兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ジャニは無慈悲なサヨの女王

2019-08-09 00:46:37 | オタク論


※この記事は、およそ10分で読めます※


 今回短いです。つっても、前回と同じくらいですが。
 どうも、ことにnoteでは時事評めいたモノの方が食いつきがよさそうなので、これからはこうしたものを増やしていこうかと思います。
 逆に、がっつり読み込んだ書評などは頻繁に更新することが難しくもなってきているので……。

 ジャニー喜多川が死にました。
 何で死んだとかは、知りませんし、興味もありません。
 それより確か、数ヶ月前も死亡のニュースが聞こえてきた記憶があるのですが、何だったんでしょうね、あれ。或いはその時死んでいて、死亡日が操作されてたりするんでしょうか。
 おわかりかと思いますが、本件でぼくが興味を持っているのは、ジャニー喜多川が長年に渡って男児虐待を続けてきた薄汚い老人であるという点についてのみ(これについては疑惑や噂などではなく明確に「黒」であることも、述べるまでもないでしょう)。そしてそれを、長年に渡ってマスコミもフェミも軒並みスルーし続けてきたという点についてのみです。まあ、フェミが男児への虐待に対して怒りを表明するなど、あるはずもないのですが(リンクと本論は一切関係がありません)。
 長年に渡って男児のレイプを称揚し続けて来た伊藤文学も薄汚い老人に変わりはありませんが(リンクと本論は一切関係がありません)、「実行」に移していたジャニー喜多川(そしてそれをスルーし続けて来た人々)がその何百倍も薄汚いのは、言うまでもないことでしょう。

 さて、とはいえ、ここではこれを機に、ずっと気になっていた「とある歌」についてのレビューをしたいと思います。
 TOKIOがもう二十年以上前に出していた「ぼくの伯父さん ~My uncle is a nice guy~」という歌で、NHKアニメ『飛べ! イサミ』の主題歌、「ハートを磨くっきゃない」とのカップリング曲でした。詩は以下のような感じです。

ぼくの伯父さん ~My uncle is a nice guy~

 いかがでしょう。もう、全体から得も言われぬ腐臭が漂っていて、目を開けているのも辛いですね。
 ……あ、いや、安易に共感を求めてしまいましたが、或いはそこまでこれに嫌悪を覚えるのはぼくだけなのかもしれません。
 ちょっとその嫌悪感について分析して、ご説明申し上げることにしましょう。
 ぼくがこの曲を聴いた時に感じるたまらないキモさは、作り手のあどけなすぎるナルシシズムと、それを年少者に押しつける体育会系気質にあるのです。
 TOKIOといっても当時はまだ二十やそこらでしょう、多分。年若い男性に、こうした歌を歌わせ、そのボスがジャニー喜多川。もちろん、この歌が作られたバックをぼくは知りませんし、別に喜多川が「こういうのを歌え」と発案したわけでは、恐らくないでしょう。しかしジャニーズアイドル、即ちお稚児さんにこうした歌を歌わせること自体が、ぼくには何か悪質な冗談のようにしか思えません。
 少年の視点で、「伯父さんは格好いい」と歌っていますが、これはどう見ても「老人が少年に欲情しながら、少年に愛される自分を夢想しつつマスターベーションをしている」歌ではないでしょうか。

 そして、このぼくの嫌悪感というのを分析していくと、いつものオタク論に辿り着くわけです。
 この歌で連呼されている「アメリカン・グラフィティ」というのがまず、象徴的。この「アメリカン・グラフィティ」そのものは一般名詞(即ち、「アメリカにおける人間模様」とでもいった意味)で使われているのか、同名の映画を想定しているのかは判然としませんが、いずれにせよここには反体制文化のカラーが色濃く表れています。
 一般名詞だとしても、そもそも「グラフィティ」そのものが壁に描かれた落書きの意で、ヒップホップ文化と親和性を持っています。映画とするならば、これは60年代、まだベトナム戦争という「大人になるための通過儀礼」を終える前のアメリカを舞台にした青春(それも、青春の終わりを描いた)映画。
 また、歌詞には60年代後半のロックンロールの名曲が挙げられ、伯父さんが「今のヤツらにはこうしたいい歌がない」と嘆く様が歌われていますね。
 この「伯父さん」がいくつかは判然としませんが、いい歳のおっさんが昔を忘れられずに若者ぶっている様は、どう見ても醜悪奇怪です。
 かつてのアメリカ文化を至高とする世代が、若者にそうした「サブカルチャー」を押しつけている……否、若者がそれを喜んでいる形を取りながら、実際には押しつけているじいさんの顔しか、この歌からは見えてこない。その老人はまさに、自分がレイプした男児のセコハンを、女性たちに卸す業務を続けていた、あの汚い老人と同じ顔をしているのです。
 ちょっと歌詞を読み変えれば、どうでしょうか。
「平成ライダー観て喜んでる今の連中は可哀想だ、昭和ライダーのような男気を学ぶ機会がないんだから」。
 そんなことをもしツイッターでつぶやいたら、いがでん氏以上に炎上してしまうことになるでしょう。
 オタクの本質はニヒリズムにあります。自分の愛好する文化が、決して他者には理解してもらえないものであることに対する、諦念。そうした状況を常識としてしまっているぼくの目からは、この歌に歌われる「伯父さん」のドヤ顔は、極めて奇異な、奇怪なものに映るのです(そもそもいが氏の「女児を叩け」も、オタク文化を愛好する者は叩かれて当然、という大前提があるからこその発言であることに、『トクサツガガガ』を見て何かわかった気になっている人たちは、思い至るべきでしょう)。
 岡田斗司夫氏は上の世代のカウンター文化が格好悪すぎるので、それに対するさらなるカウンターとして子供番組を観ていたのだ、と主張していたことがあります。これはオタク文化の発祥を、極めて端的に言い表しているといえましょう。
 古株のオタクならばご承知の通り、80年代のオタク文化においては、「ビキニ型の鎧に身をまとった美少女が、怪物やメカと戦う」といった内容のビデオアニメが佃煮にするほどに作られておりました。「サブカルチャー」とはあくまで「青年」による文化でしたが、「青年」というものが肯定的に見られ得なくなった時代に、オタク少年たちは美少女へと自らを仮託し、怪物やメカと戦うという形で男性性を密かに開放していたのです。
 90年代以降、恋愛ゲームの流行などを経て、男性性はなおのこと描かれることがなくなり(KEYの主人公など、比較的マッチョなのですが、それも『けいおん!』的な流行にとって代わられ)、近年では「バブみ」なんて言葉がはやり出しつつある、といった具合です。
 しかし、こうした経緯を実体験しておきながら「オタクはマッチョだ」とか言ってしまえる東浩紀師匠*1って、やっぱ脳に水が詰まってるんですかね。
 ともあれ、オタクというのは世代的にも、(そしてまた、多くがスクールカーストで下位存在であったろうという個人事情的にも)そこまでナルシシズムを断念させられた存在であったわけで、その目からこの歌を見ると、老人のナルシシズムを感じ、キモいと言わざるを得ないのです。


*1 東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)


 ――或いは、とも思います。
 年少者が年長者を敬うというのは健全な姿かもしれません。ナルシシズムそのものもそれ自体は健全なものでしょう。
 オタク自体に非はなくとも、その感受性自体が健全なものではないぞ、との反論も考えられます。まあ、男性性を過度に抑圧することが正しいとも思えないので、最終的にはそれが結論にはなるとぼく自身、考えますが、ここではそれは置いて、もうちょっとぼくたちが「男性性の断念」に至った過程について、見ていきましょう。
 巷では「キモくてカネのないオッサン」などという言葉が流布しています。実際、ぼくたち(の世代)は、「おじさん」、「オッサン」というだけで問答無用でキモい、格好の悪い、ネガティブな、否定してしかるべきもの、とのイメージをまず、どうしようもなく持っています、しかし、そうした感受性は、かつては普通のものではなかったのです。
 月光仮面などが歌で「おじさん」と呼ばれていることは有名です。ヒーローが青年になっていったのは「若者の時代」である70年代以降と言っていいでしょう。何しろハヤタ隊員ですら劇中では「おじさん」呼ばわりだったりするのですから。そして、(特撮ではいまだ青年が変身しているとは言え)、80年代以降、ヒーローは「少女」になった。
 こうした男性の地位の失墜についてはあまりにも話が大きくなりすぎるので、詳しくは論じませんが、一つにはサブカル世代が上の世代へのカウンターを旨としてきたことが理由であることは、論を待ちません。彼らがフェミニズム(=ミサンドリー)と親和的であることもまた、それが理由です。
 言わば、この歌は上の世代の権威を否定してきた者が、自分が年を取ると、平然と自分たちの権威を下の世代へとナルシシスティックに押しつけている、醜悪奇怪な姿が描かれた歌なのです。しかも、(日本人が作り、歌っているクセに)無邪気にアメリカを礼賛しているのもポイントです。岡田斗司夫氏は「サブカルは全部海外からの借り物」と指摘して、サブカル陣営から親の仇の如く憎まれたといいますが、少なくとも日本のサブカル連中が借り物文化を振りかざし、自分たちは何も生み出せず、目下はオタクに「間借り」しようとしているということは否定ができません*2
 そう、この歌そのものは「オタク文化」については全く歌われていませんが(まあ、アニメのopのカップリング曲であったことは見逃してあげるとして)、ぼくがここにことさらに「サブカル/オタク」の図式を見て取ってしまうのは、この「老人」のアメリカ頼みがあまりに空疎だからです。

*2 間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに

 ご承知の通り、日本のマスメディアでジャニー喜多川を批判する声は、ほとんど聞かれませんでした。もちろんそれはSMAPを例にとるまでもなく、ジャニーズが日本の芸能界にあまりにも強い影響力を持っているからでしょうが、もう一つ、サブカル世代を支持層とする左派がメディアを牛耳っているからでもありましょう。彼らはホモに盲信といっていい信仰心を抱き、彼らは決して過ちを犯さないのだと深く信じきっています。だから、その一端である(ごっちゃにしちゃ、ホモに失礼だと思うのですが)少年愛者にも、ひれ伏し続ける。
 そして、その心性が彼ら彼女らが根底に持つ、男性への憎悪の裏返しであることも、何度か指摘してきたかと思います。そう、彼らは男である自分の性欲に深い嫌悪感を抱き、それを持たぬ男であるホモに「羨望」しているのですね。そしてまた露骨なエロ文化を持つオタクへと自分自身へのヘイトを「投影」している。もちろん、実際にはホモは性的にかなり放埒な部分があり、また少なくとも子供に手を出している少年愛者に擁護できる部分など全くないのですが、彼ら彼女らはそうした現実を絶対に認めることがありません。
 しかしこうした心性って、少年愛者と、そしてまたこの歌とそっくりではないでしょうか。
 ペドファイルとは、子供時代に「負債」を抱えた人です。その時にしておくべき「宿題」をすることができず、その「子供時代」からの借金取りの取り立てに苦しめられている存在です。
 ちょっと抽象的でわかりにくい物言いかも知れませんが、まあ、その時期に十全に愛情を得られなかったとか、そういう感じでご理解いただいていいかと思います。
 だからこそ、その年齢の子供に自分自身を見て、ナルシシズムの捌け口にする対象にしてしまう。彼らは子供を虐待しながら、「自分は子供を愛してあげている崇高な存在だ」と信じきっています
 これって、実際には弱者をいたぶることしかしていないのに、弱者なりマイノリティなりに自分自身を「投影」し、我こそはそうした人々を守る正義の味方なりとの自意識を振り回す左翼といっしょですよね。そう考えると、左翼が少年愛者であるジャニー喜多川を神の如くに称揚するのは当たり前、としかいいようがない。
 そしてそんな、彼らの「ナルシシズムの捌け口として弱者を利用する」振る舞いに対する応援歌として、この歌は今こそ聴かれるべきなのでしょう。
 ……という辺りが結論で、まあ、いかがでしょうか。

■補遺■

「アメリカン・グラフィティ」を普通名詞か映画のタイトルかわからない、と書きました。
 しかしよく見ればわかることですが、二番の歌詞ではこれに対応し、「ウエスト・サイド・ストーリー」とありましたね。となると先のものも映画が想定されていることは自明でした。
 後者の方も60年代のアメリカ映画で、こうしたものを邪気なく若者に押しつける感覚、やはり好きになれません。


左翼の異常な粘着 または私は如何にしてオルグするのを止めてオタクを憎むようになったか

2018-06-15 23:28:15 | オタク論


 前回記事を書いて以降も「オタク差別問題」、ずっとくすぶっております。
 イザンベール青地とかいう御仁が「オタクはパブリックエネミーである」と語り、オタク論壇(……?)の人たちと延々ともめているようです。
 オタク世論(……?)はむろん、イザンベール師匠を総バッシング。しかしそんな中、昼間たかし師匠がおたぽるというサイト(当然、「オタク向けポータルサイト」の意味でしょう)でイザンベール師匠の味方をして、彼女の主張を肯定する趣旨の記事を書いておりました*1

 社会に迫害されたマイノリティが、自分を迫害した社会で地位を気づくと(引用者註・「築くと」の間違いと思われる)、自身が属していたマイノリティを攻撃する。貧困から成り上がった経営者が、かつての自分のような貧困層を、より搾取するビジネスに血道をあげる……。そんなものと同じ匂いがそこにはある。


 まさにその通り。
 フェミニズムこそ、社会に迫害されたマイノリティ(であるとの誤った自意識を持つ者)が、自分を迫害した社会で地位を気づくと(引用者註・「築くと」の間違いと思われる)、自身が属していたマイノリティを攻撃している好例でしょう。
 と思いつつよくよく前後を読み直すと、どうも師匠の言う「マイノリティを攻撃している」主体は、どうもオタクを指していらっしゃるような……。
 確かに、イザンベール師匠はどうもオタクのようで、だとするならば「同士討ち」ということは言えますが、どう見たって、殴ってきたのは彼女の方でしょう。
 大体、「自身が属していたマイノリティを攻撃する」という日本語がヘンです。恐らく、「自身が属していたコミュニティのマイノリティを」と言いたいのでしょうが。
 短い記事なのですが、ラストはあまりにも味わい深い名文なので、まるまる引用しましょう。

 せっかくなので記しておくが、「オタクはパブリックエネミー(公共の敵)」といわれて、怒っているほうがオカシイ。最先端の文化が、世間一般から恐れられないということは、まずあり得ない。もしも「ボクたちオタクですけど、一般市民と同じですよ~」というのならば、もう文化としては衰退期に入っているということだ。

 過剰な怒りは、狡猾な者に利用される隙をつくるだけである。


 宇宙人が呼ばれもしないのに勝手にやってきて、地球の風習に文句をつけてるようなモンです。
 師匠自身、あまり支持を得ている御仁ではないようですし、そうした(ネット上でオタ言居士の方々が寄ってたかって叩くような種類の)人を声高にバッシングするのはぼくの本意ではありません。が、師匠については以前から気になっていたこともあり、簡単に触れてみたいと思います。


*1 やっぱりオタクはパブリックエネミー。新潟女児殺害事件に「定番」のオタク報道が登場したけれど……


 さて、師匠の記事は前回採り上げた、藤田氏の「オタクはオタク差別に憤る前に、女性差別に理解を示せ」との意見と近しいものだということができましょう。どうも、昼間師匠の言わんとするところは、「イザンベール師匠の辛い内面を忖度してやるべきだ」とでもいったことになるようですから。
 その意味で、これはリベラルの既得権益を守るための言動、彼らが描いた古典的「弱者MAP」を守ろうとするリベしぐさという、毎度お馴染みのものであるように思います。
 それは彼の以前の記事を見ていくと、さらに明らかになりましょう。
 ぼくが最初に昼間師匠に注目したのは、岐阜県美濃加茂市で行われたスタンプラリーのポスターにアニメ『のうりん』の萌え絵が使われ、問題視された件でした。
 その時、師匠はやはりおたぽるで


 オタク表現への批判が現れた時、オタクを自称する側が批判者をフェミニストと仮定し「フェミガー」と罵倒してカタルシスを得るいつもの展開に突入しているわけである。

 またもやTwitterなどを用いて「セクハラ」だとか「フェミガー」という応酬を繰り返すことで、何かのルサンチマンを晴らした気分になっている人々の醜さを見せてくれた騒動。とりわけ「表現の自由」を主張しながら「フェミ」という言葉を使うオタクの側を自認する人々は哀れなことこの上ないと思った


 などとモノスゴいことを言っていたのです*2
 ぼくがリベラル寄りのオタクを「自分をオタクだと思い込んでいる一派リベ」と揶揄するのは、彼ら彼女らがことさらに「我こそは真のオタクなり」と拳を振り上げながら、ぼくたちに自分たちの思想を押しつけてくるから(そしてまたそれは絶対にオタクに益するものではないから)です。
 師匠はまた、つい先日も(ほとんど話題にもならなかったのですが)「オタクは(他の運動家たちから)見捨てられている」との記事を書いていました*3

「表現の自由を守ろう」と立ち上がるオタク……マンガ・アニメファンたちは、気づいているのだろうか。自分たちは、もはや信用されない存在だということを。

 14年まで「表現の自由」に興味を惹かれるオタクにとって「児童ポルノ法」は主要な問題であった。そこでは、マンガやアニメを禁止される児童ポルノに含めることへの反対と共に、冤罪や権力の暴走を生みかねない単純所持への反対も唱えられていた。けれども14年、国会での改定に向けた議論の中で創作物は除外されることが確実になると、空気は変わった。マンガやアニメが規制されないという安堵の声に、単純所持の禁止が決められたことへの危惧は打ち消されていった。


 う~ん、少なくとも漫画やアニメが規制されないなら、オタクにとっては一安心なのは当たり前だと思うのですが(いつも不思議なのですが児童ポルノ守り隊の人たちがフェミニストの作り上げたDV法改正案などによる性犯罪冤罪について危惧しているのを、一度も見たことがないのですが、どうしてなんでしょうね)。
 この記事の後半は、師匠の絶望感や諦念が極めて自己憐憫に満ちた観念的な文章で綴られていて、正直何を言っているのやらさっぱりわかりません。
 これを踏まえると、最初の記事の「「オタクはパブリックエネミー(公共の敵)」といわれて、怒っているほうがオカシイ。」という奇怪な記述の本意が明らかになります。それは「オタクどもは漫画やアニメなど、自分たちの直接の利害に関わらないことであろうとも、我々左派の清浄なる思想に従い働け!」ということですね。
 他にも師匠はツイッターで

文章書いて、ごはんを頂いている俺たちが世間様の敵じゃないはずがない

本当に面白いマンガでも文章でもつくろうとしたら、市民社会には背を向けなければならないわけですよ。獲得するものは世界であって、平穏な趣味生活ではありません。


 などとつぶやいておいででした。
 つまり先の「オタクは見捨てられている」との主張は、オタクから見捨てられたリベラルの逆切れだったわけです。
 心の底から帰ってほしいお客の、「もっと歓待しないと帰るぞ」発言です。
 そしてこれが前回ご紹介した、「オタクは一般人と全く同じだ、断じて許せぬ!」という高橋ヨシキの奇怪極まるファビョりと線対称であり、また香山リカ師匠が「碧志摩メグは断じて許せぬが、女子高生をジューサーにかけてぶち殺す絵は権威へのカウンターなのでおk」と言ったことと「完全に一致」していることは、もはや言うまでもないでしょう。

*2 濃加茂市は新たなPR効果を期待──オタクによる「フェミ」批判の醜さが目立った『のうりん』ポスター騒動の顛末
*3「マンガの人たち」の信用は地に堕ちている──青少年健全育成基本法案の本当の問題点



 しかし、これら一連の流れを見ていて、ぼくはオタ世論というか、オタク界の思想マップが今、分岐点に来ていると思わずにはおれませんでした。
 ぼくは今まで「オタク差別けしからぬ」と息巻いている人のことを、あまり肯定的に語っていなかったと思います。
 その理由は二つあります。一つに、前回記事に書いたように「差別はおわコンだから」、即ち「オタクが虐げられていることについての憤りはぼくも持ってはいるものの、それはリベしぐさによって解消され得る種類のものとはどうしても思えないから」です。
 そしてもう一つの理由は今回、「オタクパブエネ論」をけしからんと腐している人たちの何割かは、かつてオタクをゴミクズのように全否定していた人たちだからです。言うまでもなく彼らの多くは、目下フェミを否定するフリをしていますが、かつてはフェミの靴をただひたすら舐めしゃぶっていた人たちでもあります。
 そう、ぼくがいつも「ネオリブよりもツイフェミの方がまだしもウソがないだけマシ」と言うのと全く同様に、今の「反オタク差別クラスタ」の何割かには、全く信頼が置けないのです。そう考えると昼間師匠も「変節」できなかった、「ツイフェミ」と同じ、真っ正直な人である、と言えましょう。これは藤田氏、田川氏もまた同様で、ぼくが彼ら彼女らをむしろ好ましく思っているのは、政治的な読みで姑息なウソをつくことをよしとしていないからなのです。
 しかし、「反オタク差別クラスタ」の(これはまた「アンチフェミクラスタ」、「表現の自由クラスタ」も同様なのですが)若い層、或いは有り体に言って下っ端層には「そうした歴史を知らず、純粋にそれらに憤っている」人たちが多いように見える*4
 まとめれば昼間師匠(や、野間氏、野川氏)はリベラルのホンネをあけすけに吐露しているだけなのであり、「反オタク差別クラスタ」(や「アンチフェミクラスタ」、「表現の自由クラスタ」)のオピニオンリーダーとして振る舞っているような古株連中は、ホンネでは昼間師匠と同じことを考えていながら、蝙蝠のように若年層のオタクに媚びている。下っ端層はそれに見事に騙されている、といったカテゴリ分けができる。
 その下っ端層の影響力、ないし単純に数が肥大し、「そいつらに最初は口先だけで甘言を弄し、ゆくゆくはオルグしてやろう」とのオピニオンリーダー層(つまり、ぼくが「オタク界のトップ」と呼ぶような連中)の思惑が外れつつある……というのが目下の状況なのではないか。そもそもが、その甘言が空手形である以上、こういうオチは最初っからわかっていたことではあるのですが(これ、フェミニズムの現状とも丸っきり重なりますね)。
 しかし、とは言え、オピニオン層はともかく、下っ端層は騙されているだけなのだから否定しなくていいだろう、との考え方も成り立ちますが、同時に彼らも「その甘言をマジだと思い込んでしまっている」、即ち無意識裡に「リベしぐさ」を刷り込まれた存在であり、このままじゃヤバい、というのがぼくのスタンスなわけです。


*4 かつて、以下の記事で若いオタクのオタクとしての屈託が、旧世代と比べ変化してきている、との指摘をしたことがあります。
今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!


 最後に、昼間師匠の記事の最後の下りに注目してみましょう。

 過剰な怒りは、狡猾な者に利用される隙をつくるだけである。


 これを読んで、ぼくはひっくり返りました。
 まさかとは思いますが、この「狡猾な者」とは師匠のグルなのではないでしょうか、と。今までオタクを利用し続けてきたのはそっちで、今回の記事はそれが適わなくなっての逆切れではないか、と。
 しかし別に驚くようなことではないのです。
 ぼくは「表現の自由クラスタ」をフェミニストと同じ、「地球を狙う侵略宇宙人」でありながら、「ちょっとだけ指令系統が違う」ために地球上で同族争いをしているのだ、と形容してきました。
 師匠の言う「狡猾な者」とは、「表現の自由クラスタ」の言う「似非フェミ」同様、自分自身の影みたいなモノでしかないことが想像できるわけです。
 彼ら彼女らが同士討ちで疲弊を続けていることは、まあ、そんなに悪いことではない。
 しかし……問題はその戦場に選ばれているのがぼくたちの故郷の星である、ということ。
 彼ら彼女らが滅んだ時、大地は汚染されきって、この星はぼくたちも棲めないような状況に陥っているのではないか……というのが、ぼくの専らの不安なのです。

コミケの中心でオタク憎悪を叫んだ馬鹿者――『間違いだらけの論客選び』余話+『30年目の「10万人の宮崎勤」』

2018-03-23 23:04:54 | オタク論


 いろいろありまして、ちょっと別な記事が挟まったりもしたのですが、少し前、後藤和智師匠の同人誌をご紹介し、師匠の「ビッグさ」についてお伝えしました。が、師匠、この同人誌を出す前にツイッターでつぶやいていたことに、後になって気づきました。

後藤和智@サンクリK05b/EJ気仙沼・ガタケット・文フリ前橋参加‏ @kazugoto2017年12月3日

冬コミ評論新刊でいちばんやりたくない本のOCR作業に取り組む。

後藤和智@サンクリK05b/EJ気仙沼・ガタケット・文フリ前橋参加‏ @kazugoto2017年12月3日

H頭S児『ぼ○○ちの○災社会』(二○書房、2008年)。結論から言うと、最初から最後まで何を言っているのか本当にわからなかった。個別事例と表面的な統計だけで、セクハラとかストーカー概念の成立とかを検討しないだけで「男が被害者になっている」的な議論を展開していて、(続く)

後藤和智@サンクリK05b/EJ気仙沼・ガタケット・文フリ前橋参加‏ @kazugot2017年12月3日

そして内容の薄さを紛らわすための(?)ネットスラングやアニメの台詞の転用とか、正直痛々しかった……*1

https://twitter.com/kazugoto/status/937317413590261761


 すごいです。
 後藤師匠は本当に、さっぱり理解の及んでいない本を、本当の本当に単語だけ切り抜いて「表面的な統計だけで」語ってしまっていたわけです*2
(ちなみに拙著の出版年が2008年となっていますが、実際には2009年)
 普通、「さっぱりわからない」などという発言は言葉のアヤというか、「反論したいがそれが適わない」場合に仕方なく悔し紛れで口をついて出てくるものだと思っていたのですが、師匠ともなると「本当の本当の本当に、読解すること適わなかった」ご様子です。
 まあもっとも、実のところ、ぼくも上のツイートの「表面的な統計」、「セクハラとかストーカー概念の成立とかを検討しないだけで」という部分の意味が「さっぱりわからない」のですが……「表面的な統計」って何でしょう? 上には「師匠の本こそ」とは書いたモノの、確かに何の関連性もない恣意的に選んだ単語を著作からカウントし、その単語と何ら関連性のない方向性がその著作にはあるのだとの結論を導き出す師匠のやり方は「表面的な統計」の域を脱しているかも知れません。むしろ、「事実の二次創作」というクリエイティビティを獲得していると言えましょう。
 後者に至っては文章として成り立ってませんが、わかる人います? これ、恐らくは「兵頭はこれら概念の成立過程について語っていない」と言っているのでしょうが、ぼくの本を読めば一目瞭然、語っていますよね。そう、「セクシュアルハラスメント」という言葉は本来「労働用語」であったものを、フェミニストが拡大解釈し、ねじ曲げて広めた、というのが経緯でした。
「ストーカー」の方は「成立」過程については書きませんでしたが、この言葉が広まるきっかけになった著作については言及し、その翻訳者の著作を採り挙げ、言葉の受け取られ方について十二分に検討していることは、読んでいただければおわかりになるとおりです。
 そんな自明のことすらも、師匠は理解する能力がない。
 いえ、それよりも、そもそも、それ以前の問題として、ぼくの主張はこれら概念のメディアでの扱われ方、法律上の扱われ方がヤバいというモノであったのだから、仮に「成立過程」それ自体について語っていなかったとしても、それがことさら問題だというのはさっぱり意味がわからない。
 フェミニストやフェミニズムを擁護しようとする人たちは、見事なまでに例外なく「全く言いがかりになっていない言いがかりを相手につけた後、惨めに敗北を喫して、しかしどういうわけかガッツポーズを取る」人たちばかりです。彼ら彼女らの提示する「論理」も「事実」も、その両方が必ず間違っているのだから、読んでいて頭がおかしくなりそうになります。
 いずれにせよ、これでは『男性権力の神話』の方も本当の本当の本当の本当に理解が及んでいなかったのだろうと考える他ありません。当然、『電波男』についてもしかりでしょう。前回、師匠が政治的意図で事実をねじ曲げているなどと書き、侮辱したことをお詫びします。師匠はそんな狡猾な人物では決してなく、そもそも文章が一切読めない方であったのです。だから単語のカウントだけでモノを語っても、仕方がなかったのです
 どうやら「悪の組織」に捕まると、本当の本当の本当の本当の本当に脳改造手術を受けるようです。
 でなければ、「組織」に理がないとバレて逃げられてしまいますしね。
 本当の本当の本当の本当の本当の本当に、怖いですね。

*1「表面的な統計だけで」の惚れ惚れとするようなブーメランぶりについては以前の後藤師匠の記事を参照。
*2 「内容の薄さを紛らわすため」漫画ネタで相手を罵倒するという惚れ惚れとするようなブーメランぶりについては同様に以前の記事を参照。


 さて、前回の補遺はこれくらいにしまして。
 実は今年最初のブログネタは上の書と、もう一つ、同じく冬コミでゲットした『30年目の「10万人の宮崎勤」』にしようと考えていました。あまりにも師匠がビッグでここまで引っ張ってしまいましたが、急ぎ、こちらの書についても簡単に触れておきましょう。
 本書はタイトルどおり、三十年前の宮崎事件におけるオタクについての報道を検証した本です。
 宮崎事件というのは……詳しくない方は各自お調べください。
『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』において、宮崎はまるでオタク文化の創始者であるかのように書かれ、海燕師匠が「デタラメだ!」と大袈裟に騒いでおりましたが*3、「マスゴミ」がオタクの敵として可視化されることでオタクが団結するきっかけを作った、まあ、ある意味では功労者としての側面はあるなあと、ぼくなんかは思ったりもします。
 今回語りたいのもそういう感じのことなのですが、まずは本書についてご説明しましょう。本書のテーマになっているのは、「事件当時、ワイドショーのレポーターがコミケに取材に来て、『ここには十万人の宮崎がいます!!』と絶叫した」という都市伝説の真偽です。そう、この都市伝説はかなり流布して信じられ続けていたモノだが、どうもウソらしい、というのが本書の要旨なのです。
 なるほど、もしそうしたことが本当にあったなら、もうビデオも普及していた時期なのだから、絶対に映像が出てくる。ウソだと断言はできないが、まあ、ほぼそう考えて差し支えないのではないか……とぼくも思います。
 が、同時に当時のオタクに対する世間の視線は、言ってみればそうした都市伝説が「いかにもありそうなこと」に思えるほどに、非道いモノであったということも事実のわけです。
 しかし……ぼくが感じたのは、本書が当時の「オタク内オタク差別」こそが非道かったということの記録に(ちょっとだけ)なり得ているな、というものでした。
 ぼくが本書を読んでいて一番興味深かったのは、取材に来た週刊誌の「差別的」なインタビュアーに対し、コミケのサークル関係者が同調し、「オタク」に対して苦々しげな罵倒をする様子でした。

「べたっと油っぽい長めの髪に眼鏡をかけていて開襟シャツに肩掛けカバン。すぐに文句をつけ、自分に権利ばかり主張する(原文ママ)。宮崎のクローンみたいな連中ですよ」(サークル関係者)
 週刊文春1989年8月31日号「ロリコン5万人 戦慄の実態 あなたの娘は大丈夫か」
(12p)


「ロリコン5万人」というフレーズといい、「もう、この三十年前の文春砲こそが件の都市伝説の出所ってことでいいんじゃないか」と言いたくなる非道い記事ですが、それよりも引っかかるのは著者のdragoner氏が「コミケ参加者による身内批判になる」と言うのみで、まるでこのコメント自体には問題がないかのような断り書きを入れている点です。
 当時は「俺だけはこいつらの仲間じゃない」と仲間であるはずの他の連中を、憎悪に狂った目で罵倒することが「オタクしぐさ」でした。それはまるで、デスゲーム漫画で「最初にその場から逃げだそうとして真っ先に殺されるキャラ」の如くに。
 しかし、では、こう答えたサークルの彼は真っ先に殺されたのかというと、そうではない。恐らく、今やオタク界の中央でふんぞり返っていることでしょう。
 その証拠に、本書には現在コミケスタッフを務めている兼光ダニエル真師匠への取材もあるのですが、彼は当時の作家たちについて

エロパロとかやってたんですが、買った人に対して「ハハ! こんなのお前ら好きなんだよな!」と小馬鹿にするような、最後のページをめくるとオッサンの顔が笑ってるとか、そういう非常にロックな作風で、とろろいもと言えば、我々の世代の共通認識として刷り込まれています。
(29p)


 などと忘我の表情で追想しているのですから(奇妙な名前ですが、「とろろいも」というのは同人作家のペンネームです)。
 この「ロックな」という表現と共に、文中では「パンクな」との形容も飛び出しております。たまらなく恥ずかしいですね
 近いことは『ニューダンガンロンパV3』の時にも書きました。当時のオタク界は(今でもそうではあるけれども、輪をかけて)「クリエイター様エラい主義」が濃厚で、選ばれたエリートたるクリエイター様が本を買うだけのゴミクズのような消費者に過ぎぬキモオタどもを貶める様が絶対的な正義として、快哉を浴びておりました。そう、上のサークル関係者の言、今なら絶対にネットで炎上してしまう類のものですが、当時は普通だったのです。「俺たちはこいつらの仲間じゃない」とコミケの自分のサークルのエロ本の列並んでいる連中を、憎悪に狂った目で罵倒することは「オタクしぐさ」として正当化されていたのですから。そんなことが、業界の上の連中によって(オタク雑誌にオタクを侮蔑する記事をバンバン載せることによって)主導されていたのですから。
 かつてはそんな挙動に出ていた一部の人々は(兼光師匠自身がそうだとは言いませんが)「歴史修正」に邁進し、自分たちこそがオタク界のトップであり、オタクの味方なりと絶叫を続けていますが、その内心は今も変わらぬ、オタクへの憎悪で満ちています。違うのは『嫌オタク流』の作者と違い、オタクを金づるにした、ということだけです。
 そして……先に書いたことは、この事件がオタクを団結させるきっかけを作ったことで、「オタク内差別」が終焉したのでは……ということなのです。いえ、実際には「オタク内差別」なんて今でもあるわけですが、「俺だけはオタクじゃない!」と絶叫していた人々が「オタクの味方のフリ」をしている現状は、考えようによっては当時よりも遙かにマシなわけです。
 ……が。
 しかしそれは同時に、もう一つの史観も描き得ます。
 それはつまり、「オタク界のトップ」が「マスゴミ」を仮想敵にすることでオタク界を統一した、という考え方です。いえ、本書で頻出するコミケ関係者たちをこそ「オタク界のトップ」であるとするならば、この時期より以前から統一されていたと言えるのですが(ネット以前のコミケやオタク雑誌なんて、ものすごい影響力がありましたしね)、「マスゴミ」を仮想敵にすることでより支配力を高めたのでは……といった史観も成り立ち得ます。
 何しろ、上の兼光師匠のインタビューでは、延々延々と宮崎事件と直接関係のない表現規制問題とやらが実に饒舌に語られ、読んでいていささか辟易としました。
 更に、また別なスタッフへのインタビューでは「(この当時の表現規制問題は)宮崎事件が火元といえば火元」との答えが返ってきています(39p)。
 そりゃあ、「間接的影響があった」とすれば何でも言えてしまえますが、しかしこの時期の規制問題は第一に、まず「メジャーな小学館などの雑誌にわいせつな漫画が」ということが発端であったはずです。
 つまり本書は、図らずも「宮崎問題」を「表現規制問題」へとすり替えていこうとする「オタク界のトップの手つき」の記録映像となってしまっているのです。
 逆に、彼らの言を見ていて疑問に思うのは、宮崎事件は当時「ホラーオタ、特撮オタ」の犯罪とされた側面が何よりも強かったはずであるにもかかわらず、そこに対する言及がまず、ないことです。事実、当時はこの事件の影響で『仮面ライダー』が打ち切られている(『RX』の後番組が考えられていたのが、頓挫している)のですが、不思議と彼らはこれには触れない。
 というのもやはり彼らが「エロ本屋さんの論理」で動いているからです。
 もちろん、それは彼らが「エロ本屋さんだから」であり、それはそれで悪いことではないかも知れません。しかし、『仮面ライダー』の打ち切りには一切の興味を持たず、裏腹にろくでなし子が逮捕されるや、ホモの男児へのレイプを擁護した時のフェミニストくらいの勢いで擁護するエロ本屋さんが、果たしてオタクの代表であり味方であるかと言われると、微妙なのではないでしょうか。
 ぼくが「オタク界のトップ」の手先を「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と揶揄すると、「俺はオタクだ」とすごく心外そうな顔をしてきます。それは確かにそうであろうし、大変申し訳ないのですが、しかしそれでも、やはり彼らのトップは、少なくともオタクの誠実な味方ではなかったということが、本件からもわかろうというモノです。
 最後に、先のスタッフインタビューに戻りましょう。
 インタビューの締めでは今のコミケやオタクの状況について、スタッフ(市川孝一師匠、里見直紀師匠)が語ってくださいます。

市川:昔から比べれば、住みやすくなったし、オタクって自分から言いやすくなった。昔は自分からオタクって言うこと自体が難しかったんですけど、今はもうオタクって言いやすいし、親にもコミケット行くって言っても今は普通になっているし、「晴れてきたな」って気がしますね。
(43p)


 将来の明るさを暗示するかのような言葉です。

市川:中にいる人のほうがイキりすぎなんですよね。外からのほうがだんだん柔らかくなっていますよ。
(43p)

市川:ホントはもうちょっと中にいる人の方がオープンになるべきだと思いますけどね。
(中略)
里見:もう被害者意識はいいんじゃない? って気はしますけどね。
(44p)


 ……って、全然被害者意識が晴れてないやないかいっ!!
 この「中/外」という物言いは「コミケ、ないしはオタク界の中/外」という意味で使われているのですが、オタクのコンプレックスが解消されていると言っておきながら、いまだオタクがマスコミを敵視していると苦言を呈するのは、単純に矛盾しています。見ていくと「若い人の方が気にしていない」との指摘もあり、そう考えれば一応の辻褄はあうのですが、それならば「過去に非道い目に遭った世代は簡単に被害者意識を覆すことはできない」のはある意味、当たり前のことでもありますし、そこを「若いヤツは屈託ないんだからお前ら老害も被害者意識なんか持つな」という物言いは、あんまりでしょう。
 何よりぼくが気になるのは、このスタッフたちの言葉が「30年前のあの日の、サークル関係者の言」と、「完全に一致」を見ていることです。
「ここには十万人の宮崎がいます!!」と絶叫したワイドショーのレポーターは、恐らくいなかったことでしょう。しかし「マスゴミ」の取材に対し、お追従笑いを浮かべながら「ここには十万人の宮崎(のクローン)がいます!!」と絶叫したオタクはいました。
 そしてそのオタクが何者だったのか(今では名を成している漫画家さんなのか、無名でとっくの昔に脱オタしているのか)は、もちろん今となっては確かめようはありません。しかし一つだけ言えるのはそんな彼の同年代が、今や「オタク界のトップ」の座に着いているのだ、ということです。
 あれから三十年。オタクは変わりました。
 オタクを取り巻く環境も大きく変わりました。
 しかし、「自らをオタク界のトップだと思い込んでいる一般リベ」の「オタクに対する態度」だけには、少しも変化がなかったのです。

*3 もちろん、当該書がデタラメに満ちていることはぼくも指摘したとおりなのですが、呆れたことに師匠、この時点で本を通読していなかったと言います。そうした不誠実な態度で期を見るに敏な振る舞いをする者は、メリットが多くて羨ましゅうございます。

和月伸宏の児童ポルノ所持による書類送検(及びイオン系列のアダルト書籍販売中止)について

2017-12-08 23:33:52 | オタク論


 前回は香山リカ師匠と北原みのり師匠の「敗北宣言」について、ご紹介しました。
 いや……記事自体、そういうトーンの評にはなってなかったかも知れませんが、表題の「オタク」に切り込むこと全く適わず、「ツイフェミ」と歩調をあわせる宣言をしている彼女らこそ、フェミニズムの終焉を象徴する存在と言っていいかと思います。
 こっちもモチベの上がらない身体に鞭打ち、頑張って読破し、レビュったのですが……そうなればそうなったでまた別な大きなトピックが二つも持ち上がり、件の書のことなど誰も彼も忘れたご様子
 そう、一つにイオン系列の店舗がアダルト書籍の販売を中止した件、もう一つは和月伸宏が児童ポルノ所持により書類送検された件ですね。これらには一体、どんな意味があるのか……いや、単なる偶然で起きたことに過剰な意味づけをすることは望ましくないかも知れませんが。
 しかし実は場合によっては、この二件は「表現の自由クラスタ」の「敗北宣言」につながるのではないか……とぼくは考えています。

 事件についてはみなさんご存じでしょうから詳細は省きますが、まずは和月氏の件についてです。本件についてのぼくの感想は、まず単純に「残念だな」と。何しろ『ジャンプ』作家さんです。『るろうに剣心』はアニメ化もしました。90年代の半ばという、ちょうどオタク文化がメディアを制するちょっと前くらいの微妙な時期、『ジャンプ』そのものが「オタク世代でない人の漫画」によって占められていたところにオタク作家が入っていった、かなり初期の人であるように思います。
 単行本のフリートークコーナーではアメコミフィギュアに対する嗜好や伊集院光のラジオの小ネタが語られ、またキャラ造形についての裏話も語るなどしていて、当時のぼくは親しみや憧れめいた感情を持って、それを読んでいました。つまり和月氏は庵野秀明に近い、「俺たちの中から出た出世組」といったイメージの強い人だったのです。
 が、作品そのものはそこまでにオタク色は強くない。本件にかこつけて取り沙汰された燕(『るろ剣』のキャラ)も作中珍しいローティーンの美少女というだけです。そう、作品自体にそこまで性的な(「萌え的な」と言ってもいいのですが)匂いがなく、だからこそ、「小学校高学年から中学二年生くらいまでの女の子が好きだった」発言は余計にショックとも言えました。腐女子人気の高い作家さんですから、そっちへの影響も強そうですよね。
 が、更に言うならば「こんな位置の人が」という感慨も、覚えないではありませんでした。先に書いたように彼はオタク的とは言え、一般向けの作家。更に、先に庵野氏を挙げましたが、そこまでの大物では、申し訳ないけどない。つまり和月氏は、ぼくとしては「比較的一般的な会社に就職して、縁遠くなっていた昔のオタク友だち」とでもいった印象だったのです。「エラくなっちゃって、子供なんかできちゃって、休日も家族サービスとかしてんだろーなー」と思ってたら、家族サービスどころではなかったわけです。『ジャンプSQ』での『剣心』の「北海道編」の連載開始の直後にこんな事件が起こってしまい、何とも間が悪いとしか言いようがありません。
 しかし、不謹慎な言い方ではありますが、報じられる児ポ販売サイトはかなりの大手のようで、そこの顧客にもし「もっと、露骨にオタク的な作家」がいたとしたら? との想像もつい、してしまいます。仮にですが、今回逮捕(いや、逮捕じゃないんですが)されたのが深夜のエロ満載アニメの原作を書いたラノベ作家だったとしたら? オタク界に対する打撃はかなり強かったことでしょう。そうした事態に至らずほっとしている、というのも正直なところです。
 いや、或いはですが、そういう事態に陥らなかったこと自体には、必然性があったのかも知れません。47歳という和月氏の年齢を考えた時、そんな考えも浮かんでくるのです。
 言うまでもありませんが、現行法では児童ポルノの単純所持が禁じられている。しかしホンの少し前までは違法ではなかった。黎明期のネットにはそれなりに児ポが溢れていたし、更に時代を下れば一般書店で結構えげつないモノが売られていた時代もあります。
 違法でない時代なのだから仕方ないと言えばそれまでですが、二十年ほど前の同人誌にはエロ同人作家が裏モノの児童ポルノをやりとりした近況報告などが時折、書かれていたものです。コミケがそうした裏モノのやりとりの場となっていたこともあります。もちろん、同人誌自体は準備会が審査し、違法なものは売られない体制が築かれていますが、隠れてこそこそやられたら防ぎようがありませんし、これは今でもなされていることかも知れません。
 美少女コミック誌の先駆けである『レモンピープル』にコラムを連載していた蛭児神建は当時のリアル幼女ヌード、ポルノ情報満載の児童ポルノ誌『ヘイ!バディ』でも児ポビデオ紹介記事を書いていました(ちょっとウィキで見てみたのですが、そうしたリアル関連の仕事については記載がありませんでした。どうも黒歴史のようです)。この蛭児神氏、今ではあっさりフェミニストに転向し、今のオタク文化のメイド萌えなどを腐しているのが笑えますが……。
 つまり、ある時期までは、オタク文化とペドファイル文化はそれなりのつながりがあったのです。そのこと自体は(対外的に声高に言う必要はありませんが)忘れるべきことではありません。和月氏の年齢は、そうしたつながりの残滓を残している、ギリギリの世代ではないか……と思えるのです。
 だから乱暴でシンボリックな表現になりますが、先の児童ポルノサイトの顧客名簿に、「もっと若い、今時のオタク丸出しの作家」の名は、或いはなかったのかも知れない。何となれば彼らは生粋の二次元世代であり、「児ポ何それ美味しいの?」と思ってる比率が、上の世代より比較的に高いからです。
 イヤな言い方をすれば、和月氏はぼくたちの尻尾でした。
 その「イヤな言い方」を敵に投げつけるならば、「表現の自由クラスタ」はそうしたことに対する危機感がまるきり欠落しているとしか、言いようがない。
 前回、「エロはけしからぬと主張しているクセに、しかし残酷表現になったとたん、それは反社会的なので正義だとする」という「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」の幼稚極まる価値観をご紹介しました。しかしそうした価値観は、「表現の自由クラスタ」もまた……と言わざるを得ないのです。それは丁度、リアル幼女をレイプしまくっている児童ポルノを面白おかしく紹介しておきながら、「メイド喫茶は女性差別」と口走る、誰かさんのように。

 ちょっと話を、イオン系列のアダルト書籍問題に移しましょう。
 この話題に関してツイッターで度々聞かれた意見に「そもそも(コンビニはまだしも)量販店としてのイオンの書店に、エロ本などほとんど置いてなかったぞ」といったものがありました。しかしそうなると、これは元から大した事件じゃなかった、ということでもあります。コンビニは元からエロ本の置かれる場ではあったけど、ミニストップなんてそこまでメジャーなコンビニじゃないですしね。
 更に言えばこれは「一般的なご家族の立ち入る店にはアダルト書籍は売っていない」という当たり前のことであり、仮に売っている店があるのであれば、「それは止めた方が」と考える者が多いことが予想できるわけです。
 或いは「イオンに置いてあるのはBL、レディコミだけだ、自分で自分の首を絞めやがって、ざまあ見ろ」という声もありましたが、そもそもフェミニストはレディコミなど好きではありません(前回取り上げた本でも、師匠らが少女漫画、レディースコミックの「レイプ神話」を腐す箇所があります*1)。もちろん、イオンでの夕食の食材の買い物帰りに書店でレディコミを買う主婦というのがそれなりの比率でいるのであれば、その人たちが本件を問題にするという可能性はありましょう。が、よく言われるスマホでのBL、レディコミ、乙女ゲーの隆盛を鑑みるに、堂々と書店でそうした物を買いたい女性というのは存外に少ないのではないでしょうか。
 つまり、本件の是非は置くとして、ぶっちゃけ世間的にそこまで重大なトピックとは思えず、一般社会と表現の自由クラスタの温度差を感じずにはおれない。
 本件に限らず、「表現の自由クラスタ」もフェミ同様、どうにも浮世離れしていて、世間一般と自分たちの世界観のずれに気づいていない、「お友だち同士でつるんでるうちに世の中も自分も見えなくなった人たち」であると思えることが多々あります。一方ではこれもフェミ同様、「今そこにある危機に気づいていない愚民ども、しかし自分だけがそれに気づいている」といった世界観をもお持ちでいらっしゃるような気がするのですが、それこそ先に挙げた「反社会的なので正義」な、幼稚極まる価値観の最たるものでしょう。

*1 香山師匠の言い分がものすごく、

香山 (前略)ちょうどその頃レディコミでも、セールスマンが来て、玄関で無理やり犯すとかいったシチュエーションが多かったけども、それを私たちが「ファンタジーで楽しんでいるだけなのよ」って言っても、作品の世界を鵜呑みにするおじさんもいるかもしれないじゃないですか。
(30-31p)


などと言っています。対談ということもあってか話が論理的につながってないことの多い本書ですが、どうも香山師匠は、「女が読む分にはファンタジーを楽しんでいるだけだからOKだが、おじさんはそこを理解できないからNG」とでもいった考え方を持っているようです。そもそもレディコミをおじさんが読むと、この人はどうして思い込んでいるのか……(ヒント:病的被愛妄想)。



 そうした「浮世離れ」というワードを踏まえた上で和月事件に立ち返ると、あることに気づきます。本件をきっかけに「ちょっとヤバげな人たち」が盛んにツイッターで発言し、一般人(含む、オタク)をどっ退きさせているのです*2
 曰く、「児童ポルノの単純所持の禁止自体があってはならぬ、被害者など誰もいないのだ」、曰く「同性愛者もまた、かつてはこうした扱いを受けていたのだ、ペドファイルもまた同様に、そうした正義の味方たちに悪のレッテルを貼られ続けて来た、清浄なるマイノリティなのだ!」。
「表現の自由クラスタ」は児童ポルノの単純所持に激しく反対論を唱えていましたが、しかし「児童ポルノの所持自体が被写体の児童への虐待となる面がある」という側面について彼らが所見を述べているのを、見たことがありません。彼らの大御所のサイトでも、その旨の意見が書き込まれたとたん、コメントが消されるといったことが起こっています。
 彼らの中には明らかにペドファイル寄りの人も含まれています。上に挙げたような、「一般人(含む、オタク)をどっ退きさせる、ヤバいペドファイル」がどれだけいるかはわかりませんが、海外ではNAMBLA(北米少年愛協会)のような子供と大人のセックスの合法化を目的にしているペドファイルの組織も存在しています。ペドファイルは自らの性欲の発露それ自体が犯罪になってしまうが故に、「いや、子供とセックスすることは何も悪いことではないのだ、子供もそれを望んでいるのだ」と主張(そうした幻想に逃避)する傾向にあるわけですね。
 日本でも伊藤文学が長らく子供へのレイプを推奨し続け、それを批判した者は「表現規制推進派」として謎の組織からの恫喝を受けたことが知られています(笑)

 ――なるほど、許せぬ! しかしペドファイルがペドファイルであること自体が悪なのではない。彼らを男性攻撃の口実にするフェミに対抗するためにも、ペドファイルを守ろう!


 ……いえ。
 その心配には及びません。
 何となれば、フェミニストはペドファイルの味方なのですから
 ぼくは度々、以下のようなことを言ってきました。
「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベの中に、オタクをLGBTのメンバーに加えていただこうと主張する者がいる。しかしそれは悪手だ。何となればLGBTというのはあくまでフェミニズムをフォーマットにした歪んだ思想を持つ者たちであり、このレズ、ホモ、バイ、オカマというセレクト自体がぶっちゃけ“名誉女性”という政治性を持ったものでしかない、二次元性愛症という非実在セクシャルマイノリティがその仲間にしてもらえるとは思えない」*3
 しかし、では、ペドファイルはどうでしょう?
 幼児とのセックスが認められるはずもない性癖である以上、ある種の政治的目的を持った彼ら彼女らが自軍に迎えるはずがないのでは?
 いや、それがそうでもありません。そもそもフェミニズムはフリーセックスと縁が深く、例えば性科学者のジョン・マネーは(女性ではありませんが)フェミニズムに傾倒していた人物です。彼は人間のジェンダーが後天的であると主張し、同時に子供とのセックスを認めよとも唱えていました。
 当ブログの読者の方は周知かと思いますが、このジェンダー後天論の根拠となった実験がインチキとバレて、フェミニストたちも手のひらを返してマネー批判に回りましたが、彼の子供とのセックス容認発言を批判したフェミニストの話は、聞いたことがありません。
 いえ、そればかりではありません。先のNAMBLAなどに比べればマイナーですが、欧米では女性少女愛運動というモノもあり、フェミニズムに強く関わっています*4。フェミニストが病膏肓に入るとレズに至ることは比較的知られているかと思いますが、更に病むと「幼女タンとヤりたい!」となるのですね。例えば、「結婚もセックスもその全てが女性の男性への隷属である!」といった狂った思想を持つフェミニスト、ケイト・ミレットもまた、子供とのセックスに肯定的な一人です。
 では、そのミレットは「俺たちと幼女タンとのセックス」を肯定するのかとなると、それは疑問という他はない。ぶっちゃけ、フェミニストの言うことなどまともに理解することなどできないのですが、敢えて言えば、「フェミニスト女性と幼女タンのセックスはおk、少年愛者とショタっ子とのセックスもおk、しかし成人男性と幼女タンのセックスはまかりならぬ! 後、成人男性と成人女性のセックスもまかりならぬ!」が彼女の考えであるとしか、言いようがありません。論理的には、そうならざるを得ないのですから。
 まあ、この辺りはさすがに日本のフェミニストでは主張している者が見当たらず、詳しいことはぼくもわからないのですが、ともあれフェミニストをセックスヘイターとして罵ることは論理的にも倫理的にも歴史的にも政治的にも、完全な間違いであ(り、勘繰るならば一部勢力はだからこそ盛んにそうしてい)ると言えます。
 前回は「表現の自由クラスタとフェミニストは線対称だ」と表現しましたが、こうしてみると、ある意味では「裏返すことなく、完全に一致」しているとも言えることが、おわかりになるのではないでしょうか。
 セックスヘイター、ホモフォビア、ミソジニー。いずれも口にするだけで頭の悪くなる、ファシストの用語であり、口にする者はみな、「志を同じくするお友だち」なのです。

*2「そもそも児ポ規制は正しい法律なのか? 「被害者が可哀相」VS「所持するのは個人の自由」 和月先生の事件を受けて
社会的に受け入れられない性的嗜好を持つことについて
*3「「新春暴論2016――「性的少数者」としてのオタク」を読む
*4「少女愛運動


 先に、『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』をフェミニストの「敗北宣言」としました。オタクというスケープゴートを叩くという戦略であったはずが、AKBに憧れる女子大生をも敵に回すという失態が、そこでは演じられていました(もっとも、書けば書くほど墓穴を掘るのがフェミニズムです。香山師匠の著作『結婚がこわい』でも、女子大生に就職を勧めて拒まれ、ついにはゼミに来なくなってしまったと嘆く箇所が出てきます)。
 先の書籍がいかな計算の下に出版されたか、ぼくに知る由はありません。しかし場合によっては「オタクという異常者の異常性癖を糾弾する書」としてある種の支持を得られたかも知れない。もし今回の事件が本書の出版前に起きていたら、そのような「ワンチャン」もあったかも知れないわけです。
 しかし「オタク」をターゲットにするつもりの師匠らのガバガバなターゲットスコープは、無残にも「ごく一般的な女子大生」を誤射しまくってしまった。件の書は、そんなフレンドリーファイアの記録に読めます。仮に師匠らがこれを読んだら、「いや違う。同じ女性でも過ちは正さねばならぬ。だから歯に衣着せぬ物言いをしたまでだ」との反論がなされるかも知れません。しかしでは、「自分たちの意見がどれだけマイノリティのモノであるか」について、師匠らが自覚を持っているかとなると、それは疑問と言わざるを得ないのです。
 そう、大戦末期の日本軍部とか日本赤軍とか韓国とかオカルトとか、みんなピンチになればなるほど「自軍の統率のために過激で非現実的なことを言わざるを得なくなり、先鋭化、自滅」という道を辿ります。殊に追い詰められると、内部で「裏切り者」を捏造し、そいつを処刑することで結束しようとします。
 先の女子大生批判はまさしくそれです。となると、「表現の自由クラスタ」もまた、そうなるのでしょうか。ぼくも彼らから幾度となく「事実を捏造しての裏切り者認定」を受けています(笑)。考えると「彼ら」が必死で岡田斗司夫氏を「仮想敵」にすること自体、どうした政治的意図があるのか……と思えてきますね。
 本件では、実のところあまりにセンシティブな事態であるせいか、いつもなら騒いでいそうな連中が沈黙を守っていて(あくまでぼくの観察であり、見ていないところではしているのかも知れませんが……)、ある意味賢明な対応を見せている気がします。
 が、彼らが「自分たちの意見がどれだけマイノリティのモノであるか」についての自覚を欠落させ、「非常識なセックスヘイター」とやらの幻に向けて誤射を繰り返している以上、いずれ彼女らと同じ轍を踏むのでは……というのがぼくの懸念です。
 まあ、問題は、彼らが支持を失った頃には彼らの誤射でオタク界に相当な被害が出て、また彼らが去った後は全ての責任がオタクにひっ被らされていることが、想像できてしまうことなのですが……。

フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか

2017-12-02 19:51:32 | オタク論


 いや、本書が出版された直後から、まるでそれが契機にでもなったかのように、世の中大変な騒ぎです。
 イオン系列のアダルト書籍の販売中止、和月伸宏の児童ポルノ所持による書類送検など、オタク分野で大事件が頻発しています。
 まあ、当ブログをご愛好いただいている皆さまにはおわかりの通り、これらトピックスに対しても、ぼくは単純に被害者ヅラで騒ぎ立てるつもりはないのですが。
 ただ、それにしても、こうした事件をきっかけにフェミがアンチオタクキャンペーンを張るのではないか……そうした不安を抱く方もいらっしゃるかも知れませんが、本書を読むとこんな感想が湧いてくるのです。「攻撃は外から来るとは限らない」と。

 と、思わせぶりなマクラを終えたところで、本編です。
 さて、とはいえ本書についてはこっちが何か言う前から海燕師匠がネタにしてあちこちで話題になり、読んでもいないだろう連中が一言居士ってらっしゃるのを見て、早くもレビュるモチベがモリモリ下がっているのですが。
 もっとも本書は北原みのり、香山リカ両師匠の対談本。その時点で確かに、読まずともお察しではあるのですが、それにしても本書の出版はぼくの目にはそれなりの衝撃をもって映りました。というのも、この「フェミニストvsオタク」という対立構造はネット社会では周知でも、リアル社会で言及されるようなことではありませんでしたから。
 だから一応はオタク側の批判に対してフェミニストがいかなる反論を試みているかについて、多少の期待を持って本書を開いたのですが……残念ですが、その期待は叶えられることはありませんでした。
 読んでいくとオタクについての話題はほとんどナシ。
 全体の一割もないでしょう。5%あったかなあ……という程度です。
 その他は旧態依然としたアラフィフフェミニストの十年一日のごときだらだらしゃべり。こうしたモノでも本になり、懐が潤うのですから、本当にフェミニスト様は特権階級であらせられますなあ!
 何にせよタイトル詐欺の批判は免れませんし、「どう形にすんだ、これ!?」な素材を敏腕編集者がキャッチーなタイトルでまとめた、みたいな舞台裏を想像したくもなります。
 まあ、そんなこんなで、ネガティブな意味での期待をも外してくれた本書、お二人の思想的スタンスを考えれば容易に想像のつくとおりヘイトスピーチがどう、C.R.A.C.がこうと言った話題も盛んに登場します(言うまでもなく野間さん全肯定です)。下手をすると「オタク」より「ネトウヨ」というワードの方が頻出しているかも知れません。ただし、その両者を接続する言説は、残念なことにどこにもない。二人がその両者について、心の底から何の関係もないと考えているのならともかく、そうでないなら(そうでないとする証拠もないのですが)極めて不誠実というか、片手落ちです。「オタクvsフェミ」という問題にがっぷり四つに組む覚悟があるなら、ここ(「ネトウヨ≒オタク論」とでも称するべき左派の中の通説)は大変に重要なはずだからです。

 さて、そんなわけで正直、本書についてはどうアプローチするか迷っているのですが、ここは一応、表題になっている「オタクvsフェミ」をメインに、本書を紹介していくことにしましょう。
 本書では北原師匠によるまえがきから宮崎事件について語られ、オタクについての話題の半分くらいはこの事件についてに費やされております。
 既に海燕師匠の指摘があちこちに流布されており*1、ご存知の方も多いことでしょうが、ここで師匠らは「宮崎勤はオタク文化を誕生させたカルチャースター」とでも言うべき捉え方をしており、その無茶苦茶さが批判されたのです。
 が、敢えて師匠らの立場に立って言うならば、彼女らの言は「幼女を性的対象として消費する文化が大手を振ってまかり通るようになるなんておかしい!」ということに尽きます。「宮崎がそうした文化を産んだわけではないけれども、この時に、文化人が「表現の自由」を錦の御旗に論陣を張った。それがオタク文化の隆盛に一役買った。ある意味、宮崎は間接的功労者とでもいうべき人物だ」。師匠らの言いたいことをなるべく彼女らの親身になって翻訳するならば、まあ、こんなところになるのではないでしょうか。
 もちろん、それがどこまで正しいかは疑問です。別にこの時に表現全体が大幅にフリーダムになったわけではないでしょう。「今までは考えもしなかった表現が、この時期に出て来た」だけのことです。いや、美少女コミックの黎明期は80年代ですが、広がって行ったのが90年代という見方は、それほど外していないはず。そう考えると、これは構造としてはむしろブルセラに近い。まさか女子高生が自主的にそんなことをするとは、という。ヘアヌードや援助交際もこの頃に出て来た「まさか」でしたが、ブルセラがそれら以上にトリッキーなのは、使用済み下着というエロのカテゴリに入れにくい、今まで思ってもみなかったようなものが商品化されたという意外性です。エロ漫画にしたって、まさかアダルトビデオなどが普及してそれほどタイムラグもないというのに、二次元の美少女の方がリアルよりいいと言われるとは、予想外だったはずでしょうから(そしてまた、ロリコン的表現それ自体が今までは知られておらず、これまた意外だったはずです)。
 これらはつまり宗教的縛りもない日本において、村社会的共同体意識が解体されて、リベラルな考え方のみが専ら正義とされ、道徳心がストッパーにならず云々……みたいなことこそが原因であり、上の諸現象はその結果として立ち現れたと見るべきなんですね。
 端的に言えば、これら現象とフェミとのバトルは、左派、言ってみれば個人のエゴをスタート地点とする思想の、自己主張同士のバッティングというどこにでもある、敢えて言えば「ただのケンカ」でしかありません。要するに、彼女らの敵は宮台真司なのです。実際、本書では宮台師匠についても否定的に言及されています。
 いずれにせよ、両師匠の発言は事実を踏まえているとは言い難いのですが、当時は美少女コミックが成年マークもつけずに売られておりましたし、現代でも『To LOVEる』とかはまあ、子供が読めるのはどうかなあ……と思います。その意味で、言い分には5%くらいは賛成できるわけです。コンビニの成人雑誌も「子供に見せるべきではない」という主張はわかるので(本書もその旨が書かれています)、ゾーニングせよというのであれば、大いに賛成できます。
 しかしもちろん、フェミニストは「それだけでは足りぬ、ポルノは根絶せよ」と主張する。そしてまた表現の自由クラスタも「ゾーニングはまかりならぬ、子供からエロ本を奪うな」と主張する。両者はぼくの目から見れば、「何か、ワンイシューな正義の御旗を振りかざす似たもの同士」に見えてしまうんですね。本書はオタク文化を客寄せに掲げているが、本丸は別のところにあると表現すべき内容でしたが、それを言えば「彼ら」のやっていることもまた……。

*1「北原みのり『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』の論があまりに酷い【歴史修正主義】(11/20追加)

 さて、宮崎事件(という、今時フェミニストと表現の自由クラスタと大塚英志以外には誰も興味関心を持っている者がいなさそうなトピック)以外で、本書で語られるオタク関連の話題となると、やはり碧志摩メグになるでしょうか。
 ただ、トピックが変わっただけで、言っていることは別段変わりません。
 逆に言えば、その変わらなさが彼女らのダメさを示してもいるのですが。

香山 たとえばアメコミではグラマラスな格好良い女が出てくる一方で、日本のアニメは幼女が活躍するものばかり。欧米では年を取った女性もオシャレで派手な服も着るし、男性もパートナーとして女性を大事にしている。それに比べて日本は若い女ばかり追い求める。
(112p)


 本書では「萌え美少女」が終止「幼女」と表現されます。果たして何歳までを「幼女」と呼ぶのか、別に定義などは存在しないでしょうが、碧志摩メグは「幼女」ではないでしょう。上の言葉も碧志摩メグ自身を「幼女」と明言しているわけではありませんが(そうした箇所はなかったかとは思いますが)、文脈としては碧志摩メグ(や、会田誠やAKB)の話題に続いて出てきた箇所です。これ以降も話題はおニャン子クラブへとつながり、「セーラー服に興味を持つこと」が断罪されています。
 ご存知の通り、碧志摩メグについてはその胸の表現こそが云々されました。本書でも、両師匠がそこをこそ問題にしているのです。

北原 こういう萌えキャラって、骨格よりもむしろスカートのシワや乳房の膨らみを表現する影で体を表現している。どれだけエロティックな皺や影を描けるかが肝なんでしょうね。
香山 この、ヒモをほどくような手がツヤ感ですね。
(104p)


「胸もない幼女を好むとは異常だ」ではなく、「少女の胸が強調されている絵を好むとはけしからぬ」との言い分です(しかし、「ヒモをほどくような手がツヤ感」って何だ?)。つまり、「幼い子供を性の対象にするとは許せぬ」という主張はタテマエで、彼女らが本当に憎悪しているのは「ごく一般的な男性の好み」という他はない。
 もちろん、「ごく一般的な男性の好み」を全否定することがフェミニストの使命であることは、当ブログの読者のみなさんは周知だと思うのですが、こうなると師匠らはそのためにオタクをダシにした」と言われても仕方がないわけです。

香山 私、碧志摩メグもうな子*2も、大学の授業で触れたんです。女子学生でも、うな子のほうは「こんなのよくある、なんでダメなんですか」という感じで、メグのほうは「かわいい。私も好き」と言うんです。「あなたが男性の欲望の対象になったらどう思いますか」と聞くと、「私はこんなことしない」と。同じ女だからどうにかしなきゃっていう発想もあまりないんです。
(120p)



 いやはや、女子が碧志摩メグを見て「かわいい」と思うことはまかりならん。むしろ見た瞬間、「同じ女だからどうにかしなきゃ」と思わねばならないそうです(どうにかって何をどうするんだ?)。

香山 (前略)「でも彼女たちは男の人の欲望の対象なんじゃないの?」と言うと、「そんな言い方しなくても良いと思います!」とか言って。
北原 こっちの見方が汚いと思われるんですよね。
香山 そうなんです。それで、「可愛いし服も参考になるし」なんて言っている。
北原 AKBがエロに見えないのも、この行政の萌えキャラがエロに見えないのも、どれだけ日常が悲惨でエロが溢れているかという証拠だと思うんですよね。
(123-124p)


 師匠らはペドファイルに怒っているわけでは全くなく、オタクを叩きやすいから叩いているわけでも全くなく、男性全体の性欲を根源否定しているだけでした(ただし、ぼくもよく知らんのですがAKBって結構露骨にパンチラしてるそうで、そういうのはちょっとどうなのかなあ……という気はします)。
 もう一つ、敢えて論点を提示するのであれば、彼女らのオタクへの憎悪は「クールジャパン」的な認められ方にあるように思えます。碧志摩メグが騒がれたのもやはり、お役所の公認キャラであったことが大きい。こうした国家権力へのツンデレ的愛情もまた、フェミニストと「彼ら」との共通点と言えそうです。

*2 鹿児島県志布志市のPR動画で、スクール水着の少女をうなぎに見立てたとして炎上。てっきりうなぎのPR動画と思っていたら「ふるさと納税」のものだそうです。

 さて、またちょっと、「表現の自由クラスタ」たちの物言いに立ち返ってみましょう。ツイッターなどでちらちら見た意見には、「お前(北原師匠)こそバイブ屋のくせに」「若い頃はさばけていたと思っていたが、このセックスヘイターぶりはどうだ、老いたせいか」といった評も散見されました。
 これは上に書いたぼくの指摘と大意を同じくしているかのようですが……実はそうではなく、的外れなものなのです
 上にもあるように、また当ブログの愛読者の方は周知でしょうが、北原師匠の本業はバイブ屋でいらっしゃいます*3。が、彼女の目的は最初から「女にとっての快」であり、バイブもまた「男不要の快楽」として称揚されているわけです。彼女はセックスが大好きだが、しかし世に溢れている性的な価値観は全否定しているだけなのです。ジェンダーフリーなどを顧みるまでもなく、これが師匠のみならずフェミニズムそのものの基本姿勢であることは、今更指摘するまでもありません。
 フェミニストたちに、ぼくたちは非常に往々にして「萌え文化には女性のファンも大勢いて……」などと語りかけますが、そんなことに何ら意味はないのです。レディースコミックなども専ら女性のニーズに沿って作られたメディアですが、そこに描かれるセクシュアリティは男性向けのポルノとさして変わりがない(レイプ描写に溢れているなど)。つまり、フェミニストが「男性に都合のいい」と形容する性文化は実のところ男女共にとって快い、両性が共犯関係によって作り上げてきたモノであったわけです。彼女らが「男の欲望」と強弁し続けているのは、それこそ女子大生とのAKB談義でも明らかなように、女性の欲望でもありました。だから、師匠らは「人類の欲望」を根源否定しているだけなのです。
 フェミニズムは全人類へのヘイトそのものだったのです。
 事実、本書でも男のセックスに対しさんざん罵った後には、「何で日本はこんなセックスレスなんだ、気持ちのいいセックスがしたいのに」と言い出す節が入ります。自分たちの好まぬ性表現はダメ、一方セックスから撤退するのもダメというのだから、男女逆にして言えばクラスの隅っこでおとなしく『おそ松さん』に萌えているブスに襲いかかって「お前がブスに生まれついたのが全部悪い!」とボコってるようなものなのですが。
「表現の自由クラスタ」は往々にして、彼女らを「セックスヘイターだからけしからぬ」と批判しますが、それは間違っていました。上を見てもわかるように、フェミニストはセックスヘイターではないのですから。そしてまた、「一般人」は多かれ少なかれ「セックスヘイター」なのですから。更にまた、「ロリコンであること自体は何ら罪ではない」という彼らの大・大・大・大・大好きなレトリックを援用するのであれば、「お前はセックスヘイターだからけしからぬ」という物言いは一切、意味を持たないはず(こんなことにすら思い至れないことが、彼らの問題なのですが……)。
 繰り返しますが、彼ら彼女らは互いに自分の好みを押しつけあっている、似たもの同士です。そこを理解できず、お互いに背を背けあいながら全く同じゴールへの道を併走しているのです。

*3『アンアンのセックスできれいになれた?

 ……ちょっと、「表現の自由クラスタ」の悪口を書きすぎだとお思いかも知れませんが、もうちょっとだけ続きます
 彼らは専らネット上に立ち現れる存在であり、その実態を、ぼくは知りません。何とはなしに若い連中である気がしているのですが、それは彼らの主張の生硬さが原因でもありますし、「オタク差別」を危惧する物言いの屈託なさ*4が理由でもあります(これはフェミニストにただ「ミサンドリー」という言葉をぶつければ勝てると思っている人に対しても感じることです)。
 が、彼らが実のところ、かなりの高齢者と考えるとどうでしょう?

 ――おい兵頭、そんなことはどうでもいいだろう。仮に若くてもSEALD'Sよろしく上の世代の影響を受けていようし。


 それはそうなのですが、仮に「オタクの代表者」をもって任じている彼らの「イデオロギー」ではなく「カルチャー」の部分が、もし高齢者のそれであったら?
 今までぼくは「サブカル」にさんざんっぱら毒を吐いてきました。一つには単純に彼らがぼくたちにケンカを売ってくるからであり、もう一つは彼らが古色蒼然たる左派的価値観を深く内面化しているからですが、更にもう一つには、彼らの文化が極めてDQN的だからです。暴力的な表現で何かを破壊することに意義があるとの素朴な信仰が、彼らの本質です。
 つまり先の仮定がもし正しいとすれば、彼らはオタクではないし、そもそも「オタク的心性」が丸きりわかっていない。となると、彼らが本書に対して物申すことは(いえ、そもそも彼らがオタクの代表者であると自称し続けることは)オタクにとって、大変にマイナスになると考えざるを得ないのです。
 今までもぼくはオタクを「草食系男子」に近しいモノとして語ってきました。皮膚感覚で感じることでもあるし、レイプの認知件数が年を追う毎に激減していることなどを考えてもこれはまず、間違いがない。
 何よりもオタク文化は基本、草食的なものです。「美少女コミック」自体がそうで、ある種、少女漫画に影響を受けた内省的な作風は、KEYの「泣きゲー」に象徴される美少女ゲームへとつながっていきました。もちろん、陰惨なレイプ物、猟奇的表現などもまた、一方では存在はしていましたが、しかし「萌え」という言葉がオタク文化を席巻したことを考えれば(過激で暴力的なエロを「萌え」とは言わないでしょう)何がオタク文化の本質かは自明です。
 そう、本書に対する批評には、「オタクと言う名の草食系男子を、あなたたちはどうしてそこまで気に入らないのか」という視点がどうしても入らざるを得ないわけです。
 引用した箇所で充分おわかりいただけるかと思いますが、本書では旧態依然とした「女を搾取するモンスター」としての男性像が透徹されています。もちろん「草食系男子」などといったナウい単語はご存じでないのであろう、一言も出てきません。
 確かにオタク文化は「幼女」を性の対象にする側面があり、ぼくはここを全面的に問題ナシと考えているわけではありません。しかしこれは、「オタクの草食男子性」と表裏一体なものです。それはフェミニスト様のお言いつけ通りに「男性性を降りた」男たちが、フェミニズムに物申すようになったことと実は全く、同じ構造を持っています。
 しかし恐らく左派の、悪いけど古くさい言説の力で、そこをちゃんと語ることができるかとなると、それは怪しいと言わざるを得ない。

*4 今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!

 ツイッターでの、左派とおぼしい方の意見には「北原は非道いが、香山はそこまででもないよ」といったものもありました。もっとも、上の引用を見ているととてもそうとは思えませんが、全体的には北原師匠の方が過激ではあります。確かに、北原師匠は過激なフェミニスト、一方、香山師匠はそれほどフェミニスト色はない。北原師匠自身がまえがきで「香山さんがオタクを、私がフェミを代表する、というわけじゃない。(8p)」と書いていますが、同時に続けて香山師匠を「「オタク」文化の言論人」と評してもいますし、あとがきでは香山師匠が

 おそらくゲーム、漫画、プロレスなどのサブカルにどっぷりつかっていた私は、人間をあえて「オタク」と「非オタク」に分けると明らかに前者なのだと思う。
(245p)


 とも言っています。「お引き取りください」と懇願したいところですが
 しかし上に「サブカル」という言葉が使われていることにこそ、ことの本質が現れているように、ぼくには思われます。
 そう、先の「香山はマシ」論者の気持ちは、本書を通読すると一応、理解ができるのです。香山師匠、会田誠にはかなり好意的なのですから。

香山 社会全体が受け入れているというより、あくまで制度としてのアートの中で、と考えてはダメですか? 会田さんは安倍政権を批判しているといわれる作品もありましたが、デモではなくてアートとしてのレジスタンスということではないのでしょうか。
(108p)

香山 ある種の権力、制度、倫理への挑戦のシンボルではないですか。
(108p)


 会田というのは萌え絵をパクったような絵*5で「女の子をジューサーにかけたり」といった胸糞表現をしている御仁ですが、彼女はそれを上のように称揚しているのです。ならば草食的なオタク表現などもっと許されるべきだろと思うのですが、何故かそうではないのは、既に引用した箇所でおわかりの通り。即ち、香山師匠は反社会的で残酷であればあるほど、それは望ましいとのサブカル≒左派的価値観の持ち主なのです。
 サブカル≒左派的価値観がオタクの敵であると共に、大衆の支持も得られないモノであると、はっきりと示された瞬間です。
 事実、あっさり北原師匠に「オルグ」される箇所もあります。

北原 (前略)昭和時代にエロをカウンターカルチャーとして抵抗してきた延長で、今のAV文化を捉えるには無理がありすぎる。表現の自由というのは民主主義で揉んでいくものだと思うんですが、揉む力さえなくなっていると思います。
香山 表現の自由って言いながら、結局は市場主義的に売れる物が優先されているだけなんですよね。萌えキャラを商売にする人は「自由を守れ!」と思いながらやっているわけではなく、「これやっといたほうが売れるから」くらいの安易なものなんです。
(90-91p)


 売れた「オタク文化」への憎悪でいっぱいですね。商売で儲けようとするのが悪いと言われても困りますし、ましてや日陰者だったオタク的表現がここまで社会に広がるまでにはどれだけのエネルギーが費やされたか、考えるだけでも気が遠くなるのですが、香山師匠はそんなことは、絶対に認められないご様子です。
 以前ご紹介した『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』*6には「なぜサブカルは自分はオタクだと言いたがるのか」という節タイトルがありました(もっとも、その節にも本全体にも、この疑問に応えている箇所はありませんが)。これは至言であり、サブカル君はオタク文化を深く憎んでいるにもかかわらず、世間に対してはオタクを自称したがる。彼らは後輩の名前だけで食っている売れない先輩ですから。香山師匠が本書でとっている態度もまた、同じでしょう。
 師匠の中にあるのは、サブカル君たちのオタクに対する憎悪と同じものではないかと想像できます。一つには滅び行く存在の、商業的成功を得たオタクへのはらわたの煮えくりかえるような嫉妬の感情でしょうが、もう一つはオタクが「カウンターカルチャー」としての自分たちの文化の特質、要は左派的価値観を継承しなかった点にあります。
 だからこそ、香山師匠はオタクという場から出て行ってくれたし、萌えにも否定的になった。これはちょうど、ピル神が「オタク界はリベラル女子のためのサークルですよ」と騙され、召喚されている状況と、完全に線対称です。

*5「『朝日新聞』3月1日朝刊「アートか「児童ポルノ」か挑発的な美術展」」。ここにも引用しましたが田亀源五郎先生の、「オタク文化をつまみ食いしやがって」との感想に、ぼくも賛成です。
*6『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに


 うまく論理を展開できているか、いささか心配なのですが、そろそろまとめましょう。
 先に書いたように本書は(北原師匠が留保をつけているモノの、実質的には)オタクである香山師匠とフェミニストである北原師匠の対話という体裁を取っており、その内容はフェミニストがオタクをオルグする過程そのものである、とまとめることができます。
 それと同様に「表現の自由クラスタ」とピル神の振る舞いはオタクである「表現の自由クラスタ」とフェミニストであるピル神の対話という体裁を取っており、その内容はリベラルがフェミニストをオルグする過程そのものである、とまとめることができます。
 いずれも、オタク男女も一般的な男女も放り出されたまま、密室で「何か、変わった人たち」による談合が進んでいるという点については変わりません。
 彼ら彼女らはどこまでも線対称の、しかし相似形な存在であったのです。
 冒頭に挙げた、「攻撃は外部から来るとは限らない」の意味は、もうおわかりでしょう。
 彼ら彼女らは共に、「人間の性意識を改造することで地球侵略を企む、悪い宇宙人」でした。ただ、たまたま出身星が違ったがため、その改造プランのベクトルが異なり、利害が一致せず、地球を舞台にバトルを繰り広げているだけなのです。地球人におびただしい被害を出しつつ、互いに「ヤツこそ侵略宇宙人、我こそは地球を守りに来たウルトラ一族なり!」と主張を続け、おずおずと「よそでやってください」と懇願する地球人たちに対してだけは口を揃え、「このネトウヨ星人め!!」と絶叫を続けながら。
 最後に、ぼくが本書で一番笑ったところを紹介しましょう。



 北原師匠が楽しそうで、何よりです。
 もちろん本書、「まなざし村」と言った言葉も全く、出てきません。
 危機感は一切、ないのでしょう。