平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2011年9月11日 主の救いを見る

2012-02-18 00:25:39 | 2011年
出エジプト記14章5~18節
       主の救いを見る

 私たちは、人生の中で、絶体絶命と思われる出来事に遭遇することがあります。そのときこそ、私たちの信仰の真価が問われることでしょう。右往左往してパニック状態になる場合もあるでしょう。しかし、信仰に固く立って、冷静にことを受け止め、待つ、或いは、事を成すことができた、そういうときもあるでしょう。
 今日は、敬老の日礼拝を守っていますが、ご高齢の方々は、長い人生の間に、そうした体験をいくつも経てこられたのではないかと思います。我ならが、あのときには、信仰者として、しっかりと立ち得た、残念ながら、あのときには、とてもキリスト者として振舞えず、今思い返しても、残念でならない、そういうこともあったかもしれません。
 このときのイスラエルの人々は、危機的状況の中で、神様やモーセにつぶやきました。エジプトから意気揚々として出ていったイスラエルの人々でしたが、エジプト軍が背後から追ってきたのです。それは、ファラオが心変わりしたからです。そのファラオの心を変えさせたのは、神様でした。神様は、モーセに、引き返して、海辺に宿営しなさい、と命じました。
 そうすれば、ファラオが、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うだろう。そのとき、神様はまたもや、ファラオの心をかたくなにするから、あなたたちを追いかけてくる。そのときこそ、神様が、ファラオとその全軍を破って、栄光を現わし、それによって、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる、というご計画を述べられました。
 神様は、イスラエルの民をエジプト王ファラオが、解放するまで、さまざまな災いをエジプトに与えました。そして、エジプト中の人から家畜まで、その初子が撃たれるという最後の災いにより、ファラオは、イスラエルの人々を解放せざるをえなくなりました。その結果、イスラエルの人々は、エジプト人たちから金銀の装飾品の類、衣類の類を分捕り品としてもらいうけ、意気揚々とエジプトの地を後にしたのでした。
 ところが、ファラオは、彼らが出ていったという報告を受けると、イスラエルの人々に対する考え方が一変して、「我々は、何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは」と後悔しました。神様がファラオの心を頑なにしたゆえのことでした。そして、ファラオ自らが軍勢を率いて、イスラエルの人々を追ってきたのでした。えり抜きの戦車600をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに仕官を乗り込ませて、追ってきました。
 ファラオには、都合のいいことにイスラエルの人々が道に迷ってしまったように見えました。しかも前方が海ですから、もう逃げられる道はありませんし、それにあちらは、成人した男性だけでなく、女性も子供たちもいます。おまけに、家畜まで引き連れていますから、すぐに追いつき、連れ戻すことは簡単にできると安易に考えたでしょう。実際、すぐに宿営している彼らに追いつきました。
 イスラエルの人々は、目を上げてみると、エジプト軍は、既に背後に襲いかかろうとしていました。イスラエルの人々は、恐怖におののき、神様に向かって叫び、そして、モーセに言いました。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、放っておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で、死ぬよりエジプト人に仕える方がましです、と言ったではありませんか」と。
 直接には、モーセに言ったわけですが、しかし、それは神様への痛烈なつぶやきでした。成人男性だけで60万人の人間がいて、それに女性と子供たちですから、何百万人という人間がいたはずです。それが、すべて同じ気持ち、同じ考えで動いていたはずはありませんでした。エジプトを出ることに気の進まない者たちもおりました。このときには、絶体絶命の危機にさらされることになりました。彼らは、パニックを起こし、冷静に考える余裕などありません。
 ところで、聖書からここらの成り行きをみてみますと、エジプトを脱出するとき、エジプトを離れたものの、それからどうするのかと考えて、当面は、安住の場所を探して荒野を旅していくしかない、そう思うと、このまま奴隷状態の方がまだましではないか、そう考えた者たちもいたということです。
 そして、そのことを主張したけれども、多数は脱出する道を選んだので、しぶしぶついてきていたことがわかります。けれど、こういう状態になってみれば、やはり、自分たちの考えが正しかった、そう思ったのでした。エジプトに止まることは、奴隷状態ですから、自由を束縛され、過酷な重労働を強いられます。
 しかし、食べる物に不自由するわけではないし、住むところもある。自由を得られるけれど、荒れ野で、野垂れ死にするかもしれないことを考えると、まだ、エジプトの奴隷状態がよい、そう考えた者たちも少なからずいたのでした。このあとも、イスラエルの民は、苦しい状況に立ち至ったとき、こうした、つぶやきを繰り返し、行うことになります。
 私たちは人生において、自由か、パンか、そうした選択を迫られることがあります。いつの時代もこれはついてまわる問題なのです。どちらも大事です。しかし、強いてどちらか一方を選択することを迫られるのなら、私たちはパンではなく、自由を選択すべきなのでしょう。そして、真実の自由は、神様によって与えられるものです。ガラテヤ人の信徒への手紙の5章1節「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。
 だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてなりません」、13節「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るため召し出されたのです」。とあります。この場合の自由を得るというのは、罪の奴隷から解放されるという意味合いですが、しかし、エジプトでの過酷な重労働をさせられて、その奴隷状態に止まるべきではない、自由をえられることの方がはるかにすばらしい、そのことを神様も願っておられるのです。
 なぜなら、死も命もすべては、神様の御手の中にあります。永遠の命をも、神様の御手の中にあります。パンを求めるあまり、その誘惑の中で罪に陥ってしまう、神様を見失ってしまう、結果として、永年の命を失ってしまう、パンは、この世の肉の体を養うことはできても、永遠の命を得させることはできません。イスラエルに与えられた自由は、神様のお力によって与えられたものでした。
 モーセは、騒ぎ立つイスラエルの人々に向かって「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」と、言いました。
 ところで、このようなまさに八方塞のとき、モーセが、言うようにすることが一番難しいのではないでしょうか。恐れるな、静かにしていなさいと言われても、恐ろしい速さで、エジプト軍は迫ってきて、まさに、自分たちを襲わんばかりになっています。ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵が、迫ってきているのです。
 恐れおののき、ああもうだめだ、降参しよう、エジプト軍が引き返せと命じるならば、そうしても構わない、それに従おう、以前のように奴隷になってもいい、命を取られるよりはましだ、そう腹を括った者たちもいたでしょう。ある者たちは、武器らしい武器も持っていないけれど、やれるだけやってみよう、おめおめと死を迎えるよりは一か八か戦ってみる、そう考えた者たちもいたでしょう。
 あるいは、すべてを諦め、これで終わりだ、死を覚悟した者たちもいたでしょう。またある者たちは、海へ泳ぎ出すしかない、浮く物につかまって、何とかなるかもしれない、と考えたかもしれません。モーセは、「落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」、と言いました。
 落ち着いてという訳は、しっかりと立って、じっと立ってという訳もなされています。あなたたちは今日、つまり今、迫り来るエジプト人を見ている、しかし、彼らの姿を以後見ることはもうない、あなたたちは、今日、今から、あなたたちのために行われる主の救いをしっかりと立って、じっと立って、見ていなさい、あなたたちは、つぶやくことをせず、だまって、主の御業をみていなさい、とモーセは、言いました。
 ところで、15節は、神様がモーセに言われた文言です。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか」、叫んでいるのは誰かというと、調べてみましたら、叫んでいるのはイスラエルの民ではなく、それはモーセでした。神様は、なぜ、わたしに向かってお前は叫ぶのか、とモーセに言っています。モーセは、民に静かにしていなさい、と言いながら、自分は、神様に一生懸命になって、救いを叫ぶほどに祈ったとでもいうのでしょうか。あるいは、そうだったのかもしれません。
 そして、それからすぐに、神様は「イスラエルの人々に命じて出発させなさい」と言われました。そのとき海の中に道ができたからではありません。道はこれからできるのです。しかし、神様は、まずイスラエルの民に動き出すように、前へ進むように、出発するように命令せよ、とモーセに言われました。このときの前への一歩が、信仰だったと言えるでしょう。モーセは、じっとして、だまって、神様の救いの御業を見てなさい、と民に言いました。
 神様は、確かに、海を分けて乾いた道を作り、そこを通られるようにされるのですが、それは、人々の信仰と対になっているのです。まだ、御業はなされていないけれど、道ができることを信じて、一歩踏み出せ、と神様は言われるのでした。イスラエルの民が動き出したときに、モーセは、杖を高く上げ、海に向かって手を伸ばして、海を二つに分けたのでした。
 イスラエルの民が、動き出したとき、前にあった雲の柱が後ろに回り、エジプト軍との間は、暗い闇に包まれました。それによって、エジプト軍は、イスラエルの人々に手出しをすることができませんでした。そのあと、モーセによって、海が二つに分かれ、乾いたところをイスラエルの人々は、渡っていくことができました。
 それから、そのあとを追って海だったところに入ってきたエジプト軍は、戦車の車輪が、はずれたり進みにくかったりで、「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておらえる」と悟りましたが、ときすでに遅しで、直後、海が元通りになって、おぼれて滅びてしまったのでした。
 「水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった」とあります。神様は、こうして、イスラエルをエジプト人の手から救われたのでした。14章の結びには、「イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た」と書かれています。まさしく、彼らは、落ち着いて(しっかりと立って)彼らのために行われた主の救いを見たのでした。そして、最後の文言は、「民は、主を畏れ、主とその僕モーセを信じた」とあります。
 私たちは、自分の信仰生活において、或いは、長い人生の中で、主の御業を見たと思った体験が、どれくらいあるでしょうか。私は、「見た」という体験は、非常に大切なものであると思います。
 イスラエルの民は、確かに主の御業を目の当たりにしました。そういう体験が、私たちにはあるでしょうか。信仰者には、たくさんあるはずです。それによって、ますます、私たちの信仰は確信に満ちたものになっています。それはときに、歴史的な大事件として映ることもあります。ときに、個人的な範囲の出来事、事件であるでしょう。
 また、イエス様は、見ないのに信じる者は幸いである、とも言っておられますから、見えないもののなかに、主の御業を見ることは、さらに大事なことだと言えます。実際に見える、見えないは別として、主の御業を見る、この場合は、救いの御業を見る、そのことの体験は、非常に重要なことだと思われます。
 少なくとも、信仰に与った者たちは、この救いの御業を見たと言えるでしょう。キリストの十字架が、私の救いのためであったと、実際は見ていないのに、それを見たのです。教団讃美歌II編の177番に、黒人霊歌で「あなたも見ていたのか」という讃美歌があります。1節と2節ですが、「あなたも見ていたのか。主が木にあげられるのを。ああ、いま思いだすと、深い深い罪に、わたしはふるえてくる。/あのとき見ていたのか。主が釘を打たれるのを。ああ、いま、思い出すと、深い深い罪に、手足がふるえてくる」。
 その御業は、私たちが元気なときよりは病のときに、強いときよりは弱っているときに、安全安心を確保できているときよりは、危機的不安な状況のときに、現れます。イスラエルの民は、過酷な重労働を強いられてあえいでいるときに救いの御手を神様は差し伸べられました。前は海、後ろからは強力な軍隊が迫り来て、絶体絶命のときに、救いの御手が差し伸べられました。主の御業は、実際に目に見える力となって、現れるときがあります。
 しかし、目には見えないけれども、静かに、それでいて確かな力となって私たちに見えるときがあります。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」、そして、モーセは言いました。「あなたたちは、今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない」。
 それは、エジプト軍に限らず、あなたたちを力で脅かす者からは、永久に解放される、主が、あなたたちのために戦われるのだから、必ずそうなる、だから、あなたたちは、静かにしていなさい、私たちは、主の救いの御業を落ち着いて、しっかりと立って、だまって、見ることが求められています。
 イザヤ書46章の3節、4節「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ。共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。
 神様は、私たちのことを創造したそのときから、おぼえ続け、老いる日まで、背負っていってくださると言われます。私たちは、そうしてくださるその主の救いの御業をみてきたし、今もみていますし、これからも見ることになります。焦ることなく、絶望することなく、静かにだまって、しっかりと立って、落ち着いて、主の救いの御業をこれからも見てゆきましょう。


平良師

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