいました。せこいぞ!
さて、「ミソジニー」という概念はそれに先行する、「ホモソーシャル」という概念が前提になっているようです。
異性愛秩序の根幹に、三角形が、つまり複数の男女ではなく、(欲望の主体としての)ふたりの男と(欲望の客体としての)ひとりの女がいることを喝破したのは、ゲイル・ルービンだった。(中略)結婚とはふたりの男女の絆ではなく、女の交換をつうじてふたりの男(ふたつの男性集団)同士の絆を打ち立てることであり、女はその絆の媒介にすぎないと見なした。
まあ、こんなところが本書に書かれた「ホモソーシャル」の分析でしょうか。
結婚が家と家との結びつきであることを、フェミニストたちは「家父長制がどうたらこうたら」というレトリックを持ち出して、ここまで広げます。両家の結婚をきっかけに交友を深めるのはどう考えても両家の男性同士などではなく、女性同士だと思うのですが、上野センセイは特に気にする様子がありません。
「ホモソーシャル」という言葉のそもそものでどころであるセジウィック『男同士の絆』を見ても、イギリス文学の中に繰り返し描かれる一人の女を巡る二人の男性の争い(その根底にある男同士の絆)について執拗に執拗に分析がなされています。
でも、これってただの小説の中のことですし、日本における通俗的な小説、ドラマでも二人の男が一人の女を取りあうなんてお決まりのパターンですよね。
それは何故かと言えば(英国文学はさておき、ドラマなどでは)主たる読者、視聴者である女性にとって快い、「複数のイケメンから求愛されるワタシ」という疑似体験を与えるためであり、そしてまた、現実の恋愛においても男性から女性へアプローチすることが多かろうから(そしてまた、求愛は美人に集中するでしょうから)、
男→女←男
という構図が出現しやすいと言うだけのことです。
そしてまた(英国文学はさておき)そうしたドラマに登場する恋敵の男性同士に殊更な絆が結ばれていることが普遍的だとは、どうにも思えません。もっとも、英国文学ヲタの腐女子が見たら、また違った分析が導き出されるのかも知れませんが……。
まあ、確かに一人の女性に複数の男性の愛が集中するという構図は、ブスにとっては「女性差別だ」となるのかも知れませんけれども。
これはいささか余談になりますが、ぼくはそれを解消した、男女平等の素晴らしい物語構造が近年の日本において出現したことを知っています。それは「草食系」な男子に大勢の美少女たちが群がるという構造を持った、「萌え」と呼ばれる――あ、ダメですか、そうですか。
更にこの「ホモソーシャル」という概念には、「(ヘテロ)男性はホモみたいなのにホモを嫌っている」といった意味不明な含みがあり、その更に前提として「ホモフォビア」という、ホモを嫌悪する感情それ自体が決して許されないのだ、という恐るべき理念があります。
男性集団で「おかま」が侮蔑されるのは男らしさに欠けるから、つまり男性としての資格がないからであり、そしてまた「おかま」によって自分も「性的客体」――言わば女のような存在、「おかま」にされるかも知れない恐怖からだと、上野先生はセジウィックの論理を引用します。
何だか「おかま」と「ホモ」とを随分と乱暴に混同した論法です。
確かに男性たちに、「おかま」をバカにする感情が全くないとは言えません。しかし女性性に欠ける女性を、女性は一切バカにしないものなのでしょうか?
そしてまた、確かに男性たちに、ホモに「カマを掘られる」恐怖があるのも確かでしょう。女性が、男性に襲われる恐怖を感じているのと同様です。むろん、何もしていないホモを性犯罪者予備軍のように扱うヘテロセクシャルの男性がいたとしたら、それは軽蔑されてしかるべきですが、しかし少なくともぼくの知る限り、鉄道会社がホモに襲われるヘテロセクシャル男性を案じ、「ヘテロ専用車両」を導入したといった話は聞きません。
そしてまた、実は男性集団というのは極めて上下関係の厳しい、序列社会であることが多いんですね*3。それは実は集団内での責め/受け、男性役/女性役がはっきりと決まっているということでもあります。この辺りぼくなんかより、上野センセイの方が何百倍も繰り返して指摘していらっしゃることであるはずなのですが。
要は男性たちが忌避しているのはあくまで男性同士の「性的な」つながりであり、「女性ジェンダー的役回り」ではないわけですね。
そこから鑑みるに、ヘテロ男性に普遍的に存在しているホモへの嫌悪は、単なる男性の肉体性に対する嫌悪感に根ざしていると考えた方が自然なようです。
*3上野センセイは「男性集団においては性的要素は排除されている」と、まるで「純愛映画にはゴジラが出てこない」みたいな当たり前なことを指摘していますが、おそらくそこに責め/受けの関係性を見て取る腐女子の方が、更にラディカルではあるでしょう。
さて、では「そのホモソーシャルとやらがミソジニーとどう結びついているのか」に対する答えはいかなるものなのでしょうか。
女を自分たちと同等の性的主体とはけっして認めない、この女性の客体化、他者化、もっとあからさまに言えば女性蔑視を、ミソジニーという。
なぁんだ、ですね。
「女性蔑視を、ミソジニーという」と書かれていますが、これは「ミソジニーとは女性蔑視のことである」と書き換えられるべきでしょう。
「好き/嫌い」という人の「感情」を「女性への差別」であると言い募り、絶対的に許すべきでない、糾弾の対象とせねばならないのだとの、北朝鮮的感受性でもって男性を恫喝すること、それがこの「ミソジニー」という言葉の本質です。
というか、男性にとって女性は客体であり、他者であるのは自明なのですが、そのこと自体が上野センセイにかかっては「女性蔑視」なのですから、もう、ぼくたちは人類補完計画でも発動させて女性と自我を完全に融解させることで「身体にすり込まれたジェンダー規範」だか何だかから解放されない限り、許してもらう方法はなさそうです。
そしてここで「証明」は終わったとばかりに、この後、センセイは専ら「家父長制が云々」「性は自然ではなく作られたものであり云々」と、彼女のデビュー当時から既に古かった「持ちネタ」を、飽きもせずに繰り返す作業に腐心します。
関西の芸人だって、ここまで同じ芸をただ機械的に繰り返したりはしないでしょう。
断っておきますが、上野センセイが抽象論に終始するのをいいことに、ぼくが言葉を恣意的に解釈しているわけではありません。何しろセンセイは、この社会の「ジェンダー規範」、即ち「男らしさ/女らしさ」を完全に否定していらっしゃるのですから。
今の皇太子が雅子さんを妻としたときに、「一生全力でお守りします」と言ったそうです。それをセンセイは
このせりふに当時どれだけの日本の女がしびれたことだろう。もしあなたがこのせりふに「しびれた」女のひとりだったとしたら、あなたもまた「権力のエロス化」を身体化した女性だと言ってよいだろう。「守る」とは囲いに閉じ込めて一生支配する、という意味だ。
と憤ります。
また韓流スターがインタビューで「女性は自分が守りたいから。」と語っていることについても、「所有したい」と言っているのと同じだと言い立て、
だが、この記事をインタビューした『週刊朝日』のおそらく年若い女性編集者が、かれの発言を、半ばうっとりと賛嘆をこめて伝えているのを見ると、二一世紀の今日においてもセジウィックが一九世紀のイギリスに見いだしたのと同じホモソーシャルとミソジニーとが、まだ歴史的賞味期限を保っていることを再確認させられる。
とまでおっしゃいます。
ぼくも例えば男性が女性を守って死んでしまったような事件を美談として伝える風潮を、あまり快くは思いません。しかしそうした「ジェンダー規範」は全否定することなく、うまいさじ加減で「利用」していくのが大人の知恵だというのがぼくを含め、一般的な人々の考えでしょう。例えば、女性にモテるために女性に代わって力仕事をしてみせること自体を、ぼくは別に悪いとは思いません。
しかしセンセイにかかっては、女性をかばって暴漢に刺されて亡くなった男子高校生すらもが「女性差別者」に他ならないわけです(実際にそうおっしゃったわけではありません。しかしセンセイの論法では論理的帰結として、どうしてもそうならざるを得ないのです)。
正しいか間違っているかは置くとしても(もちろん間違っているのですが)センセイの――いいえ、フェミニズムの主張がまず、男女含めぼくたちの生活実感から遥か遠くに遊離した、普通の人間には受け容れ難いものであることは、明白でしょう。
「ミソジニー」とか「ホモソーシャル」とかを、「何か、目新しくて格好いいから」という理由でつい口に出してしまったことのある人々は、センセイのこうしたエキセントリックな思想が果たして受け容れられるのかどうかを、まず一度考えてみるべきではないでしょうか。
ついでです、あと二つ、センセイの記述を引用します。
売買春とはこの接近の過程(引用者註・男女のおつきあい)を、金銭を媒介に一挙に短縮する(つまりスキルのない者でも性交渉を持てる)という強姦の一種にほかならない。
そんなことを言い出したらあらゆるポルノは強姦ですし、恋愛結婚以外の結婚も強姦でしょう。
こうなるとセンセイが児童ポルノ法に反対してみせていることが、不思議としか言いようがありません*4。
*4仮にですが、上野センセイのお考えが、「あらゆるポルノを女性差別として否定する、しかし非実在少女をモデルとしたエロ漫画、エロゲーだけは認める」というものであれば、筋が通っているとは思います。
もう一つ。
センセイはポルノなどで描かれるのが(決して男性でなく)専ら女性の愉悦の表情であることを引きあいに、こんなことを言い出します。
「ぼくら男ってのは、結局、女性の快楽に汗を流して奉仕するだけの存在なんだよ」とのたまう男がいる。
だが、「奉仕」のことばには、逆説的な支配が含意されている。
その通りです。
よくおできになりました。
「奉仕」には逆説的な支配が含意されているのです。
今までそうやって、弱者のフリをして、ある人種を支配し続け、その挙げ句に絶滅に追い込もうとしている勢力を、ぼくは知っています。
言っておきますがその勢力の名は、決して「フェミニズム」などではありません。
「女性」そのものです。