平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2020年4月19日 復活者の来訪

2020-05-02 10:29:34 | 2020年
ヨハネによる福音書20章26節〜29節
復活者の来訪

 最近、私は教会員の自宅に週報を届ける働きをしています。[もし週報を届けてほしい方は、私(牧師)までご連絡下さい。] 簡単なお手紙と共に週報を届ける中で、このような返信がありました。「日曜日礼拝に集えない中で、礼拝の始まる時間に身を置くことが出来るか、私は今、問われています。」私たちは確かに、どのようにしてそれぞれの場所で礼拝を大切に出来るかが問われています。

 神がこの地球をお創りになられた際に、神の創造の業として、三つの行為があるということを以前分かち合いました。それは「言う」と「分ける」と「名付ける」という神の業(創世記1章3〜5節)です。私たちの混乱と混沌の只中で、曜日感覚が失われそうになっている今こそ、毎日を礼拝者として過ごしたいと願っています。その一つに、「言う、分ける、名付ける」という神の創造の業を日常で実践されてはいかがでしょうか。「言う」とは、何かを行うように宣言すること、「分ける」とは光と闇とを分けられたように、その時間を特別なものとして分けること、そして「名付ける」とは自分で行った業がどうであったのか、評価することです。この日常的な創造の業への参与は、きっと神様の存在をもっと身近に感じることのできる一つのツールとなることでしょう。

 さて、今日は復活者イエス様が、疑い深いトマスのために来てくださった話です。イエス様はマグダラのマリア、そして、弟子たち、次いでトマスにご自身をあらわされます。復活者の来訪は、実に一人ひとりの元に来て下さいます。そして、この事は信じる者のためにではなく、まさに信じない者のために、ご自分の姿を顕(あらわ)し、声をかけ、対話をしてくださる方です。聖書では弟子たちの状況が家に鍵をかけていたことを繰り返し伝えています(20章19、26)。これはユダヤ人を恐れてのことでしたが、復活の知らせを受けてなお、鍵を掛けて家の中に閉じこもっていたのです。イエス様はその恐れと不安の中にあった弟子たちの真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」(19、21、26)と言われました。これは別の訳では「安かれ」です。一般的な挨拶と言うよりも、むしろその言葉は、ご自分を顕して下さる方は紛れもなく十字架を経験され、また彼の十字架の苦難を通して、神との平安と和解に至らせる復活者、主イエスの言葉でした。「どんな時も、安かれ。」そのような意味だったことでしょう。

 イエス様が今回現われたのはトマスのためでした。前回彼はその場にいないばかりではなく、「わたしはあの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と言いました。トマスは非常に熱心で、純粋でした。イエス様に、分からないことはわからない(14:5)、と素直に言える純朴な弟子でした。トマスが素直な疑いを持っていることをイエス様は全てご存じで、彼の前に立ち、疑いのまま、確認するように促します。ただ最後に一言、こう言い添えるのです。「信じないものではなく、信じる者になりなさい」

 聖書に、トマスがイエス様に触れたという表現は一切ありません。ただ十字架に磔(はりつけ)にされた手の傷跡と、イエス様が死なれた後に槍で刺し貫かれた脇腹の傷跡を見て、そして見るだけで、彼はイエス様が実際に復活されたということを信じるに至りました。そして、このようにトマスは言うのです。「わたしの主よ、わたしの神よ」彼の信仰告白は、イエスが神であり、主であられるという聖書の唯一の信仰告白となりました。今日私たちが「イエスこそは神であり、イエスこそは主である」と告白できるのは、紛れもない、トマスの純粋な疑いから出発したというところに目を止めるべきかもしれません。疑いは突き抜けると信仰へと変えられます。そうしてくださるのは、主イエスです。そして彼が実際イエスに触れずに、復活を信じた事も、もっと強調されてよいでしょう。そう、私たちは肉体を持ったイエスに逢うことなしに、イエスを信じているように。そして確かな証明がないままでも、神は我々と共におられるということを信じているように。イエス様のトマスに対する最後の言葉は、時を超えて突きぬけて今、私たちに届きます。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」アーメン。

 確かに私たちは今、このパンデミックの中で色々と鍵を掛けざるを得ません。自由に外出することを控え、家の中に閉じこもり、必要最小限の外出に控える。外出しても、笑顔はなく、コロナが蔓延しているかもしれないと怯(おび)え、人との接触を避け、お釣りの受け渡しでさえトレイを介すようになりました。これはまだまだ、序の口かもしれません。でも人がどれだけ堅牢になろうとも、どんな場所にどれだけ鍵を掛けようとも、イエスは我々の真ん中に、来てくださいます。無理やりでなく、自然な形で。そして言われます。「安かれ」と。それは私たちの生活の真ん中にイエス様が来て下さるということです。実にパウロは、「あなた方のからだは聖霊の住まう神殿である」(Iコリント6章19節)と言って下さいましたが、今や、復活者は私たちのところに来訪され、私たちの中に住もうとされている方です。このメッセージを聞いている皆さんが、このイエスを、まことの救い主・助け主として心のうちに迎え入れられますことを心から願うものです。


森 崇 牧師

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