平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2015年10月18日 神様の帯となるべき民

2016-01-19 22:12:06 | 2015年
エレミヤ書13章1~17節
神様の帯となるべき民

 最初の何ごとかを象徴的に表しているお話をかいつまんで説明すると次のようになります。エレミヤに神様は、新しい麻の帯を買い求め、それをユーフラテスというところへ行って、そこの岩の裂け目に隠し、月日がたった後に、それを取り出せ、ということを指示されます。
 エレミヤが、そのとおりに行ったところ、帯は腐り、全く役に立たなくなっておりました。このユーフラテスというのは、バビロンを指しているという説があります。帯は、イスラエルの民です。もともとイスラエルの国は一つでしたが、ソロモン王が死んだあと、二つに分裂し、北のイスラエルと南のユダに分かれます。エレミヤという預言者は、南ユダで活躍した預言者でした。
 話を戻しますが、ここでの帯というのは、ユダとエルサレムに住む民です。これから、ユダの国の人々、とりわけ都エルサレムに住む人々が、戦いにおいてバビロンに敗れ、捕囚として連れていかれて、そこで、主を証しするどころか、滅びてしまうということの暗示とも受けとれます。しかし、8節からのところで、この一連のエレミヤの行った行動、何かを暗示させるような比喩的な行動に対して、説明が明確になされています。
 つまり、この一連の出来事から何を悟らせようとしたかについて、神様はお話になられています。「このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」。
 つまり、神様は、はじめイスラエルの民をご自分の民として選ばれ、神様の名声、栄誉、威光を示す民にしようと考えました。けれども、彼らは、その神様に聞き従うことを拒み、自分勝手に振る舞ったのでした。それだけでなく、他の神々に従って歩み、それに仕え、ひれ伏しているのです。大きな裏切り行為をしているのです。罪を犯しているのです。そのような意味で、神様にとって、このイスラエルの民、ユダ、その都エルサレムの住人たちは、神様の名声、栄誉、威光を示すには、全く役に立たないものになってしまったのです。それで、神様は、これからユダの傲慢とエルサレムの傲慢を砕く、と言われます。
 12節から13節の内容ですが、「イスラエルの神、主はこう言われる。かめにぶどう酒を満たすべきだ」、特に、この「かめにぶどう酒を満たすべきだ」というのは、「かめ」のことをネベルといい、「愚か者」をナバルというそうですが、ですから、かめと愚か者が掛詞になっていて、愚か者は大酒が好きという意味のようです。それに対して、「かめにぶどう酒を満たすべきだということを我々が知らないとでも言うのか」という人々は、自分たちの姿勢について、居直っているのです。大酒を飲んで何が悪いのだと、傲慢な姿が顕著にみてとれます。
 それゆえに、神様は言われます。「見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびエルサレムのすべての住民を酔いで満たす」。その酔いで満たすという意味は、次の「わたしは、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」という内容になっています。
 つまり、神様は、彼らに怒りの杯を飲まされるということです。決しておいしいお酒ではありません。苦く厳しい、神様の怒りの酒なのです。ここには、覆される可能性がまったく感じられないほどの神様の厳しい裁きが書かれています。これからのユダの国、都のエルサレムの運命が述べられております。
 神様の民だからというので、何も悪いことは起こらないなどと、思ってはいけない、神様に従わず、傲慢になって、偶像の神々を拝み、ひれ伏し、勝手に振る舞っている者たちを神様は、決してお赦しになられないのです。お酒の好きな人々には、おもしろくない箇所であろうかと思いますが、これは、一つのたとえとして語られていることだということで、他の方々もまた、当然同じでありますから、要は、神様を証ししない居直った傲慢な姿勢が打たれるのです。
 しかし、同時に、エレミヤは、「聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない、・・主に栄光を帰せよ・・」と彼らに悔い改めを迫ります。「闇が襲わぬうちに、足が夕闇の山でつまずかぬうちに」と、今すぐにと、悔い改めを迫るのです。
 もし、ユダの、エルサレムの民が、悔い改めるということをしなければ、「主の群れが捕えられていく」と、これからの、ユダの人々が、バビロンに捕囚として連行されていくことについて、述べています。「そうなれば、わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く、涙があふれ、わたしの目は涙を流す」とエレミヤの深い悲しみに触れています。しかし、この悲しみはまた、神様の悲しみでもあるのではないかとの解釈もできるでしょう。
結局、彼らは、悔い改めることはありませんでした。彼らは、バビロンに敗れ、多くの人々が捕囚として、バビロンに連行されていきました。
 帯という言葉の多くは、聖書の中では、良きものを表すときの形容詞として、また、たとえとして用いられる言葉です。たとえば、バプテスマのヨハネは、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」。そういえば、ルーテル教会の牧師たちは、幅の広い皮の立派なベルトをしていますし、カトリックの神父たちも美しいひもで腰をまいています。主に従う者としての敬虔さを示しているのでしょうか。
 イザヤ書の11章5節には、来たるべき救い主、平和の王について、「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」とあって、帯というものは、ぴしっとした、毅然とした姿を表しているようです。
 エフェソの信徒への手紙6章13節からところでは、「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい」とあります。武具の最初が、「真理を帯として、腰に締め」なのです。
 ペトロに復活のイエス様は、「あなたは若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と言われました。その意味については、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」、と書かれています。捕えられ殉教の死を遂げるペトロのこれからの姿を暗示しています。そして、イエス様は、こう言われるのです。「わたしに従いなさい」。帯は、ここでは、自分の意志、他人の思惑、神様の御心ですが、神様への従順、従うということとも深く関係があるように思われます。
 ユダの国の人々、とりわけ都のエルサレムの人々の行いは、神様には、腐った、役に立たない帯となりました。彼らは傲慢となり、神様の言葉に耳を傾けることもせず、自分勝手にふるまい、他の神々に従い、それに仕え、それに伏したのでした。神様の名声、栄誉、威光を示すものにしょうと選ばれたイスラエルの民、ユダ、エルサレムの民でした。これは、どんなにか名誉なことであり、幸せなことであったでしょうか。それにもかかわらず、彼らは、自らそれを放棄したのでした。
 この日本という現代社会に生きている私たちもまた、神様の帯としての歩みが期待されています。私たちは、神様の帯として生きるというとき、今の時代にあって、どのようなことをすればよいのでしょうか。それは、私たちが生活している一つ一つの場面で、問われていることなのだということも言えます。神様の帯として、どちらかを、或いは、何かを選択しなければなりません。あるいは、黙っているべきなのか、声をあげなければならないことなのか、そういうこともあるでしょう。
 私たちは、神様の帯として、神様の名声、栄誉、威光を示すものになっているでしょうか。どのような決断をすることが、どのような行動をとることが、その神様の名声、栄誉、威光を示すことになるでしょうか。それとも、腐って、まったく役に立たないものになってしまうのでしょうか。今のこの時代、どのような歩みをすることが、神様に聞き従うことになるでしょうか。
 ある人は、それは右だ、ある人は、左だと、言うこともありえます。キリスト者だったら、皆が右、皆が左ということはありません。ある一つのことに対して、右を選択する人も、左を選択する人もおります。同じ事柄を前にして、同じキリスト者が、右の選択も左の選択もありえます。自分は、神様に従っているからこそ、この道を選択した、そう言いうるのであれば、それ以上のことはないのでしょう。
 あとは、私たちがこの世の生を終えて、神様の前に、立たされたときに、お前は確かに、私の帯としてよくやった、と言われるのか、お前は、腐ってしまって役に立たたなかったと言われるのかです。しかし、そのような中でも、イエス様は、私たちのことを執り成してくださいますから、それでのんびり構えておられる方もいるのでしょうが、少なくとも、今日の箇所に描かれている神様のお姿には、かなり、厳しさが感じられます。
 私たちは、信仰ゆえに、このような選択をしたということが大事です。聖書からこのようなみ言葉をいただいて決断した、祈って決めた、そのようなことが大事です。一般の常識的なこの世の考え方、経済理論、政治理論、処世術など、いろいろありますが、そのようなところから選択をしたのであれば、ときに、それはある主の偶像の神々にひれ伏したと言われても仕方がないかもしれないのです。
 私たちは、あくまでも聖書の御言葉に耳を傾けなくてなりません。神様の御言葉は、心地よい言葉ばかりでありません。自分のそれまでを否定されたかのように思える言葉もあります。また、叱咤激励されるような御言葉であるかもしれません。私たちは、神様の御言葉に導かれて、事を判断し、行動に移します。そのときは、神様が願った帯となって、神様の名声、栄誉、威光を示すことができるかもしれないのです。
 帯というのは、その人をきっちりと締めて、誠実さとか、しっかりとしたようすを表すものです。それを隠すようなことをしては、何の意味もありません。まして、人目につかないように隠しておくのであれば、それも長いことそうしているのであれば、それは、腐ったも同然です。
 私たちキリスト者も、イエス様の弟子といいながら、何のそれらしき発言もない、それらしき決断もない、証の生活もない、信仰のない人々と同じように発言したり、道を歩んだり、生活をしているのであれば、それはこの帯と同じだということになりはしないでしょうか。
 そして、そうした日々の姿勢に居直り、自分勝手な理屈で歩むとすれば、傲慢な神なき者として、神様の裁きにあうことになります。エレミヤは、悔い改めを迫りました。主が語られることに耳を傾けよ、神様に栄光を帰せよ、そう言ったのです。
 確かに私たちの信仰は、聖書の御言葉一つとっても、ぞれぞれの解釈と捉え方によって、いろいろな選択が可能となります。それゆえに、同じことを前にして、左の選択も、右の選択も可能となります。それでいいのだと私は思います。その選択や判断が、信仰から来るのであればいいというか、致し方ないことです。しかし、それに対する責任は神様に必ず問われるわけですが、甘いかもしれませんが、厳しい裁きの対象にはならないのではないでしょうか。
 しかし、例えば、世のお金や名声という偶像を拝んだり、それにひれ伏した結果、あるいは、欲や自己保身を願うあまりとったような場合、そのような選択に至ったということであれば、ことは別だということになります。キリスト者たちは、すべてのことが、信仰から来ていることが大事です。それが、帯としてのありようを示すことにきっとなると信じます。
 私たちは、旧約聖書のお話は、イエス・キリストによって、すべてのことは許されているのだから、それほど心にとめおかなくてもよいといった考えや安心感がどこかにありますが、神様の御許に召されたときに、生前の歩みを問われることはあるということは新約聖書でも触れられています。イエス様の十字架による救いをいただいキリスト者たちだからこそ、神様の帯としての歩みを成し遂げていきたいものだと思います。


平良 師

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