平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2015年9月20日 主が共に歩んでくださることこそ

2016-01-15 23:44:16 | 2015年
出エジプト記34章1~10節
主が共に歩んでくださることこそ

 神様に対してイスラエルの民は、大きな罪を犯しました。モーセが、シナイ山で神様から十戒をいただいていたとき、イスラエルの民は、モーセがなかなか山から下りてこないので、不安になって、偶像の神を造るようにアロンに圧力をかけました。アロンは、モーセと共にシナイ山に登りましたが、一足先に、下りてきていたようです。アロンは、彼らの圧力に恐れを抱いたのでしょう、民から耳輪などの金の装飾品を持ってこさせ、それを溶かし、若い雄牛の鋳造を造りました。
 それから、それをイスラエルの民に渡したところ、彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言ったのでした。そして、アロンは、そのようすを見て、その前に祭壇を築きました。人々は、それを拝み、犠牲の品々を献げて、お祭り騒ぎを行ったのでした。そのようにして、「わたしをおいてほかに神があってはならない、あなたはいかなる像も造ってはならない、あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」という十戒の第一の神様からの戒めを早速犯すことをしたのでした。
 神様は、シナイ山にいたモーセに、この下界でのありさまを伝えました。そして、神様は、「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」と言われました。
 それに対して、モーセは、神様にイスラエルの民のことを執り成します。モーセが述べたことは、イスラエルの民は、神様ご自分の民ではありませんか、イスラエルの民は、神様が、導き出された民です、エジプト人に「あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した」と言わせてよいでしょうか、どうか、燃える怒りをやめ、ご自分の民にくだす災いを思い直してください、あなたの僕たちのアブラハム、イサク、イスラエル(ヤコブ)を思い起こしてください、神様は、「わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる」と言われたではありませんか、というような内容のことを言いました。
 神様は、このモーセの執り成しを聞かれて、ご自身の民にくだそうとされた災いを思い直されたのでした。このあと、モーセは、イスラエルの民のところに戻り、激しく怒って、神様からいただいたその二枚の石の板を投げつけ、砕きました。それから、アロンに、どうして、このような罪をイスラエルの民に犯させたのかと責任を問いました。アロンは、いきさつを説明しました。モーセは、アロンの罪、イスラエルの民の罪に対して、神様のご命令ではなく、彼自身の一存で、罪を犯したイスラエルの民の3000人を殺害するという形で粛清を致します。
 そのことを32章の35節では、「主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである」と説明しています。つまり、アロンは、民の圧力に負けて造ったのであって、それをそのように仕向けたのは、民であったということです。それから、民を打ったのは、モーセでしたが、それは、神様がなさったことだった、と聖書は解説をしているのです。
 このあと、神様は、モーセに言いました。これからイスラエルの民を率いて、神様が、「アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫に与える』と言った土地に上りなさい。わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい」、と。
 しかし、神様は、「わたしはあなたの間にあって上ることはしない」と言われました。一緒に行かない、共に行かない、ということでした。その理由は、「途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」ということでした。これは、神様のイスラエルの民への不信がぬぐいきれていない、ということ、怒りがまだ収まっていないということなどをうかがわせるものですが、しかし、神様のイスラエルの民への配慮、愛ともとれるところです。この神様の「あなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」との言葉をモーセから聞いたイスラエルの民は、嘆き悲しみ、一人も飾りを身につけなかった、とあります。
 そして、モーセは、「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください」と言いました。モーセにとって、神様が伴ってくださらないことは、神様がいないということですから、それは信仰する者としては、意味のないどころか最悪の状態ですから、そのことをわかりましたとは言えなかったのです。モーセは、「あなたの民」としてのイエラエルを強く思わさしめてくださいとの強い願いを神様に訴えました。その結果、神様は、「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」と、言われました。
 出エジプト記の17章で、イスラエルの民は、レフィディムに宿営したときに、飲み水がなく、モーセに「我々に飲み水を与えよ」と詰め寄ったことがありました。そのときのことを17章の7節には、「『彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」と書かれてあります。何か、困難な状況が訪れると、イスラエルの民は、いつも、神様ははたして自分たちの間におられるのか、神様が伴ってくださっているのか、と疑念が生じたり、不安になるのでした。ときには、それは、あたかも神様の存在を確かめている、試しているかのような振る舞いとなって現われました。
 神様は、イスラエルの民が、エジプトを脱出する前から、イスラエルの民にいくつものしるしをお示しになられました。エジプトのファラオに対して行った数々のしるしがありました。脱出の際には、後ろから迫るエジプト軍に対して、前の閉ざされた海を二つに分け、その乾いた土の上をイスラエルの人々は逃れることができました。また、食糧がつきたときには、朝にはマナをまた夕方にはうずらを与えて、彼らのお腹を満たしてやりました。また、昼は、雲の柱で、夜は火の柱を用いて、イスラエルの民の進むべき道を指示されたのでした。
 それだけでも、十分、神様が共におられることを彼らは理解したはずです。しかし、危機的な状況が訪れるたびに、彼らは、神様が一緒におられるのだろうかと、その存在を疑い、不安になるのでした。極めつけは、よりによって、神様以外のものを神としてはならない、偶像を造ってはならない、と戒められた直後からして、その罪を犯してしまったのです。
 最初に創造されたアダムが、楽園で、この木の実だけはとって食べないようにと言われていた、たった一つの戒めを守ることができなかったように、イスラエルの民もまた、十戒の中でも最も大切ではないかと思われる神様以外のものを神としてはならないとの戒めを偶像を造って、それにひれ伏したのでした。神様から、してはいけない、と言われたことの一つも守ることができないのが、人間です。
 しかも、この第一の戒めは、神様を裏切る行為その中心となる罪でした。もちろん、イスラエルの民は、まだ、この戒めを知らなかったのですが、少なくとも、この刻んだ若い牛の金の鋳造が、自分たちの造ったものであったことくらいは、わかっていたはずです。
 偶像を刻むというのは、人間のどのような心理なのでしょうか。それは、神様を自分たちの手の中に納めたいという人間の欲求、目に見える形にして、それを拝むことで安心を得たいという人間の心理です。いつも、そこにいけば神様がおられる、ですから、しいては身近なものにするために家の中にそのような場所を作ることさえする、つまり、自分の思いそのものを神にすることです。そして、自分の気持ちをその像に投影するのです。つまり、自分自身が偶像の神を利用したり、神になる、そういうことにもつながっていきます。私たちの神は、聖書に描かれている神様です。聖書がその神様のお人柄、人格を示しております。
 それにより、神様は、このような考え方をされるお方、このようなことを喜ばれるお方、このようなことは断固お嫌いになるお方、私たちとの関係で言えば、このようなかかわりのあるお方、つまり、この私を愛して造られたお方、そこから始まり、私たちの進むべき道を示してくださるのです。ですから、私たち自身が打たれたり、崩されたりすることもあります。そして、慰められたり、励まされたり、勇気を与えられたり、立たされたりもする、そういうお方なのです。ですから、この神様は、実際に何らかの行動へと促すことのおできになるお方なのです。
 イエス様がお生まれになったときに、シメオンという人が、イエス様についてマリアに告げました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」神様を、イエス様を私たちが知るということは、その人の人生に何も起こらないということはないということです。それによって、何か自分が変えられるようなものが生まれてくるはずなのであります。神様が共に歩まれるということはそういうことです。
 ですから、平々凡々として、安らいだ生活のみで、終わることはないのです。その人生の旅路には、何かが起こり、主と共にある私たちは、何かを選択しなければならいのです。それは、ときに厳しい選択かもしれません。しかし、そこには、共に歩まれる神様がおられる、そのことが重要なことです。神様が共におられることが鍵になります。それにより、たいへんではあるけれども、平安を得られたり、平和で過ごすことができます。
 このあと、モーセは、再びシナイ山に登り、神様から再度、十戒をいただくことになります。彼は、このときも、再び地にひれ伏して、神様に述べました。「主よ、もし御好意を示してくださいますなら、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください」。ただし、この言葉を言う前に、神様は、ご自分のことを紹介しました。
 「主、主、憐み深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、父祖の罪を、子、孫三代、四代までも問う神」。
 モーセにとって、神様が自分たちと共におられて、一緒に歩んでくださることが大事です。信仰をする者は、このことを信じるゆえに、立っておられます。このことを信仰する者の人生において、神様が共にいてくださらないのであるなら、それはまったく意味のないことです。詩編127編の1節の前半「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい」。主が共にいてくださって、私たちに愛を注がれ、私たちの人生を導き、支え、守ってくださることを信じる故に、私たちは倒れないでおられます。
 モーセは、神様からイスラエルの民を導き出すための指導者として、その召命をいただいたときに、「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と問いました。どうして、その仕事がこのわたしなのですか、と問うたのです。それに対して神様は、何もお答えになりませんでした。言われたことは、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」とお答えになりました。
 つまり、どのようなときにも一緒にいるから安心せよ、ということでした。そして、モーセは、そのときに、それならイスラエルの人々のところへ行きますが、彼らから、神様の名前はいったい何かと聞かれたら、何とお答えしたらよいでしょうか、と尋ねたところ、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました。
 これが出エジプト記が私たちに示している中心テーマではないでしょうか。神様は、イスラエルの民に、荒野での40年の放浪の旅をとおして、このことをしっかりと、身に沁み込ませたかったのではないでしょうか。そして、イスラエルの人々は、何度も何度も、このことへのチャレンジを受けることになります。「わたしは必ずあなたと共にいる」神様は、いつもあなたがたと共にいるのだ、「わたしはある、わたしはあるという者だ」神様は、目に見えないけれども揺るがず頑としておられるのだ、このことを信じよ、ということです。
 荒野の40年の旅は、実は、私たち信仰者の人生の旅路そのものだと言ってもよいかと思います。私たちの人生のいろいろな場面場面で、私たちは、苦境に立たされ、このチャレンジを方々から受けつつ、神様は私と今共にいてくださるのだろうか、神様は果たしておられるのだろうか、それについての答えは、神様はおられ、いつもあなたと共に歩んでいる、であります。私たちは、これからも、この真の神様を信じて、歩んでいくのです。


平良 師

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