平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2011年11月27日 逃れの場所がある

2012-02-25 10:49:00 | 2011年
ヨシュア記20章1~9節
逃れの場所がある


 私たちには、逃れる場所が必要です。それは、精神的にも、あるいは、具体的な目に見える場所としても、それは必要です。そこで、安全と平和、平安をうる、癒しをうる、休息をうるのです。そうした場所が必要です。それがなければ、私たちは、人として、生きていくことが困難になってしまいます。
 今日から世界バプテスト祈祷週間が始まりました。私たちにとって、世界伝道をというヴィジョンは、聖書によって示されています。マタイによる福音書の28章19節「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とイエス様は言われました。
 また、使徒言行録の1章8節には「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とイエス様は言われました。こうした、イエス様の宣教命令に従って、私たちは、国内に止まらず、全世界に出ていって、イエス・キリストの福音を宣べ伝えようとするのです。
 日本バプテスト連盟は、今年の11月1日から、浦和教会の宮井さんご夫妻を、中国への国際ミッションボランティアとして派遣することに致しました。中国では、キリスト教は自由に布教していいことにはなっていません。政府公認のもとでしか、できないという制約があります。そこで、伝道活動をするのには神経を使わねばなりません。それは、仏教国のタイやイスラム教が多数を占めるインドネシアなどもそうでしょう。
 また、民主的でない政府が権力をとっている国々でも、その政府が許可するようなやり方や表現の仕方、内容でしか、伝道活動はできないでしょう。しかし、私たちの先達たちは、そうした危険を承知の上で、伝道の使命に生きていきました。それで、今日の私たちもあるわけです。
 もし、外国から宣教師たちが来て、イエス様のことを伝えてくれなければ、私たち日本人は、イエス様のことを知ることはなかったのではないでしょうか。それで、私たちも国外伝道という使命のもとに、特に、日本バプテスト連盟では、女性連合がその働きを背後で担いつつ、取り組んでいるのです。しかし、いつも私が言いますように、地の果てに至るまで、というときの地の果ては、今や、日本であることを忘れないでいただきたいと思います。
 日本のキリスト教人口は、人口全体の0.86パーセントくらいでしかありません。何の制約もなく、自由に伝道活動をしていい日本で、この割合は、戦後の一時期を除いて、ほとんど変ることはないといっても言いすぎではないでしょう。それどころか、教派によっては、減ってきているのではないかといったデータさえ見受けられます。ですから、私たち日本人は、国外伝道へのヴィジョンは大事にしながらも、この日本にまず、イエス・キリストの福音をあまねく伝えなければなりません。
 イエス・キリストの福音は、私たちの逃れ場所です。イエス様のところへ行けば、安らぎを得られ、癒しを得られ、休息を得ることができるのです。マタイによる福音書11章28節で、イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。そのように言われました。
 私たちイエス・キリストの教会の務めは、この逃れ場所、癒し場所、安らぎ場所としてのイエス様を宣べ伝えることにあります。そして、イエス・キリストの教会ですから、ここもまた、逃れ場所、癒し場所、安らぎの場所として、存在することが求められると思います。そして、そのイエス様のご降誕をおぼえ、心の備えをするアドヴェントの期間が今日から始まります。世界バプテスト祈祷週間のはじまりとアドヴェント(待降節)のはじまりは、いつも、重なるものですから、私たちは、同時に、この二つのことをおぼえることにしています。
 さて、今日の箇所ですが、これは、神様が、いくつかの逃れの町を、イスラエルの人々がカナンの地に入って町々を作る、そのときから、すぐにでも設定するように言われたという箇所です。当時から、逃れ場所というのは、なくてはならないものとして、神様はイスラエルの人々に備えてくださいました。神様は愛のお方です。詩編の91編4節に「神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。」とありますように、私たちを本質的に守ってくださるお方であります。
 神様は、ヨシュアに、「モーセを通して告げておいた逃れの町を定め、意図してでなく、過って人を殺した者が、そこに逃げ込めるようにしなさい。そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる」と、言われました。この逃れの町は、ケディシュ、シケム、ヘブロン、ベツェル、ラモト、ゴランの6ケ所でしたが、これらを地図でみてみますと、適当な間隔で点在していることがわかります。
 殺害した者が保護される手続きとして、逃げ込む者は、町の門の前で、長老たちに、事の次第を説明し、それが保護に値すると認められると、その町で住居を与えられ、生活することが許されるというものでした。保護に値する人々は、恨みや憎しみから殺人を犯した人々ではありません。あくまでも、過って人を殺した、そういう人々でした。そして、おそらく殺された人々の家族であっただろうと予想されますが、それら復讐する者がやってきても、町の者たちは殺害者を彼らに渡してはならないのでした。
 それは、正式な裁判を受けるときまでか、大祭司が死ぬときまで続き、それが終れば、自分の家、自分の逃げ出した町に帰ることができるということでした。大祭司が死ぬまでというのは、聖なる者の死ということで、恩赦が与えられたと考えられます。この法律は、イスラエルの民だけでなく、寄留の人々にも適用されました。
 9節には「以上は、すべてのイスラエルの人々および彼らのもとに寄留する者のために設けられた町であり、過って人を殺した者がだれでも逃げ込み、共同体の前に立つ前に血の復讐をする者の手にかかって死ぬことがないようにしたのである」とあります。ところで、当時、復讐は制度化されておりました。
 民数記36章33節には、「あなたたちは、自分のいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血は、それを流した者の血によらなければ、贖うことができない」、とあります。
 これらのことは、殺人に対するある種の抑止力というものであった可能性もあります。人を殺す者は、自分も殺されていいということでした。と同時に、そうしなければ、土地が浄化されないというので、そうした制度ゆえに、家族の者たちは復讐をせざるをえないということもあったことでしょう。当時から、憎しみからではなく、過って人を殺してしまうことがありました。
 例として、申命記19章5節からのところには、このような例が書かれています。二人の者が柴刈りに森に入り、木を切ろうとして斧を振り上げ、斧の頭が抜けて、もう一人に当たり、死なせてしまった、というケースが述べられています。これは明らかな事故です。
 この逃れの町の話しは、主にあって、正義が行われる、そのときの考え方を示されているとも言えるでしょう。私たちの命は、神様が創造された尊いものです。その命を奪う者は、赦されることはありませんでした。
 しかし、事故、過ちによってならば、その殺害者は、逃れの町にいったん逃れ、そこで、保護され、正しい裁判を受けるか、或いは、大祭司が死ぬときがきて、赦されるということになりました。
 この旧約聖書に示されている逃れの町のお話は、新約聖書のイエス様が逃れ場所というのとは違います。
 旧約聖書の逃れの町のお話は、あくまでも誤って人を殺害した場合であって、恨みや憎しみでもって、人を殺害した人の場合には、あてはまりません。人を故意に殺害した者は、いくら悔い改めようとも、彼は赦されることはありませんでした。その流血のあった土地は、殺害者の血をもって贖わねばならないのです。ところが、新約聖書の逃れ場所は、すべての人を対象にしていると言えます。意図的に殺害しても、その者が悔い改め、イエス・キリストの十字架による赦しを受け入れるならば、その者は、イエス・キリストという逃れ場所を得、赦されるのです。なぜなら、その殺害者が血を流す代わりに、イエス様が十字架の上で、血を流されたからです。
 逃れの町は、何日もかからないと到着しないようなところには位置していなかったと思われます。6つの町は、それぞれ等間隔におかれているような配置になっています。近いところの町には、一日もかけずに行くことができたことでしょう。逃れる場合、その道のりが長くて、追っ手に追いつかれるようではいけない、逃げることができるような距離にあることが大切でした。
 そのことを考えますと、その逃れの町に行くことが容易にできるように、他の町よりも、その過程には、いろいろと工夫をこらされていたかもしれません。例えば、川が行く手を遮るようにところには、多くの橋がかかっているとか、山や谷のない、平坦な道であるとか、分岐点にはこちらが逃れの町とような案内がでていたりとか、そのようになっていかもしれません。そして、その町に入るや否や、しっかりと身の安全が保障されるような仕組みになっていたと思われます。追っ手がやってきても、殺害者の身の安全は、揺らぐことがなかったでしょう。
 これらは、イエス・キリストという逃れ場所、そのもの、そこへ通ずる道のようです。しかし、自分が殺人を犯した、罪を犯した、そのために、逃れなければならない、逃れ場所に行かなければならない、そのように逃げ道を急ぐということがない者には、見出されることのない道、与えられない逃れ場であるでしょう。自分を正しい者、逃げる必要など、何もないと思っている者には、見出すことも、辿りつくこともできない、道であったり、場所であったりするのです。
 イエス・キリストという逃れ場所に行くためには、自分の罪に気づく必要があります。神様に背き、歩んできたことを悔い改める必要があります。そして、その自分の罪に気づき、行く手が定まれは、そこへ行くことは、容易でしょう。そこへ行く道は、整えられているからです。罪という追っ手がせまり来ても、私たちに追いつくことはありません。そして、その場所に、すみやかに辿りつき、そこで安全をうるのです。そこは、イエス・キリストという安全な場所です。癒され、休息が与えられる場所です。
 しかし、だからといって、いつまでものんびりと、イエス様への道を歩んでいることはどうでしょうか。追っ手が、追いつくことにもなりかねないと思いませんか。私たちは、自分の罪に気づき、イエス様にある救いへと目標が定まったのなら、すぐにでも、その救いを得ようと努力すべきなのです。
 今日は、世界バプテスト祈祷週間の第一日目です。世界中の人々が、イエス・キリストにある福音に与ることを願います。世界中の人々が、こぞってイエス・キリストという逃れ場所へやってくることを願います。そこは、イエス・キリストの教会という捉え方もできるでしょう。イエス様に救いを求めて来る者は、すべて赦されるのです。過って人を殺した者も、否、たとえ、憎しみのあまり人を意図的に殺した場合であってもなお、赦されるのです。
 イエス様のところに来ることが大事です。イエス様のところへ逃れてくることが大事なのです。そのためには、まず、このイエス様を宣べ伝える者がいなければなりません。その一人としての自覚を今日、新たに致しましょう。


平良師

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