平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2015年12月24日 和解の福音のはじめ

2016-03-16 12:34:20 | 2015年
マタイによる福音書1章18~25節
(12.24・キャンドルサーヴィス)

和解の福音のはじめ

 この一年を振り返ってみますと、世界的には何にもまして、テロによる世情不安というものは大きかったと思います。多くの人々が難民となりました。また、日本社会に生きる私たちの間にも、あちこちで不安をおぼえるような、また、悲しい出来事もありました。平和へのほころびがあちこちで感じられました。あれほどの反対運動が巻き起こったにもかかわらず、安保法制は、国会で強行採決という形で承認されました。
 そして、これもまた随分と痛い目にあい、安全性などにも未だに大きな問題がある原発、その大きな災害を引き起こした原発が、あちこちで再稼働することになりました。それから、外交の点では、北朝鮮はもとより、韓国や中国との関係もうまいこといきませんでした。
 前の戦争時には、随分と迷惑をかけた我が国でしたから、いろいろな摩擦の度に過去の振る舞いの責任を問われるということにもなりました。日本全体の問題でもあり、課題でもありますが、少なくとも、住民の意志を無視したような辺野古の基地移設問題も解決には程遠い感じです。また、経済的には、格差社会が蔓延してきたといった感じで、多くの人々が貧しい生活を余儀なくされる時代となりました。若い人々の夢が小さく、小さくされていき、将来に希望をもてないような時代になりつつあります。
 歴史的なことや現在の利害関係において、憎悪が憎悪を生み、報復を生み、それを受けた者たちがまた憎悪を抱き、そして、報復へと行動する、そのようなことがあの国とこの国、この民族とあの民族という関係だけでなく、国内においても、また、身近な人間関係のなかにもいくらでも起こり、それが、繰り返されています。今の時代ほど、和解を必要としている国々、和解を必要としている人々が大勢生まれている時代はないのではないかと思います。
 今年のキャンドルザーヴィスでは、「和解の福音のはじまり」という題で、ヨセフとマリアの関係から、人間の互いの不信や憎しみ、それらの関係をどう解決していったらよいのかを考えてみたいと思います。つまり、その不信や憎しみを取り除くために、それぞれの和解のためにも、イエス様はこの世に来られたということをお話ししたいと思います。
 もちろん、イエス様がこの世に来られた、遣わされた第一の目的は、神様に対して罪を犯し、神様と敵対して生きている私たちを赦すために、神様と私たちとの和解のために、イエス様を神様はこの世に送られたという理解が、まず、あります。そして、それは、同時に、私たち人間同士の和解のためでもあるということなのです。
 このマタイの福音書におけるマリアとヨセフの降誕に際しての物語は、イエス様を介しての最初の和解のできごとがマリアとヨセフの夫婦の間に、人間の関係のなかに起こった出来事だったと言えるかと思います。
 さて、ヨセフとマリアの二人は、婚約をしていました。当時は、婚約というのは、結婚も同然でした。婚約期間中に男の方が死亡すれば、女は、男の家に出入りしていなくても、やもめと見なされました。婚約中でありまして、ヨセフとマリアは、まだ一緒には生活はしていなかったようです。しかし、婚約をしている二人でしたから、一緒に住むための準備はあれこれと整えていたことでしょう。早く、一緒の生活をと、希望に満ちた日々をおくっていた矢先のできごとでした。ヨセフは、マリアが、身ごもっていることに気付きました。
 聖書には、「聖霊によって、身ごもっていることが明らかになった」とありまして、聖霊によって明らかとなった、という意味が、具体的にどのようなことだったのかは書かれていませんのでわかりませんが、まさに聖霊によって知らされたといった言い方しかできないような形で、はっきりとマリアが、身ごもっていることを、ヨセフは知ったのでした。
 そのとき、「夫ヨセフは、正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。正しい人というのは、当時の宗教面、社会面、法律面、慣習面など、あらゆる方面の生活の仕方を規定していた律法という決まり事をしっかりと守って、生活していた人のことを言いました。当時イスラエルの人々、つまりユダヤ人たちの価値基準では、この律法に対して忠実に生きようとしている者たちが、正しい人でした。
 それに対して、何かの事情で律法を守ろうとしない人、いろいろな生活苦から律法を守ることのできない人、などは、正しくない人、罪人と言われておりました。ヨセフは、大工でありまして、当時としては普通の生活をしており、それほど裕福な生活を送っていたとも思われません。むしろ、貧しい生活の中にあったといってよいでしょう。しかし、彼は、まじめで正しい人だったのです。
 マリアは、聖霊によって身ごもったのですから、そういうことを知らない人々、否、聞いても、とても信じられるものではなかったでしょうが、そのような人々がマリアの妊娠のことを知ったならば、いい名づけのマリアは、ヨセフ以外の男との間にこどもを設けたというので、姦淫の罪を犯したということになり、彼女は罪深い人間だということになったに違いありません。正しい人ヨセフと不倫の罪を犯したマリアという構図がここに生じました。
 ヨセフは、正しい人であったので、マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに縁を切ろうとしたというのは、どういうことでしょうか。自分の婚約者が、姦淫というよりによって許されざる恥さらしな罪を犯してしまった、このような女性が、自分と婚約関係にあったなどと、自分でも情けないし、ましてや他人には、知られたくない、正しい人ヨセフからすれば、自分を裏切ったマリアに対して、憎しみが込み上げてとても許すことなどできないと思ったのではないでしょうか。
 また、法廷に訴え出て、彼女の罪を問うということもできました。そして、法廷に訴え出て、罪ありということになりますと、石打という刑で、殺されるという事態にもなりかねませんでした。しかし、ヨセフにとって、マリアのことを公にすることは、それは、結局は、自分の恥ということになり、自分の名誉や自尊心が傷つくことになります。ですから、周りに知られないようにして、そっと縁を切ろうとしたのかもしれません。  
 ただし、「表ざたにするのを望まず」という訳ですが、岩波訳では「彼女をさらしものにしたくなかったので」とあります。ルターなどは、「彼女を辱めるに忍びず」と訳しています。そうしますと、ここでは、ヨセフが、とてもできた人で、ぐっとこらえて、彼女をなるべく傷つけることをせずに、穏便にことを収めようとした、というように理解されます。そういうことだったのでしょうか。
 かりにそうだとしても、いずれ、マリアは、子供を産むことになります。そうしますと、いずれは、この子は誰のこどもかということで、結局、姦淫の罪を着せられることは明白でした。
 そこで、「正しい」ということの意味を考えてみます。彼の正しさは、マリアとの関係で言えば、自分の名誉を守ろうとするものと紙一重でした。正しい人は、自分は正しいことをしているのだからと、えてして、傲慢ともなり、プライドもあるでしょう。そして、自分が正しいと自覚すればするほど、そうでない人々を赦せなくなっていくものです。
 ですから、ヨセフは、マリアをすっかり赦そうとしたのではなく、つまるところは、自分の身を守ろうとしただけだった、自分の対面を守ろうとしただけだった、そういうことも言えないことはありません。結局のところ、正しい人ヨセフの離縁という選びは、マリアのことを一見大切にしたかのように見えて、実際は、いずれは、姦淫を犯した女というレッテルを貼られる運命を回避させることにはならないのでした。
 戦争で敵国を攻撃する側も、テロを起こす人々も、自分たちの正義を声高に主張します。そして、相手を摩擦しようとします。決して、この聖書の箇所は、それらと同じではありませんが、正義や正しさを主張しようとする人間は、相手を抹殺することへとつながる危険性を内側に抱えているということはあるのかもしれないのです。
 そして、このときには、聖書のマタイによる福音書の今日の箇所に書かれている内容からして、ヨセフの捉え方は正しくはありませんでした。「聖霊によって宿ったのである」身ごもったというのが、真実だったからです。しかし、そのようなことをいったい誰が信じるでしょうか。とても、信じられる話ではありませんでした。ヨセフももちろん凡人ですから、はなっから、マリアを信用してはいませんでした。むしろ、裏切りを確信したからこそ、ひそかに縁を切ろうとしたのでした。
 聖書は、正しい人の正しさの限界を伝えています。人の正義や正しさの限界です。ですから、正義や正しさをかざして人殺しをするなど、何人にも赦されることではない、ということになります。このとき、マリアとヨセフの関係は、まさに、破たんするかに思われました。
 そこに、主の使いが、夢に現れて、ヨセフに伝えるのでした。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」。あなたは、あの偉大な王、ダビデの末裔にあたる者ではないか、しっかりしなさい、この出来事に恐れを抱いてはならない、不安や不信を抱くのではなく、ダビデの末裔として、堂々と受け止めなさい。マリアの子は、あなたが思っているような形で、身ごもったのではなく、聖霊によって身ごもったのである、と告げられたのでした。
 また「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」とも言われました。イエスという名には、「主は救われる」いという意味があります。そのような者として生まれてくるというのでした。ヨセフは、目を覚ますと、妻マリアを迎え入れました。
 ヨセフは、それまで、マリアと別れようとしていました。彼の心の中には、大きな葛藤があったことでしょう。聖書は、彼は、マリアが身ごもっていることを知って、ひそかに縁を切ろうと決心した、としかありませんが、その間の思いは、並々ならぬものがあり、どれほど苦しんだことでしょう。そこには、誰を信じていいのかもうわからないといった最大の人間不信があり、怒りもあり、憎しみもあり、そして、自分の名誉や自尊心もあり、それでいて、マリアへの愛情もなくはなかったのです。そのままでは、二人の関係は、終わってしまっていたことでしょう。
 そこに天の御使いが現れて、真実を知らせ、二人の関係の修復、和解を成し遂げてくれたのでした。もちろん、夢で語られた御使いの知らせをヨセフが信じたということもあります。受け手の姿勢もあることを教えられます。マリアも、受胎告知を受けたとき、その神様の御心がこの身になりますようにと、御使いの知らせを受け入れました。
 聖書のなかでも、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの書いた、主に、イエス・キリストの生前の活動と十字架のできごと、復活のできごとが記されている書の部分をさして、福音書と呼びます。福音、よきおとずれ、すばらしいニュースがここには記されているというのです。
 中心は、イエス様の十字架のお話です。イエス様の十字架によって、私たちの罪は赦されたということです。神様は、私たち人間の罪、神様に背いて生きている人間の罪を一方的に赦された、独り子イエス様を十字架におつけになって、神様に背く人間との和解を成し遂げてくださった。それは、何というすばらしい知らせではないか、というのです。
 この神様の方から一方的に差しのべられた神様と人間との和解の福音は、しいては、人間同士の和解へとつながっていくはずなのであります。福音書は、イエス様の十字架で終わってはいません。三日後に、十字架で死んだイエス様が、復活させられたとあります。それは、人間は罪によって死という滅びに至るということですが、その死に勝利なさったことを表しておりました。この救い主を信じる者たちには、イエス・キリストが死に勝利なさったように、復活の命にあずかることが示されておりました。
 和解というのは、切れていた関係が再びつながることです。神様は私たち一人一人を愛情をもって造られました。そして、自由意志を与えられ、自ら神様に聞き従うことを望まれました。しかし、人間は、その神様に背を向け、勝手に罪の中を歩むものとなりました。神様との関係を人間が切ってしまったのです。
 しかし、その人間との断絶を神様は、2000前に独り子のイエス様をこの世に賜わるという形で、私たち人間の罪を赦すために十字架におつけになるという形で成し遂げられました。
 マリアとヨセフの二人の間にもたらされた最初の福音は、和解というできごとでした。そこには、インマヌエルの神がおられました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は、インマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」とあります。まさに、イエス様が、インマヌエルとして、マリアとヨセフの間におられたのです。
 クリスマスのほんとの喜びに与るためには、このインマヌエルの神、どのようなときにも、我らと共にいてくださるイエス・キリストを皆様の心のうちにも迎え入れることから始まります。すべてのこの世にうずまく不信や不安や憎しみなどを、この主が取り除かれる、この主を信じることで取り除くことができればと願うのです。


平良 師

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