兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第8回『腐女子の心理学2』【ゆっくり解説】

2020-06-07 15:46:51 | オタク論




https://youtu.be/JhPcqL2_qoI

 フェミニストユーチューバー・須藤えみにのライバル、アンチフェミユーチューバーの風流間唯人です。
 今回は前回採り挙げた山岡重行『腐女子の心理学』の続編、『腐女子の心理学2』。
 テーマはずばり、山岡重行は仮面ライダーである!
 本動画を観ることで、ぼくたちはまた一歩、フェミニズムの影響から逃れることができるよ!!

 正直、youtuberとして収入を得る、などは夢のまた夢の状況ですが、登録していただく、高評価ボタンを押していただく、コメントをつけていただくことで再生数が上がるようです。
 また、当動画で『ぼくたちの女災社会』に興味を持っていただけたら、kindleでお買い求めいただければ幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします。


腐女子の心理学2  準備稿――すももファイヤーの原因は兵頭新児だった!?

2020-02-14 08:58:11 | オタク論


※この記事は、およそ14分で読めます※

 さて、今回『腐女子の心理学2』が表題となっておりますが……本書についてはしばし、置きまして。
 既に旧聞に属しつつありますが、年末年始にかけてすもも師匠が炎上しました。
 いや、こう書いてみて本当に旧聞だなあと、眩暈がしております。ツイッター界隈の流れは光のごとく速い。ツイにおいて、ぼくが一人、ぶつぶつつぶやいているのみで(だって本来、そうするためのものだろう!)あんまり流行の話題に乗っかりたくないと思う原因の一つです。 ここで簡単に状況をご説明しますと、すもも師匠、得意の統計漫談でいろいろグラフを並べ立て、最後に「非モテ男性にはライトオタク女子とのつきあいを推奨する」といった旨の言葉を述べたのです*1




データを細かくみていくとライトオタク女子はかなり非モテ男性にとってやりやすそう。男性へのニーズの個別項目では「温厚ですぐに怒らない」「趣味があう」が高い。


― すもも (@sumomodane) December 27, 2019



非モテ男性にとっては、ライトオタク女子がおすすめです。ボリュームもそこそこいます。オタク趣味だけでなく、おしゃれな趣味も両立しているタイプです。仕事は小売業、生産工程、場所は北海道、福岡県、学歴は非大卒。男性ニーズはやさしさ。ハイスペ、モテを要求しません。


― すもも (@sumomodane) December 28, 2019


 これが、「ツイフェミ」*2の皆様方に大変に不評で、師匠は大バッシングを受けてしまいました。いや、まあ、「やりやすそう」とか言ってるし。おそらくこれはあくまで「交際が」やりやすそう、ということであるはずですが、こりゃ「犯りやすそう」だと勘繰られ、上げ足取られるに決まってますわなあ。
 この問題はまず、「オタク男子」に「ライトオタク女子」を勧めた点に、炎上要素があったと言えましょう(師匠は「非モテ男性」と言っているけれども、「趣味があう」と言っている以上、これは「オタク男子」とイコールでしょう)。
 何でわざわざ「ライト」とつけたのか。
 仮に「ディープなオタク女子」を想定すると、やはり「ブス」「根性がひねくれ曲がっている」といったイメージが沸きます。そこで、すもも師匠はまあ、多少は身ぎれいにしており、常識もあるライトオタク女子の方が……と考えた。そこが、まさに「ツイフェミ」の怒りを買った理由でしょう。
 いえ、これはむしろ男の方が言われてきたことなんですけどね。例の『電車男』ブームの時は、例えば『「ゆるオタ君」と結婚しよう!』なんて本も出ておりました。「オタクというと忌避感があるかもしれないけど、ライトオタク君はお買い得!」というわけです(もちろん、根拠は極めて心許ないですが……)。これは男女の問題以前に、「オタク」という言葉のネガティビティがどこまで強いかということでもあるわけです。
 ただ、もう一つ指摘しておくと、この「ライトオタ女子」という言葉そのものが、その相手となることが想定される「オタク男子」よりも相対的に「ライト」であるという含意があります。上の「オタクはネガティビティそのもの」という指摘とあわせて考えると、この提案は「男性の、上昇婚」という意味あいを有してしまう。それこそが「ツイフェミ」たちの発狂を促したのだ、と言えましょう。ブスがイケメンとつきあうことは正義だが、ブサメンが美人とつきあうことは絶対悪、というわけです。
 さらにもう一つ指摘しておけば、単純に腐女子は「そういうことを言われたくない」という心理が強い、ということも言えましょう。
 十年ほど前、『801ちゃん』などをきっかけとした腐女子ブームの折、杉浦由美子という腐女子ライターがブームに乗って、「腐女子は美人なのよ~ん」とウソを吐くだけの新書を盛んに出していたのですが、それが腐女子の総バッシングにあったのです。やはりオタク女子はこじらせを抱えた存在であり、性的に見られることになかなか素直になれない。「私たちのことは放っておいてくれ」といった心理が強いのでしょう。いえ、つまり、ということはライトでないオタク女子はそこまでこじらせているわけであり、だからこそ「ライトオタク女子」が望ましいというロジックには、正当性が強まるばかりなのですが。


*1 今となっては経緯を正確に把握することは難しいのですが、「すももまとめ:非モテが恋愛市場で勝つ方法」をご覧いただけば、すもも師匠自身の発言と、それに対するリアクションを最低限、ご覧になれます。
 この調査自体、師匠が独自に行ったもののようで、「ライトオタク女子」の定義は何かなど、細かいことはよくわかりませんが(何しろ詳細は師匠が莫大な値をつけてデータ販売して、膨大なカネを稼いでいます!)、その辺はあんまり重要じゃないので、置きます。

*2 ぼくは今まで、「ツイフェミ」を主語に何かを語ることには、慎重であるべきと考えてきました。「主張」は「ツイフェミ」も「プロの、言論人としてのフェミニスト」も大差ないし、であれば「一般人」に過ぎない彼女らを叩く暇があれば本丸の、プロであるフェミニストの批判をすべきと考えるからです。また、すもも師匠のお友だちである白饅頭や青識亜論がそうしたプロのフェミニストを延命するため、ツイフェミとの八百長試合を続けていることは、既に何度も述べてきました。

 ただ、この「ツイフェミ」はぼくがここしばらく「ブス」と表現している層、即ち一般的な女性たちの中の、あまり恵まれず、それ故にこじらせて「フェミ」を齧ってしまった層を総称する言葉ともなり得る。そこで本稿、そしておそらくこれから以降もそうしたニュアンスで「ツイフェミ」という言葉を使う機会が出てきましょう。


 しかしここで一番、押さえておくべきポイントは、期せずして、「男に女を宛がえ」論者というものはやはり、いなかったということが確かになったということです。
(これ、極めて重要な指摘だと思うんだけど、みなさん、もうお忘れですかね)
 折に触れて述べていますが*3、要するにネット上には(「ツイフェミ」的な女性が主張する)「弱者男性どもが、我々に女(嫁)を宛がえと主張しているぞ」との「通説」が一定層、ある。しかしこれは男性側が「女性は男性を主夫にしようとしないのだから、家庭に収まってもらった方が得である」との主張をしているのを彼女らが「情緒化」して解釈しているのではないだろうか……というのがぼくの想像です。 すもも師匠の主張に、「ツイフェミ」たちは「オタク女子に何て失礼なことを」と超過剰反応をもって返しました(彼女らの方がオタク男子に対して失礼だと思いますが)。つまり彼女らの耳にはまさに、師匠の提言が「オタク男子にオタク女子を宛がえ」というものに「聞こえて」しまっていたのですね。こうした一定層の女性たちの振る舞いが、上のぼくの仮説の傍証となっているとは言えないでしょうか。
 そしてまた、これが「性犯罪冤罪」などと全く構造を同じくしていること、即ち「負の性欲」を原因とする「女災」の一つであることも、こうなれば指摘するまでもありません。
 ――以上のような次第で、少なくとも本件については、すもも師匠が一方的な被害者で可哀想だ、とぼくも思います。


*3「男性問題から見る現代日本社会」など。


 ですが皆さん、この話題、何か思い出さないでしょうか。「オタク女子はオタク男子とつきあおう」。
 そのような主張をしていた人物が以前、いたような……はい、『腐女子の心理学』、『腐女子の心理学2』の著者である山岡重行師匠ですね。『腐女子の心理学』については、当ブログでも採り挙げました*4ので、できればそちらも読んでいただきたいんですが……(以降、本稿では『腐女子の心理学』を『1』、『腐女子の心理学2』を『2』と表記します)。
 いや、本当に事情が複雑でどうご説明申し上げていいか迷いますが、まず、問題の発端は北田暁大師匠編著による『社会にとって趣味とは何か』という本です。同書において、師匠は偏向した統計を開陳し、「オタク男子は保守的なジェンダー観を保持している悪者だ! しかし腐女子タンは勇猛なるフェミニズムの闘士だからボクちんとつきあって! (;´Д`)ハァハァ」などとキモいことを言っておりました。いえ、後半はぼくの創作ですが、大体まあ、そんなんでした*5
 そして北田師匠は先行する山岡師匠の著作、『1』の方をやり玉に挙げ、そこにあった「腐女子もリアル恋愛に興味はあるんだから、オタク男子とつきあえばいいよ」といったアドバイスへとことさらに憎悪を燃やし、攻撃を加えていたのです。北田師匠は「ボクちんのママになってくれるフェミニストの腐女子タンに悪しきオタク男どもとつきあえとは何ごと!!」と、それこそ上のツイフェミに劣らぬ怒りを炸裂させておりました。 その意味で山岡師匠もまた、北田師匠にわけのわからぬインネンをつけられた被害者、といった感じで、まさにすもも師匠と同様ですが、ただ……やはり、「フェミニズム」そのものの正しさを前提視している点が気になり、こうして「師匠」呼びをして、当ブログでも大いにからかってしまったのです。
 見ていくと腐女子を「セクシャルマイノリティ」に準えて語っているような面もあり、それはどうかなあと。時々ぼくは「萌えオタは二次元性愛者という名のセクシャルマイノリティなり」といった「主張」を採り挙げ、批判します。政治運動的にも望ましくないし、そもそも事実と違うと考えるからです。本書にもそれに近い匂いを感じて、ブログでも毒づく結果となりました。


*4「腐女子の心理学腐女子の心理学(その2)
*5「リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』(その2)

 さて、以上が基礎知識です。長くてすみません。
 そういうわけでやはり山岡氏の著作には全幅の賛同はできないのですが――あぁ、今まで「山岡師匠」だったのに「山岡氏」って言ってるよ!
 すんません! 何か意味ありげに掲げたこの『腐女子の心理学2』ですが、まだ通読できていません!
 実のところ、本書は去年の二月に出版されたので、もう一年経っているのですが……。
 い、いや、何で急にこんな言い訳がましいことを書くのかとお思いかもしれませんが、この『2』が出版されたのは、山岡氏の北田師匠への怒りが原動力となっていたからなのです。
 何しろ通読していない以上、本書の内容に関してはひとまず、あまり語ることもできないのですが、実は発売当時(即ちもう一年も前なのですが……)、出版記念イベントが行われ、ぼくも山岡先生にご挨拶させていただきました。


 ――おい兵頭よ、それで急に山岡氏におもねることにしたわけか?



 はい(肯定)。
 い……いえ、上にもリンクしたかつての『1』評については(読み直すと結構非道いことを書いているのですが)翻すつもりはありません。
 ただ、本件(北田師匠とのバトル)においての山岡氏の主張については、ぼくは全面同意します。
 北田師匠の統計の恣意性について、ぼくも知識のないところを苦心惨憺しつつ何とか批判しましたが、専門家である山岡氏も否定的ということで、北田師匠の本が信頼できないということは立証されたと言っていいでしょう。
 出版記念イベントにおいても、山岡氏は北田師匠が本の中でオタク趣味を「たかが趣味」と蔑ろにするような記述をしていることに怒りを露わにして(ここはぼくもブログで指摘していましたよね)、「えぇと、著作のタイトル、何だっけ、『社会にとってたかが趣味とは何か』だったけ?」などと言って、会場の爆笑を誘っておりました。 もう一つ、山岡氏の怒りは北田師匠が腐女子を「フェミニスト」に仕立て上げようとしている点にありました。氏はフェミニズムそのものは好ましいと考えていると思しく、ぼくもそこを批判したのですが、しかしこの態度は、「仮ににフェミが正しいとしても、研究はそうした希望的観測に囚われず、公正な視点で臨むべきだ」と考えているからこそであり、冷静なスタンスだと思います。


 さて、これら山岡氏の指摘については既に出版後、ネットでも話題になり、いずれにせよバトルは山岡氏の勝ちに終わった……と言っていいかと思うのですが。
 実は少し前、同書がまたしてもプチバズりました。 すもも師匠がツイッターで『2』を採り挙げていたのです。
 すもも師匠と言えば、白饅頭の手先……あ、いや、子分……あ、いや、その、眷属――何か、格好いい表現なのでこれで勘弁してください。
 え~とですね、ぼくのすもも師匠に対する評価は、以下のような具合です。 データを基に言説を推し進めるスタイルには感心しますし、また、「非モテはモテ幻想から解放されよ」といった言説(いわゆるミグタウ称揚論)に、断固としてノーを突きつけ、「そんな思想は人を幸福にしない」と表明するスタンスにも好感が持てます。これらの高評価は、今も覆ってはいません。
 一方、しかし同時に「女性たちよジェンダー規範から解放されよ」との「ジェンダーフリー」を唱えており(それって人を幸福にしないんじゃないですかね)、やはり洗っても洗っても縞模様の落ちないシマウマだ、とも思います。
 さて……そんなすもも師匠、どういうわけか『2』を採り挙げながらも、ぼくがさんざん批判した北田師匠の統計を持ち出し、称揚していたのです。いや、これじゃあ北田師匠のデータが山岡氏発のようにも読めてしまう。どういうことか……。
 ぼくは師匠に再三、リプを送りましたが一体全体どういうわけか無視され続けました。
 すもも師匠は北田師匠のデータに対し、

これは本当に良書だと思う。もうひとつ個人的に衝撃的な結果があった。「男性オタク」はジェンダー保守的な価値観が高い。これは割と薄っすら感じていたことだけど、ここまで顕著だとは。 pic.twitter.com/DhCNpATx0G


― すもも (@sumomodane) December 14, 2019


 などと自分の見解に適うと、気をよくしていました。もっとも、直後に



なぜこうなるのだろう。オタクは草食的なイメージがあるのでこのようなある意味「男らしさ」を肯定する結果が意外。


― すもも (@sumomodane) December 14, 2019


 とも言っており、どちらが本音か(それとも師匠の中ではこの二つが矛盾なく同居しているのか)不明ですが、恐らくは前者こそが本音で、自分にとって好ましいデータを否定したくないがため、ぼくの進言を無視し続けていた、というのが実情ではないでしょうか。
 ところがその後、師匠は「『2』はデータ部分を見ただけだが、いずれじっくりと通読したい」などとつぶやいていたのです! ぼくも手元の『2』を見て、やっと気づきました。
 山岡氏が批判的に採り挙げた北田師匠の統計を、すもも師匠は山岡氏自身が提示したデータであると誤読していた可能性が、極めて高いのです!!
 さらに、その「まだ読んでない」旨のつぶやきを、すもも師匠はすぐに消し、山岡氏のツイートをRTしていました。
 つまり……ぼくの指摘を読んだ師匠はことの次第に気づき、一応の言い訳のつもりでそのようにしたのでしょう。
 しかし、それならばそもそも一連のツイートは全部消すか、或いはことの次第をちゃんと報告すべきでしょう。このままでは山岡氏の本が誤解されたままになりかねません。影響力の強い垢にこうしたことをされるのは巨大な迷惑です。
 またこうなると、すもも師匠の読解力、知的誠意、のみならずオタクへのスタンスも、信頼に足るものかどうか、極めて疑わしいと言わざるを得ません*6
 すもも師匠も山岡氏も「オタップル」をカップリングさせようとして炎上しました
。 二人を攻撃した北田師匠、そしてツイフェミたちにあったのはオタク男子(=非モテ男性)へのぶれのない真っ直ぐな憎悪でした。
 しかし、上に挙げた言動を見る限り、すもも師匠もまたオタク男子への軽蔑を共有しているように見えます。オタク女子は先進的なのに比べ、オタク男子は保守的だ、と(もちろん、師匠自身の炎上騒ぎがそれが間違っているということの証明になっているのですが、そこはまあ、置きます)。
 しかしならば、すもも師匠は何故、あのような提言をしたのでしょうか。
 仮に北田師匠のオタク観、そしてジェンダーフリーが好ましいのだというイデオロギーが正しいとするならば、「オタク男子は悪だからオタク女子という正義とカップリングさせるなど、まかりならぬ」という北田師匠の結論が、理に敵っています。すもも師匠はすぐにもこれに唱和すべきでしょう。
 こうしたすもも師匠の振る舞いは、丁度、ポルノを全否定するフェミニストたちへの絶対服従を再三誓いながらも、表現の自由の、オタクの味方であると詐称し続ける師匠の親分たち、つまり白饅頭や青識亜論の振る舞いと「完全に一致」しています。
 或いは、山岡氏のツイートをRTしたように、すもも師匠は北田師匠のデータが間違っていると知り、(だとすると、これはぼくが言ったからなのですが、しかしもちろん、ぼくへ感謝することもなく)一応、心を入れ替えて、その上で上のような提言をした、と考えるべきなのでしょうか。
 そうなると、この炎上の原因はぼくであったことになってしまいます()。
 もっとも、ならば、師匠はフェミニズム的な価値観を捨て、考えを変えたのか、となるとそれは疑問です。石川優実師匠の裏切りの後も「フェミを信じてくれ~~~!!」と哀願を続ける青識亜論と、似たようなことを考えているのではないかなあ……というのがぼくの勘繰りです。


*6 以上は「すもも師匠、北田暁大師匠のデマ本の記述を流布する。」にまとめられております。

 ――さて、中途半端ですが、今回はこんなところです。
 一応、まとめめいたことを書きますと、ぼくも「オタク男子はオタク女子とつきあおう」という提言自体はことさらに悪いとは思いません。しかしそれに対する「ツイフェミ」の抵抗はハンパない。それはまさに「負の性欲」という「女性ジェンダー」がいかに強固に彼女らを縛っているかの、そのままの証明になり、「女災」の存在を何よりも明白に世に知らしめるきっかけとなった。ぼくたちは「優位」にある女性たちに「幸福を分けてください」と頼み込むことがいかに困難かを、すもも師匠の振る舞いを見て、反面教師にせねばならないのです。 必ず近いうちに、表題となっている『腐女子の心理学2』のレビューをしますので、少々お待ちください。


秋葉原のアダルトゲーム広告問題

2019-12-07 01:42:07 | オタク論


※この記事は、およそ11分で読めます※

 ――どうも、ブログの更新が遅れております。
 いささか時機を逸しましたが、この話題。
 というか、そもそも当ブログはあくまでサブなので、興味を思ってくださっている方は、noteニコブロをチェックしていただきたいのですが……。

 秋葉原の通りに掲示されていたアダルトゲームの広告が問題となり、取り外されるという事件がありました。詳しくは各自調べていただきたいのですが、例えば弁護士ドットコムなどでも報じられる、それなりの話題となっているようです*1
 例によって、ネット上での喧々諤々が起きましたが、どうにも今までとは旗色が違うご様子。
 ここしばらく、ツイッター上で「表現の自由と世間様との折りあい」みたいなテーマが語られているのが目立ってきている気がします。これは宇崎ちゃん問題の時点でも散見されたのですが、この看板の問題でそれが顕在化してきたように、ぼくには思われます。ついつい調子に乗って、ツイッターでは

或いはこの看板こそが、「表現の自由クラスタ」の墓標になる、のだろうか。



 などといった憎まれ口を叩いてしまいましたが、もうちょっと穏当に表現するならば、「表現の自由クラスタ」が今まで何とか見まい見まいとしてきた論点へと、「一般的なオタク」の目が注がれたこと、それにより表現の自由クラスタと一般的なオタクとの間に乖離が生じつつあることが、本件の本質であると、ぼくは考えます。

*1 秋葉原にアダルトゲームの巨大広告 東京都が現地調査、千代田区は指導へ

 本件と、今までの碧志摩メグなどを筆頭とする数々の案件との差異を、ちょっと思いつくままに挙げてみましょう。

 1.まず何より一目瞭然「性的」であること
 2.クレームがどうも、フェミニスト発ではないらしいこと
 3.オタクのかなり一定の層が、撤去をよしとしていること


 などでしょうか。
 そう、今までの案件と本件とは、全くの別です。
 まず、最初に抑えておくべきポイントは1.でしょう。
 記事を漁ると、

広告は「おっぱいハーレム」や「孕ませ」などの言葉とともに、肌を大きく露出させた女性キャラが10人描かれていた。


 などとあり、上にある「おっぱい」や「孕ませ」とのワードが象徴するように、広告の絵自体が一目瞭然、性的なもの。今までは基本、肌の露出も少ないもの、性的な要素がどこにあるかわからないものが大多数でした。フェミの言い分は、それに対して碧志摩メグの時の「乳袋がある」、駅乃みちかの時の「尿意を堪えているように見える」から性的である、といったもので、まあ、前者はともかく後者は明らかに言いがかりのレベルでインネンをつけていたのだから、本件とは事情が異なります。
 もっとも、いわゆる「萌え絵」はあまりにも女性を性的に描く技術を突出して進化させすぎているとは、言える。「乳袋」もそうだし、「尿意を堪えている」というのは論外としても、この駅乃みちかは「赤面している表情」で描かれており、それがある種の性的なものを連想させなくもなかったわけで、そこ一つとっても、いかに技術が超進化を遂げているかがわかる。ぼくはこれは基本、(それこそ『ジャンプ』における透かしによる乳首描写同様)規制が生んだ規制逃れという素晴らしい文化である(アーティストの知恵の見せどころである)と思うものの、さすがに突出しすぎ、という感じがしないではありません。
 さらに本件に立ち返ると、性的だ性的だと言っておきながら何ですが、実は本件のポスターも下着(だか水着だか)で胸が隠されており、乳首は出ていないのですな。
 ただ、そういった(乳首のあるなしといった、杓子定規な)基準を置いて、ごく一般的な感覚として、当該ポスターはちょっと性的に過ぎるということは一応、言えましょう。
 例えば記事にもあるように、広告には「孕ませ」という言葉があり、そこが注目されていました。つまりこの広告に対する忌避感の何割かは、このワードに依っていると言ってもいいのです。で、普通に考えてこの「孕ませ」という言葉が何故忌避感を催させるかとなると「生々しい」からでしょう。「えっちなのはよくない」からなのです。

 だからこそ、2.にあるように、おそらく本件はフェミニスト発のものではなかった。
 あくまでぼくの観測範囲内ですが、本件におけるフェミはどうにも寡黙です。
 もちろん、本件に一番最初に声を上げたものが誰かは、わかりません。逆に今までの事例でも、フェミニスト以外の人が声を上げた事例もあったことでしょう(そういえばピルの者は碧志摩メグについて、武田邦彦氏が言い出しっぺだとデマを流しておりましたなあ*2)。
 しかしネットを見る限り(上の記事などを見ても、クレームを入れた主体などが窺い知れず、ネットの状況から想像するしかないのですが)3.にあるように、撤去を妥当と判断した層がオタクの間にも一定層おり、それが今回のような世論へとつながっていったわけです。
 即ち、要するに、「オタクの一定層」、恐らくマジョリティは恐らく一般的な人々のマジョリティ同様、本件を妥当と判断した。
 そしてそれは、「セックスは基本、秘めごとである(=えっちなのはいけないと思います)」という世間一般のコンセンサスを、オタクもまた共有していた、ということなのです。
 或いはまた、仮に妥当とは思わないまでも、「弱い立場なんだから、世間様に対してはへらへらやっとけ」という世間知で、まずは世間様に同意した者もいたことでしょう。
 お断りしておきますが、フェミは「えっちなのはいけない」などと、ゴマ粒ほども思っていません。あくまで、「自分にとって不快な表現」をこそ「女性の主体が描かれていない」などと称して、排除しようとしているだけなのです。それは、いわゆる腐フェミがBLを大袈裟に称揚することからも、明らかでしょう。
 表現の自由クラスタは責任逃れのために詭弁を弄して、ここをミスリードし、「あの偽フェミニストたちは実は保守派なのだ」などと称し、自分たちの仲間の罪を保守派への擦りつける傾向があります。
 また一方、フェミニストの中でも単に「自分にとって快のあるポルノだけは認める」と言っているだけの者を大仰に持ち上げ、そうしたフェミこそを「真のフェミ」と称揚することでフェミニズムを延命しようともします*3
 しかし本件を見れば見るほど、「フェミのロジックによる規制には立ち向かう必要があるが、一般的な大衆感覚による規制には、理がないとは言えない、しかしながら表現の自由クラスタはそうした立場を決して取りはしない」ということが明らかになるのではないでしょうか。

*2「東大の受験責任者から直接訊いた」…何故、日本のフェミニストはデマを流すのか
*3 典型は白饅頭、青眼鏡など。「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件」及びそれに続く二つの記事をご覧ください。


 もっとも、この看板自体、法的どうなのかというのはグレーゾーンと言っていいようです。上のニュースでは

千代田区でも、区条例に抵触する可能性があるとして、関係部署で連携し、今後は広告を掲示した店舗の会社に指導していくという。広告は11月8日までには取り外されている。


 とあり、要は「可能性」という段階での「自主規制」だったわけです。
 しかし、とはいえ、何しろ、表現の自由クラスタは「自主規制」もまかりならんというのが信念のようで、本件に対して怒りを燃やしておいででしたが、そこがまた、一般的なオタクとの価値観の乖離を生んでいるようでした。
 そもそも自主規制がダメとなると、もう、この地上から「自由」というものを一切廃し、全てを「表現の自由クラスタ」様のご意向のままにする以外、許していただく術はありませんが、まあ、それこそが彼らの真意なのでしょう
 ……いえ、とまで言っておいてなんですが、確かにことが「フェミのクレームの末の自主規制」の場合はぼくだって「簡単に折れるなよ」「フェミのクレームけしからん」と感じます。もちろん、その場合、ノイジーマイノリティへの過剰反応だといった形での批判は考え得るでしょうが、いずれにせよ「自主規制は規制への道だからけしからぬ」といった批判は、あまりしても仕方がないわけです。
 ぼくは本件を見ていて、幼女物のイメージDVDを想起しました。実は一時期、コミケカタログにも広告が載っていたことがあるのですが(不評だったからか、すぐになくなった時は胸を撫で下ろしました)小学生、下手すっと三歳時とかがマイクロ水着姿でまあ、何かいろんなことをするという内容です。これを見たら、恐らく世間の多くの人は、「法律で取り締まれ!!」と言いたい衝動に駆られましょう。が、「ではこれから子供の水着姿自体が、映画やネット動画などにおいても一律NGとすべきなのか」となると、恐らく多くの人がそれは過剰だと感じるはず。
 これは、結局、法律で対処するような問題ではないし、恐らくアメリカとかだと宗教が、そして一昔前の日本では世間という概念がストッパーになっていたはずです。
 本件の「自主規制」も、それと同じです。ぼくはこの看板を「グレー」であると書きました。「区条例に抵触する可能性がある」という「可能性」の時点で看板が引っ込められたわけで、抵触していたかどうかは現時点では不明です(絵に描かれたキャラが「性的ではあるが、乳首は出ていない」ということもまた、本件の「グレーゾーン性」を象徴しています)。
 この自主規制に対して表現の自由クラスタは激おこでしたが、この「自主規制」こそが上に書いた「世間知」が形となって表れたものであり、まあ、そこは納得せざるを得ないわけです。
 逆にいえば、そうした「世間知」による「遊び」の部分を許さず、全てを明文化する超法治社会とでも称するべきものが、表現の自由クラスタのお好みなのでしょう。いえ、本音を言えば何でもかんでも自由のアナーキズムこそが彼らの理想であることは容易に想像ができ、その前段階として、法の「遊び」の部分を突っつく、というのが彼らの方法論なのでしょう。
 そもそもこうした場合、「表現の自由クラスタ」は「何を性的に感じるかは人それぞれ」といった空論をもてあそび、「一般的な感覚によるジャッジ」を嫌う傾向にありますが、それ自体が自主規制を含めたあらゆる規制を無化してしまいたい、との情念に支えられており、それを演繹すると彼らのお友だちである「ラディカルフェミニスト」たちの唱える「ジェンダーフリー」、即ち全人類のセクシュアリティの完全なリセットをすべき、との結論にしか到達しえないのです。

 さて、こうなると「表現の自由クラスタ」が「フェミ」と全くの同族であることが明らかになるのではないでしょうか。
 表現の自由クラスタは自主規制をも許さず、ゾーニングをも許さず、とにもかくにも平板で想像困難な「自由」を目標としており、そこに広告主の主体的判断が入り込む余地はない。
 フェミニズムもまた、あらゆるジェンダーを否定し、平板で想像困難な「ジェンダーフリー」を目標としており、そこに一般的な男女の主体的判断が入り込む余地はない。
 双方とも、「人類を自分の思うがままに支配すること」を目的とした、異界からの侵略者でありました
 一番わかりやすいのが以前にもご紹介した昼間たかし師匠の主張*4で、師匠はオタクが自分たちの思うがままに政治運動に参加しないことに焦れ、

本当に面白いマンガでも文章でもつくろうとしたら、市民社会には背を向けなければならないわけですよ。獲得するものは世界であって、平穏な趣味生活ではありません。
(https://twitter.com/quadrumviro/status/997042631312982017)


 などとオタクに檄を飛ばし、一方で

せっかくなので記しておくが、「オタクはパブリックエネミー(公共の敵)」といわれて、怒っているほうがオカシイ。最先端の文化が、世間一般から恐れられないということは、まずあり得ない。もしも「ボクたちオタクですけど、一般市民と同じですよ~」というのならば、もう文化としては衰退期に入っているということだ。
(https://otapol.com/2018/05/post-12531.html)



 などと、自分たちの政治運動の駒にならないオタクへの憎悪を露わにしています。

*4 左翼の異常な粘着 または私は如何にしてオルグするのを止めてオタクを憎むようになったか


 しかし本件で看板の撤去をよしとしない者たちに対し、「オタクが嫌われるのも仕方ない」「オタクもフェミも同レベル」といった声がかなり多く聞かれました。
 言うまでもなく、これはぼくのように「一般的なオタク」と「オタクを自称する左派」とは異なり、また、後者はノイジーマイノリティであるとの前提を導入していないが故のことです。
 ぼくが今まで「表現の自由クラスタ」だの、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」だのといった造語を濫用してきたのは、こうした事態を恐れてのことでした。
 左派寄りのオタクも多かろうし、またそもそもぼくが「オタク界のトップ」と呼ぶような、文化人面をしている連中は例外なく左派ですが、しかしネットで目立つ、そうした偏向した意見を振りかざす者たちがマジョリティだとは考えにくい。彼らは、一般的なオタクとはまた、区別して考えるべきである、それは丁度、「女性一般」と「フェミニスト」とを混同して語るべきではないのと、全く同じに、というのがぼくの考えです。
 昼間師匠を見ればわかるように、彼らの目的は第一には、フェミを延命させること、第二にはオタクコンテンツを殲滅すること、そして第三は、オタクの体内に爆弾を埋め込み、自民党、及び民家への特攻兵器とすることです。
 彼らは機会があれば、「体制側からの宣戦布告があったぞ」とぼくたちに赤旗、もとい赤紙を送りつけてくることでしょうが、ぼくたちはそれを拒否しなければならない。
 そのことははっきりと、認識しておきましょう。

京アニ放火犯はヤマカンを呼ぶ

2019-09-07 04:50:00 | オタク論


※この記事は、およそ12分で読めます※

 どうも、お読みいただきまして、ありがとうございます。
 当ブログ、基本的にニコブロ「兵頭新児の女災対策的随想」とNoteで発表しているエントリを遅れて発表することにしておりました(ちょっとした付記や改稿をすることもあるので、ある意味ではこのブログの文章こそが最終稿と言えなくもないですが……)。
 さて、それらブログで、今回から課金制を試みようとしました。
 自分にとって多少、大っぴらには書きにくい部分があったことと(傍から見ればどうということのないものなのですが……)、正直、少しでもリターンがないと書き続けていくことが難しくなりつつあると感じて、記事の最後だけちょっと、有料にしようとしたのです。兵頭新児の文章に何らかの価値がある、と考える方は少々の援助をお願いしたいと思ったのです。そんなわけで、Noteでは一部課金となったエントリがupされているのですが……。
 まず、当ブログでは課金することができないようです。
 ニコブロの方も課金制にするため運営に書類を申請したのですが、一週間という時間をムダにした挙げ句、「お前にカネを取らせる気はない。またそのNGの理由を告げる気もない」とのありがたいお答えをいただきました。(課金制にすることを思い立った、今回のエントリを)発表する前のことなので、要は「今回の記事に問題があった、というわけではない。とにかくお前にはカネを稼がせたくないのだ、あきらめろ」というわけです。
 こうして社会に害毒をばらまくフェミニズムは莫大な予算を得続け、それに抵抗する勢力は日干しにされ続けるのでしょう。
 まあ、グチっていても始まりません。
 こちらでは無料部分だけを公開することにします(それだけでも一応、完結しているんで……)。
 志をお持ちの方は、noteに飛んで、それ以降は課金の上、お楽しみいただければ幸いです。
 もう、Noteをホームグラウンドにしたい、という気持ちもあるんですが、あっちはあっちで、色替えもサイズ替えもできない仕様が今一なんだよなあ。

 さて、では前回の続きです。
 誰も気づかなかったと思いますが、前回記事のタイトル、「誰が京アニ放火犯に笑ったか」は、『ルパン』1stシリーズの「誰が最後に笑ったか」のもじりでした。で、今回は悩んだ挙げ句、同じく『ルパン』の「狼は狼を呼ぶ」をもじることにしたわけです。
 いや、そんなタイトルでお遊びをするような、軽く扱っていい話題でもないのですが、しかし元ネタを明かすことで、この「放火犯」と「ヤマカン」とを=で結べるということを示したくて、敢えて申し上げました。
 そう、この京アニの火災が報じられた当初、まさかここまで悲惨な事件となるとわかっていなかった頃、「犯人はヤマカンでは」といったジョークが囁かれました。もちろん、その時点でも不謹慎極まりないものではあったのですが、しかし「ある意味、それは正しかったよな」といった辺りが、本エントリの主旨となります。
 ぼくはよく知らないのですがヤマカン、つまり山本寛師匠、『らき☆すた』の監督を降ろされた方ですよね。で、それを怨んで(かどうかは存じ上げませんが)ことあるごとにオタクへの憎悪を吐露していた方です。
 そんなわけで、師匠はブログで本件についての記事、「僕と京都アニメと、「夢と狂気の12年」と「ぼくたちの失敗」」を発表、炎上しました。そこでは以下のような主張がなされています。

京アニは2007年、匿名掲示板の「狂気」と結託し、僕をアニメ制作の最前線から引きずり降ろした。
ここで言いたいのは、僕を引きずり降ろしたことへの恨み事ではなく、彼らが「狂気」と結託した、という事実である。

ここから彼らとネットの「狂気」との共犯関係、そして僕とネットとの飽くなき戦いが始まる。



 正直観念的で意味が取りにくい記事です。ネットで揶揄気味に言われる表現を使うならば、「ポエム」ですよね(この「狂気」とか「結託」について、具体的に語られた個所は文中にはありません。まあ、言えない事情もあるのでしょうが)。

「オタクがアニメを壊す」、そう僕は言い続けてきた。
ご丁寧に、事件の約2週間前に「カタストロフ」の予言までしていた。
僕の予言は、こんな最悪の形で、的中したのだ。



 オタクがもしいなければ、そもそも壊す前にアニメがここまでの発展したのか……については、可哀想なので問わないでおいてあげましょう
 まあ、本記事は最後までこんな調子。小金井のストーカー事件に言及するなど、その筆致は基本、純丘師匠と同じであり、基本的には前回の純丘評がほぼ100%、山本師匠にも当てはまると言って差し支えなさそうです。
 これ以降もブログでは本件について綴られていくのですが、「「被害者側」か「加害者側」か」においては以下のように宣っています。

僕は最初の一週間、嘆く術すら解らず、茫然としていた。
しかし、ある違和感に気付く。

どうもオタクたちが皆、ネットでさえ自己慰撫や相互憐憫に馴れ合っているのだ。
……あれ?

ひょっとして、お前ら被害者ヅラ?


 どうもオタクは本件について、青葉と連帯責任を負わねばならないようです
 性犯罪は全て男の連帯責任! と絶叫するフェミ何とかいう思想みたいですね(にもかかわらず、師匠はこの記事に対する罵倒として自分が「犯罪者予備軍」と呼ばれたことに怒っています。自分はオタクを犯罪者呼ばわりしておいてです)。
これは戦争である。」においては

これは事件ではない。「戦争」なのだ。
僕はそう確信する。
「オタクというテロリズム」との戦争だ。


 そう、まさに青葉が「アニメ」を恨んだように、師匠は「オタク」を怨み、両者を対立概念として捉え、敵を滅ぼそうとしています。オタクとアニメは表裏一体となってここまで歩んできた「同志」であろうに、青葉も師匠も相手を敵と認識し、殲滅せよと絶叫しているのです。この両者の世界観に、一切の違いはありません
 その次にupされたエントリである「オタクという「病」:症状・改(今こそ再掲)」は400字くらいしかないような短い記事なのですが、ここでちょっとだけ師匠の価値観が明らかになります。
 師匠は「ネットで暴れている、ムカつくヤツら」を列挙し、それにこう付け加えるのです。

こういう症状が三つ以上顕れた人達がいたら、まず逃げましょう。
そしてこう叫びましょう。

「僕はアニメファンです!あんなオタクじゃありません!」

私の作品は「再定義した意味」での「オタク」と呼ばれる、非常に非社会的な害悪的存在に観せるために制作している訳ではございません。


 何だか、非常に懐かしい気分に囚われました。
 そう、かつて「オタク」は「オタク業界内」の差別用語でした。
 80年代、オタクコンテンツと言えるものはアニメ(と、美少女コミック)のみでした。そのため、当時は今でいう「オタク」は「アニメファン」と呼ばれ(ないし自称し)、その中で、悪質な(ないし自分が悪質と認識した)者を峻別、排除するために「オタク」と呼んでいたのです。
 この「オタク」という言葉、当初は中森明夫師匠が差別用語として持ち出し、大塚英志氏が「そうした造語で仲間を分断するのはよくない」と腐したのですが、まさに中森師匠の思惑通り、「業界内差別用語」として流通するようになった……というのが経緯です。
 今では、「オタクは宮崎事件などをきっかけにした言わば“冤罪”をマスゴミに仕掛けられ、不当に差別されてきたのだ」といった史観が定着しつつありますが、これは歴史修正に近い。実際には「オタク差別」というものはオタク内差別、オタク業界の中でヒエラルキーが上の者が下の者をゴミクズのように扱っていたことこそが、その本質だったのです。
 前回エントリでは「サブカルしぐさ」という言葉を繰り返しましたが、実のところ、80年代のオタク界内部で専ら行われていたのが、この「サブカルしぐさ」であったのです*1
 しかし、では、何故そこまでオタク同士というのは、仲が悪かったのでしょうか。
 オタク文化というのは基本、男の欲望をストレートに表現し、それを肯定するものです。「萌え」などまさにそうですね。
 こういうことを書くと、「女性向けのものを無視するのか!?」「オタク文化は本来、女性が!!」と言いたがる人が出てきますが、今に至るまで女性向けのオタクコンテンツが、少なくとも公の場で否定的に扱われるのを、ぼくは見たことがありません。
 そう、現代においては男性性は全て悪、女性性は全て善、という恐ろしく薄っぺらで単純極まる価値観が、絶対のものとして広く深く信仰されています。ぼくは時おり、オタク文化を「裸の男性性」と形容しますが、男とは、裸になった瞬間、断罪される存在なのです。男とは、即ち悪そのものなのですから。
 つまり、「サブカルしぐさ」とは当初、オタクコンテンツという「悪しきもの」に耽溺している自分を誤魔化すため、「自分以外のオタクども」に「ケガレ」を負わせるためのテクニックであった。しかしオタクコンテンツが世に認められてよりは、その望ましい部分を手中に収めつつ、望ましくない部分(女性差別的とされる部分や、彼らにとってウザい下っ端のオタクたち)はツイフェミと同様にに切り捨て、見下し、否定するためのノウハウへと変わっていったのです。
 前回のエントリでは、純丘師匠は京アニを評価し、また自身もアニメファンであると強調していることをご紹介しました。そしてもちろん、それに嘘はないことでしょう。しかし彼の過剰な自意識は、「アニメなどという男の欲望に直結した、低劣な表現」をただ諸手を挙げて称揚することに耐えられませんでした。だから、持って回った『らき☆すた』の評価をし、「自分だけは他のオタクどもとは違うぞ」と強調せずにはおれなかったのです。そして、その時に援用されるロジックは、例外なく、フェミニズムなどをベースにした、ゾンビにも等しいリベラル的価値観です。男は、悪なのですから。それは宇野とも、『エヴァ』の時のサブカル君たちとも、*1に挙げたダニエル師匠とも「完全に一致」した振る舞いでした。

*1 今となっては、このことを覚えている人は少なかろうと思いますが、例えば「コミケの中心でオタク憎悪を叫んだ馬鹿者――『間違いだらけの論客選び』余話+『30年目の「10万人の宮崎勤」』」をご覧いただければその一端がおわかりになろうかと存じます。
 ここでは宮崎事件直後、コミケに取材に来た週刊誌の「差別的」なインタビュアーにサークル関係者が同調し、「オタク」に対して苦々しげに罵倒したり、また現在コミケスタッフを務めている兼光ダニエル真師匠らが「消費者」としてのオタクを侮蔑し、馬鹿にした商売をする作家たちを称揚するという実に奇妙な記述に行き当たります。
 この同人誌は「オタク外の悪者が、オタクを差別していたのだ」と実証しようとして、図らずも「オタク内の悪者が、オタクを差別していたのだ」と実証してしまったのだ、と言えましょう。


 しかし、不思議なことですが純丘師匠に比べて、ぼくは山本師匠を憎む気にあまりなれません。それは一つには純丘師匠が何とかオタクのネガティビティを表現しようとして、宇野辺りのロジックを援用しているのに対し、山本師匠はあまりに感情的で非論理的、その分、師匠の中のオタクへの憎悪がストレートに表現されており、それがある種、懐かしさ、言い換えれば親しみのようなものを感じさせるからです。
 純丘師匠が上からオタク資産を剥奪(それは『エヴァ』の時のサブカルのように)しようとしているのに対し、山本師匠はオタクと同じ位置に立ち、自分だけは何とか上に這い上がろうとして藻掻いている気の毒な人として、ぼくの目には映るからです。
 師匠が、例えばですが「俺、オタクアニメとかキョーミねーし。ジブリくらいのクオリティなら評価するけどね」とでも言っていれば、ぼくは素直に師匠を憎めたでしょう。「関係ないおっさんがエラそうにくちばしを突っ込んでくるな」と言っていれば済む話です。しかし、彼はアニメの中でもオタク的感性に特化した京アニの出身です。『らき☆すた』の監督です。これはオタク少女がオタクライフを満喫する日常を描くことをテーマとする作品。ぼくは未見なので、山本師匠がどんなふうにかかわったのかを存じ上げませんが、それこそEDでキャラクターたちが特撮ソングやアニメソングを歌う趣向それ自体が、或いは師匠によるものだったのかもしれません。
 もう一つ、(知識が偏っていて恐縮ですが)師匠はアマチュア時代、戦隊パロディ作品『怨念戦隊ルサンチマン』という作品を作っておりました。いや、これも未見なんですが、今で言えばリア充なり陽キャなりを仮想敵にした作品。
 つまり、師匠はオタクとして、明らかにぼくたちと極めて近しいところにいた人物なのです。
 そう、彼もまたオタクであり非リアであり陰キャだからこそ、近親憎悪でオタクを憎んだ。痛ましいけれども、ぼくたちも師匠もそこまで追い詰められた者同士です。
 クラスのガキ大将にいじめられる、スクールカーストの最下位から二番目だからこそ、師匠は最下位であるぼくたちを泣きながら猫パンチで殴っているのです。
 それは、実のところ青葉の振る舞いと非常に似ています(違いは、一応青葉がその攻撃衝動を自分よりも持てる者へと向けたということだけでしょう)。
 今回、アニメ評論家である氷川竜介氏がツイッターで積極的に発言していたのですが、そんな中に、「この件でいろいろ取材を受けたが、取材する側にも京アニのファンがいたりして、心強く思うと共に、随分と時代が変わったとの感慨も受けた」といった主旨のものがありました。
 しかしその氷川氏も京アニファンの取材者も山本師匠も、いえ、青葉でさえも、「京アニ」によってつながった、言ってみれば「友だち」でした。例えばですが、十年ほど前のネットの匿名掲示板で、ぼくたちもひょっとすると、好きなアニメの話題で彼ら彼女らと語りあったことが、或いは、あったかもしれないのです。
 しかし、いつからか青葉と山本師匠は道をたがえてしまった。
「オタク」という言葉に、自分の中にもあるネガティビティを封じ込め、他者へと擦りつけるという性犯罪冤罪にも似た卑劣な振る舞いは、既に破綻しています。山本師匠はそのやり方がまだ「アリ」だと思い込んでいる、時代に取り残された哀れな人間なのです。
 それと全く逆方向に位置にするのが、取材者がファンと知り、力づけられたという氷川氏のエピソードです。ぼくにはこのエピソードが、まさに「初めてボーナスをもらったと喜んでいた、本件で殺されたスタッフ」に重なって見えます。
 本来は、そうした格差はあれど、ぼくたちは友だちであった。
 しかし、自分たちの利益のためにそれを分断した者がいる。
 青葉は、山本師匠は分断された、見捨てられた側であった。
 ぼくが前回、純丘師匠や宇野をこの事件の「真の黒幕」と形容したのは、彼らが分断した側、見捨てた側であったからです。
 そうした黒幕たちの振る舞いについて、ぼくたちは敏感であらねばならないのです。

※以降、その「黒幕」についてちょっとだけ詳述します。noteで課金の上、お楽しみください。何かこう繰り返すとかえってがめつく感じるなー。たった\100なのに……。

誰が京アニ放火に笑ったか

2019-08-21 23:58:45 | オタク論


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 果たしてここをご覧になってくださる方にどれだけ意味を持つ話かわかりませんが、ニコブロの方でやっている「兵頭新児の女災対策的随想」が目下のところ、見られなくなっております。
 実は課金コンテンツを用意しようと思ったところ、それには大々的な手続きが必要とのこと。
 恐らく数日中に復旧できるかと思うのですが、ではこちらの方をどのようにすればいいかは今のところ不明。
 恐らく課金もできないことでしょうし、途中までお読みいただいて、「ここから先はニコブロで」ということになるかも知れません。
 まあ、ともあれそんなわけでご理解いただけると幸いです。

 さて、というわけで京都アニメーション放火事件です。
 旬の話題には、動物の腐乱死体を見つけた時のハイエナのように飛びつくのが正しい態度なのでしょうが、ヒマが取れなかったことに加え、事件の背景がわからないままにエラそうなことを書くのもためらわれ、またどのような切り口で語るべきかという戸惑いもあったわけです。そんなこんなで、なかなか採り挙げることのしにくかった話題なのですが、ちょっと、面白い切り口を見つけました。
 大阪芸術大学の純丘曜彰教授による、「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌」という記事*1です。ここで純丘師匠は京アニを「麻薬の売人以下」などと、舌鋒極めて罵っておりました(突っ込みたい方もいらっしゃいましょうが、後に述べます)。
 師匠は今回の事件を痛ましいことではあったが、予兆はあったとして、16年に起きたアイドルのストーカー事件を例に挙げます。また、『ミザリー』などに言及、いわゆるスターストーカーについてのウンチクも語られるのですが、言うまでもなく、そんなのは昭和の時代からあった普遍的なこと。どちらかといえば、師匠の舌鋒は「今日日的、オタクコンテンツ」に向いているように思われます。

アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、(中略)『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。

にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。



 アニメといった時、ぼくたちはセルアニメを想起するけれども、それは表現手法としてのアニメのワンオブゼムだぞ。また近年のアニメは学園ものばかりだが、SFなど多様なテーマがあるぞ。
 何というか、「ああ、そうですか」という感想しか浮かんできませんね。
 こういうの、特撮や漫画に置き換えてもよくあるパターンですよね。ぼくたちは「主人公がヒーローに変身して、怪獣をやっつける作品」をして「特撮」と定義しているけれども、表現手法としての特撮はもっと幅広いものであり、云々。そりゃお堅い文芸作品で、テーマを表現するために特撮を使った優れた作品もあろうし、それを否定する気もないけれども、ぼくたちが『仮面ライダー』を観ている時にそれを持ち出されたって、そんなツッコミは余計なお世話としか。
 師匠はいわゆるオタクコンテンツが「学園もの」ばかりであることを嘆きますが、そうした作品よりもなろう的な転生物が流行している現状を考えると、この指摘自体がもはや周回遅れなものでしょう。
 ただ、ここで重要なのは師匠が「終わりなき日常というモティーフ(に対するdisり)」に拘泥している点。上にある『ビューティフル・ドリーマー』(以降『BD』)が、ここでは極めて重要なキーワードとなっています。これは『うる星やつら』の劇場作品で、押井守監督の作家性が極めて強く出た作。原作者があまり好んでない作としても、知られます。内容はラムの「いつまでもこの日常が続いて欲しい」という願いが現実化して、キャラクター一同が永遠の「文化祭前夜」の時間の中に取り込まれるというお話。80年代当時のモラトリアムな雰囲気を表していたとも言えますし、評論などでは「オタクの在り方への風刺だ」といった語られ方をすることが多い作品です。
 その代表は宇野常寛で、本作を(に限らず『うる星』やKEY作品を、大幅に事実を捻じ曲げて)持ち出し、オタクへ酸鼻を極める罵倒を繰り返しておりました*2。しかし遡って言えば、この論調は一種の「サブカルしぐさ」、即ち『エヴァ』の頃にオタクからコンテンツを剥奪せんと目論むサブカル君たちが、オタクを貶めるために持ち出したのが元祖であったように思います。
 そう、元はサブカル君が言い出したことを宇野がパクり、さらに純丘師匠がそれをパクった。師匠の物言いに、オリジナルの部分はまるでないのです。
 ……あ、いや、それは師匠に失礼かもしれません。師匠はアニメ版『らき☆すた』の最終回がやはり「文化祭前日」であり、EDが『BD』のテーマを下手に歌ったものであると指摘、

つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。


 と主張していました。これは師匠独自の指摘かもしれません。
 もっとも、かつてのアニメ(や特撮)のテーマをキャラクターたちが「下手に歌」うのは本作の毎回の趣向であり、そこに「トゲ」があるものかについては、疑問としか言いようがないのですが……(あ、すんません、ここまで言ってる割にぼく、『BD』も『らき☆すた』も未見なのですが)。
 ……しかし、アニメを観ての「オタどもは気づいてないだろうが、これはおまいらをバカにしているのだ! 選ばれし者である俺だけはそれに気づいたのだ!!」という格好の悪いイキり、上に書いた「サブカルしぐさ」と「完全に一致」していますよね。「おまいらオタには『エヴァ』の高尚さはわかるまいが、俺たちはわかっているぞ!!」というわけです。
 しかしこういう自意識過剰な妄想、ヤバいヤツが「AKBの○○ちゃんがテレビ画面から俺にだけ『結婚しよう』と電波を送ってきたぞ!」と言っているのとも「完全に一致」しています。何だか心配なので、彼らが「京アニが俺のネタをパクった」とか言い出したりしないか、国民は監視の手を緩めてはなりません
 普通に考えれば、(『らき☆すた』はともかく)『BD』は『うる星』そのものの持つ、「終わらない文化祭」ノリを自己批評して見せた作品といっていいはず。それは例えば、『ウルトラセブン』の正義に対して、「ノンマルトの使者」という作品でアンチテーゼを投げかけているのと同じ。そこをドヤ顔で持ち出す振る舞いは、「相手にもらった武器で相手を撲殺している」というゲスなものでしかありません。

*1 既に削除されてしまっているのですが、魚拓は今も見ることができます。
1ページ目 2ページ目 3ページ目 4ページ目 改稿後
*2「ゼロ年代の妄想力」など。一読いただければ、宇野の妄言に事実の反映が極めて少ないことがおわかりいただけようかと思います。


 ――さて、しかし、ここで言っておかねばならないのは、「オタク文化は終わらない文化祭である」という指摘は、それ自体は別に間違ってはいないということです。
 それは『うる星』に始まり、『ときメモ』的なギャルゲーを経て、学園ラノベ全盛になったオタクコンテンツの経緯を見ても、自明でしょう(だから、転生物全盛の今は、むしろ「オタクコンテンツ衰退期」でありましょう)。
 そしてこの指摘については、「間違ってもいないけど、しょーがねーじゃん」と言い返す他ないと、ぼくは考えます。
 大塚英志氏が80年代、「現代社会はイニシエーション(大人になるための儀式)が失われた」と盛んに指摘していました。時々言及するように、80年代というのは、ぼくたちが「卒業」することを止めた時代です。アニメでも「遠い星から来たヒーローや少年の友だちが、故郷の星に帰るかと見せかけ、また舞い戻ってくる」といった「外し」オチが増えたのがこの頃です(そう考えると、純丘師匠の手つきは『ドラえもん』をデマによって貶めた稲田豊史師匠のそれと全く同じであることがわかりますね*3)。
 大塚氏はイニシエーションのない現代に危機感を持つと同時に、なくなってしまったこと自体が問題なのだから、大人になれない者をただバッシングするのは間違っている、との論調を展開していました。宮崎事件の時、マスコミが盛んに「(宮崎は、そしてオタクは)現実と虚構の区別がつかない」と書き立てましたが、大塚氏はそれに対して「ならばその現実とやらを屏風から出せ」と反論したのです。これを上のフレーズにこと寄せて表現するならば、「お前らが卒業後のルートつぶしたからしょうがなく文化祭やってんじゃん」とでもいったことになりましょうか。
 ましてや、今となってはぼくたちは正社員になることも結婚することも、極めて難しい状況。そんな状況下で学園ラブコメを楽しむオタクに毒を吐くヒマがあるなら、世の中の景気を少しでもよくすること(イニシエーションを邪魔するフェミニズムを打ち倒すこと)を考えるべきでしょう。
 もちろん大塚氏の発言は80年代のもの。宇野よりも、純丘師匠よりも、遙かに前。師匠らは周回を二兆周くらいは遅れたうわごとをドヤ顔で垂れ流すことで、いまだ小銭を稼ぎ続けているのです。
 そして、宇野をまるでオタク評論家ででもあるかのように受け容れている連中もまた、彼らの後をドタドタ走っているに過ぎません。


*3「ドラがたり」において、(ウソにまみれた)『ドラえもん』のヘイトスピーチを繰り返した稲田豊史師匠、わかりやすすぎることに宇野常寛の子分です。


 さて、上に「後に述べます」と書きましたが、その話題についても拾っておきましょう。
 実のところ炎上後、純丘師匠は慌てて改稿、そして削除と対応を二転三転させ、最終的にはネット記事の取材に応じて上の「麻薬の売人以下」とは、京アニのことを指した言葉ではない、と抗弁しました*4
 しかし、それを素直に読む限り、師匠の本意は「アニメ界全体」が「麻薬の売人以下」である、というものになってしまように、ぼくには思われる。
 即ち、(この辺、師匠も混乱して自分でもよくわからなくなっちゃってるんだという気がするのですが)こうなるといよいよ、師匠の物言いは『エヴァ』の時の「サブカルしぐさ」へと近づいていくのです。つまり、それは「俺くらいになると真に価値あるコンテンツを評価できるが、オタクどもは低劣な作品を観て喜んでいる云々」というものですね。
 先にも書いたようにオタクコンテンツは近年、大きな評価を得ました。今までオタクを見下していた連中がオタク利権目がけて、動物の腐乱死体を見つけた時のハイエナのように飛びついてくるのも、よく見る光景となりました。
 しかし、ホンの少し前までは、「唾棄すべき怪しげで未成熟なガラクタ」に過ぎなかったのです。
 そう、今回の純丘師匠のいささかみっともない立ち回りは、そんな「オタク史」のリプレイに他なりませんでした。


*4「「麻薬の売人以下」は「京アニのことではない」 純丘曜彰・大阪芸大教授、炎上コラムの真意語る


 本件――というのは純丘師匠の記事ではなく「京アニ放火事件」ですが――の犯人とされる青葉容疑者、当初はオタクではないのではないか、小説をパクったというのもいわゆる統合失調症の症状なのではないかと噂されていましたが、どうも彼自身が京アニに小説を応募していたらしいことが明らかになりつつあります。
 だからと言って「パクられた」というのは妄想である可能性が大だし、仮に万一、「パクられた」事実があったところで大量殺人が正当化されるはずもありません。ただここで、青葉容疑者は純丘師匠や宇野たちに比べれば、それなりに理性的な判断をしていた人物であることが明らかになったわけです。
 本件は「オタクの中の持たざる者と持てる者とのバトル」であると表現し得るでしょう。青葉容疑者、自業自得とはいえ、底辺の、未来に希望の持てない立場にいたことは明らかです。一方、殺されたアニメーターの中には大変に若く、「(この冬に?)初めてボーナスをもらって喜んでいた」方もいたと聞きます。大変痛ましいけれども、しかしそうした才能を持ち、前途の拓けていた存在に、弱い立場の者が嫉妬心を持つなというのは難しい話です。
 彼ら彼女らの「サブカルしぐさ」は、オタク界の下っ端の切り捨てであり、そうである以上、「オタクの中の持たざる者と持てる者と格差の拡大」を目的とする側面を、どうしても持ちます。言わばこれは「優れたコンテンツを生み出し、カネを生む者、自分たちの政治の道具になる者は認めてやる」とのオタク界内部の「ノアの箱舟」計画だったのです。
 そう、今回の事件が、そうした人々に「お前、無能だから要らないしw」と見捨てられた者の犯罪であると考えた時、まさにこの事件の「真の黒幕」は純丘的な人物たちだったというしかなくなるのです。
 ぼくが「オタク界のトップ」、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と称するような人たちは、「サブカルしぐさ」の愛好者でありながら、「勝ち組オタク」に取り入(り、「負け組オタク」を切り捨て)ることで、利を得ている者たちです。モテ/持てる者だけを自分たち主催のぱーちーに招待したくて招待したくて仕方のなかった彼ら彼女らにしてみれば、この両者の溝が深まれば深まるほど都合がよい。
 彼ら彼女らにしてみれば、「成果物」を後からやってきてぶん獲ることだけが目的で、創作者も消費者も同じオタク仲間であること、それらコンテンツはオタク的なるものとして、みんなで一丸となって作り上げてきたものであることなど、一切わからないのです。そうした人たちが創作者と消費者をボーダーレス化しようとする岡田斗司夫氏や大塚英志氏を嫌ってきたということも、何度か指摘してきた通りです。
 そんな人たちにとって、今回の事件は「干天の慈雨」のはず。
 自分たちの切り捨てたくて仕方のない側の人間が問答無用の悪として、自分たちの取り入りたくて仕方のない(否、既に取り入った)側の人間が、絶対不可侵の被害者として立ち現れたのが、本件だったのですから。
 今後、彼ら彼女らはこれを利用し、モテ/持たざるオタクを斬り捨てるための知恵を総動員するはずです。
 それに対し、ぼくたちは敏感でなければなりません。
 ――さて、実は少ない時間を工面してえっちらおっちらキーを打っているところに、今度は山本寛師匠のブログの炎上という報が舞い込んできました。見る限り、言ってることは純丘師匠と変わりはしないのですが、しかしふたりは置かれた立場が違いすぎる。これについては次回、採り挙げます。そこでは彼らは何故、こうした醜悪極まりない「サブカルしぐさ」を振るうのかについての分析が行われることになりましょう。
 気になる方は一週間後にまた、お会いすることにしましょう。


■補遺■


 最近のアニメなどにはすっかり疎くなっているのですが、実はオタク向けの日常系作品の多くは時間経過があるそうで、この種の論者が繰り返す「終わらない日常」といった批評は全く当たっていないとのご指摘を、ある方からいただきました。
 もちろん宇野などの反オタク論者の主張に事実の反映があることは極めて稀ですが、そうなると彼らは80年代に多かった、「一般向けアニメ」の「一般的傾向」をすくい出して、オタクを叩いていたということになります。彼らの下劣さには、全くそこがありませんね。