飛水峡

思い出

岐阜新聞

2004年01月19日 22時51分25秒 | 岐阜の水と緑
魚が通れぬ魚道では 相模川、苦難の40年・上



 川を遮る二つの巨大な取水ぜきと貯水ダム。そんなハンディを背負いながら毎年、鮎の漁獲量を伸ばし、鮎釣りファンの期待に応えている川がある。神奈川県の中央を貫く県随一の相模川だ。「なぜ増えてるかって? 鮎が上りやすく、下りやすくしているだけだよ」。漁協役員の答えは単純明快だ。自信あふれる発言には、人と自然が共存できる道のりが示されている。
 山梨県の富士山すそ野を源流にする相模川は、全長百十三キロで、百五十キロを超える長良川よりやや規模が小さい河川。逆に流域人口は長良川の一・五倍の百二十万人。水系は早くから横浜市など県人口八百六十万人の命の水がめとして取水が行われてきた。
 都市河川として長良川より多大なストレスがかかる相模川だが、鮎の漁獲量の年推移を見ると面白い。昭和四十年代は百トンにも満たない年が続いたが、その後順調に漁獲量を増やし、最近十年間は四百五十トンから四百トン前後を維持。三百トン前後で低迷する長良川を尻目に、首都圏屈指の鮎川になっている。
 この間、一九六五(昭和四十)年には河口から七キロ上流に寒川堰(ぜき)が造られ、六年前からその上流に相模大堰や宮ケ瀬ダムが相次いで完成した。相模大堰とダムの建設費は合わせて八千五百億円を超える巨大プロジェクトだった。
 巨大プロジェクトと共存してきた物語の起点は寒川堰の建設時から始まる。物語の主役は、相模川第二漁協組合長で神奈川県内水面漁連会長などを歴任する菊地光男さん(76)。菊地さんは同じ年の漁協役員栗原梅吉さんとともに四十年以上にわたって漁協運営に携わってきた。
 寒川堰建設による漁業補償交渉の際、菊地さんたちは「川は今のおれたちだけのものじゃない。川にも返す必要がある」と主張。補償金を組合員に分配せず、事業基金に積み立てるよう、ほかの役員を説得。一度は内諾を得たが、いざ会議を開くと主張は受け入れられず、補償金は分配されてしまった。「みんな金を見ると、変わるわけよ」。菊地さんたちは昔話で笑い合う。
 二人は受け取った補償金を元手に、相模川近くに鮎の養殖池を造り始めた。慣れない手つきでコンクリートを打ち、円形の流水プールをこしらえ、稚鮎の養殖を始めた。素人の手技は、厚みが不ぞろいなコンクリート壁として、苦労の跡を今でも残している。
 寒川堰には当初、階段式魚道が一つ設けられていた。しかし、上流を目指す稚鮎やモクズガニなどが上りにくいと感じた菊地さんたちは行政に何度も足を運び、改良を重ねるよう求めてきた。「効果がないことをいくらやっても無駄なんだ。魚が通らない魚道なんか造ってどうする」。



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(写真)鮎の漁獲量が順調に伸びている相模川。
菊地光男さん(左)と栗原梅吉さんは寒川堰(ぜき)の前に立ち、川への思いを熱く語る=神奈川県寒川町
《岐阜新聞1月19日付朝刊一面》

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