平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2016年4月10日 わたしたちの本国は天にあります(召天者記念礼拝)

2016-07-16 22:04:18 | 2016年
フィリピ3章17~21節
わたしたちの本国は天にあります

 「わたしたちの本国は天にあります」という言葉を聞きますと、私は、ほっとします。とても、自由な気持ちになります。「本国」という言葉は、口語訳では、「国籍」となっていました。私の国籍は、日本です。日本人です。私が日本人で、日本に生きる限り、この国が私のいろいろなことを守ってくれるはずです。私にはこの国に果たすべき義務があり、この国は私の生きる上での数々の権利を保障してくれることでしょう。日本人である私は、私のイアデンティティーの多くをこの国から受けていると思います。おそらく、海外に出るとそれははっきりと認識されることでしょう。
 意識しないままに、この国の文化や歴史に影響されてきた私です。先々週、壮年会で行いました花見などといった慣習も、海外に行きましたときには懐かしいものの一つとしてきっと思い返されることでしょう。今日、アメリカから来られているお客様がおられます。私の妻の姉とそのご友人です。お二人とも、キリスト者であり、フリーメソジストの教会に行かれています。あちらに行かれて、半世紀ほどを過ごされています。
 ご友人の方は、今度、お花見のツアーの企画があちらであり、福岡の我が家にも立ち寄ってくださいました。ぞれぞれの国々がもっている文化や歴史の中には、誇りと思えるものもあれば、そうでないものもあるのでしょうが、多くはよきもの、懐かしいものとして、私たちの脳裏には焼き付けられております。聖書は、キリスト者たちへ、本国(国籍)は天にあります、と言っています。
 私たちは、この世に生きていますが、国籍は天ですので、この世ではどの国に住んでいようが、キリスト者にとっては本国は神様の御国ですから、そこにすべての照準を合わせることになります。そして、キリスト者たちにとってこの世は、仮の住まいということになります。私たちがこの世で生きていくのは、旅をするようなものであり、いずれは遣わされた故郷へ戻ることを意味しています。
 私たちが、この世に執着しない方がよいのは、そのような理由からです。また、この世の価値観を基準として、生きていこうとしても間違いを犯すことになります。そう考えますと、私たちは、聖書を定規として、神の国の価値観を基準に、この世とは適度な距離をとりながら生きていくことがよいのでしょう。
 そうはいいながらも、「わたしたちの本国は天にあります」という言葉を私たちはどれほどの真実をもって、生きているでしょうか。私たちが帰属しているのは、天国です。神の国です。イエス・キリストに帰属していると言い換えてもよいかと思います。イエス様の支配の中に生きているといってもいいでしょう。
 それでは、そのイエス様に属する者として、あるいは、そこに生きる者としての生活を送っているでしょうか。よその国に旅に出て、よその国にでかけていって、しばらく滞在する、そこに寄留する、しかし、それでも私たちの価値とするもの、アイデンティティーは、本国にあるのです。もちろん、その滞在している所に生涯生きることを定めたのなら、そちらの文化や歴史、もろもろのものを受け入れ、そこに価値とアイデンティティーを求めることになるでしょう。
 しかし、この世の国籍だけであるのならば、この世における命だけであるならば、死をもって、この肉体と共に滅び去ってしまいます。ところが、「わたしたちの本国は天にあります」と言われるとき、本国が価値として教えてくれる生き方をしていく道を選ぶことは、あるいは、イエス様が、価値として、模範として教えてくれる生き方を選ぶことは、当然であり、自然と起こってくるはずなのです。
 それから、フィリピの信徒への手紙の3章の20節の後半には、「そこ(本国)から主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」とあります。私たちは、この世においては、もう一つ待つ人生を送っています。イエス・キリストが来られるのを待つ人生です。しかし、真実に、これもまたイエス様が再び来られることを待ち望む生活を送っているのでしょうか。
 黙示録の終わり(聖書の最後ですが)22章の20節では、「然り、わたしはすぐに来る。アーメン、主イエスよ、来てください」と、イエス様がすぐに来ると答え、ヨハネが、アーメン主イエスよ、来てくださいと、応答する言葉で締めくくられています。イエス様は、2000年前にこの世に来られました。私たちのために十字架におつきになられて死に、三日目に蘇らされて、天に上げられたと聖書には記されています。
 そして、この世が終わりになるときに、それは、新しい世界の始まりであり、神の国の完成のときだと言われていますが、その終末のときに、イエス様は再びこの世に来られます。そして、そのイエス様が来られるときに、神様の審判があり、死んで眠りについた者も、生きている者も、その裁きによって、永遠の命に至る者と、滅びに致る者に分けられます。そして、キリスト者たちは、それらの多くの方々が永遠の命に至るのだと信じているのです。
 しかし、それぞれの行いに報いる形で、という文言もありますから、キリスト者と言えども、実際どうなりかはわかりません。できれば、ここの並べられた写真の方々すべてが、そして、この礼拝に集っておられるすべての方が、御国にいけることを願います。
 しかし、イエス様は、十字架におつきになられ復活なさったイエス様であり、天に挙げられたイエス様ですが、聖霊なるお方でもありますから、今なお、私たちと共におられるお方でもあることが、聖書からは理解できます。神の国もまた、あなたがたのただなかにある、とイエス様は、言われたことがございました。ですから、黙示録でも、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」という言い方をするのです。イエス様は、すでに来られたお方ですが、そして今もなお、私たちと共にいてくださるお方なのですが、やがて来られるお方でもあるのです。
 ですから、よく言われることは、キリスト者というのは、すでにと未だのはざまに生きるのがキリスト者の生だというのです。そういった意味でもまた、キリスト者たちは、神様の救いに与ったことに安心するだけでなく、神様に喜ばれる、御心にかなった歩みをなさねばならないのでしょう。
 そして、イエス様は来られて「私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」。私たちの肉体は、時がたちますと、自ずと、あちらこちらに故障がでてまいります。ねじがゆるんだり、さびついたりします。車も、買ったばかりのときには、人間の心臓にあたるエンジンも静かで、何事もスッーといった感じで動きます。
 ところが、年月がたちますと、前のようではありません。激しい音がではじめたり、煙を出したり、ついには、動かなくなってしまいます。そうならないように、定期的な検査をしたり、エンジンのオイルをまめに変えたりして、メンテナンスをなるべく入念にするようにしますが、それとても、ずっと動き続けることは不可能で、そのうち動かなくなってしまいます。人間の体は実に精巧にできていますが、ずっと今のままであり続けることはできません。
 パウロは、コリントの信徒への手紙二の16節からのところで、「だから、わたしたちは落胆しません。たとえ、わたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は、日々新たにされていきます」、と言っています。外なる人は、私たちの外観です。この肉体です。そして、内なる人とは、わたしたちの魂という言い方もできるでしょう。また、外なる人は、この世に生きる命であり、内なる人は、神の国に生きる命といっていいかもしれません。いずれにしても、内なる人は、私たちの目には見えないのです。
 しかし、そこに目を注げと聖書は教えるのです。御国を本国とする者たちは、そのように神の国に生きる者としての生き方が求められています。そして、そのような生き方をしたかどうかがはっきりさせられるときが、イエス様の再臨のときです。イエス様が、再びこの世に来られるときです。イエス・キリストが来られるのを待つという生き方は、この世の価値観やこの世の人々が喜び楽しみとするものから、解放させられて、イエス様が大事にしなさいと言われた、その生き方ができたかどうか、そのことが問われるのです。
 よく仏教で目標としているのは、悟りとか解脱といったものだと言われます。人間の煩悩からの解放です。煩悩というのは、心身にまといつき心を乱す、一切の欲望を言います。こうした悟りとか解脱とか言われる地点に到達するために、仏教では、いろいろな修行を行うのでしょう。
 私たちキリスト者たちは、自分たちの本国は天にあるという気持ちをもって、この世での生を送るということになります。真実にそう思って、生活をするときに、いわゆる煩悩からの解放ということにもつながって来ると思います。
 もう一つは、再びイエス・キリストが来られることを待つという生き方です。こうした生き方をするときにも、煩悩からの解放ということになるでしょう。
 この二つに共通することは、この世の価値観や生活にある程度の距離をとるということです。距離をとるというのは、執着しないということです。言い方を変えますと、他者と比べることをしないとか、お金に執着しない、学齢や出世や名誉に執着しない、子供の教育や進路に執着しない、とか、いろいろなことがあります。そして、代わりに聖書の教え、イエス様の教えを大事にするということです。
 この世の事柄に執着している例としては、聖書のなかでは、ある主人(神様)の宴の招待を受けたとき、結婚をしたばかりなので出席できません、買った牛を見にいかないといけないからできません、父親の葬儀があるので、などの理由で、招かれたときに従い得ない人々の話が載っていますが、あれなども見方を変えれば、そうであると言えなくもありません。人間にとっての冠婚葬祭、大事な仕事のことなどは、この世に生きる私たちにとっては、優先すべきものではないでしょうか。それらのことでも、イエス様が招かれたときに応じないならば、だめだと言われているのです。
 次の例は、私の場合です。これまで話をしてきたのですが、この私は、実は、結構、この世の中にずっぽりはまり込んで生活している、そんな人間の一人かもしれません。ですから、ほんとうは偉そうなことは皆さんに何も言えないのです。ただ、一つ、そうではなかったかもしれないと思うことは、子供たちとの関係です。この親たちは、自分たちよりも、神様のこと、教会のことを第一に考える、自分たちよりも、他人様のことを大事にする、そんな親たちではないか、そう思ってくれたらそれはよかったと思います。
 わたしたちも子供が5人おりましたから、教会員で子育て中に皆さまが経験なさったようなことは一応は経験しております。子供がクラブや部活に入りましたから、彼らの送り迎えや、車だしもしたことはあります。ただし、日曜日には、それらのことはできないと言ってしませんでした。さぞ、子供たちも肩身の狭い思いをしたと思います。日曜日の運動会もほとんど行ったことがありません。寂しかったと思います。
 あるとき、小学校のPTA会長をお願いしたいと副会長と言われる方々が10人来ました。その小学校は地元で最大規模の小学校でたから、副会長も10人もおりました。実に、断りがたい雰囲気でした。私は、日曜日の行事などはできませんから、お断りしました。こんな具合でしたから、おそらく、地元の評判もよくなったかもしれません。先日ありました一番下の娘の大学の卒業式も出たいとは思いましが、結婚式の司式を頼まれたので、そちらに夫婦そろって行きました。こどもたちは、冷たい親だと思っているかもしれません。
 しかし、うちの親は、何が何でも神様が第一で、また、ことによっては、他人の方を自分たちよりも優先する、そんな親たちなのだと思ってくれればそれでよいかと思ってきました。こどもたちのことは放って、病の方のお世話も妻はよくやりました。
 これは、ちょっとひどい話ですが、これもまだ、山梨にいたときのことです。長男の大学受験の日、妻が、夕方になってから、ところで今日はRを見かけないけれど、どこかに行ったのかな、と言いますから、今日は、受験で福岡に行ったよ、と言うと、あ~今日だったっけ、といった呑気なことです。妻は、その日も教会のことで忙しくて、長男のことを忘れていたようです。
 しかし、子供たちは、だからといって、ひねくれた性格になったとか、いわゆる道をはずれたとか、優しさに欠ける人間になったとか、そういうことはありませんでした。親ばかかもしれませんが、普通に育ったのではないかと思います。それは、イエス様の言われるとおりなのです。神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、すべてのものは添えて与えられる、そのことを恵みとして私たちはいただきました。
 それは、私が牧師だったからできたことだと、思われると思います。確かにそうだったのだと思います。現在、地元で生活している皆さんは、そうはいかないといった事情もおありだと思います。しかし、そうかもしれませんが、少なくとも、私は聖書に書かれていることが、イエス様が言われたことが真実であることを畏れをもって知っております。ですから、この世のことに少し距離をおいても大丈夫だということを言いたいのです。神様が何とかしてくださるのです。
 とにかく、わたしたちの本国は天にある、再び、イエス様が救い主として、この世に来られるのを待っている、そうした生き方というのは、この世のことに執着せず、諸々のことがらと距離をおくということです。そうであると共に、イエス様の教えや勧めに忠実に従って生きていくということです。そして、神様の御国の到来を待ち望むのです。
 既に、天に召された先達たちは、今、神様の御許で眠っておられることと思います。思い返せば、特に、キリスト者の先達たちは、いたって呑気な方が多かったのではないでしょうか。いい意味で、この世と適度の距離をおいておられた、そういった言い方はできないでしょうか。
 これらの方々も、そうでない方々も、イエス様が再びこの世に来られるとき、復活させられて、審判にあずかり、永遠の御国へ行く者と、滅びに至る者に分けられるのです。すべてのキリストが神の国へ行けるかは、そうなると信じておりますが、わかりません。また、キリスト者でなかった方々も、神の国へ行けないのか、それもまた、わかりません。なぜなら、聖書には、死者のために今生きている者たちが、御国に行けるようにと祈るということが書かれています。
 今日、ここに並べておられるお写真の方々の中には、キリスト者もおれば、そうでない方々もおられます。ご遺族の願いは、これらのお一人御一人が今、神様の御元で安らいでいることです。そして、イエス様が再び来られるときに、イエス様ご自身の栄光あるお体と同じ形に変えてくださることです。御国に行けることです。それは既に召された者の、今、ここにいる私たち一人一人の願いでもあります。私たちは、この家族が私の家族の一員だったことを真実に神様に感謝します。


平良 師

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