飛水峡

思い出

読売新聞

2007年02月15日 14時49分09秒 | なぞ食探検隊
ジャンボスイカ


 夏の風物詩スイカ。核家族化が進み、スーパーではカット売りが主流になる中で、日本一大きなスイカを作り続ける町がある。入善町だ。1世紀を超える歴史があるが、高級品ゆえ隊員はまだお目にかかったことがない。産地を訪ねると、農家の汗と努力の結晶ともいうべきスイカの姿が見えてきた。


ズシリ 上品な甘さ
 25日に同町で行われた「入善ジャンボ西瓜」の品質査定会。机の上にゴロゴロと並ぶ姿は確かにジャンボだ。平均で縦38センチ、直径28センチ。重さは18キロ・グラムと幼稚園児ほどもある。

 今年は天候不順で作柄が心配されたが、県新川農業普及指導センターの湯野一郎所長は「109年の歴史がある匠(たくみ)の技と努力があったからこそ、平年並みに育った」と講評する。

 このスイカ、とにかくぜいたくで手がかかる。JAみな穂の西川信一営農部長によると、〈1〉通常の接ぎ木栽培だと大きくならないので、種から育てる〈2〉1坪に1株しか植えられず、1株から1個しか収穫できない〈3〉1回収穫すると8~10年は同じ土地で栽培できない――という。

 つまり、10アールで300個しか作れず、そのうち出荷できるのは8割。現在は8・5ヘクタールを作付けしているが、収穫した土地を10年休ませるから、作り続けるには85ヘクタールもの土地がいる計算。

 農家は、苗床の土作りから作業を始め、畑に植えた4月以降は毎日畑に出て世話をするという。「ここまで大きくするには技が要る。数年経験したぐらいではこのスイカは作れないね」と西川部長。広大なお屋敷でしか暮らせない、わがままおぼっちゃまのようなスイカなのだ。小売り価格が5000~8000円というのも、うなずける。

 その歴史もドラマチックだ。1997年に生産100周年記念で作られた冊子を見ると、スイカの栽培は、明治20年(1887年)ごろ、荻生村(現黒部市)の結城半助氏が横浜の種苗店からアメリカ原産で長円形のラットルスネーク種を導入したことに始まる。ラットルスネークとは、がらがら蛇のこと。しま柄がその名の由来らしい。



皮も昔よりずいぶん薄くなった(入善町の品質査定会で) 黒部川扇状地の砂地が栽培に適し、みるみる栽培面積が拡大。厚い皮で日持ちがし、輸送しても割れにくいと人気を博し、大正10年(1921年)には、入善96ヘクタール、黒部32ヘクタールと、日本屈指のスイカ産地となった。

  しかし、戦後は甘い丸玉に押されて、生産が激減。かつては色も甘みも薄かったが、消費者の好みに合わせるために改良を重ね、今の味に行き着いたという。「黒部西瓜」という呼び名が広まっていたが、町の特産品のイメージアップのため1982年に「入善ジャンボ西瓜」と改名した。

 査定会後の試食会で食べてみると、糖度12度以上だが、すっきりと上品な甘さがある。皮の厚さも今は普通のスイカと変わらない。むしろ、さわやかな香りは並のスイカより強い気がする。

 「でも、この大きさでしょ。作業も大変で、なかなか後継者がいなくてね」と西川部長。隣の黒部市では、後継者がおらず、栽培を一時やめている。現在、入善町ジャンボスイカ生産組合で、21軒の農家が参加しているが、中心は60歳代のベテランだ。

 でも、同組合の中瀬昭義組合長は「お盆など人が集まる時のギフトに喜ばれている」とスイカ柄のネクタイをして話してくれた。人の縁が薄れた今こそ、家族や仲間が集まらないと食べきれないスイカの良さが見直されてもいい。スイカへの深い愛情と誇りが大きな実りとなり、町の特産であり続ける原動力になっているようだ。


農家がわらで編んだ「さん俵」に包まれたジャンボスイカ
隊長 「ライバル、他県に出現」
 隊長の子どものころは、もう少し地肌が白っぽく、より細長い枕型だった。お中元に仰々しくワラ座布団付きで我が家を訪れた。

 父にしま模様に沿って長く切ってもらい、塩を振り、持ちきれないスイカを机の上に置き、顔中汁だらけにして笑われたっけ。次の朝、分厚い白皮を漬け物にして食べた事を思い出す。

 先日、他県で行われたジャンボスイカ祭りの写真を見た。昔の形で、25~28キロ・グラムのものが並んでいた。ライバル現る。がんばれ入善。



探検隊メンバー


寺嶌圭吾隊長…富山市内で酒店を経営する傍ら、食文化研究に情熱を注ぐ53歳

隊員O…高岡市出身。体形を気にしつつ、食べ歩きに励む30歳代




(2006年7月29日 読売新聞)

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