ひとくちに「壁」といっても、いろいろあるのです。
白漆喰が美しい、日本のお城の白壁。
目地の盛り上がった形が、海鼠(なまこ)に似ているところから名づけられた「なまこ壁」。
北京在住の人はもちろん、内外からの観光客なら一度は登ったことがあるにちがいない
万里の長城の壁。
北海公園の「九」が最高! 「九龍壁」。
7年とも9年ともいわれている、ダルマさんが向き合った壁。
改革開放後、友人、知人、そして隣人との間に築かれてしまった「壁」。
1989年に壊されてしまったベルリンの壁。
安部公房さんの小説、その名もズバリ「壁」。
満腹楼が子供ごころに、本当に耳があったり目があったら怖いけど面白すぎるだろ、と思った
「壁に耳あり、障子に目あり」の「壁」。
多くの特技で鬼太郎たちと活躍する、水木しげるさんの「ぬりかべ」。
壁といっても、このように多様なのです。
そして今回ご紹介するのは回民胡同で見かけた次の壁。
写真に写っているのはこの家のご主人。満腹楼がこのおウチの前を通るとき、たいていはいつも奥さんと
おぼしき女性と二人でイスに座ってなにやら歓談中といったことが多いのですが、この日は写真に見えるように
ご主人おひとり。
ところで、もとあった壁をぶち抜いて建て増してしまったんじゃないかと思われるこのおウチで特筆したいのは、
なんといっても居住者はもちろんのこと、胡同歩き愛好者・胡同ウォッチャーの満腹楼にももたらすその明朗感と
開放感なのです。このおオチをはじめて見たとき『眺めのいい部屋』なんて言葉が満腹楼の心によぎったものです。
このガラス窓の高さとレンガ使用に注目したい。
外部からこの住居の内部がまる見えにならないように工夫がなされているわけで、満腹楼はこの家屋に奥床しさを
感じてしまう。隠すことの美学がここにはある、といってよいかもしれません。
ガラス窓を支えるレンガが、いい。
このレンガ、ひょっとしたら壊したレンガ壁の再利用かもしれないのですが、このレンガの使用に胡同内環境への
配慮や同調のようなものが感じられる。
ちょっと寄り道をすれば、この「手すり」もいい。
前回ご紹介した元店舗に見られた「手すり」は、たしかにその形は「手すり」ではあったのですが、それはあくまで
名ばかりのもの、残念ながら死んでいるのです。たとえ「手すり」としてではなくともよいのです、生命を通わす
気概と工夫、そして愛着が欲しいのです。
それにひきかえこのおウチの「手すり」、まるで水を得た魚のように生きいきとしていないでしょうか。
と、ここまで書いてきたものの、もちろん気がかりなことがまったくないというわけではありません。
それは、この明朗性と開放性を持った外部とのしきり壁が寒さの厳しい北京の冬からどこまで居住者を守ることが
できるのかということ。しかも写真に写っている部分は北向きなのです。
でも、その一方で今どきの充実した暖房設備と二重ガラス仕様のことを考えるとそんな気がかりは満腹楼の単なる
杞憂にすぎないのかもしれません。
また、本当に耐えられぬ寒さの時には居住者はその間だけでも部屋の奥に退避すればよいわけで、その時には
外部とのしきり壁が二重になり、その二重の壁がこのおウチの住人を厳しい寒さから守ってくれるという利点も
あるわけなのです。
もし本当に気がかりなことをあげるとすれば、それは次にご紹介する壁なのかもしれません。
日本でもよく見かける実に味気ないビルの裏壁。
実はこれ、先に見た明朗性と開放性に富んだおウチの前にある壁なのです。
壁を作る場合、つくり主は道路の幅や建物の高さ、そしてたとえ裏壁とはいえデザインなどにも工夫を凝らし、
もっと周辺住民や周辺環境への配慮と同調が必要なんじゃないか、裏壁こそ本当に建築家の人間的力量が問われる
場所なんじゃないか、水木しげるさんの「ぬりかべ」のような楽しい壁こそがのぞましいと満腹楼はつくづく思う。
一つ間違えれば先ほどのおウチからせっかくの見晴らしや開放感を奪い、さらには住民に圧迫感や閉塞感さえ
与えかねない、そんな壁。
ちなみに、この壁の正面は、これ。
人民に人民が快適な生活を送るためのモノを提供するデパート。
風景、それは社会のあり方をよく表していると満腹楼は思う。
ある特定の社会における個人や集団のあり方はもちろんのこと、人と人、集団と集団の関係のあり方などをも
表してしまうのが風景なのだと思えてしまう。
以下に壁をめぐる三枚の写真をご紹介して今回の結びとしたいと思います。
通州・胡同で見かけた落書。
壁の中で大きくなるアリス。
通州・胡同で撮影。
白漆喰が美しい、日本のお城の白壁。
目地の盛り上がった形が、海鼠(なまこ)に似ているところから名づけられた「なまこ壁」。
北京在住の人はもちろん、内外からの観光客なら一度は登ったことがあるにちがいない
万里の長城の壁。
北海公園の「九」が最高! 「九龍壁」。
7年とも9年ともいわれている、ダルマさんが向き合った壁。
改革開放後、友人、知人、そして隣人との間に築かれてしまった「壁」。
1989年に壊されてしまったベルリンの壁。
安部公房さんの小説、その名もズバリ「壁」。
満腹楼が子供ごころに、本当に耳があったり目があったら怖いけど面白すぎるだろ、と思った
「壁に耳あり、障子に目あり」の「壁」。
多くの特技で鬼太郎たちと活躍する、水木しげるさんの「ぬりかべ」。
壁といっても、このように多様なのです。
そして今回ご紹介するのは回民胡同で見かけた次の壁。
写真に写っているのはこの家のご主人。満腹楼がこのおウチの前を通るとき、たいていはいつも奥さんと
おぼしき女性と二人でイスに座ってなにやら歓談中といったことが多いのですが、この日は写真に見えるように
ご主人おひとり。
ところで、もとあった壁をぶち抜いて建て増してしまったんじゃないかと思われるこのおウチで特筆したいのは、
なんといっても居住者はもちろんのこと、胡同歩き愛好者・胡同ウォッチャーの満腹楼にももたらすその明朗感と
開放感なのです。このおオチをはじめて見たとき『眺めのいい部屋』なんて言葉が満腹楼の心によぎったものです。
このガラス窓の高さとレンガ使用に注目したい。
外部からこの住居の内部がまる見えにならないように工夫がなされているわけで、満腹楼はこの家屋に奥床しさを
感じてしまう。隠すことの美学がここにはある、といってよいかもしれません。
ガラス窓を支えるレンガが、いい。
このレンガ、ひょっとしたら壊したレンガ壁の再利用かもしれないのですが、このレンガの使用に胡同内環境への
配慮や同調のようなものが感じられる。
ちょっと寄り道をすれば、この「手すり」もいい。
前回ご紹介した元店舗に見られた「手すり」は、たしかにその形は「手すり」ではあったのですが、それはあくまで
名ばかりのもの、残念ながら死んでいるのです。たとえ「手すり」としてではなくともよいのです、生命を通わす
気概と工夫、そして愛着が欲しいのです。
それにひきかえこのおウチの「手すり」、まるで水を得た魚のように生きいきとしていないでしょうか。
と、ここまで書いてきたものの、もちろん気がかりなことがまったくないというわけではありません。
それは、この明朗性と開放性を持った外部とのしきり壁が寒さの厳しい北京の冬からどこまで居住者を守ることが
できるのかということ。しかも写真に写っている部分は北向きなのです。
でも、その一方で今どきの充実した暖房設備と二重ガラス仕様のことを考えるとそんな気がかりは満腹楼の単なる
杞憂にすぎないのかもしれません。
また、本当に耐えられぬ寒さの時には居住者はその間だけでも部屋の奥に退避すればよいわけで、その時には
外部とのしきり壁が二重になり、その二重の壁がこのおウチの住人を厳しい寒さから守ってくれるという利点も
あるわけなのです。
もし本当に気がかりなことをあげるとすれば、それは次にご紹介する壁なのかもしれません。
日本でもよく見かける実に味気ないビルの裏壁。
実はこれ、先に見た明朗性と開放性に富んだおウチの前にある壁なのです。
壁を作る場合、つくり主は道路の幅や建物の高さ、そしてたとえ裏壁とはいえデザインなどにも工夫を凝らし、
もっと周辺住民や周辺環境への配慮と同調が必要なんじゃないか、裏壁こそ本当に建築家の人間的力量が問われる
場所なんじゃないか、水木しげるさんの「ぬりかべ」のような楽しい壁こそがのぞましいと満腹楼はつくづく思う。
一つ間違えれば先ほどのおウチからせっかくの見晴らしや開放感を奪い、さらには住民に圧迫感や閉塞感さえ
与えかねない、そんな壁。
ちなみに、この壁の正面は、これ。
人民に人民が快適な生活を送るためのモノを提供するデパート。
風景、それは社会のあり方をよく表していると満腹楼は思う。
ある特定の社会における個人や集団のあり方はもちろんのこと、人と人、集団と集団の関係のあり方などをも
表してしまうのが風景なのだと思えてしまう。
以下に壁をめぐる三枚の写真をご紹介して今回の結びとしたいと思います。
通州・胡同で見かけた落書。
壁の中で大きくなるアリス。
通州・胡同で撮影。
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