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兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

『LGBTの不都合な真実』の、不都合な真実(その2)

2022-07-23 20:46:48 | セクシャルマイノリティ

 

 さて、少々遅れてしまいましたが、新記事です。
 実はツイッターが凍結され、バタバタしておりました。
 これからどうなることやら先が見えないのですが、ともあれ前回の続きです。
 参院選に出馬するとかで時の人となった松浦師匠ですが、その著作はどんなものか。投票の前にチェックしておきましょう。
 未読の方は、是非前回記事から!

 

・LGBTの不都合な素行


 本書を読んでいて、ぼくは「LGBTたちはそこまで国家や大衆に要求する前に、ちょっと考えるべきことがありすぎるんではないかなあ……」という意を、強くしました。
 例えば同性愛者の議員となると、他にも石川大我師匠という人物がいます。彼は警官に対し「俺は議員だ」と恫喝したことで炎上しました。本件について、松浦師匠は大いに石川師匠を批判します。
 もちろんそこは大変痛快なのですが、続け、師匠はこの事件の裏には新宿二丁目は常に警官に張られており、ホモがそれを「差別だ」と苦々しく思っているといった背景があるのだと指摘します。しかし何故警官が張り込んでいるかというと、「ホモがあまりに薬物汚染されているから」だと、平然と語るのです。
 まあ、そうした事実を率直に書くのは立派かも知れません。
 ただ……こうした記述を読み進めるうちに、どうにも妙な気分にさせられます。
 ホモがラブホ利用をする時、「シャワ洗」とやらが「マナー」になっているのだそうです。これはシャワーヘッドを外し、ホースを肛門に当てて洗浄することであり、(ヘッドを外すってことはアナルに突っ込むんだよなあ……)勘弁してくれとしか。
 そして仮にそれをしてもシーツに糞便を撒き散らすことが多く、嫌われるのだそうです。
 松浦師匠の記述は一応、ホモの素行の悪さを批判的に書いてはいます。上の件にしても文脈としては、「LGBT運動家はラブホがホモ出禁にしているとわめくが、ラブホにしてみれば無理もない」といったものではあります。
 が、師匠がこれらをタネに上の石川師匠のような「左派のLGBT活動家の欺瞞」を糾弾することに熱心なのとは裏腹に、読んでいるこちらとしては、「いや、ホモ全体に反省すべき点があるのでは」という感想が頭にもたげてくるのです。
 以前、近しいことを書いたことがあるのを、ご記憶でしょうか。
 当ブログで、『現代思想 男性学の現在』という下らぬ特集号を採り挙げたことがあります。

 ここでは森山至貴師匠という同性愛者が「ベアバッキング」について言及していました。これはセックスの時、「ときにはHIVウィルスが感染するのも厭わず、むしろその危険性にこそ快楽を感じ、またえり好みせずに他者の精液を受容しようとさえする(122p)」というもの。ぼく自身もたまに聞くハナシだったけど、正直、ホモヘイターによるデマの可能性を疑っていたところ、当事者に邪気なく実際にあるのだと吐露されてたまげた、といったことを書いていました。何しろデータとしてもエイズの拡大は圧倒的にホモによるところが大きいわけなのですから。
 しかし森山師匠はそこを省みるでもなく、「ベアバッキングは“挑発的”だからいいと思ったのに、やってるヤツらは愛国主義者だった、許せぬ」などと言うのみ(本当に、何を言っているのかぼくもよくわからんのですが、気になる方は以前の記事を読むなり、原典に当たるなりしてみてください)。
 これと、松浦師匠の記述はそっくりではないでしょうか。
 いえ、何しろこの「ベアバッキング」、本書でもまえがきで言及されているのです。
 文筆家の木澤佐登志師匠とやらいう御仁からの引用ですが、「日本でもポジ種専門(?)のベアバッキングを実践している会員制サウナが大阪の某地区に存在しています。(4p)」とのことで、普通に読むとサウナの運営側がことを率先していると思われます。
 ここでも師匠の筆致はこの行為に批判的ではあれ、どこか呑気さを感じずにはおれないもの。
 ぼくは前々回、「ゴリラゲイ雨」に「差別」を見て取る言説を批判しました。
 批判しつつ、そこにごく僅かな差別性を認めもしました。
 そこでも書いたようにちょっと前までは「お前ホモかよ、キモいな」的な漫画はどこにでもあったわけで、「ゴリラゲイ雨」に対するホモのナイーブさもそうした「トラウマ」によるものもあるかもと、同情しなくもないのですが……同時に「世間がここまでホモに寛容になったのに、お前らの方は進歩ないの?」とも言いたくなってくるわけです。
 松浦師匠の「敢えて」、「非難されるかも知れないが」といった覚悟がどうにも感じられないまま、身内の恥部をあけすけに書くその筆致が、どうにも奇妙なのです。
 正直、「アフターUFO=タテマエとしてはホモ差別がならんという社会」であるがため、油断しきってるんじゃないかなあと。

・LGBTの不都合な嗜好


 ――さて。
 ここまででおなかいっぱいだと思いますが、ここからいよいよ本書最大の欺瞞について述べていきたいと思います。
 先に松浦師匠がホモの素行の悪さに対して、あまりに無防備であると述べました。
 更に、動画では「オタクを無理からにセクシュアルマイノリティの仲間入りさせようという政治的な動機があるんじゃないか」といった推測を述べました。



 それらの政治的意図は読むうちに、一つの節に結実します。
 そう、本書は一節を費やして、「少年愛者」を擁護しているのです。
 NAMBLAという組織について、詳しくは『WiLL』様の記事で述べていますので、以降は是非、それを読んだ上で読んでいただきたいのですが……松浦師匠は同組織を大擁護します
 まずは国際レズビアン・ゲイ協会ILGAがNAMBLAを切り捨てた件に激おこ(実はそもそもNAMBLA自体がILGAの下部組織だったようで、それだけでも相当ですが、少なくとも切り捨てるのは当たり前としか)。

ペドフィリアのほとんどは性犯罪をしないことがデータからわかっています。
(215p)


 とも言いますが、何かそういうデータあるんですか。
 そこが示されていないので、信じるか信じないかという次元の話にしかなりませんが、これ、子供への性犯罪が教師や親など身近なものからなされる率が高いというデータを曲解してるんじゃないかなあ。
 また、いきなり「そうした性的な漫画も規制して、ペドフィリアから奪うのか」と言うなどどうにもその口調は、表現の自由クラスタのものとそっくりです(以上、216p)。
 そもそも、リアル児童に欲情するペドフィリアを問題としている時に、それと全然意味あいの違う漫画などフィクションを持ち出すこと自体、こちらからするとぶっちゃけ迷惑なのですが、これ、表現の自由クラスタもよくする物言いですしね。
 ついでですが、上野千鶴子師匠についても、その著作『おんな嫌い』を持ち出し「上野は少年愛者には批判的だが、表現の自由は守ると称している(大意)」などと説明。同書で売買春が全否定されていることには頬被りと、ここも表現の自由クラスタと北朝鮮のダンスのごとく歩調をあわせています(216~217p)。
 ところが上野師匠のペドフィリアを性犯罪者予備軍とする意見に対しては否定的。

なぜなら彼らは、自らの欲望をいかにコントロールすればいいか悩んでいる人たちだからです。
(217p)


 え……?
 白饅頭の物言いそっくりですが、何かそういうデータあるんですか?
 児ポ法以前は大量の児童ポルノが出回っていたわけで、そういう人たちが「自らの欲望をいかにコントロールすればいいか悩んでいる人たちだ」と言われても。
 そもそもベアバッキングとかシャワ洗を考えた時、ホモ全体が……(以降五兆文字略)。
 しかし大変に残念なことですが、これら姑息な詭弁も、まだまだ序の口なのです。

いまNAMBLAがどのような活動をしているのかネットで検索しても詳しくはわかりませんが、刑務所で刑に服しているペドフィリアたちへの支援を細々と行っているようです。
(219p)


 はい、とうとうここまでのデタラメを並べ立て始めました。
『WiLL』様でも書きましたが、今もNAMBLAの公式HPには彼らの理念、目的が明言されています。つまり子供とのセックスを合法化しようというものが。
 そもそも「今どんな活動をしているかわからん」という言い方そのものは確かにウソをついてはいませんが、逆に言えば「かつての活動」、「目的と理念」についてスルーしていると、暗に言っているも同然なわけです(当然、それらに対する記述は、どこにもありません)。

 また、同節では「ジャニーズJr.」についても云々されますが、ページをめくって別な節を読み進めると、草彅剛がオカマを演じた映画や、香取慎吾の「お母さん食堂」の話題が出てきます。要はLGBT活動家が「オカマが不幸になるストーリーだから許せぬ」「オカマでもない者がオカマを演じるとはけしからぬ」と噛みついたことを腐しているわけで、これまた非常に頷ける内容なのですが、ぶっちゃけここまで少年愛者を擁護しておいて、ジャニーズの名を挙げる時、逡巡はなかったのか、と感じます。
 また、動画にも引用したようにBLについて擁護的な内容も基本、頷けるのですが、その(ポルノに擁護的な)主張がなされる箇所で、師匠は森奈津子、鈴折のご意見を引用しています。
 よりにもよってこの二人かよ、としか言いようがありません。
 ここで引用される両者の主張そのものは「差別よくありませ~ん」という凡百の、誰でも言っているようなものであり、ことさらに否定するモノではありません。が、ペドフィリアに親和的な論者を持ち出したことは、何か意図があってのことではないかと考えざるを得ません。

・『LGBTの不都合な真実』の、不都合な真実


 さて、ぼくは動画においても師匠がバ美肉などを「フィクトセクシュアル」であると強弁することを批判しました。青識亜論が同じことを言っていて、両者ともが歩調をあわせ、オタクをLGBTの傘下に統合しようと企てているかのようにも見えます。
 本書においてもいわゆるオタク系の(否、オタクを自軍に取り込もうとしている表現の自由クラスタ系の)論者の名前が頻出します。
 内容としてはミスコンの現状(女性差別と言われたり、出場者の性別が自由になったりしていること)についての批判などで頷けるものなのですが、そこで言及されるのが柴田英理(原文ママ)師匠やろくでなし子師匠の発言について。
(「ミスコンのどこが悪い」という主張は頷けるのですが、そうなるとろくでなし師匠の「女性器を手足と同じにしたい」との理念とは相容れないんですが、この人たちは一切、気にしません)

 近い読後感は、坂爪真吾『「許せない」が辞められない』の時にもありました。
 ぼくが「表現の自由クラスタ」と呼ぶような、オタクを自称する「ネトリベ」たちの(場合によっては保守を自称し)「左派寄りの思想(多くはフェミ)への批判」を口にしながら、しかし実際にはその批判対象とどこが違うのかがどうにもわからない……というパターン。坂爪師匠の出現はそうした論調がオタク界隈を越え、マスコミ界隈の連中にも広がってきたことの証拠とも言えました。
 松浦師匠も同様なのではないか、と思います。
 本書を読んでわかったのは、その論調、「自分をツイフェミとは違う真のフェミだと思い込んでいる、ツイフェミと何ら変わることのない一般フェミ」がさらなる広がりを見せつつある現状であったと言えましょう。
本稿を書き終えた後、参院選を控え、ぼくはあちこちで松浦師匠が「親オタク候補」として持ち上げられているのを見ました。
 師匠とオタク(利権)とを結びつけたのが誰か、もちろんぼくにはわかりませんが、ともあれ師匠に票を投じようとしている方は今一度、よく考えていただく必要がありそうです。


『LGBTの不都合な真実』の、不都合な真実

2022-07-16 19:32:40 | セクシャルマイノリティ

 

 少々予告から間が空きましたが、『Daily WiLL Online』様でLGBT関連、フェミニズムと小児性愛との関連についての記事が発表されています。
 今回のテーマとも重なる、かなりヤバ目のモノですが、どうぞご愛顧のほどお願いいたします!


 ――随分前、UFO信者の書いた文章で、以下のような感じのものを読んだことがありました。
「もし近い将来、現実にUFOが人々の前に姿を現わし、我々が言ってきたことが実証されたとしたら。我々を今まで馬鹿にしてきた人たちは、その時の覚悟はできているのでしょうね。『ごめんなさい』では我々は許しません
 うろ覚えですが、何か、そんな感じです。
 1970年代くらいのニューエイジの時代には、実際、本当に明日にもUFOの大群が出現し、大統領と握手、なんてことがひょっとしたら……といった機運が、少しはあったのです。
 UFO信仰それ自体が、ある日突然に空の彼方からやってきて不遇な自分の人生を大逆転させてくれる救世主を待望するカーゴ・カルトである……まあ、そんなことは今までもお話ししてきたかと思います。
 上の文言はそんなUFOの飛来を待ち望む人たちの不遇感、世間への復讐心がよく現れています。
 さて、リベラルにとってはLGBTや女性といったマイノリティも「UFO」と同じ救世主として認識されている、といったこともよくお話ししてきました。
 ジェンダーフリーというUFOが到来し、世界の価値観は「アップデート」という名の「次元上昇(アセンション)」を迎える。そして自分の真価が認められ、世間が自分にひざまずく。
 それが彼ら彼女らのビジョンです。

・LGBTの不都合な運動


 さて、今回のお題は参院選に出馬するとやらで、勢いタイムリーになった松浦大悟師匠の著作。もっともこの『LGBTの不都合な真実』については、既に動画でも採り挙げています。



 本書はタイトルを見てもわかるように、同性愛者でありながら保守派の政治家でもある松浦師匠が左派のLGBT運動の欺瞞を批判するというもの。ことに近年のトランスの暴走について舌鋒鋭く批判した箇所などは大変貴重で、そこについては絶賛することにやぶさかではないのですが……しかし読んでいてどうもむずむずするのは、松浦師匠のスタンスが今一、不明であること。
 いえ、当記事は言うまでもなく、基本は松浦師匠批判なのですが、まずはアンフェアにならないよう、誉めるべき箇所について挙げておきましょう。

 例えば、「股間タック」というのがあるのだそうです。女性になりすますための股間覆いです。
 LGBTは自分たちは女性用施設に入ったりはしないと自称する(そうしたことをするのはLGBTではない性犯罪者の仕業だということなのでしょう)のですが、師匠は「それは違う、先の単語でググるとこれをつけて女性用施設に入ってはチンコを出しているヤツの動画がいくらも見つかる。そうした人たちはオートガイネフィリアと呼ばれ、彼らもまたトランスジェンダーの一ジャンルとなっている」といった指摘をします(大意・111~112p)。
 スポーツにおけるトランスの狼藉についても「トランス男性、つまりは肉体は女性の者は男子スポーツに出場することはない。不利だとわかりきっているからだ。むしろスポーツで結果を出した後、『トランス男性だ』とカムアウトする者がいて(つまり、女性として結果を出した後、「男だ」と名乗るということなのでしょう)極めてアンフェアだが誰も問題にしない」などとも(大意・119p)
 また、人権派弁護士がオカマが女湯に入る問題について「トランスジェンダーかどうかは性別変更の有無やホルモン治療歴を調べればすぐわかる、つまりトランスジェンダーが女性用施設に入るのと、トランスを装った性犯罪者とは容易に区別がつく」と言ったのに対し、松浦師匠は千田由紀師匠の「本人の性自認を尊重するのではなかったのか」とのツッコミを引用しています。本人の自己申告を尊重するのなら、捕まった性犯罪者の「俺はトランスだ」という苦し紛れの言い訳も当然、尊重せざるを得ないわけで、まさに彼ら彼女らがいかに自縄自縛に陥っているかの一例なのです。
 いえ……ただ、そこまでは正しいのですが、松浦師匠は続けて以下のようにも言うのです。

 毎日新聞の弁護士の提言に従って法律を制定すれば、どんなに頑張って性自認だけで戸籍を変えたとしても女性器/男性器を除去していない以上は男湯/女湯を利用することはできない。これはトランスジェンダーにとってみれば「あなたは本物の男/女ではない」と国民全体から言われていることに等しい。こんな悲しい法改正があっていいのかと思います。
(173~174p)


 素直に読めば、ペニスを持ったまま女湯に入れてしかるべき、と言っているように読めます。
 どうなってるんだ、相手の矛盾を鋭く突っ込んだと思いきや、自分もまた矛盾に陥り、それに気づいてもいない。
 全くもってわけがわかりません。
 或いは相手の過ちを指摘するための、一つの極論として言っているのかも知れませんが、どうにもLGBT同士の喧嘩に市井の女性が巻き込まれているようにしか、ぼくには見えません。
 以上のように、松浦師匠の目には「気に入らない、自分にとっての政敵であるLGBT」は非常によく見えているようなのですが、もうちょっと広く社会全般を見渡す視線に、いささか欠けているのではないかなあ……というのが本書を読んでの、ぼくの感想です。
 師匠はおそらくトランスがあまりお好きでないのでしょうが、以降もぼくの目から見ても「ちょっとそれは言いがかりでは」と思える箇所にぶつかったりするのです。

・LGBTの不都合な驕慢


『新潮45』騒動について、松浦師匠自身は『新潮45』擁護派というか、中立派と思しいのですが、いくつか著名人のおコトバが引用されている箇所があります。

哲学者・千葉雅也氏
《とにかく、マジョリティの人たちに言いたいのは、君たちは15年前に同性愛とかトランスとかの人々のことをこんなふうに支持しようと思っていたか? その後考えを変えたのはいいが、いま急に味方のつもりになっているということの恥ずかしさを改めて心に刻め、ということです》
《マジョリティどもは、今日のネトウヨ対リベラルのわかりやすい二元構図においてリベラルの側に立てば、もうおのれの罪責性が許されたかのようにふんぞり返って弱者の味方とか言ってるわけ。シンプルに言って。罪責性思い出せよ、と》

ジャーナリスト・北丸雄二氏
《『週刊新潮』が小汚い記事を書き続けても廃刊・休刊や大規模抗議行動なんか招かないのに、『新潮45』がちょいとLGBT逆張りテキストで稼ごうとしたらこんなに炎上してすぐに降参する。LGBTって、ついこないだまでみんなでオカマだ変態だキモいって嗤ってたのに、この代わり身の速さと虚ろな処世。ま、いいけど》
(41~42p)


 両者とも同性愛者なのですが、ちょっと驚くべき、ただただマイノリティの傲慢さの炸裂している文章だと思います。
 一応、この引用は『新潮45』騒動でにわか仕込みの知識でLGBT側に立って杉田氏を叩いた「ノンケ」たちを腐すという文脈でなされているものではあるのですが、読んだ方は冒頭のUFOの話に大変近いものを感じられたのではないでしょうか。
(後、これら発言、恐らくツイッターと思われるのですが、出典が書かれていません)
 左派もLGBT活動家も「LGBTを当たり前のセクシュアリティとして認める(その実態はヘテロセクシャル男性を弾圧する)社会」という「UFO」を待ち望んでいた者たちであり、既にUFOは着陸した。
 いまや彼ら彼女らは復讐のターンに入ったわけです。

 他にも、動画でも紹介したように師匠の主張は、同性婚についてちゃんと改憲した上で認めてもらうべきというもの。LGBT運動家の多くは現行の憲法を(やや強引に)拡大解釈して認めてもらおうというスタンスであり、師匠はそこを批判しているわけです。
 そりゃ、どっちのスタンスもそれはそれで考え方としては理解できますが(運動家側も師匠に対し「改憲なんて待ってたらどれだけかかるかわからん」と再反論しています)、どっちにせよ「小さな小屋の中の小さなバトル」なのではないかなあと。
 既に動画でも引用したように、師匠は以下のように主張します。

私たちのゴールは同性婚ではなく、同性婚を祝福できる社会なのですから。
(88p)

日本においてLGBT政策の不備はたくさんあると思いますが、一番の問題は国家による承認がいまだなされていないことだと思います。当事者の中には、小学校や中学校でいじめられて育ち、自己肯定感を持てない人もいる。だからこそ、国が自らの生き方を認めてくれたという安心感が欲しいのです。
(中略)
国家が「LGBTは国民の一員であり、我々の仲間だ」と宣言し、その存在を丸ごと承認すれば、格段に生きやすい社会になるはずです。
(281p)


「国家に認めてもらう」というのが具体的に何を指しているのかは曖昧ですが、おそらくは改憲し、同性婚の権利を明記してもらうということなのではないかと思います。
 しかしそんなこと言ったって、それで大衆の誰もがLGBTを「祝福」する社会になるとは思えません。
「個人的なことは政治的なことではない」のだから、わざわざそれを国家に求めるのも、ましてや(動画で言った通り)それによって世間一般の通りがよくなるのを期待するというのもどうなのかなあと。
 左派というのは国家というものの力を過度に大きく見積もって反発する「ツンデレ愛国者」ですが、こうして見ると師匠はただ、国家というものの力を過度に大きく見積もって重い愛を抱く「ヤンデレ愛国者」なのではないでしょうか。
 しかしいずれにせよ大衆の感覚から乖離したところで空論を弄んでいるという意味では、両者とも変わりがないのではないか……とぼくには思えます。
 そして、そんなことを言っておきながら、師匠はこの直後、続けるのです。

ただし、私たち当事者が求めていることは弱者救済ではないのです。あくまでもフェアな扱いを望んでいるだけで、決して特別待遇をしてもらいたいわけではありません。
(281p)


 しかし伊是名師匠もJR職員に大変な負担を強いながら、その主張は「健常者と同じ扱いにせよ」というものでした。「自分が車椅子というハンデを背負っているのは、自分の責ではないのだから、全くそのハンデを感じさせないよう、健常者と同じ扱いにせよ」というのが彼女にとっての「フェア」だったのです。
 もし松浦師匠の「フェアな扱い」に例えばですが「結婚を祝福してもらえる権利」が含まれるのだとしたら、伊是名師匠以上のムチャ振りだなあ、としか思えません。
 それに「同性婚の権利」を憲法に明記せよと言うなら、「フィクトセクシュアル(などというものはこの世にないとぼくは思いますが、あるという師匠のスタンスに倣えば)」の権利を守るため、「二次婚」の自由も憲法に明記してもらわねばならないでしょう。
 後は『新潮45』の記事にもあったように機械婚も動物婚も植物婚も何でもかんでも明記しなければならなくなる。キリがないわけです。
 師匠はさらに、NHKが「福祉枠」でLGBTを採り挙げることにも憤ります。
 LGBTの子供は自殺念慮が高いといったデータが決まって出されるが、LGBTはカワイソーな人たちだとの印象を植えつけるので好ましくない(282p・大意)、また(本人ではなく)「あるゲイ当事者」の言葉として、差別禁止の法律ができれば、ホモが被差別民だと認めることになる、プライドが傷つくといった主張も(283p・大意)。
 正直、「どうしろと?」という感想しか湧いてきません。

 ――さて、もう結構な文字数を費やしてしまいましたので、今回はこの辺りで。
 まだ内容的には半分残っており、そこでようやく師匠の持つ、最大の問題点が語られるのですが……ともあれ、来週後編をうpしますので、どうぞそれまでお待ちください。


ホモと見るハフポスト「“同性愛者を侮辱“する投稿で物議。東急ハンズの見解は?過去にも、性的マイノリティ差別的な投稿をしていた」

2022-07-10 21:07:04 | セクシャルマイノリティ

 

 ――さて、今月の初めにツイッターを凍結されてしまいました。
 仕事も珍しく忙しくて、とにかくアタフタしており、なかなかこちらのブログの更新ができませんでした。
 いくつかお報せがありますが、まずは動画。

風流間唯人の女災対策的読書・第34回「青と白 見た目はリベラル、頭脳はフェミ、その名は――!?」

 未読の方はどうぞ、ご覧下さい!
 それと結構以前の話になりますが、『Daily WiLL Online』様でLGBT関連の記事が発表されました。

フェミを推進したいあまり、トンデモ性愛までを許容するヤバい人たち

 こちらもどうぞ、ご覧下さい!

・ホモ差別は何故ホモ差別なのか


 さてフェミサイト、ハフホストが東急ハンズをキャンセルしようと、火を放っています。
 ハンズの公式Twitterが「ゴリラゲイ雨」という言葉を使ったことが絶対に許せぬようです。どうもこの言葉が「同性愛を侮辱した」ことになっているようなんですね。
 単なるアナグラムのギャグが何で侮辱になるのかわかりませんが、そうなると「阿藤快」と言った者は「加藤あい」を侮辱したとして死刑なんですかね。
 それとも、ホモとゴリラの組みあわせがけしからんということでしょうか。GOGOカレーはゴリラとカレーを組みあわせてカレーを侮辱してるので、火を放つべきですかね。
 今までもホモ(というよりは左派の御仁たち)は「ホモ」という言葉はホモ差別だとして、使用を禁ぜよと暴れ回ってきました。
 しかし「ゲイ」というのはホモのイメージアップを図るためにホモによって半ば政治的に作られた言葉。つまりホモをよきものとする人々のための言葉であったわけです。それがギャグのネタになったからけしからぬと言われては、もう「ゲイ」という言葉を使うのを止めて、ただひたすらにホモを無視する社会にするしかありません。
 これ、例えば『ちび黒サンボ』などを差別的とする三十年ほど前の運動と同じですよね。うるさく言われるならと、クリエイターたちはむしろ、黒人そのものを扱うことを止めてしまいました(もちろんそうなったらそうなったでまた黒人を出せと怒られるんですが)。

 まあ、あんまりにアホらしくてつまらんギャグを書き並べてしまいましたが、もうちょっと真面目に記事に当たってみましょう。
 ハフホストを覗いてみると、本当にフェミニズムだジェンダーだLGBTQだと、よくもまあここまでと感心するような電波サイト。しかしフェミ、ジェンダー推しになったのも、想像するにSDG'sだ何だと言われ出したここ数年のことではないでしょうか。
 本当に、この世の中が音を立てて破壊されていく様が手に取るように感じられます。
 さて、ハンズに放火したのは表題にもある通り、「“同性愛者を侮辱“する投稿で物議。東急ハンズの見解は?過去にも、性的マイノリティ差別的な投稿をしていた」との記事。


 同稿では「性的マイノリティに関する情報を発信する『fair』代表理事の松岡宗嗣さん」のありがたいありがたい宣り言が紹介されています。

「“ネットミーム”という名前のように『カルチャー』として正当化されがちですが、同性愛嫌悪による侮蔑的なネタです。拡散され続けることで、同性愛は嘲笑しても良いという空気が温存され、いじめやハラスメント、ヘイトスピーチなどに繋がっていく可能性があります」


 あ、そうですか。
 ハンズのツイには「ゴリラゲイ雨が来たらちょっと困るけど」とあるのですが、これは単に雨が困ると言っているだけで、例えば「ゴリラゲイ雨なんて嫌だよな」「キモいよな」などとこの言葉にこと寄せてホモを侮蔑したという印象は、全くないのです。
 やはりこうなると「ゲイ」という言葉を全面タブーにする以外、噛みつかれない方法はありません(もちろんそうなったらそうなったでアファーマティブアクション的なゴリ押しをしてくることはもう、わかりきっているのですが、ゴリラだけに)。

・ホモがホモ差別と言ったらホモ差別です


 何でもハンズは2013年にも、男性同性愛者への差別用語を思わせる投稿をしているとのことですが、不思議なことにそれがどんなモノであったかは書かれていません。
 まあ、「ゴリラゲイ雨」ですら差別だと言い立てる人の言うことなのだから、挙げてみればどこが差別かわからないようなものなのでしょうが。
 記事は以下のようにもあります。

同性愛者を揶揄するような表現について、松岡さんは「『ゴリラ』と『ゲイ』という言葉を組み合わせ、それらのイメージを『おかしい』『面白い』と嘲笑する背景には、同性愛を劣位に置く差別的な意識があります」と指摘。


 そんなこと言ったって、ゴリラなんて面白いに決まってるとしか。
 それに刑事ドラマ『ゴリラ・警視庁捜査第8班』、レスキューチームの活躍を描くドラマ『ザ★ゴリラ7』、刑事漫画『アクション刑事ザ・ゴリラ』、アニメ『亜空大作戦スラングル』に登場する防衛チーム・ゴリラ、『ビーストウォーズ超生命体トランスフォーマー』の主役コンボイがゴリラ型ロボであるなど、必ずしもゴリラは面白いだけではなく、むしろヒーローのイメージも持っています。そこを大騒ぎするのは過剰反応という他ないし、上の「差別的投稿」の詳細が明かされないことが象徴するように「ホモ差別」など今の日本にはない、ことをこの件そのものが実証している、としかぼくには思えません。
 記事には以下のようにもあります。

松岡さんは「そもそも差別は『悪意』のあるものに限らず、『意図』がなければ問題がないわけでありません。その上で、もし本当に差別する意図がなかったのであれば、性的マイノリティが置かれる差別の問題に対する認識が欠如しており、企業として人権問題に対するリスクや認識の甘さがあると指摘せざるを得ません」と話す。


 つまり、悪意がなくても許されないわけです。ホモのことを、ホモが望むように認識して差し上げないことそのものが、既に差別であるとのこと。なるほど、上のうわ言、否、ご高説を前提すれば「ゴリラゲイ雨」は確かにホモ差別でしょう。ホモ様が100%お気に召す表現以外の全ては、ホモ差別だと、明言されているのですから。

東急ハンズは、行動規範に基本的人権の尊重を明記し、3月にも全従業員を対象にLGBT理解促進をテーマにした研修を行っているという。


 大変に、おぞましいですね。

今回の件に限らず、インターネット上には日々、同性愛者を侮蔑するような言葉やコンテンツが多く投稿されている。


 はい、来ました。
 来ましたよ、ホモによる大表現圧殺時代が。
 ここしばらく、いわゆる「淫夢」、つまり『真夏の夜の淫夢』に端を発する、ニコニコ動画など動画コミュニティにおけるホモビデオのブームを腐すような気運が高まっています。オタク向けの画像投稿掲示板「ふたばちゃん」などにおいても、そうしたスレが立つことが多くなったように思います。
 正直、この流れがこの先どうなっていくのかはわかりませんが、まずはいよいよ表現が規制されていくんだろうなあとしか、考えようがありません。
 当然、BLも衰退していくのでしょうね。

・ホモを嗤った者はホモ差別ですがホモもホモ差別です


 もちろんそれは好ましいことではありませんが、では「表現の自由クラスタ」のような「表現の自由」を標榜する左派陣営の人たちは、どう反応しているでしょうか。
 最近、表現の自由クラスタの某氏が「淫夢はホモ差別ではない」と言っていたことがあります。
 はて、一体どういうことでしょう?
 要するに「淫夢」で人気なのは「こ↑こ↓」とか「まずうちさあ」といったセリフ回しの微妙さ、引いては作品としての拙さの部分である、とでもいったリクツです。
 例えば『チャージマン研』もまた同じ文脈でブームとなったわけだから、そこにホモ差別を見て取る方こそが過剰なのだというわけで、これは非常に納得のいく反論です。
 しかし……同時に、考えてみればこの「淫夢」、動画コメントで人気のあるフレーズには「クッソ汚い」などもあり、これはどうでしょうか。
 上の某氏のリクツでこれを正当化しようとすると、「男優の汚さを嗤っただけだ」となるでしょうが、それはやはり牽強付会であり、むしろ「ホモ(という存在全体の)の汚さを嗤っている」とするのがまあ、妥当な見方ではないでしょうか。
 とんねるずの持ちネタであるコント、「保毛尾田保毛男」が騒がれた時も、似たような意見が見られました。「作中で保毛尾田保毛男は他のキャラに受け入れられている、差別性はない」。ぼくはこのコントについてはよく知らんので、あまり踏み込んだことは言えませんが、確かいわゆるお姉っぽいしぐさをしていたはず。やはりこうなると疑問を覚える人も増えるのではないでしょうか。劇中のキャラはともかく、見る側がホモを滑稽だと思う感情を持っているからこそ面白がるのではないかと。

 ……さて、それを踏まえた上で「ゴリラゲイ雨」を思い出してください。
 繰り返すように、ここから差別性を見て取るのは難しい。
 しかし「保毛尾田保毛男」が劇中で嗤われなくとも観る側が滑稽さを感じていたように(あんまり観たことないけど多分、そうだったのだと思います)、「ゲイ」そのものが「滑稽さ」を内包しているがため、「嗤える」と、一応、そうしたことが言えるわけです。
 もちろん、こうしてキャンセルを続けていけばこの世から「表現の自由」は一切、失われるわけで、いずれにせよハフポストの物言いに首肯するわけにはいきません。
 が、以上のような視点を持った時、もう一度、件の松岡師匠の物言いを振り返ってみると、いかがでしょうか。

拡散され続けることで、同性愛は嘲笑しても良いという空気が温存され、いじめやハラスメント、ヘイトスピーチなどに繋がっていく可能性があります


 そう、師匠は(頭が悪いため)ホモが「嗤われる」のは「ホモネタが拡散されたから」だと思っているのです。
 否、よく言うようにネット以前はむしろ漫画などでホモネタのギャグなどあったのだから、いずれにせよ当たってはいないのですが、師匠の懸念は「それが更に助長される」とでもいった辺りにあるかも知れません。
 しかし、先にも既に書いたように「ホモ差別(であると、彼ら彼女らが指弾する表現)」の本質は「男性の肉体にエロティシズムを見て取ること」そのものにあり、少なくともヘテロセクシュアル男性にとってそれは非常に嫌悪感を催させるものなのです。
 つまり上に書いた「ホモ」に対する「クッソ汚い」はホモそのものというよりは「男の肉体」というモノが普遍的に汚いという「一般的な感覚」が前提されており、その意味でこれをホモ差別とすることすら、本当は微妙なのです。
 同時に「オカマ」が滑稽なのは、これまた「男が女性性を発揮すること」そのものが滑稽であるからです。
 この地球において「ヘテロセクシャル男性」が人類の最下層にランキングされてしまってからかなりの時が経ち、おそらくホモ本人もこうした「男性の持つ嫌悪感」について無自覚になりつつありましょうが、例えばこれは女性においても、腐女子ですら本質としては変わるところがない。まず、肉体的な美という点で男性よりは女性の方が上である、といったコンセンサスは男女ともに共有しているのですから。時々書くように、ラカンは「異性愛とは女性の肉体に欲望を感じることである」と言っていますが、なればこそ女性は自身の肉体を飾ろうとするわけです。
 その意味で、「ゴリラゲイ雨」という言葉を圧殺しようとする傲慢さには賛同できませんが、「そこに差別性がある」という指摘は、それこそ「淫夢」の一兆分の一くらいは当たっているかと思われます。もちろん、「淫夢」の差別性も「昔の西欧」に比べれば一京分の一くらいに過ぎないのですが。
 こうした場合、よく「反・反差別」的なスタンスの人間から「差別だと思う方にこそ差別性があるのだ」といった指摘がなされますが、それはもちろん正論ではあるものの、「差別だと思った方(「ゴリラゲイ雨」に差別性を見て取った方)」は「社会のコンセンサスである、ホモの滑稽さ」を敏感に見て取ったわけであり、「差別ではないとして嗤っている方」にも「差別性」があると言うしかないんですね。

・ホモ差別がなくなる時、人類は絶滅する


 ――しかし、その「差別性」を消し去ることは不可能でしょう。
 例えばですが、『ドラえもん』において、学校でテストの結果発表をする場面を想像してみましょう。出木杉君が100点を取り、女子が騒ぐ。しかしのび太は0点。ぎゃふん
 ここには頭の悪い者を嗤う「差別性」が僅かにでも内包されていますが、これを嗤う感性を人間からなくしてしまうことはできない。
 基本的にはそれと同じです。
 それをも消そうとすると、もう、成績のいい者を称揚すること自体を禁ずる他ありません。
 ホモも同様で、差別をゼロにしろと言うなら女性の肉体性を賛美すること自体が、禁じられなければなりません。フェミニストたちが標榜するような「ジェンダーフリー」、史上空前絶後の人間の精神の大改造を行うしかないわけです。
 そしてもちろん、「プラスサイズモデル」などを見てもわかるように、世界中が既にそちらの方向に向かいつつあるわけです。
「淫夢」が消える時、ぼくたちの心の自由もまた、失われるのです。


【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第12回「フェミニストの母親が、息子のペニスを切除…!?」【ゆっくり解説】

2020-09-05 19:54:47 | セクシャルマイノリティ
【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第12回「フェミニストの母親が、息子のペニスを切除…!?」【ゆっくり解説】



「風流間唯人の女災対策的読書」、今回はやや時事ネタ性の強いもの。
 海外で大変に恐ろしい事態が進行しています。
 そしてマスコミが頬かむりをしていること、日本と同様のようです。
 できればご覧いただいて、署名にもご協力いただけると嬉しく思います。

 正直、youtuberとして収入を得る、などは夢のまた夢の状況ですが、YOUTUBEの方は登録していただく、高評価ボタンを押していただく、コメントをつけていただくことで再生数が上がるようです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

「許せない」がやめられない坂爪真吾(その3)

2020-08-23 10:28:33 | セクシャルマイノリティ


※この記事は、およそ8分で読めます※

 さて、続きです。
 もし前回記事、動画をご覧になっていない方がいたら、そちらの方をご覧いただくことを強く推奨します。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第10回『「許せない」がやめられない』【ゆっくり解説】


【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第11回『「許せない」がやめられない』(その2)【ゆっくり解説】


・第三章 ツイクィアが許せない


 さて、今回やり玉に挙げられるのは「ツイクィア」です。
 もっとも、あまり耳慣れない言葉かと思います。何せ、坂爪師匠純正の造語ですから。
 詳しくは五章の項で述べますが、ぼくはずっと本書のページを、少々の期待と共にめくっていました。ここまででかなり失望させられていましたが、それでも懲りずに、微かな期待を持って、本章を読みました。
 ぼくは以前、「ホモは女の女だ」と言ったことがあります。要するに「鯛の鯛」みたいなものです。女性の聖性がさすがに減じたと感じたフェミが、「さらなるマイノリティ」として運動のダシにするために呼び込んだご神体がLGBTです。だから彼女らはホモの児童へのレイプを告発する者を恫喝するなどして、まさにLGBTの騎士たろうとします。
 その意味で、フェミにとっての「LGBT」は「政治的女性」でしかありません(だからここにはペドもSMマニアも入っていないのです)。
 そんな、ある種「絶対に立ち入ってはならぬ聖域」とも言うべきLGBTの世界に、坂爪師匠が足を踏み入れたことは大いに評価すべきかもしれません。坂爪師匠はおそらくヘテロセクシュアル男性でしょう。フェミヒエラルキーでは最下等の者が、頂点へと唾を吐こうとしているのですから、その勇気は称賛されるべきという気もします。
 さて、ではその内容は――。

 その意味で、保守派の政治家や論客による「LGBTが許せない」の正体は、「左翼が許せない」「ポリコレが許せない」であると言える。
(134p)


 はい、お疲れー。
 いじめられっ子のA君に下着泥をさせておいて、A君が女子に吊し上げられたら「弱い者いじめは止めろ」と言い出すようなものです。

 いえ、さらに読み進めると、多少毛色は変わってきます。
 節タイトルを並べると、

「ゲイが許せない」の歴史
LGBTが許せないLGBT
「T」の憎悪


 といった具合で、LGBTの内輪揉めの様子が延々と書かれます。
「あぁ、変態同士仲が悪いんだなあ。俺、関係ないから他所でやってね」と心の底から思わされます。
 まあ、「マイノリティ同士が同士討ちをする」のはよくあることではあります。ぼくが繰り返す、「オタク差別とはオタクがしていたこと」史観もそうだし、結局、その意味で「差別」という言葉はもう、耐用年数を過ぎているとしか、ぼくには思えないのですが。
 いずれにせよこの辺りは肯定的に見るならば、フラットな書かれ方をしていると表現することもできましょう。もっとも、うがった見方をすれば取り入るべき相手を定めているような印象も受けます。町にブタゴリラが引っ越してきたため、そいつがジャイアンより強いか、ジャイアンより強いならこいつに取り入らねばと品定めをしているスネ夫、といった感じです。

 と、そんなことを思いつつ読み進めると、ターフについて語られ出します。
「そら来た」ですね。
 2018年、お茶の水女子大がトランス女性の受け容れを発表した折、ツイフェミによってトランス女性の女子トイレ使用について、反発の声が上がったそうです。

 現実のトランス女性たちは、ツイッター上でこうした仮定や推論に基づく議論が行われる以前から、日常的に女性トイレあるいは多目的トイレを使っている。そして特に問題になっていない。
(162p)


 え……?
 坂爪師匠によれば、この騒動はツイッター上のごく少数のツイフェミだけが騒いだに過ぎないことだそうです(ならほっときゃええやん、と思うのですが)。
 しかし、オカマが女子トイレを使って問題を起こすことなど、今まで起こっていないはずがありません。「女装して覗きや痴漢を働いた男」の話は時々、ニュースで見聞しますよね。
 また、坂爪師匠によれば「ツイフェミ」の声は「女装した犯罪者と区別がつかない」といったものだったそうなのですが、ここには「あくまで聖なるセクシャルマイノリティとしてのトランス女性」と「女子トイレに忍び込む手段として女装する、薄汚い性犯罪者」をきっちり両断できるものといった前提があります。しかし、その辺ってボーダーレスなんじゃないでしょうか。ぼくは屁理屈をこねて正当化しつつ、下着泥を繰り返す「トランス女性」の話を聞いたことがあります。オカマの中には高確率でヘテロセクシャルがおり、オカマなら女に性犯罪を働かないわけではないんですね。
 結局この辺、実のところ「ツイフェミ」、「ターフ」とやらいう悪者扱いを受けている連中すらもが「聖なるマイノリティ」観を自明視しているように思える。となると「フラットな見方」どころではなくなります。
 いずれにせよ「トランス女性」が女子トイレを使うことを嫌がるというのは、一般的な女性心理として、理解できる。坂爪師匠はそこを丸っと無視し、「オカマは女子トイレに入れるべき」という前提を自明視しているのです。

 ぼくは実のところ、この「ターフ」問題について多くを知りません。が、「表現の自由クラスタ」が「ツイフェミはオカマを差別するから悪者だ」と主張する傾向にあるのに、きな臭いものを感じていました。
 上にも書いたように、基本、フェミニズムはLGBTの親分といってもいい。
 ひるがえって一般的な女性であればあるほど、「トランス女性が女子トイレに入ること」に抵抗感を覚えると想像できる。
 結局、こうした物言いからは、一般的な感覚を遅れたものとして一蹴したがる、エリーティズムの腐臭が、どうしたって漂ってきます。
 幾度も繰り返していることですが、小山エミ師匠は、「オカマには女湯に入る権利がある」などと主張しました*。フェミニズムはこうした空理空論に他ならず、一般的な女性には決して益しないものなのです。

* 詳しくは以下を参照。
「オカマ」は女湯には入れるのか?
「オカマ」は女湯には入れるのか?Ⅱ



 その一方、千田有紀師匠がターフ問題に意見を述べ、オカマに攻撃された件については「千田師匠は、オカマを理解しているのに、攻撃的な一部のオカマに不当に叩かれたのだ」としています。千田師匠は「ターフ」などという造語はいたずらに対立を煽るだけだと、この言葉の使用自体に疑念を呈し、それがまたオカマの怒りを買ったのだそうです(164p・大意)。
 ぼくは問題となった千田師匠の論文も呼んでいないので、どちらに分があるかはわかりません(し、興味もありません)。
 しかし、坂爪師匠は「ターフ」という言葉は「フェミに憎悪を燃やすオカマ」「オカマから攻撃されたフェミ」以外はほとんど使わない言葉だとしています。また、このターフという言葉を「不在によって存在している」とも評します。
 これはつまり、「被差別者」の位置に安住したいオカマが「敵」を捏造するために作った言葉だ、ということのようです。
 確かに、「マイノリティ」がありもしない「差別」を見て取る傾向は大いにあり、そこを鋭く描写する様には、ぼくも賛意を示したい衝動に駆られます。
 しかし既に述べたように、(坂爪師匠の主観では許されるべき)オカマの女子トイレ利用に文句を言った一派が存在し、ならばそれは(坂爪師匠の主観を前提視するならば)まぎれもない「ターフ」と呼ぶべき存在であり、ちゃんと実在しているのではないか。
 もう、ページをめくる毎に主張が二転、三転、四転し、各々の矛盾を一切気にしないのが、坂爪師匠のすごいところです。
 しかし、その真意は明らかです。要するに「フェミニストは間違ったことは言わないのだ、この騒動は似非フェミである一部の過激派が騒いでいるだけだ/LGBTは間違ったことは言わないのだ、この騒動は似非LGBTである一部の過激派が騒いでいるだけだ」としたいのでしょう。
 ところが、そうした「真のフェミニストとは似て非なるツイフェミ」の主張は「オカマが女子トイレに入るのは抵抗がある」という、一般的女性の感覚に近いもの。
 結局、坂爪師匠は一般的な人間の感覚を否定し、エリーティズムに酔っているだけなのです。
 後、そもそも、上の「被差別者」の位置に安住したい者が「敵」を捏造するために作った言葉という評って、「ツイフェミ」や「ミソジニー」にこそ当てはまることであり、「不在によって存在している」というのは「真のフェミ」にこそ当てはまることですよね。
 読み進めると案の定、坂爪師匠は「ツイクィア」などと言い出します。
「クィア」というのは元は「オカマ」とでも訳すべき、ある種の侮蔑用語だったのですが、90年代、よきものに転化していこうというクィア・ムーブメントというのが起きたのです。意味あいとしてはLGBTと同じ、セクシャルマイノリティという言葉の言い換えですが、ここには同性愛者に限らないあらゆるセクシャルマイノリティと連帯していこう、といったニュアンスが込められていた印象があります。
 実のところ、坂爪師匠はクィアスタディーズ自体を「オカマがルサンチマンを晴らすために学問の体系を僭称することで正当化しようとしたもの(168p・大意)」とまで言っており、クィアムーブメント自体にあまりいい感情を持っていないようです。
 しかし、この「ツイクィアスタディーズ」という(醜悪奇怪な)造語が出て来るに至って、その本音はいよいよ露わになります。
 師匠はある時には「(ツイ)フェミ」が悪いとし、ある時は「(ツイ)オカマ」が悪いとする。論点が整理されていないので支離滅裂な主張をしているようにしか見えませんが、要するに師匠は常に「ツイ」がついている方が悪いのだ、と言っているだけなのです。
 周縁にいるツイフェミ、ツイオカマは偽物だ。(千田師匠を持ち上げていることからもわかるように)中央にいる我ら権威者こそが正義であるぞ
 坂爪師匠はただひたすら、そう言い続けているのです。
 本書では「(ツイ)フェミがパターナリズムに堕してしまい云々」と嘆く箇所がありますが、何より権威側となり、従わぬ弱者を圧殺するぞとわめいているのは、どこまで行っても坂爪師匠の方なのです。

 ――というわけで、続きはまた来週。
「まだ続くのかよ」とお思いでしょうが、本書は「ネット世論」へのマスコミ側からの「返歌」であり、これ以降、マスコミ側の「アリバイ」として機能するはずの書。
 どうしても、丁寧に反論しておく必要があります。
 さすがに次回が最終回なので、どうぞご覧ください。