平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2015年9月6日 年齢を重ねた人に聖書は

2016-01-14 22:05:31 | 2015年
イザヤ書46章3~4節
年齢を重ねた人に聖書は

敬老の日礼拝

 聖書は、年齢を重ねることについて、また、ご高齢の方に対して、そして、そのご高齢の方を見守る周りの者たちについて、どのようなことを述べているのでしょうか。聖書を通してですが、広く多方面から、年をとる、高齢になるということについて、敬老の日礼拝を守っている今日は、考えてみたいと思います。
まず、高齢になることは、聖書においても、神様からの祝福の証しであることは間違いありません。これは、他の宗教でも、一般的にどこの社会でも、そのように考えていると思います。
 創世記25章の7節には、「アブラハムの生涯は、175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」とあります。アブラハムというのは、イスラエルという国を考えるときの最初の人物と言っていいでしょう。また、信仰の父と言われるほどの人物として描かれ、彼は、175歳まで生き、しかも、聖書には長寿を全うし、満ち足りて死んで、先祖の列に加えられたと、このように長生きして、このように死んでいくのが理想であると言っているようにとれます。
 長寿は、祝福に価することなのです。また、出エジプト記の20章12節は、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」。ここでも長生きは、神様から祝福されているしるしです。条件としては、父母を愛することであるとあります。また、箴言の16章の31節には「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」。神様に従う人は、白髪になるまで神様のお守りの中で生かされていくというのでしょう。つまり、白髪になる、年を重ね、高齢者になることは、神様の祝福のしかりをいただいた証拠です、そして、それは、神様に従うという人生を歩んできた結果だと、考えられるのです。
 新約聖書にも、イエス様がお生まれになったときに、二人の男女の高齢者のお話がでてまいります。ルカによる福音書の2章の25節から38節です。一人は、シメオンという男性で、「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」とありまして、それゆえだったのでしょうか、メシア(キリスト、救い主)に会うまでは死なないとお告げを聞いており、イエス様がお生まれになるまで命を存えさせていただいていたのでした。
 そして、ついに幼子イエス様と会われ、喜びに満たされてイエス様親子を祝福したのでした。もう、一人は、アンナという女預言者で、非常にとしをとっていたとあります。そして、彼女は84歳で、若い時に夫と結婚し7年間過ごしたけれど、夫に死に別れてからは、神殿を離れず、断食をしたり、夜も昼も神様に仕えていたといいます。そして、彼女もまた、幼子イエス様にお会いして、イエス様のことを、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々に伝えたということです。
 彼らの働きは、救いを待ち望む人々の代表であり、彼らをとおして、人が高齢になるまで、救いを待ち望む生活を送り続けることがいかに神様に喜ばれるかを、私たちに伝えているという見方ができるでしょう。現在、キリスト者たちは、高齢になり、神様の御許に迎えていただくまで、再臨の主を待ち続ける生活を送りっています。それは、祝福された人生だと言いうるのです。
 ペトロの手紙一の1章8節に、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたの信仰の実りとしての魂の救いを受けているからです」とあり、まさに、救いをえて、信仰をもち、目に見えないメシア、キリストに信頼をおいて歩む生き方が、どのように喜びで満たされているか、それは、高齢者になればなるほどに、その喜びは大きくなっていくように感じられます。
 しかし、聖書の中には、それじゃあ、若くて死んだ者は、神様からの祝福からもれてしまったのか、と考えてしまいがちなのですが、年を重ねるということについて、また、ご高齢の方に対して、少し、辛口の聖書の箇所もないことはありません。しかし、これもまた、世の一般的なもう一つの見方であるとも言えるかもしれません。それは、コヘレトの言葉です。コヘレトという人は、イスラエルの王であったとあります。いつの時代の王様だったのか、それは不明です。
 1章の12節には、「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」と言っています。
 王様ですから、少し、俗っぽいところも当然持ち合わせていますが、信仰があり、彼なりに何とか真理、知恵を探究しようと努力していた人物だったようです。それでも、このコヘレトの言葉の冒頭は、「コヘレトは言う。なんという空しさ。なんという空しさ、すべては空しい」。こういった言葉で始まっています。刹那的です。鴨長明の『方丈記』を思い起こす人も少なからずおられます。一見、仏教でいうところの世の無常を述べているかのようです。
 その彼にかかるとこんな具合です。4章の2節、3節「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれてこなかった者だ。太陽が下に起こる悪い業を見ていないのだから」。この世の悪い業を見ないですむという観点から考えるならば、年を重ねる、長生きをするということについて、むしろ否定的です。
 それから少し考えなければならないのは、コヘレトの言葉の4章13節「貧しくても利口な少年の方が、老いて愚かになり、忠告を入れなくなった王よりも良い」というのがあります。人は、年を重ねて頑固になることがあるのでしょう。しかも、その人が権力でも持っていようものなら、たいへんです。私も60歳になって、こうした忠告に耳を傾けていかねばならないのでしょうね。
 また、コヘレトの言葉で、最も有名なものが、おそらく次の言葉です。12章1節と2節「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。年を重ねることに喜びはない、という年齢にならないうちに」。年を重ねていくと、それまで、楽しみと思っていたこと、感じていたことに、さほどに心を傾けることができなくなり、もう何に対しても関心がないし、楽しみももてない、というようになるのです。
 コヘレトは、だから、青春の日に楽しみなさい、楽しむことはよいことだ、神ざまに創造された者は、その創造の命を十分に楽しむべきだと勧めています。そして、だからこそ、青春の日にあなた創造主をおぼえよ、と語るのです。神様を知ることは、人生のほんとうに大きな喜びです。ただし、そうやて行ったことすべてに対して、神様の報いをいただくことになるのだと、人間の側の責任、罪にくだされる裁きについてもまた言及しております。
 それから、イザヤ書にも、人間のはかなさのようなことが書かれています。40章6節から8節「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしの神の言葉はとこしえに立つ」。しかし、この言葉は、人の命のはかなさ、神様の裁きによる人の滅びと対比して、神様の言葉の真実、神様の正義、永遠性を述べています。それゆえに、この永遠なる者に支えられている人間のありよう、変らぬ救いの可能性、慰めをいただくことができます。
 ただ、年をとることで、自然と備わってくるものもあります。ヨハネによる福音書8章に、姦淫の現場で捕えられた女性がいて、このような女性は律法では石で打ち殺せとありましたので、人々が、イエス様のところにこの女性を連れてきて、どうしたらよいかと迫りました。彼らは、イエス様を訴える口実を捜していたのです。
 そのときに、イエス様は、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。すると、年長者から始まって、一人また、一人と、立ち去ってしまったのでした。これは、年をとるに従い、人間は、謙虚にさせられていき、自分が日ごろしていることを客観的に見つめることができるようになり、それによって、自ずと自分の罪の深さにも気づくということでしょう。
 年を重ねることは、よいことでもあります。ここでは、年を取るにしたがって謙虚になっていく場合ですが、その逆に、先ほどのコヘレトの言葉にあるように頑固になっていくこともでてまいります。年をとることは、すばらしいことだけではありません。しかし、神様の祝福を受けたからこそ、年を重ねていっているということは述べられています。しかし、年を重ねたからよいかというと、コヘレトのように、そうでもないという指摘もないことはないのです。
 ところで、聖書は、ご高齢の方々への接し方について、どのように若い者たちや子供たちに教えているでしょうか。まずは、「あなたの父母を敬え」とあります。それから、箴言23章22節、25節は、子どもたちへ、高齢になった父母に対する接し方を教えています。「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。」「父が楽しみを得、あなたを生んだ母が喜び躍るようにせよ」。
 これらの言葉の前提には、年老いた両親への思いやりに満ちた子供たちのなすべき行為、義務としての行為があります。また、テモテへの手紙一5章の1節「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい」。ここには、現在、私たちが介護などをする場合、ご高齢の方々への基本的な接し方が述べられていると考えてよいかと思います。
 さて、それなら、信仰をもった人間が、年を重ねていくということについて、また、神様ご自身は、どのように高齢の方々を励まし、強めてくださるのでしょうか。聖書は、それについては、どうのように述べているでしょうか。イザヤ書の40章29節から31節「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。
 疲れた者、勢いを失っている者とは、病気の方やご高齢の方々のことを含んでいると言っていいでしょう。そして、若者や勇士ですら、そのような状態におかれることがあります。しかし、神様に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上ることができます。走っても弱ることなく、歩いても疲れないのです。少し似たようなことを述べている新約聖書の箇所があります。
 コリントの信徒への手紙二の4章16節から18節です。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは、過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。
 見えないもの、神様、イエス様に目を注ぐときに、私たちの内なる人は、日々新たにされていっているのだと聖書は述べています。高齢になられてますます、そのような日々の自分に気付いたり、感じたりすることができるなら、ほんとうに幸せなことだと思います。
 最後に、イザヤ書の46章の3節4節です。「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ(神様に背負っていただいてきた)、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。
 神様が、私たち、一人一人を創造してくださいました。神様が私たちの命に最後まで責任をもってくださいます。私たちの長い、あるいは、短い人生を神様が、いつも共におられて担ってきてくださいました。神様が私たちを負ってくださる期間は、私たちが生まれたときから、神様の御許に召されるときまでです。この私を神様は、これからも支え続けてくださいます。高齢になるまで、死ぬまで、支えてくださいます。「わたしがあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。
 何と心強い、お言葉でしょうか。私たちもまた、ご高齢の皆様も、これからも神様が共におられて、神様の御許に召されるそのときまで、すべてのことを神様がお支え、助けてくださいます。それからまた、神様の御許とに行ってからもなお、永遠にそこで安らいで過ごして行くことになるのです。


平良 師

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