平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2015年12月13日 見よ、世の罪を取り除く神の小羊

2016-03-14 23:45:25 | 2015年
ヨハネによる福音書1章29~34節
見よ、世の罪を取り除く神の小羊

 バプテスマのヨハネは、イエス様が自分の方へ近づいて来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く小羊」と言いました。その彼は、イエス様について、「わたしはこの方を知らなかった」と言っています。ヨハネにとって、イエス様は、ヨハネの母親のエリサベトとイエス様の母マリアとが遠い親戚筋にあったわけですから、知らないというのは少しおかしな話ですが、それは、いったいこのお方が何者であるかを知らなかったということだったのでしょう。
 しかし、今は知っている、このお方は「世の罪を取り除く小羊だ」と認識しているのでした。私たちもまた、イエス様をキリストと信じる前は、ほんとうの意味では知りませんでした。おそらく、歴史や倫理の時間に習うイエス・キリストであって、それは、当時の社会に大きな影響を及ぼした宗教家としてのイエス様であり、愛を説くイエス様であって、私と個人的につながるキリスト、救い主ではありませんでした。
 私たちは、その方が、ほんとうにはどのようなお方なのかを知ることが重要です。正確に言えば、そのお方に知られていることに気付くということなのでしょう。そして、その真実のお姿がわかれば、そのお方との関係に生きる私たちの生き方もそれなりに変わってきます。否、変えられてきます。
 さて、犠牲の小羊の血は、出エジプト記のなかで、イスラエルの人々が、苛酷な奴隷状態におかれていたエジプトを脱出する際に、一つのしるしとして用いられました。その小羊の血は、そこがイスラエル人の家とわかるように入口の二本の柱と鴨居に塗られました。エジプト人たちの家々はそうではありませんでした。彼らは、家の門を小羊の血で塗るなど、考えも及ばぬことでした。
 神様は、血が塗られている家は、そこの初子を撃つことをせず通り過ぎていかれました。そのときに、イスラエルの人々の命を救うために犠牲になったのが、小羊でした。小羊の犠牲によって、イスラエルの家々の初子は、死なずに済んだのでした。そして、イスラエルの人々は、解放され自由を得て、エジプトから脱出することができました。
 イエス様はまさに、私たちに代わって犠牲の小羊となられたといいます。また、イザヤ書の53章6節には、「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」とあります。神様の望む正しい道からはずれて、それぞれ勝手に自分の好きなように罪の道を歩んでいる人間のありさまです。その人間たちの罪を神様は、すべてこの小羊に負わせになられました。
 つまり、2000年前、イエス様は、世の罪を取り除く小羊としてこの世に来てくださいました。私に代わり、私の命を救うために、私の罪を取り除いてくださるために、罪の奴隷状態からの解放をなさしめてくださるために、来られました。それは、旧約聖書の時代から予告されていたことでした。
 バプテスマのヨハネは、イエス様が、世の罪を取り除く小羊であるといったことをどうしてわかったのでしょうか。聖書によりますと、それは、「水で洗礼(バプテスマ)を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」とあります。
 バプテスマのヨハネは、霊がイエス様の上に降って、そこにとどまるのを見ました。それが、イエス様を「世の罪を取り除く小羊」だと判断した理由であると、ヨハネは言っているのです。その小羊は、同時に神の子なるイエス様でした。私たちは、どうでしょうか。私たちは、いったい何を見たのでしょうか。私たちが見たのは、つきつめて言えば、それはイエス様の十字架だったということではないでしょうか。
 イエス様が、この私のために十字架におつきなっている、その出来事を見たのだと思います。それは、実際に見たわけではありませんが、聖書に書かれていることを手掛かりとして、それを想像し、そこに自分の身をおいて、そのことを追体験したのではないでしょうか。そして、そのお方は、同時に神様の独り子でもあられました。
 しかし、今、その体験はどうなってしまったのでしょうか。私たちは、イエス様が神の子であり、私の救い主であると知ってしまったことと、そのお方を証しする者としての生き方の間に、またもや、齟齬が生まれているのではないか、と思うことが多くあるのです。
 私たちもまた、ヨハネによる福音書の1章の22節で、ファリサイ派に属する者の一人が尋ねたように、「あなたは自分を何だと言うのですか」と聞かれています。そのとき、ヨハネが答えたように、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよ、と」などと言えることはできないにせよ、せめて、イエス様とは、このようなお方だと言って、その言葉に恥じないような生き方を、その尋ねた人々に、お見せできているでしょうか。
 つまり、あなたの信じている方が、世の罪を取り除く神の小羊であると仮定して、そのあなたの生き方を見ていると、そのあなたの信じているイエスというお方は、大したことのない人のように思えます、と言われかねないかもしれないのです。特に、こうして説教している私など牧師たちの姿勢については、責任が重いと言えます。ごめんなさいと言わざるをえません。
 そのことを知っていることと、身にしみて、感謝して、証しの生活をしている者であるかどうかは、いつも問われているのです。しかしながら、ひょっとしたら、私たちの多くは、その齟齬、食い違いに気付かないで生活をしているだけかもしれないのです。
 私は、この数年、神様から幾度となく、神様が、今のこの私をどのようにご覧になっておられるかをいろいろな事柄をとおして、教えてもらったように思います。数々の罪の指摘やご注意をこれでもかといただいたように思います。それは、私にとって、とても恐ろしいことでした。神様のことをこれほどに恐ろしいと思ったことはありません。
 それまで、神様は、私には、とても身近で、ときに、強く励ましてくださり、また、何でも赦してくださるお方でした。色々な困難にあったときでも、きっと守ってくださる、そういった思いがありました。しかし、それは私のおごりにも似た思いであったかもしれません。神様はいつも、私が行おうとすることを指示され、それを叶えてくださった、そのような確信がありました。しかし、それが、そうではなくなってきました。いくつものわたしにとってはつらくたいへんな事柄が重なり、これまでの神様への確信、信仰が揺らいできました。そして、神様から責められていると感じている自分がおりましたが、自分でどうすることもできず、ただ、どうして何だろうと、悶々としていたのでした。
 もう一度、悔い改めて、神様からの罪の赦しを経験しなければなりませんでした。そして、もう一度、このような私のために、イエス様は、十字架におつきなられたのだと、心に刻みなおす以外には、先へ進むことができませんでした。「世の罪を取り除く神の小羊」を心に刻みなおす飢え渇きをおぼえました。
 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。世の罪を取り除くことができるのは、わたしの罪を取り除くことができるのは、そのようなことがおできになるのは、ただ一人、イエス様以外にはおられません。
 待降節に入り、今年もイエス様のご降誕を迎えようとしています。毎年のことですが、毎年、ご降誕を迎える思いは違います。ある年は、心安らかで、喜びにあふれ、イエス様のご降誕を声たからかにお祝いできるのに、ある年は、心重く、感謝の気持ちをどうのように表現できるだろうかと思うのです。神様は、生きておられるお方ですから、私たちの毎年おかれている状況に合わせて、いろいろなお姿をお見せになられます。
 いつも、飼い葉桶のイエス様だけではないはずです。それぞれの年で、そのイエス様を拝見して、多くの喜びを感じることもあれば、いろいろな迫りを感じることもあるでしょう。また、まるで責められているかのように、感じることもあるはずです。
 ただ、いつの世も、いつの時代も、どのような状況の中に今のこの私があろうとも、このお方は、「世の罪を取り除く神の小羊」であります。私たちが、平安になれるのは、そのことを一切の原点にするときです。そして、それから私たちが、このイエス様のことをヨハネのように「世の罪を取り除く神の小羊」と証しようと努めるとき、私とイエス様の関係は、真実なものとなるのだと思います。
 私たちは、ヨハネのように、イエス様との関係においては、心から自分をむなしくできるでしょう。「わたしはその履物のひもを解く資格もない」と。それでいて、ファリサイの人々がヨハネに問うたように「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼(バプテスマ)を授けているのですか」と問われても、それらのことは一切無視するかのようにして、自分の課せられている務めをすることが許されるのです。つまり、イエス様を証ししていくということにおいて、資格はいりません。
 この一年も、私たちは、救い主に忠実になろうと努力しましたが、結局は、罪多き生活をしたかもしれません。同時に、嫌というほど、人間の恐ろしいほどの罪のなせる愚かな所業を見せられました。困ったことに、神の名のもとに、平気で殺人をする人間がいたということも、つらいことでした。
 「世の罪を取り除く神の小羊」が、私たちの神様です。「世の罪を取り除く神の小羊」と私たちが言うとき、それは、十字架のイエス様を見上げているのです。飼い葉桶のイエス様のお姿の向こうに、十字架のイエス様がおられます。マリアもヨセフも、羊飼いたちも、占星術の学者たちも、もろさのただなかにある夫婦も、差別され小さくされていた者たちも、東の方の異邦人たちも、皆がこの飼い葉桶の弱く小さく何の力もないかに見える乳飲み子を見つめております。
 しかし、実は、そのとき、それぞれが、ただただ自分の弱さを見ているときであったかもしれないのです。そして、これらの人々は、十字架の上の神の小羊のまなざしに包まれていることをいずれ知ることになりました。クリスマスは、飼い葉桶の向こうにある、この十字架の神の小羊のまなざしを豊かに温かく、ありがたく感じるときでもあるのではないでしょうか。


平良 師

最新の画像もっと見る