平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2015年8月9日 それぞれが必要な分を集めた

2016-01-08 17:13:36 | 2015年
出エジプト記16章16~36節
それぞれが必要な分を集めた

 日本国際飢餓対策機構が発行している7月号の飢餓対策ニュースによれば、国連食糧農業機構(FAO)が「世界の食料不安の現状2015年報告」をまとめ、世界の飢餓人口が7億9,500万人と発表しています。そして、同時に飢餓半減の目標を概ね達成したことを伝えています。しかし、そうでありながらなお、それ以外に8億人が栄養不足で苦しんでいるということです。
 そして、飢餓のない世界を達成させるためには、家族経営の小規模農家を支援することに力を入れるべきだとも述べられていました。農業というのは、とても重要であって、それもほそぼそとしていても、家族経営の小規模農業をこつこつと続けることの必要性が説かれているということは、平和の問題を考えるヒントのようなものが、このようなところにあるようにも思われました。
 つまり、多国籍企業や大企業の利権のために戦争をさせられるような世の中ではなく、毎日こつこつと農作業を安心してできる社会こそが、平和なのだといったようなことです。昔から言われているように、もし、世界の人間が、いろいろと工夫して、皆が等しく食べられるようなシステムを作るならば、飢える者はいなくなるということです。
 そもそも、全世界の人々が軍事費に費やすお金を、農業、林業、漁業を充実させるために使うならば、どれほど豊かな地球環境が生まれるでしょうか。今日は、長崎に原爆が投下された日ですが、先週の平和の日礼拝に続き、今日の礼拝でも、平和についても思いを馳せることができたらと思います。
 本日の聖書の箇所では、神様がマナを天から降らせて、イスラエルの民を養われるときのお話です。イスラエルの人々は、荒野での生活を40年間続けました。それは、神様がご計画された訓練のときでした。つまり、神様だけを頼りとして生きていく、神様が自分たちを養うお方であることを知る、神様にのみ従うことの大切さを肝に銘じる、といった諸々の信仰の姿勢を育てるための訓練のときでした。
 そして、そこは荒野ですから、人間が生活をしていく上では、非常に苛酷な場所でした。しかし、そのような中で生きていけたのはただただ神様のお恵みでした。神様は、荒野での40年の間、毎朝イスラエルの人々にマナという食べ物を与えられました。それは、コエンドロ(パクチ)の種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした、ということです。
 神様は、そのマナをその日、必要な分だけ集めよ、と言われました。必要な分とは、一オメルです。一オメルは2.3ℓということです。マナの色と味は先ほど言ったようなことですが、形状とか食感はというと、16章の13節、14節にあります。「朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地を霜のように薄く残っていた」とありますので、少なくとも液体ではありません。壊れやすく薄い固形の物体であることがわかります。
 しかし、それを測るのは重さではなく、容積の単位ですから、その升に入れて一杯になるくらいが一日の必要な分として与えられたということです。そして、そのマナは、自分の天幕にいる家族の数に応じて取るようにとのことでした。不思議と言えば不思議ですが、この食べ物の量は、子どもも大人も皆1オメルでした。そして、この食糧は、毎朝、くださるのですから、それを明日のために、ためておく必要性はありませんでした。
 毎朝、野に出て収穫します。それも、家族の数に応じて取るがよい、とありますから、家族総出で集めたというよりは、そういう家族もあったでしょうが、その一家の父親が家族の分も集めたというような感じもしないではありません。また、ある者は多く集め、ある者は少なく集めた、とあります。よく食べる者とあまり食べない者がいて、集める量が明らかに違ったのでしょうか。ところが、これまた不思議なことですが、「しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」とありますように、必要な分ということで、一応に一オメルであったということなのでしょう。
 神様は、誰にも必要な分の糧をお与えになられます。自分は他の者よりも多く集めたいと思っている者も、自分は他の者よりも少なく集めたと思っている者も、結果はすべて同じであったということです。神様が用意されるものは、いかなる形においても皆等しいのです。ですから、マナを巡って、奪い合いをする必要もありませんでした。
 しかし、このマナは、次に日まで残しておいてはならないと言われました。必要な分をもらっているのですから、その日に消費することが求められました。決して、次の日まで、残すようなことがあってはなりません。しかし、言いつけに背いて、残した者がおりました。明日になったら、このマナが与えられないかもしれないと心配になって、とっておこうと思ったのでしょうか。
 ところが、残したものには、次の日には虫がついておりました。神様は、今日、必要な分だけ集め、食べたらよいと言われています。マナを巡って、欲を起こして、他人の分まで集めようとしたり、それをとっておこうとしたり、それらの行為はすべて無駄に終わってしまうのでした。そして、必要が満たされるのですから、互いに争うこともありませんでした。とにかく、その日、必要な分だけを神様はイスラエルの民に与えられました。
 イエス様が教えてくださった主の祈りのなかに、マタイによる福音書の6章の11節ですが、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」とあります。まさに、この出エジプト記の神様が、40年間、毎日マナを与えてくださった、それも、その日一日、必要な分だけを与えられた、このことを思い起こさせます。イエス様は、天からのマナのことをこのとき念頭において、私たちに主の祈りを教えてくださったのでしょう。神様に対しては、今日の糧を祈り求めたらよいのです。よく言われるように、長生きしたいと思うならば、毎日腹八分目の食事がよいと言われます。神様は人間の健康にとっても、適当な量を考えられております。必要な分だけ食べる、そして、それは神様がちゃんと用意されています。
 それから、次に、この箇所では、マナを集めることを通して、安息日のことにも触れています。7日目は、安息日として守り、マナを集めるようないわゆる労働としての行為はしないように伝えられました。その代り、安息日の前の日に、二日分を集めてよいとされました。この日だけは、それが許されたのです。そして、そのようにしてもこの日だけはマナは、傷むことはありませんでした。他の日にそのようなことをすれば虫がついたり、腐敗するのでした。
 しかし、なかには、言いつけに背いて、7日目の朝にマナを捜しに行ったりする者がおりました。これこれのことはしてはならない、と言われていることを、あえてする者がいつの世にもそしてどこにもいるものです。そして、モーセは、神様が、「あなたたちのために安息日を与えられたことを」おぼえておくように伝えました。神様の安息日であるけれども、あなたたちの安息日でもあるのだと、言うことなのです。
 もちろん、彼らは捜しても野には何もありませんでした。安息日は、神様がこの世界を創造なさり、休息された記念の日であり、神様によって創造された命あるものは、神様の創造の秩序として、この日を守るように言われています。モーセは、「七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない」と言いました。じっとしていなさいということです。安息日の過ごし方を教えられます。
 安息日は、土曜日です。日本でも週休二日制になっている会社も多くなってきておりますが、それでも日本のキリスト者たちには、安息日を守るという習慣は希薄です。ユダヤ教の人々は、そこらは非常に大事にしている信仰上の慣習です。私たちは、安息日というよりも、この日曜日をイエス・キリストが、復活なさった主の日として守り、多くはその朝に礼拝を捧げております。
 イエス様の十字架と復活を思い起こしながら、神様に感謝を表し、救いの喜びを兄弟姉妹たちと共にしております。ある意味では、安息日とも合わせたような面持ちで、この主の日を守っているというのが現状です。しかし、安息日を守るという行為は、とても重要なこととして、聖書は、私たちに教えております。今日の箇所の後半では、いかなる労働も7日目は休むようにとのことです。
 6日間、朝に野に出て、マナを集めます。それも労働でした。それは、神様は、6日間を要してこの世界を創造され、7日目には安息された、休息されたということですが、そうやって創造された人間は、神様に似せて創造されたとあります。神様が、7日目に休まれたことを思えば、人間が、それをしないことは、神様の創造の秩序に反することになります。
 かつて、イスラエルの人々は、エジプトで奴隷状態にありました。そのときに、安息日というものがあったでしょうか。それは、聖書には記されていませんが、休息を許される日が、一年に何度かはあったかもしれません。しかし、6日働いて、7日目に休息をとることは許されていませんでした。彼らは、ほとんど毎日働かされたのではないでしょうか。それは、明らかに、神様からすれば創造の秩序に反する行為でした。
 神様は、ぶっとうしで働くようには、人間を、生き物を創造されていません。神様は、その彼らを解放され、7日目には神様がこの世界を6日間で創造されたことをおぼえ、安息をするようにと教えられたのでした。この安息日は、神様のこの世界の創造の秩序に関わる事柄ですから、これを破ることは、神様が作られた秩序を破ることになりますので、してはならないことなのです。
 人間も7日目には休まなければならないように、作られているのです。この日は、創造されたものはすべて安息をしなければならないのです。20章には、十戒が述べられていますが、この中に、安息日規定もでてきます。そこでは、奴隷も家畜も働いてならないとあります。この日は仕事に行ってはいけないということです。7日目は、何もしないでもいいように、前日に7日目の分までの食べ物を神様は用意されておりました。食べることの楽しみは、たとえ安息日であっても、許されます。
 私たち日本人は、勤勉な国民だと評価されてきました。だからでしょうか、休みをとることになるとその権利をなかなか主張することができません。周りを気にしながら遠慮がちに休みをとります。しかし、安息日は神様の安息日であり、私たちの体も休息するように造られています。
 労働をしている人々は、安息日だというので、その日は労働をしない、学生たちも、安息日だというので、勉強をしない、部活をしない、そのようなことができるでしょうか。そのようなことをすれば、会社をクビになります。そのようなことをすれば成績が落ちて、進みたい学校に行くことができなくなるかもしれません。部活を休めば、試合に出させてもらえないでしょう。厳しい部活では、辞めるように言われます。そのようなことはできません。安息日はその精神が大事なのであって、それをそのまま今の日本社会の中で行えば、落ちこぼれるようなことになり、とてもじゃありません。そのような反応が返ってきそうです。
 16章の29節「よくわきまえていなさい、主が、あなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない」。私たちには、安息日を守ることができるようにと、神様が講じられている事柄があります。このときには、マナを六日目に二日分集めることでした。私たちが真実に祈り求めるならば、何か、安息日を守ることができるための方策が与えられるはずなのです。安息日を守るように、主の日の礼拝を守るように、努力してみましょう。神様は、何らかの方法を私たちにそれぞれ用意してくださっているはずです。


平良 師

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