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隠蓑の「しび着せ祭」


小倉南区隠蓑(かくれみの)「しび着せ祭」に行ってきました。

 祭りと言っても、屋台や出店が出て、大勢の人出で賑わうのではなく、質素で素朴で、しかも短時間(正味30分)で終わるこの地域の伝統行事です。 
(毎年、12月15日午後1時から行われています。)

「しび着せ祭」とは?、
それを説明する前に、話は寿永4年(1185年)3月24日に遡ります。

 “ 今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ
      波の下にも みやこありとは ”
 


ご存知、源平最後の戦い、「壇ノ浦の合戦」です。
栄華を誇った平家一門は、二位の尼に抱かれた安徳天皇と共に、
海底に沈みました。

平家物語・先帝の身投げ(巻十一)では、
「そも尼前(あまぜ)、われをばいづちへ具して行かんとするぞ」
と尋ねる安徳天皇を、祖母の二位の尼(清盛の正室、時子)が抱きつつ
「浪の下にも都のさぶらふぞ」
と、言って身投したとされています。

 (↓九州自動車道の横に隠蓑・安徳天皇御陵があります。)



 処が、安徳天皇の遺骸は史実においても、確認されていないため、壇ノ浦で入水せず平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説が各地に残されています。

 (↓隠蓑の安徳天皇御陵です。)



旧豊前国の企救郡誌によれば、

 壇ノ浦での難を逃れた安徳天皇一行は、門司の田ノ浦へ上陸、松ヶ江村を越えて長野城に2、3ヶ月隠れていたが城主の急死で、再び安住の地を求めて、ここ(隠蓑)までやってきた。

 其の時、村人は住家の藁屋根の葺き替え作業中で一行の姿を見て、すぐに常人でないことを知り、村人達は幼帝(此の時8歳)を藁で隠し、上から藁しびをかぶせて気付かれないようにした。

 更には二位の尼や随行の人々は、背後の御城山(現御笠山)の密林の中に隠し、それにより源氏の追手から逃すことができた。


とあります。


 (↑伝統のしび着せ行事を待つ人々、殆んどがカメラマン)

 その後、ここを隠蓑(かくれみの)村と呼ぶようになり、
いつの頃からか、秋まつり(収穫祭)に安徳天皇を偲んで、
子供にしびを着せ、無事成長を祈る行事が行われるようになりました。

しびとは藁の袴(はかま)のことです。)

ここは小倉の中心部から約10キロ位、離れた鄙びた所で、文字通り山肌の中に隠れるような場所です。

 戦前までは、安徳天皇を偲ぶ『十五日祭り』として村人達は、
外部に一切を公開することなく、密かに行われていたそうですが、戦後、時代の変化とともに一般公開するようになりました。

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↓今日の主役安徳天皇役と近所の小学生・幼稚園児達、
 先生に引率されてやってきました。
 (神主さんから注意事項を聞いてます。)




 ↓会場へ向かいます。



 ↓御陵前でお祓いを受けます。



 説明書によれば、
先ず地域で生まれた一歳未満の子に藁を降りかけて、
お祓いが行われるとあります。(主役の安徳天皇役です。)

 だが現在この地域は30数戸、
主役はこの地域に住む方の曾孫さんでした。




 いつの間にか主役(安徳天皇役)が三人に、
  (ご愛嬌、ご愛嬌!)



 儀式が終われば、子供達の出番です。準主役の登場です。
お互いに藁を掛け合ったり、寝転んだり、潜ったり、
兎に角、楽しそうでした。

 この役は近くの小学校の3年生と決っていて、授業の一環だそうです。みんな、この日を楽しみにしていたようでした。



 隠蓑の「しび着せ祭」、理解できたでしょうか、
この地に縁のある安徳天皇を偲んで、子供にしびを着せ無事成長を祈る伝統的な風俗行事でした。(実際は藁をふり掛ける?)

「安徳天皇伝説」
一行はその後、英彦山方面へ向かわれ、終焉は長崎とも、鹿児島とも、言われていまが、この地(隠蓑)で迎えられた。とも言われています。

 だから、
この地に、宮内庁非公認ながら「安徳天皇御陵」があります。
そうして毎年、この様に安徳天皇を偲ぶ行事を行っています。

 隠蓑は、現在も正式地名です。
場所の詳細は、郵便番号802-0834で検索してみて下さい。

簡単な動画を作りました。



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