使徒言行録9章1~19節
神様、イエス様に用いられる私たちは、自分たちの評価をいったい、どのような形で、神様が、イエス様がなさったのかを知りません。この世においては、私たちがどこかの学校に入るときには、そこに定員なり、資格のようなものが求められるときには、何かの基準があります。そして、その基準に照らして、入学が受け入れられるのです。また、何かの仕事に就く場合、採用されるにあたり、何かの基準がまたそこにもあり、それに合致したときにのみ、それは採用されるということになります。
選挙などもそう言えるかもしれません。私たちの教会にも執事選挙というものがあります。平尾教会の場合は、被選挙権がある方は、現在会員であるということや年齢制限もあります。他にも、少々細かな取り決めをしております。しかし、選ぶときには、それ以外のものは、選ぶ側にその基準は委ねられておりまして、その方の自由な判断基準があるのです。
しかし、それでも、選ぶ側は、目をつぶって鉛筆をころがし、その鉛筆の止まったところの人に○をつける、などというような選び方はされないはずです。選ぶ側は、その人なりの基準を設けているはずです。例えば、テモテの手紙の一などに記されている監督や奉仕者の資格あるいは基準についての内容を読んで、それに則って選んでいる方々もおられるでしょう。この世においては、その人が選ばれたり、その任につくときには、何らかの基準や資格が問われます。
しかし、神様が、イエス様が、その人を用いようとなさるときには、その基準は、私たちには理解しかねます。私たちの物差しとは違う何かが、神様の方にはあられるようです。
パウロという人物の場合も、これまた、まったく理解しがたいことだったでしょう。特に、イエス様のことを迫害に耐え忍びながら、宣べ伝えていた弟子たちにとって、パウロをイエス様が、逆に、ご自分を宣べ伝える人物として用いられるといった事態は、とても受け入れ難いことだったに違いありません。そんな馬鹿なと、誰もが、怒りにも似たような思いを抱いたのではないでしょうか。
この出来事については、パウロ自身がこのときのことを述べていますが、今日は、今日のテキストである使徒言行録から理解できることを考えてみます。というのも、パウロが書いた手紙の内容と比べて微妙に食い違うところがありますから、それは、また別の機会に考えることに致します。
さて、使徒言行録によりますと、パウロ自らが、このときのことについては、他に使徒言行録の22章の1節から22節、また、26章の12節から18節でも語っていますから、それらを参考にしながら考えていきますと、次のようになります。
パウロは、キリキア州のタルソで生まれたユダヤ人でした。そして、タルソで育ち、ガマリエルという学者のもとで、先祖の律法について厳しい教育を受けました。彼は、熱心に神に仕え、その熱心さゆえに、キリスト者たちを迫害し、男女を問わず、縛り上げて獄に入れ、殺すことさえしていました。
そして、このときも、ダマスコにいるキリスト者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して、処罰するために、でかけて行ったのでした。エルサレムからダマスコへ逃亡したキリスト者たちを捕まえるためであったのでしょうか。
パウロという呼び方は、ギリシア語的な呼び名で、ヘブライ語的には、サウロという呼び名でした。9章では、サウロとなっています。聖書では、使徒言行録の13章の9節から、「パウロと呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて」と書かれておりまして、この記述からあと、聖書は、サウロではなく、パウロと記しています。
彼は、ダマスコに向かっているとき、突然天から光が彼の周りを照らし、地面に倒れてしまいました。そのとき、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という呼びかける声を聞いたのでした。そして、「主よ、あなたはどなたですか」とパウロが言うと、声は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えました。声は、続けて「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と言いました。パウロは、人々に手を引いてもらい、ダマスコへ連れて行ってもらいました。パウロは、そこで、「三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」、とあります。
パウロは、ユダヤ人の中でも、べニヤミン族に属し、ですから、ユダヤ人のなかのユダヤ人という自負もありました。律法を大事にし、ファリサイ派でもあり、その律法に生きていた人間でしたから、同じユダヤ人たちからすると、とても立派な人物でした。ガブリエルという優れた学者のもとで学び、自ら率先して、キリスト教徒たちを捕縛するほどの、いわゆる信仰に熱心な人物でもありました。
最近、異端のようにして増えてきたキリスト者たちは、ナザレのイエスが、キリストであると言っているが、とんでもない、赦しがたい者たちだと、パウロは、思っていたことでしょう。
実際、パウロは、7章のステファノが殉教する場面に立会い、多くの人々は、そのリンチに加わった証しとして、このとき若者であったパウロのもとに、自分たちの上着をおいたのでした。パウロは、ステファノの殺害に積極的でありました。このようなパウロでしたから、キリスト者たちにとって、このパウロという人物は、とても赦しがたい人間だったはずです。
復活のイエス様は、ダマスコにいたアナニアという弟子に、パウロのところへ行って、彼の上に手を置いて、目が見えるようにしてあげなさい、と言われました。アナニアは、「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕えるため、祭司長たちから権限を受けています」と言いました。
アナニアは、そのような人間の目が見えなくなったというので、神様の懲らしめを受けたと多くの人々は思い、ひとつの奇跡のようにすら思っていたのに、そのパウロの目を癒されるのですか、彼を赦されるのですか、といった神様への反発が感じられます。
パウロの名前は、同じキリスト者たちには、十分に知れ渡っていたのです。最悪の男ということではなかったのでしょうか。ユダヤ人たちからすると将来を約束されたニューリーダーだったでしょうが、キリスト者たちからは、自分たちを迫害する最悪の男でした。
復活のイエス様は、よりによって、このパウロの目を癒されるだけでなく「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と言われたのでした。パウロは、「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」大祭司のところへ行って、ダマスコの諸会堂あての許可書を求めたほどの人物でした。
キリスト者たちへの脅迫と殺害を意図した人物を、ご自身を伝えるべき器として、復活のイエス様は、用いようとされ、実際、そのように、パウロも振舞うことになるのです。パウロは、すでに数々のキリスト者たちを迫害し、多くの傷を負わせ、痛みを与えておりました。その人間を罰するどころか、逆に用いようと、言われるのです。
アナニアは、パウロの見えなくなった目を癒されるということだけでも、とんでもないと、心のうちに思ったことでしょうが、それが、イエス様のことを宣べ伝える器として用いられるというのですから、何をかいわんや、だったでしょう。
このときのパウロに、何か真実なものを見ようとするならば、それは一つだけあります。アナニヤが、主からのご命令を受けたときのこと「立って、直線どおり、と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、ダルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている」。このイエス様の「今、彼は祈っている」という言葉です。パウロは、目が見えなくなり、イエス様の「なぜ、わたしを迫害するのか」という言葉に対して、思いをめぐらし、祈っていたのではないか、と思われるところです。
彼は、アナニアに会うまで、三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった、とあります。ヨナが、大きな魚に飲み込まれ、その腹の中にいたのが三日三晩でした。何も見えなかったでしょう。その中で、彼は、神様に必死に祈りました。その中には、神様のご意志に背いたことへの悔い改めの思いも当然あったのです。パウロも三日間、目が見えず、というのは、魚の腹の中にいるのと同じであったはずです。食べも飲みもしませんでした。パウロにとって、この時彼は、死の淵にいたということも言えるでしょう。
その彼を復活のイエス様は、救い出されたのです。そして、それだけでなく、イエス様をキリストとして伝える器として、用いられたのでした。
アナニアは、イエス様から言われたように、ユダの家に行き、サウロの上に手おいて、言いました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」。使徒言行録では、聖霊の働きが随所で述べられます。ここでも、聖霊が彼を満たすことが述べられています。そして、そのように祈りましたときに、彼の目からうろこのようなものが落ち、サウロは、元どおり目が見えるようになったのでした。
パウロは、すぐに身を起こして、バプテスマを受けたと書かれています。主に出会わされ、主に癒され、主に赦された者がたどる道は、バプテスマ(洗礼)を受けるということです。パウロは、死していた身が、復活するという体験をさせられたのでした。そのしるしとして、バプテスマを受けました。
パウロは、このあと、食事をして元気を取り戻しました。
さて、パウロがどうして、復活のイエス様の選びに与ったのか、その理由は述べられていません。この世の私たちの基準からするならば、このとき、最も、選ばれてはならない者だったと言えないでしょうか。そしてまた、おそらく、人間の力では、誰も、このときのパウロをキリストを宣べ伝える側の人間として、回心させることなど、とてもできなかったでしょう。これをなしえたのは、ほんとうに復活のイエス様以外には、おられなかったに違いありません。私たちをバプテスマに導かれるのは、イエス・キリスト以外には、おられません。今もなお生きておられるイエス様との出会いが、人を、新しい命へと導くことができるのです。
そして、選ばれた者には、イエス様から、なすべきことが示されるのです。そして、イエス様が私たちに望まれていることを、私たちは、なすだけであります。
選びの理由の開示を私たちは受けることが許されていません。許されているのは、そのお方によって、罪が赦されたことを喜び、このお方に従っていくことをバプテスマを受けることで示すことと、そのお方がこのわたしに望まれていることを知って、それを行うだけであります。
イエス様は言われました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」。そして、イエス様は続けられました。「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。イエス様に従っていくことは、パウロの場合、それは非常につらく厳しい道でした。幾多の苦難が待ち構えておりました。
それでも、彼は、その道を突き進んでいきました。パウロは、あるとき言いました。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見なしています。キリストゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3:8)。神様の選びに私たちもまた、感謝し、キリスト者として歩み始めたときから今に至るまでを、喜びと致しましょう。
平良師
主の用いられる器
神様、イエス様に用いられる私たちは、自分たちの評価をいったい、どのような形で、神様が、イエス様がなさったのかを知りません。この世においては、私たちがどこかの学校に入るときには、そこに定員なり、資格のようなものが求められるときには、何かの基準があります。そして、その基準に照らして、入学が受け入れられるのです。また、何かの仕事に就く場合、採用されるにあたり、何かの基準がまたそこにもあり、それに合致したときにのみ、それは採用されるということになります。
選挙などもそう言えるかもしれません。私たちの教会にも執事選挙というものがあります。平尾教会の場合は、被選挙権がある方は、現在会員であるということや年齢制限もあります。他にも、少々細かな取り決めをしております。しかし、選ぶときには、それ以外のものは、選ぶ側にその基準は委ねられておりまして、その方の自由な判断基準があるのです。
しかし、それでも、選ぶ側は、目をつぶって鉛筆をころがし、その鉛筆の止まったところの人に○をつける、などというような選び方はされないはずです。選ぶ側は、その人なりの基準を設けているはずです。例えば、テモテの手紙の一などに記されている監督や奉仕者の資格あるいは基準についての内容を読んで、それに則って選んでいる方々もおられるでしょう。この世においては、その人が選ばれたり、その任につくときには、何らかの基準や資格が問われます。
しかし、神様が、イエス様が、その人を用いようとなさるときには、その基準は、私たちには理解しかねます。私たちの物差しとは違う何かが、神様の方にはあられるようです。
パウロという人物の場合も、これまた、まったく理解しがたいことだったでしょう。特に、イエス様のことを迫害に耐え忍びながら、宣べ伝えていた弟子たちにとって、パウロをイエス様が、逆に、ご自分を宣べ伝える人物として用いられるといった事態は、とても受け入れ難いことだったに違いありません。そんな馬鹿なと、誰もが、怒りにも似たような思いを抱いたのではないでしょうか。
この出来事については、パウロ自身がこのときのことを述べていますが、今日は、今日のテキストである使徒言行録から理解できることを考えてみます。というのも、パウロが書いた手紙の内容と比べて微妙に食い違うところがありますから、それは、また別の機会に考えることに致します。
さて、使徒言行録によりますと、パウロ自らが、このときのことについては、他に使徒言行録の22章の1節から22節、また、26章の12節から18節でも語っていますから、それらを参考にしながら考えていきますと、次のようになります。
パウロは、キリキア州のタルソで生まれたユダヤ人でした。そして、タルソで育ち、ガマリエルという学者のもとで、先祖の律法について厳しい教育を受けました。彼は、熱心に神に仕え、その熱心さゆえに、キリスト者たちを迫害し、男女を問わず、縛り上げて獄に入れ、殺すことさえしていました。
そして、このときも、ダマスコにいるキリスト者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して、処罰するために、でかけて行ったのでした。エルサレムからダマスコへ逃亡したキリスト者たちを捕まえるためであったのでしょうか。
パウロという呼び方は、ギリシア語的な呼び名で、ヘブライ語的には、サウロという呼び名でした。9章では、サウロとなっています。聖書では、使徒言行録の13章の9節から、「パウロと呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて」と書かれておりまして、この記述からあと、聖書は、サウロではなく、パウロと記しています。
彼は、ダマスコに向かっているとき、突然天から光が彼の周りを照らし、地面に倒れてしまいました。そのとき、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という呼びかける声を聞いたのでした。そして、「主よ、あなたはどなたですか」とパウロが言うと、声は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えました。声は、続けて「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と言いました。パウロは、人々に手を引いてもらい、ダマスコへ連れて行ってもらいました。パウロは、そこで、「三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」、とあります。
パウロは、ユダヤ人の中でも、べニヤミン族に属し、ですから、ユダヤ人のなかのユダヤ人という自負もありました。律法を大事にし、ファリサイ派でもあり、その律法に生きていた人間でしたから、同じユダヤ人たちからすると、とても立派な人物でした。ガブリエルという優れた学者のもとで学び、自ら率先して、キリスト教徒たちを捕縛するほどの、いわゆる信仰に熱心な人物でもありました。
最近、異端のようにして増えてきたキリスト者たちは、ナザレのイエスが、キリストであると言っているが、とんでもない、赦しがたい者たちだと、パウロは、思っていたことでしょう。
実際、パウロは、7章のステファノが殉教する場面に立会い、多くの人々は、そのリンチに加わった証しとして、このとき若者であったパウロのもとに、自分たちの上着をおいたのでした。パウロは、ステファノの殺害に積極的でありました。このようなパウロでしたから、キリスト者たちにとって、このパウロという人物は、とても赦しがたい人間だったはずです。
復活のイエス様は、ダマスコにいたアナニアという弟子に、パウロのところへ行って、彼の上に手を置いて、目が見えるようにしてあげなさい、と言われました。アナニアは、「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕えるため、祭司長たちから権限を受けています」と言いました。
アナニアは、そのような人間の目が見えなくなったというので、神様の懲らしめを受けたと多くの人々は思い、ひとつの奇跡のようにすら思っていたのに、そのパウロの目を癒されるのですか、彼を赦されるのですか、といった神様への反発が感じられます。
パウロの名前は、同じキリスト者たちには、十分に知れ渡っていたのです。最悪の男ということではなかったのでしょうか。ユダヤ人たちからすると将来を約束されたニューリーダーだったでしょうが、キリスト者たちからは、自分たちを迫害する最悪の男でした。
復活のイエス様は、よりによって、このパウロの目を癒されるだけでなく「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と言われたのでした。パウロは、「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」大祭司のところへ行って、ダマスコの諸会堂あての許可書を求めたほどの人物でした。
キリスト者たちへの脅迫と殺害を意図した人物を、ご自身を伝えるべき器として、復活のイエス様は、用いようとされ、実際、そのように、パウロも振舞うことになるのです。パウロは、すでに数々のキリスト者たちを迫害し、多くの傷を負わせ、痛みを与えておりました。その人間を罰するどころか、逆に用いようと、言われるのです。
アナニアは、パウロの見えなくなった目を癒されるということだけでも、とんでもないと、心のうちに思ったことでしょうが、それが、イエス様のことを宣べ伝える器として用いられるというのですから、何をかいわんや、だったでしょう。
このときのパウロに、何か真実なものを見ようとするならば、それは一つだけあります。アナニヤが、主からのご命令を受けたときのこと「立って、直線どおり、と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、ダルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている」。このイエス様の「今、彼は祈っている」という言葉です。パウロは、目が見えなくなり、イエス様の「なぜ、わたしを迫害するのか」という言葉に対して、思いをめぐらし、祈っていたのではないか、と思われるところです。
彼は、アナニアに会うまで、三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった、とあります。ヨナが、大きな魚に飲み込まれ、その腹の中にいたのが三日三晩でした。何も見えなかったでしょう。その中で、彼は、神様に必死に祈りました。その中には、神様のご意志に背いたことへの悔い改めの思いも当然あったのです。パウロも三日間、目が見えず、というのは、魚の腹の中にいるのと同じであったはずです。食べも飲みもしませんでした。パウロにとって、この時彼は、死の淵にいたということも言えるでしょう。
その彼を復活のイエス様は、救い出されたのです。そして、それだけでなく、イエス様をキリストとして伝える器として、用いられたのでした。
アナニアは、イエス様から言われたように、ユダの家に行き、サウロの上に手おいて、言いました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」。使徒言行録では、聖霊の働きが随所で述べられます。ここでも、聖霊が彼を満たすことが述べられています。そして、そのように祈りましたときに、彼の目からうろこのようなものが落ち、サウロは、元どおり目が見えるようになったのでした。
パウロは、すぐに身を起こして、バプテスマを受けたと書かれています。主に出会わされ、主に癒され、主に赦された者がたどる道は、バプテスマ(洗礼)を受けるということです。パウロは、死していた身が、復活するという体験をさせられたのでした。そのしるしとして、バプテスマを受けました。
パウロは、このあと、食事をして元気を取り戻しました。
さて、パウロがどうして、復活のイエス様の選びに与ったのか、その理由は述べられていません。この世の私たちの基準からするならば、このとき、最も、選ばれてはならない者だったと言えないでしょうか。そしてまた、おそらく、人間の力では、誰も、このときのパウロをキリストを宣べ伝える側の人間として、回心させることなど、とてもできなかったでしょう。これをなしえたのは、ほんとうに復活のイエス様以外には、おられなかったに違いありません。私たちをバプテスマに導かれるのは、イエス・キリスト以外には、おられません。今もなお生きておられるイエス様との出会いが、人を、新しい命へと導くことができるのです。
そして、選ばれた者には、イエス様から、なすべきことが示されるのです。そして、イエス様が私たちに望まれていることを、私たちは、なすだけであります。
選びの理由の開示を私たちは受けることが許されていません。許されているのは、そのお方によって、罪が赦されたことを喜び、このお方に従っていくことをバプテスマを受けることで示すことと、そのお方がこのわたしに望まれていることを知って、それを行うだけであります。
イエス様は言われました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」。そして、イエス様は続けられました。「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。イエス様に従っていくことは、パウロの場合、それは非常につらく厳しい道でした。幾多の苦難が待ち構えておりました。
それでも、彼は、その道を突き進んでいきました。パウロは、あるとき言いました。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見なしています。キリストゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3:8)。神様の選びに私たちもまた、感謝し、キリスト者として歩み始めたときから今に至るまでを、喜びと致しましょう。
平良師