平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2011年11月13日 記念の石-記憶に留める-

2012-02-24 00:45:16 | 2011年
(こども祝福式に)
ヨシュア記4章1~9節
記念の石-記憶に留める-


 モーセのあと、指導者として立てられたのは、ヨシュアでした。神様は、ヨシュアに言われました。「わたしの僕、モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立って、ヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい」。
 この日、ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発して、ヨルダン川の岸辺に到着しました。季節は、春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていました。どのようにして、この満々と水を増した川を渡ることができるでしょうか。
 神様は、ヨシュアに、「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう」と告げられました。ほんとうにそのようなことが起こるでしょうか。彼らは、満々と水量をたたえ、激しく流れている川を目の当たりにして、たじろいだことでしょう。
 しかし、主を信じ、勇気を出して、一歩踏み出しました。そうしましたら、神様から言われたとおり、契約の箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸るやいなや、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立ったのでした。水量が多く、とても、渡ることなど難しい、否、不可能と思われるその中を、それも女性、こどももいたでしょうから、ほんとうに誰が見ても無理と判断せざるえないところでした。
 しかし、十戒の箱を担いだ祭司たちは一歩踏み出したのです。そのとき、イスラエルの人々は、干上がったヨルダン川を渡ることができました。そのあと、神様は、ヨシュアに向かって、ヨルダン川の川底からそれぞれの部族ごとに一つずつ石を取ってきて、それで祭壇を造るように命じられました。そして、「それはあなたたちの間でしるしとなるであろう。後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、こう答えなさい」と言って「ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前でせき止められた。
 箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の流れはせき止められた。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる」と告げるように言われたのでした。イスラエルの人々だけではありません。信仰者は、神様が、困難とおぼしき状況を変えてくださったという経験をもっています。そのことを想い起すに、適した見える物体が記念の品として残っている場合もあれば、目に見えないけれども、思い出として、心にしっかりと記されているものもあります。
 ところで、歴史的なものの多くは、物として、あるいは語り継がれて残されていきます。歴史的な事件は、碑文や何々の碑ということで残っているものもあります。今では、個人的なものは、功績があったということで言えば、スポーツや何かのコンクールで、賞をもらったときに、賞状やトロフィーや盾、メダルなどをもらいますが、あれなどは一般的な記念の品ということでしょうか。
 ここでは、この石を積み重ねて造られた祭壇をとおして、神様の大いなる御業を想い起すように言われたのでした。神様の大いなる御業を語りついでいくように、とのことでしょう。これは、後の人々、こどもたちへの教育ともなります。信仰の継承という点では、重要なものとなります。
 神様の大いなる御業を思い起すための記念の品ではありませんが、私たちの人生には、いろいろな記念の品々があるものです。結婚指輪もその一つです。神様の前で、二人が交わした約束を表しております。他にも、個人的に、この品は、あのとき、ああいううれしい出来事があって、そのときに使われた記念の品なんです、そういうものもあります。私たちの人生には、その出来事にまつわる記念の品は、たくさんあると言っていいと思います。
 甲子園に出たときの記念の砂、はじめてホームランを打ったときのボール、はじめて働いた給与で買った記念の服、時計、若いときの日記帳、写真なども、その一つになりえます。これは生きていたときの証しとしての記念の品でしょうか。そして、父親が、おばあさんが、子どもや孫たちに、それぞれの記念の物をさして、彼らの思い出を語ったり、或いは、親は祖父母の人生をかいまみるのです。或いは、彼らの大事にしていたものに触れるのです。
 しかし、ここでは、神様の御業を想い起すための記念の祭壇でした。それは、川底にあった石で造られることになりました。それも、「ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から」ということでした。
 普通では、こんな流れの中にある石を運び出すことは容易にはできません。水が、引いていたからこそ、それは可能になります。真実に、イスラエルの民は、春の季節で雨季にも相当しており、多くの水で満々としているヨルダン川を、そこを渡ることができたのです。
 石を積み上げて造られた祭壇を見て、この川の水をせき止められた神様の偉大な御業をたたえ、おぼえよということであります。真実にこの川が干上がったのである、それをせき止めたのは神様だった、その証拠がこれらの石である、これらの石は、そのとき、川底にあったものである、そういうことです。
 そして、この川を渡ることを神様は許してくださったのだ、とても渡ることなどできない者が、それを可能にしてもらったのだ、それによって、新しい土地で、新しい生活を備えられた、そのことを想い起し、新たな思いをもって神様に感謝するようにと、この記念の祭壇には、神様の思いとこのときヨルダン川を渡った者たちの思いが、込められていました。
 ところで、現在、キリストの教会のほとんどに、十字架が掲げられています。屋根にそれはなくても、壁に、あるいは、表の塔となって、どこかにそれは掲げるか、描かれています。また、礼拝堂の中にも、それは、あります。これは、神様の偉大な御業を思い起こすように、そして、私たちに、あなたたちの罪はこのお方によって赦されました、そのように私たちに告げているようにも見えるのです。
 そうです。この十字架は、喜びと、感謝のしるしです。これを見るときに、私たちは、イエス・キリストが十字架につけられたことを想い起します。イエス様を知らない方は、あれは、キリスト教会のしるしだ、とぐらいにしか思わないでしょう。しかし、それは、全世界に告げられているよき訪れのしるしです。
 少なくとも、キリスト者たちは、この十字架の意味を知っております。この十字架で、イエス様が苦しまれたこと、そして、苦難の後に死んでいかれたこと、しかし、父なる神様は、そのイエス様を死より、よみがえらされたこと。ですから、この十字架は、敗北ではなく、勝利のしるしでもあります。また、その十字架が、この罪の中にある私のためであったこと、そうしたことを同時に、想い起すのです。
 また、記念の品ではなく、記念の事柄として、教会は主の晩餐を守っています。これもまた、イエス様の十字架を思い起こすために行っているものです。イエス様が、十字架の上で裂かれた体としてのパンを裂いて、食べるのです。そして、赤のぶどう酒は、十字架の上で流された血にみたてています。私たちは、こどももおりますので、ぶどうジュースを使っています。それらを食し、飲むことで、神様が、私たちのために果たしてくださったすべての救いの御業を想い起しているのです。目に見える十字架、そして、記念の物ではなく記念の事柄として、主の晩餐があるのです。
 さて、聖書にこのように記されています。「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った」、つまり、祭司たちの足が水際に浸ったときに、そのことが起こったのです。信じて、一歩、水の中に足を踏み入れたときに、そのことは起こったのでした。
 ここに信仰の応答という課題が、横たわっています。彼らが恐れて、水の中に一歩足を踏み入れなければ、水がせき止められるという奇跡は起こらなかったでしょう。私たちの信仰の行為が伴わないところでは、神様の事柄は起こらないのではないでしょうか。信じて、一歩、その激しい流れの中に足を踏み入れたときに、道は開かれました。主を信じて、一歩、歩み出す、そこで思わぬことが起こる、不可能が可能となる、新しい土地、新しい世界に一歩前に進むことができる、そういうことです。
 それで、私たちの応答ということ、このこともまた考えてみたいと思うのです。そして、その神様の応答への記念の事柄は何でしょうか。それは、バプテスマ、洗礼、その式だと言えます。まず、それには信仰告白をしなければなりません。イエス様の十字架がわたしのためであたっということを信じます。そのイエス様が、復活されたことを信じます。そして、この主に従っていきます。そういう信仰の告白です。
 そして、イエス・キリストを救い主と信じ、神様に従って行く決意をした証しとして、洗礼、浸礼を受けるのです。水の中に入る、という点では、このときのイスラエルの人々と、浸礼を受ける者とは、同じく、信じて、水の中に一歩踏み出すという点では同じですね。ただし、バプテスマ式の場合は、全身を水につけるのですが、これは古いこれまでの罪ある自分に死んだということをまず意味しています。
 それは、イエス様が、十字架で死んだのと同じさまです。そして、水の中から起されるのは、イエス様が復活させられたように、新しい命をいただいた、新しい自分にされたということを意味しております。このときの信仰告白は、神様への目に見えるしるしであり、生涯残るものです。否、その教会が地上に存続してく限り、その教会に残っていくものです。そして、浸礼は、その人の心の中に刻まれ残ると同時に、教会の兄弟姉妹たちの心の中に記憶されていくのです。
 しかし、教会の信仰、それは、教会の信仰告白です。私たちの教会の信仰告白、平尾バプテスト教会の信仰告白、これこそは、まさに、私たちの教会がバブテストの教会である証しとなるほどの、すばらしいものであると自負できます。誇りに思うことができます。それは、この序文にあります。
 この教会の信仰告白は、これによって何人の信仰も拘束しないとあります。それでは、この信仰告白は、何かと言えば、これは、励ましであり、証しであるというのです。これは、私たち平尾バプテスト教会の記念の品です。私は、宣教50年年の記念誌では、この平尾バプテスト教会の宝と書きました。
 これにより、私たちの教会に呼び集められている兄弟姉妹たちの信仰の広さ、自由さはよそのどの教会の方々よりも保障されていることになります。もちろん、だからといって、私たちのキリスト教の教理理解が、他の教会のものよりも大幅に違うかというと、そうではありません。ほとんど同じです。同じですが、この信仰告白どおりに、すべてそう考えなければ絶対にだめだ、という絶対性を主張しないということです。
 今日は、こども祝福式を致しました。親は、こどもに、自分の大事にしているものを伝えたいと思います。何らかの形で、これまで自分が大事してきたものを受け継いでいって欲しいと思うものです。キリストの教会は、こどもたちに、イエス様を自分の救い主として受け入れて欲しいと願い、信仰に生きる者に育って欲しいと願っています。信仰を得ること以上に、その人が、祝福されることはないからです。
 その信仰をどのように伝えていったらいいのでしょうか。神様は、石を拾ってきて祭壇を築きなさいと教えました。そして、こどもたちが、これは何かと尋ねるだろうから、そのときには、これこれ、こういうことがあったのだ、と教えて、信仰を彼らが得られるように、さらに強くするようにしなさい、と教えられたのでした。私たちも、今、イエス様のことを述べ伝えることをします。そして、イエス様の十字架と復活の出来事を伝えます。そして、イエス様が、どのようなお方だったのかを伝えます。それは、それによって、信仰を得て、祝福される人になって欲しいからです。
 神様は私たちの幸せを願っておられます。そのために、神様を信じ、神様に従うことを求められます。神様は、石を用い、祭壇を築き、それを記念として、神様の御業をおぼえよ、神様を信ぜよ、とこのとき言われました。それが、祝福の基となるのではないでしょうか。しかし、今、私たちは知っています。神様もまた、私たちをおぼえてくださっておられることを。それも、私たちのように、忘れたり、思い出したりということではありません。
 神様は、私たちのことを片時もお忘れになることはありません。ずっと覚えてくださっておられます。幼い子たちが、この神様を知り、この神様の愛のなかで、育っていくことを祈ろうではありませんか。


平良師

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