平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2015年8月23日 よい仕事をするために

2016-01-13 22:33:49 | 2015年
出エジプト記18章13~27節
よい仕事をするために

 モーセのしゅうとでミディアンの祭司であったエトロは、先にモーセが実家に帰していた妻のツィポラと二人の息子を連れて、荒野で宿営しているモーセのところへやってきました。モーセは、エジプトの地からイスラエルの人々を導き出すための指導者として、召命を受ける前に、ヘブライ人に暴力を振るっていたエジプト人の監督を殺害して、追われる身となり、ミディアン地方に逃れたときに、ミディアンの祭司であったエトロに保護され、その娘のツィポラと結婚をしました。
 そして、そこで二人の息子を儲けました。そのあと、神様からの召命を受けて、再びエジプトに戻っていったのです。いつの時点で、モーセは、妻と子どもたちを先にしゅうとエトロのもとに帰していたのかはわかりませんが、少なくともここまで来るまでの間に、一旦家族をエトロのもとに帰したようです。そして、エトロは、何かのことで、神様が、イスラエルをエジプトから導き出されたことを聞きました。
 それで、イスラエルの人々が大移動をしているその宿営にやってきたのです。ミディアン人というのは、イスラエル人とは違いますから、当初、祭司エトロの神は、イスラエルの神とは違ったと思われますけれども、しかし、モーセを義理の息子として迎えてからは、彼は、徐々にヤーヴェの神に帰依するようになり、このときには完全に彼の信仰の対象は、イスラエルの神そのお方となっておりました。
 そして、エトロは、モーセから直接、神様がイスラエルをエジプト人の手から救い出し、イスラエルの人々に恵みを与えられたことを聞きまして、大いに喜びました。そして、次のように言いました。「主をたたえよ。主はあなたたちをエジプト人の手から、ファラオの手から救い出された。今、わたしは知った。彼らが、イスラエルに向かって、高慢にふるまったときにも、主はすべての神々にまさって偉大であったことを」。
 そして、その日、エトロは、焼き尽くす献げ物をし、神様に礼拝を捧げたのでした。また、その日は、アロンとイスラエルの長老たちもやってきて、神様の前で、共に食事を致しました。
 次の日、エトロは、モーセが座について民を裁く姿を見ました。大勢のイスラエルの民が、朝から晩まで、モーセの裁きを待って並んでいるのでした。エトロは、この光景を見て、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と聞きました。どうして、たった一人でこれだけの仕事をしているのか、ということです。
 モーセは、「彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」とエトロに答えました。つまり、人々の間に生じた争いごとを裁いている、裁判をしているのは、モーセたった一人でした。数百万人の人々の間に生じる争いごとですから、当然、件数も多く、人々が朝から晩まで、並んで待つという状態になったと思われます。
 エトロは、「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねてくる民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負い切れない」と言いました。そして、助言するのでした。その内容は、「あなたは、民全体の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。警察組織なのか、軍隊組織なのか定かでありませんが、そのようなものを作るということです。
 平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい」というものでした。こうした方法でやり、神様が命令を与えてくださるなら、「あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることできよう」と言ったのでした。
 エトロは、このままでは、モーセが疲れ果ててしまう、それだけでなく、イスラエルの民もまた、疲れ果ててしまう、と判断致しました。それで、モーセが一人でやっていたこの裁判官としての働きを他の人々にも分担して、その人々にやってもらい、大きな事件だけをモーセが扱うようにしたらよい、というものでした。そして、その担ってもらう人々ですが、神様を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選ぶようにと、エトロは、助言しました。
 エトロの助言について、一つ抑えておきたいことは、聖書は、神様がエトロを通して、そのようなやり方をしなさいとは、言っていないことです。これは、あくまでも、エトロの考えなのです。しかし、そこに神様の働きかけがなかったのか、ということについては、わかりません。聖書を読む限り、神様がエトロを通して、そのような助言をされたとは、書かれていません。
 そして、エトロの考え方は、実に一般的、常識的で、誰もが納得をするやり方でした。数百万人の間に生じる個々の争いごとを一人で処理することは不可能です。それをやり始めたならば、朝から晩までその仕事を続けていても、次から次へと争いごとは起こるのですから、それは果てしがありません。
 そして、何よりも、そのために、他の仕事ができなくなります。また、民としても、満足いく結果を得られるかというと、これも疑問です。モーセは、疲れ果てていますので、十分な判断ができない可能性も高くなるでしょう。ですから、「安心して自分のところに帰る」ことができず、つまり、その判決に納得できず、もんもんとせざるをえないことになってしまいます。
 この仕事を分担して、多くの人々に担ってもらうというのは、実に現実的でした。また、これら千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長は、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物というのも、裁判官としての資質としては、適切なものでした。誰もが、納得できるお話でした。エトロの助言の内容を考えますと、神様は、ときに私たち人間が考える常識をはるかに越えられるお方ですから、このような人間誰もが考えそうなことと思ってしまいます。
 しかし、神様は、教会のなかだけに働かれるお方ではありません。教会外でも、色々な形で神様はお働きになっておられます。それで、キリスト教的、あるいは、教会的なものの考え方をする私たちは、一般社会の、また、いわゆる常識的な考え方を軽視することもあるのですが、しかし、神様は、そのような一般社会のものの見方や考え方のなかに、神様のお考えやものの見方を含ませていることも多々あるのだと教えられます。このときのエトロの助言は、まさにそういったものだったのではないでしょうか。
 確かに、神様は、たった一人で立ち向かうことを私たちに教えられることもありますし、資質とか能力など、一切関係なくその人を選び出されることも多くあります。つまり、すべては、神様が共におられ、神様がその人に力を与えられるならば、一人とか、その人に与えられている賜物とかを超えて、事柄は可能となるのです。しかし、神様は、そうでなく、人間の一般的で常識的なものの方々方、見方のなかに、神様のご意志を示されることもあるということです。
 今日の招詞の使徒言行録の6章1節から7節のところに、このモーセが直面した問題とその解決方法について、似たようなお話がでてまいります。それは、初代教会において、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていると、苦情がでたときのことです。
 12人の弟子たち(マティアがユダの代わりにくじで選ばれておりました)は、他のすべての弟子たちを呼び集めて、「わたしたちが神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」と提案して、一同がそれに賛成して、ステファノなど7人が選ばれることになったということです。
 つまり、それまでは12人の弟子たちが中心になって、日々の食事の分配などのお世話をしていたようですが、自分たちがそれらの仕事をこれからもし続けていくことは、よくないと考えました。自分たちには、もっと違う仕事が与えられているはずではないか、ということでした。つまり、祈りと御言葉の奉仕です。
 彼らは、これらのことに専念するために、食事の分配にかかわることを止め、本来自分たちこそがしなければならないことをすることにしたのでした。ただし、どの仕事が尊くて、どの仕事はそうでもないというのは、あのキリストの体なる教会のお話のように、それぞれが必要だということですから、そこは、心得ておく必要があります。
 私は、前任地の教会では、開拓伝道所といった場を与えられて働きがはじまりましたので、それまで伝道所を守り続けてきた一つの家族ともう一人の信徒と私たち家族でのスタートでした。それで、何から何まで、私と妻でやることになりました。これはこれで、とてもおもしろかったのです。なぜなら、ほとんど自分たちで考え、自分たちで実行に移し、自分たちで結果をみて、次のことを考えるといった具合でした。
 その代わり、何から何まで、牧師の私と妻と、教会員の2~3名で事を行ってまいりました。考えたことは、ふっとわいたアイデアも、すぐに形にできました。それはそれでたいへんなこともありましたが、だいたいにおいて楽しかったのです。何事においても、そういう時代や段階があるものです。
 さすがに、直接お金を扱うことはしませんでしたが、予算を立てたり、財政の見通しを立てたりするといったことにも、私が率先してアイデアを出し、実行に移してまいりました。書記の仕事も、総務の仕事も、伝道の仕事も、何から何まで、買い物からゴミ捨てまで、私が多くを致しました。
 そこで得た教訓は、日本のこれくらいの規模の教会は、ほとんどのことを牧師がしているのだろうなあ、ということでした。日本の教会の牧師の多くは、こうして、小企業の社長さんのように、何から何まで、一人でやっているのだろうなあ、ということを思いました。しかし、それが、いつまでたっても、日本の教会が広がらない理由でもあるのです。そして、そうやってきた牧師は、それまでの自分の仕事を他の信徒に任すことがなかなかできなくなるのです。
 他人に任せると不安になります。これは悪循環でして、それだから、日本の教会には、広がりが生まれないということになります。日本の牧師は、信徒に自分の仕事を任せられない、ということです。私も、前任地におりましたときには、意識しなかったのですが振り返ってみますと、他者に自分のそれまでやってきた仕事を任せられないでいたのでした。モーセもそうだったかもしれません。
 平尾に来ましたときに、それまで自分が週報を作っておりましたので、自分で作った方が早いと考え、そのようにここでもするつもりでおりましたが、ここでは、既に、信徒の皆様が週報作成をしており、私は、原稿を担当者に送るだけになっておりました。しかし、正直申しまして、最初は抵抗がありました。それでも、仕上がった週報を見て、私は、このようには自分は作れない、ここの週報は多くの情報を載せても見やすく、すばらしいというのが私の感想でした。信徒の皆様に任せた方がよい仕事ができると思いました。
 他にも、礼拝の仕事、書記の仕事、教会学校の仕事、総務の仕事、友愛の仕事、奏楽、伝道、財務など、どれ一つとっても信徒の皆様に任せられるのです。平尾教会のように、信徒の皆様が、よく動いておられる教会もありません。牧師は、感謝なことに、それこそ祈りと御言葉の奉仕に力を注ぐことができます。仕事を分担して、多くの方々がそれぞれに仕事を担っていくことが、いかに重要なことであるか、ようやくわかってきました。その方が、よい仕事ができます。教会に広がりも生まれます。そこまで、私は、前任地ではできませんでした。発想もしなかったのです。
 しかし、平尾に招かれてからは、そうではありません。できるだけのことを分かち合っていきたいと今は願っています。一つは、2009年からはじまっているスモールグループの働きです。これも現在は、方向性がそれぞれに任せられていて、テコ入れが不十分なために、少し小康状態となっています。これも、発想としては、牧会なども、それぞれのグループで行いましょう、そうすれば、個々が抱えているつらさや喜びも分ち合うことができ、祈り合うこともできる、そして、聖書の学びなどもできて信仰生活がさらに充実する、そういうことを意図して、始まっているものです。
 おまけに、今は、平尾と大名という二つの場所で、活動を展開していますから、このスモールグループで共に交わりや学びや祈りを合わせることができたら、それにこしたことはありません。それから、今年の3月の計画総会の資料の中で、私は、2015年度は、牧会もチームで動いていきたいと思うと書きました。友愛委員会、高齢者をおぼえるミニストリーなどの皆さんと一緒に力を合わせて、お便り書きや訪問をしましょうということです。
 そして、実際に、4月から毎月一度のお便り書きと、毎月一度の訪問をしております。そうしますと、私一人では、つい、他の仕事が入ったりして、時を逸することもあるのですが、チームで動くということになりますと、時間をそこに合わせて作業をしなければなりません。そうしますと、確実に、仕事を行うことができるようになりました。
 同じ仕事でも、一人でやれば、一つしかできないことが、分担して、工夫してやれば10や20はすぐにできることがあります。それも、やり方次第では、よい仕事が望めるでしょう。イスラエルの人々は、安心して(心穏やかになって)帰路につくことができるようになったと思われます。モーセも、他の仕事もできるようになったし、体も休めることができたことでしょう。
 また、モーセと同じように裁判に関わるようになった人々も、イスラエルの同胞のことを思う思いが、強いものになっていったことでしょう。どのような仕事も分担して行っていくことの大切さを思わされます。また、何事も一人で抱え込まず、分かち合うことを教えられます。そして、軽くよいものだけでなく、重くつらいものも分かち合ってまいりましょう。
 イエス様が、私たち人間の生き方の模範となってくださっています。イエス様が、まず、私たちの重荷を軽くすること、重荷を負ってくださるということをしてくださいました。


平良 師

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