ヨハネの黙示録5章1~14節
私たちは、いったい誰を礼拝しているのでしょうか。どなたが礼拝に値するお方なのでしょうか。初代教会の時代、キリスト者たちは、ローマ帝国の迫害のなかで、悶え苦しんでおりました。捕縛される者、投獄され拷問される者、処刑される者、それも十字架刑や競技場で見せ物として、ライオンなどと戦わされた者など、それは悲惨な状況があちこちに溢れておりました。人々は、ローマ皇帝を神として礼拝することを強要され、それに従わなければ捕えられたり、拷問に遭わせられるのでした。最後まで、信仰者としての歩みを全うできた者もいましたが、イエス様を知らないと棄教していった者もなくはありませんでした。黙示録を書いたヨハネは、主だった教会宛てにこれらの文書をもって、何とかその時代を耐え凌ぐように激励しました。
この世に生きる一般の多くの方々は、屠られたような小羊を礼拝する者はいないでしょう。霊験あらたかに見えるもの、力のありそうな、ご利益をもたらすにふさわしく見える者を拝むのではないでしょうか。この世に生きる私たちは、力のありそうな者にすり寄っていきます。それが、自分の身を守る知恵であり、自分も力を得るための方策です。そうすることは、いろいろな意味で、この世においては、利益を得られることでもあります。
玉座におられる方(神様)の右の手には、巻物がありました。普通は表だけですけど、裏側にも字が書いてあり、とありますから、多くのことを神様は私たちに伝えたいことがわかります。ところが、それにもかかわらず、7つの封印で封じられていました。7は聖書では完全数ですので、この巻物は完璧なまでに封じられていたということで、人間の力や知恵を用いて努力しても、誰にも容易にはそれを開けることができないのでした。
一人の力強い天使が言います。「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」。しかし、天上にも地上にも地下にいる者たちのなかにも、誰一人としてそれができる者はおりませんでした。それで、ヨハネは絶望の極みで泣いておりました。せっかく、表にも裏にも、神様のお考えが、それは、これから神様の成そうとしている事柄でもあるのでしょうからなおさらですが、そのことを知りたいのに、その封印を開くことのできる者が一人もいないのです。
その当時、多くのキリスト者たちが、ローマの迫害にさらされ、命を奪われている人々も出ているというのに、これからの自分たちがどうなるのか、神様が自分たちに用意されている道を知りたいとヨハネは思うけれども、それができないのです。そのとき長老の一人が、「泣くな、見よ。ユダ族から出たライオン(獅子)、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」と言いました。
ひこばえというのは、木を切り倒したあとに切り株が残りますが、その切り株から若枝が出てまた、その若枝が大きく育っていきますが、その若枝をひこばえと言います。そして、このひこばえとは、イエス様のことでした。一旦、バッサリと切り倒されたかに見えた、イスラエルの歴史でありましたが、そこから、ひこばえ、若枝が生え出てまいりました。
そのとき、玉座と四つの生き物と、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのが見えました。間にとありますが、真ん中にという意味です。この方こそ、そのひこばえなる人物でした。その方は、7つの角と7つの目をもっていました。角は力、目は知恵を象徴しております。ですからこのお方は完全なる力、完全なる知恵、つまり、全知全能のお方であるということでした。しかし、同時にその方は屠られたような小羊だったのです。そして、この7つの目は、また、全地に遣わされている神の7つの霊である、ということでした。神様の霊、聖霊は全世界に及ぶことをまた告げております。
この屠られたような小羊でありますが、なぜ、そのように見えるかでありますが、おそらく、屠られたときの傷跡か何かがこの小羊のようなお方にはついていたのでしょう。そして、このお姿は、十字架におかかりになっていたそのイエス様のお姿を思い起こさせるものだったのでしょう。そのお方が、玉座に座っておられる方(神様)から巻物を受け取ったとき、四つの生き物と24人の長老は、竪琴と香のいっぱい入った金の鉢をもって、小羊の前にひれ伏しました。この小羊なるお方を礼拝したのです。
詩編141編の一節と二節に次のような言葉があります。「主よ、わたしはあなたを呼びます。速やかに私に向かい、あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください。わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を、夕べの供え物としてお受けください」。この香は聖なる者たちの祈りであるとあります。私たちの祈りは、神様の前に芳しい香のようなものだということでしょう。それまでは、燃え尽くす犠牲の動物を捧げものとして捧げておりましたが、真に喜ばれるのは、私たちの祈りです。これらの祈りを神様はお受け取りくださいます。
そして、彼らは新しい歌を歌ったとあります。これもまた、詩編の96編の1節から3節に書かれています。「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。国々に主の栄光を語り伝えよ、諸国民の民にその驚くべき御業を」。そして、この詩編のなかの、諸国民に知らすべき御救いの良い知らせとか、主の栄光とか、驚くべき御業とかは、この黙示録の四つの生き物と24人の長老たちが、歌った歌の内容と合致するのです。
「あなたは、巻物を受け取り、その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、ご自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神の仕える王、また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します」。新しい歌というのは、単に、今まで聞いたことのない歌ということではなくて、これは、イエス様がどういうお方であるかが分かり、封印が開かれて、これからの時代に解決を与えてくださる方が来られたということを讃美する歌でしょう。
しかしながら、ここに立っておられる方は、復活され、天に挙げられた栄光に包まれた、神々しいイエス様のお姿ではありません。屠られたような小羊なのです。このお方こそ、神様の右の手の巻物を開くのに、ふさわしいお方なのであります。それは、「屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、ご自分の血で、神のために人々を贖われた」方だからです。
そして、この天上の玉座と生き物と長老たちの周りにいた万の数万倍という、つまり、億単位の数の夥しい天使たちが言いました。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして讃美を受けるにふさわしい方です」。一般にイメージされるのは、屠れた小羊にふさわしいのは、弱さであり、貧しさであり、無力であり、恥辱、悲惨であるのではないでしょうか。ほふられた小羊は、毛を切られて丸裸になってされている姿です。それは悲惨な姿です。イザヤ書の53章に描かれているような、苦難にあっている僕であり、屠り場にひかれる小羊です。
「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。・・苦役を課せられて、かが見込み、彼は口を開かなかった。屠り場にひかれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」とある、あの、苦難の僕、屠り場につれていかれる小羊です。
その人物を指して、その逆の、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして讃美を受けるにふさわしいと天使たちは言っているのです。しかし、それだけはありません。天上の者たち、地上の者たち、地の下にいる者たち、海にいる被造物たちさえもが、こぞって、この屠られた小羊、イエス様のことを讃美するのです。
「玉座に座っておられる方と小羊とに、讃美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように」。四つの生き物たちは、これを聞いて「アーメン」と言いました。四つの生き物のうちの、ライオンのようなものとは、威厳に満ちたものということです。第二の若い雄牛のようとは、力強いものを意味しており、第三の人間のような顔をもちとは、知恵に富んでいるということで、第四の空飛ぶ鷲とは、自由の象徴でしょうか。それらの生き物が、アーメンというのは、まさに、屠られた小羊こそが、権威、力、知恵、真の自由を所有するにふさわしいというのです。
これらの生き物は、この玉座を守る警護役といっていい存在で、それぞれに6つの翼があるというのですから、飛びまわりながら、警護にあたっているのでしょう。そして、この24人の長老というのは、地上と天上のすべての者たちが、という意味にも解釈できますが、彼らは、冠を捧げてひれ伏して礼拝をしているのです。天上における荘厳な神様と小羊を礼拝する場が描かれています。
私たちが、今捧げている主日礼拝も、天上の礼拝を今、この世において映し出しているのだと、いったとらえ方をする必要があるように思います。
礼拝の中心は、この屠られた小羊に感謝し、この小羊を讃美することにあります。
さて、先週の木曜日の夜、土曜日の夜中に、熊本で強い地震がありました。大きな被害がでました。その災害は小さいものであるようにと、当初祈りましたが、結局、この二度目の大きな地震が本震だったということで、その前の大きな地震とその後の余震、昨日の夜中にあった本震とそのあとの余震による被害は結構大きいものであることがわかってきました。
死者も40人を超えました。負傷者も2000人くらいに上るのではないかといっておりました。倒壊した建物や橋、ダムなどもございます。私もあの阿蘇大橋を渡って、南阿蘇の高森まで渓流釣りで行っておりましたので、あの光景を見たときにはショックでした。また、道路などもひびが入ったりと、これまで熊本県で起こった地震による被害のなかでは最大規模になるのではないかと考えている方もいるようです。現在、熊本で働いておられる教会員の方々もおられますし、バプテストの教会もございます。
怪我をなさった方はおられなかったのは幸いでしたが、食器などが激しく割れたとか、家具が散乱したという情報は入ってきております。私たちは被害に遭われた方々のことを身近におぼえてまいりたいと思います。召された方々やそのご遺族の方々に、慰めをお祈りしたいと思います。熊本にあるいくつかの教会から支援の要請がきておりますので、まずは、そのようなことに応えていきたいと思います。太平洋側での南海トラフと言われる大地震が近いうちにあるのではないかと言われてきました。
その備えは、太平洋側に面している各県ではなされているようですが、まさか、熊本でこのような大きな地震が起こるとは、誰が想像していたでしょうか。それもこの地震は九州の広範囲にわたっておりますし、それが中国、四国にまで及ぶのではないかといった心配をする方もおられます。まさかと言えば、12年ほど前の福岡の地震もそうでした。地震大国の日本では、ここの地盤は安全などと、安心できるところはどこにもない、そんな感じが致します。
初代教会の当時、ローマは、絶対の権力をもっておりました。当時の世界の秩序や平和は、ローマ帝国によってもたらされていると、自分たちが守ると、権力者たちは豪語しておりました。しかし、キリスト者たちは、迫害を受けておりました。ローマは、キリスト者たちが増え続けることは帝国の秩序を維持していく上で、危険であると考えたからでした。それは、戦国時代の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの為政者たちも同じでした。
キリスト者たちにとって、ローマ帝国が絶対の力をもっている時代は、少しも、平和な安心できる時代ではありませんでした。それでありながら、キリスト者たちの数は、弾圧を受ければ受けるほど、迫害されればされるほど、増えていったのでした。それは、彼らが、ローマ皇帝と同じように、軍隊などの強力な後ろ盾による力ある救い主をイエス様のなかに見たからではなく、逆に、救い主を、屠られた小羊に見たからでした。
そして、このお方が、自らの血で、神様のために自分たちを贖い、この方の示されることが時代を切り開き、幾多の困難にも勝利していくことになるだろうと希望をもったのでした。そして、このお方に感謝をささげ、この方を讃美していったのでした。そのことで、戦わずして、キリスト者たちは勝利していきました。遂に、ローマは、キリスト教を国教とせざるをえなくなっていきました。
この世の知恵と努力は、神様の前には、何ほどのこともありません。私たちは、繁栄と生活の安定を求めて生活していきます。南海トラフなど、大きな地震がくると予測されると、それに対して幾重にも備えをしてまいります。しかし、予想だにしないところに、また、次なるものが襲ってまいります。
人間の知恵は、神様の計り知れない御業のなかで、もろくも打ち砕かれていくように思えてきて、複雑な心境になります。否、このような自然現象を神様の御業と考えることは問題がある、という捉え方もありますから、ここらは慎重にならねばなりませんが、今回の熊本での大きな地震のように、噴火には厳重な備えをしてきたと思いますけれども、まさか、ここでこんな大きな地震が起こるなど、考えもしなかったのではないでしょうか。ですから、およそ人間のなす備えは、すべてのことをカバーしきることはできないのだと、心しておかねばなりません。
私たちキリスト者のすべてに対する備えは、ただキリストにのみに頼る、キリストにのみに憐れみを乞い願う、そのようなことであります。ローマの迫害に対して、それを上回る戦力を保持して戦おうとはキリスト者たちは考えませんでした。むしろ、屠られたような小羊を礼拝する道を選びました。このお姿に、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、讃美にふさわしいものを見出したのでした。日本人が、礼拝する対象は、偶像の神様である場合が多いのですが、それは何も神社仏閣における神々だけでなく、人間の造り出す力や富、また、科学の力を神様のように礼拝する人々も多いことでしょう。しかし、私たちが礼拝すべきお方は、ただ一人、この屠れたような小羊です。
このお方が、十字架につけられました。二人の罪ある人間の真ん中に立たれておりました。人間の罪のど真ん中にこのお方は、立たれたのです。そして、このキリストは、今や、すべての栄光の真ん中に立たれておられます。天上においても、地上においても、すべてのものがこの屠られたような小羊にひれ伏すのです。私たちが今日このときひれ伏して、感謝と讃美を捧げているのも、このお方です。
平良 師
屠られた小羊を礼拝する
私たちは、いったい誰を礼拝しているのでしょうか。どなたが礼拝に値するお方なのでしょうか。初代教会の時代、キリスト者たちは、ローマ帝国の迫害のなかで、悶え苦しんでおりました。捕縛される者、投獄され拷問される者、処刑される者、それも十字架刑や競技場で見せ物として、ライオンなどと戦わされた者など、それは悲惨な状況があちこちに溢れておりました。人々は、ローマ皇帝を神として礼拝することを強要され、それに従わなければ捕えられたり、拷問に遭わせられるのでした。最後まで、信仰者としての歩みを全うできた者もいましたが、イエス様を知らないと棄教していった者もなくはありませんでした。黙示録を書いたヨハネは、主だった教会宛てにこれらの文書をもって、何とかその時代を耐え凌ぐように激励しました。
この世に生きる一般の多くの方々は、屠られたような小羊を礼拝する者はいないでしょう。霊験あらたかに見えるもの、力のありそうな、ご利益をもたらすにふさわしく見える者を拝むのではないでしょうか。この世に生きる私たちは、力のありそうな者にすり寄っていきます。それが、自分の身を守る知恵であり、自分も力を得るための方策です。そうすることは、いろいろな意味で、この世においては、利益を得られることでもあります。
玉座におられる方(神様)の右の手には、巻物がありました。普通は表だけですけど、裏側にも字が書いてあり、とありますから、多くのことを神様は私たちに伝えたいことがわかります。ところが、それにもかかわらず、7つの封印で封じられていました。7は聖書では完全数ですので、この巻物は完璧なまでに封じられていたということで、人間の力や知恵を用いて努力しても、誰にも容易にはそれを開けることができないのでした。
一人の力強い天使が言います。「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」。しかし、天上にも地上にも地下にいる者たちのなかにも、誰一人としてそれができる者はおりませんでした。それで、ヨハネは絶望の極みで泣いておりました。せっかく、表にも裏にも、神様のお考えが、それは、これから神様の成そうとしている事柄でもあるのでしょうからなおさらですが、そのことを知りたいのに、その封印を開くことのできる者が一人もいないのです。
その当時、多くのキリスト者たちが、ローマの迫害にさらされ、命を奪われている人々も出ているというのに、これからの自分たちがどうなるのか、神様が自分たちに用意されている道を知りたいとヨハネは思うけれども、それができないのです。そのとき長老の一人が、「泣くな、見よ。ユダ族から出たライオン(獅子)、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」と言いました。
ひこばえというのは、木を切り倒したあとに切り株が残りますが、その切り株から若枝が出てまた、その若枝が大きく育っていきますが、その若枝をひこばえと言います。そして、このひこばえとは、イエス様のことでした。一旦、バッサリと切り倒されたかに見えた、イスラエルの歴史でありましたが、そこから、ひこばえ、若枝が生え出てまいりました。
そのとき、玉座と四つの生き物と、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのが見えました。間にとありますが、真ん中にという意味です。この方こそ、そのひこばえなる人物でした。その方は、7つの角と7つの目をもっていました。角は力、目は知恵を象徴しております。ですからこのお方は完全なる力、完全なる知恵、つまり、全知全能のお方であるということでした。しかし、同時にその方は屠られたような小羊だったのです。そして、この7つの目は、また、全地に遣わされている神の7つの霊である、ということでした。神様の霊、聖霊は全世界に及ぶことをまた告げております。
この屠られたような小羊でありますが、なぜ、そのように見えるかでありますが、おそらく、屠られたときの傷跡か何かがこの小羊のようなお方にはついていたのでしょう。そして、このお姿は、十字架におかかりになっていたそのイエス様のお姿を思い起こさせるものだったのでしょう。そのお方が、玉座に座っておられる方(神様)から巻物を受け取ったとき、四つの生き物と24人の長老は、竪琴と香のいっぱい入った金の鉢をもって、小羊の前にひれ伏しました。この小羊なるお方を礼拝したのです。
詩編141編の一節と二節に次のような言葉があります。「主よ、わたしはあなたを呼びます。速やかに私に向かい、あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください。わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を、夕べの供え物としてお受けください」。この香は聖なる者たちの祈りであるとあります。私たちの祈りは、神様の前に芳しい香のようなものだということでしょう。それまでは、燃え尽くす犠牲の動物を捧げものとして捧げておりましたが、真に喜ばれるのは、私たちの祈りです。これらの祈りを神様はお受け取りくださいます。
そして、彼らは新しい歌を歌ったとあります。これもまた、詩編の96編の1節から3節に書かれています。「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。国々に主の栄光を語り伝えよ、諸国民の民にその驚くべき御業を」。そして、この詩編のなかの、諸国民に知らすべき御救いの良い知らせとか、主の栄光とか、驚くべき御業とかは、この黙示録の四つの生き物と24人の長老たちが、歌った歌の内容と合致するのです。
「あなたは、巻物を受け取り、その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、ご自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神の仕える王、また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します」。新しい歌というのは、単に、今まで聞いたことのない歌ということではなくて、これは、イエス様がどういうお方であるかが分かり、封印が開かれて、これからの時代に解決を与えてくださる方が来られたということを讃美する歌でしょう。
しかしながら、ここに立っておられる方は、復活され、天に挙げられた栄光に包まれた、神々しいイエス様のお姿ではありません。屠られたような小羊なのです。このお方こそ、神様の右の手の巻物を開くのに、ふさわしいお方なのであります。それは、「屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、ご自分の血で、神のために人々を贖われた」方だからです。
そして、この天上の玉座と生き物と長老たちの周りにいた万の数万倍という、つまり、億単位の数の夥しい天使たちが言いました。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして讃美を受けるにふさわしい方です」。一般にイメージされるのは、屠れた小羊にふさわしいのは、弱さであり、貧しさであり、無力であり、恥辱、悲惨であるのではないでしょうか。ほふられた小羊は、毛を切られて丸裸になってされている姿です。それは悲惨な姿です。イザヤ書の53章に描かれているような、苦難にあっている僕であり、屠り場にひかれる小羊です。
「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。・・苦役を課せられて、かが見込み、彼は口を開かなかった。屠り場にひかれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」とある、あの、苦難の僕、屠り場につれていかれる小羊です。
その人物を指して、その逆の、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして讃美を受けるにふさわしいと天使たちは言っているのです。しかし、それだけはありません。天上の者たち、地上の者たち、地の下にいる者たち、海にいる被造物たちさえもが、こぞって、この屠られた小羊、イエス様のことを讃美するのです。
「玉座に座っておられる方と小羊とに、讃美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように」。四つの生き物たちは、これを聞いて「アーメン」と言いました。四つの生き物のうちの、ライオンのようなものとは、威厳に満ちたものということです。第二の若い雄牛のようとは、力強いものを意味しており、第三の人間のような顔をもちとは、知恵に富んでいるということで、第四の空飛ぶ鷲とは、自由の象徴でしょうか。それらの生き物が、アーメンというのは、まさに、屠られた小羊こそが、権威、力、知恵、真の自由を所有するにふさわしいというのです。
これらの生き物は、この玉座を守る警護役といっていい存在で、それぞれに6つの翼があるというのですから、飛びまわりながら、警護にあたっているのでしょう。そして、この24人の長老というのは、地上と天上のすべての者たちが、という意味にも解釈できますが、彼らは、冠を捧げてひれ伏して礼拝をしているのです。天上における荘厳な神様と小羊を礼拝する場が描かれています。
私たちが、今捧げている主日礼拝も、天上の礼拝を今、この世において映し出しているのだと、いったとらえ方をする必要があるように思います。
礼拝の中心は、この屠られた小羊に感謝し、この小羊を讃美することにあります。
さて、先週の木曜日の夜、土曜日の夜中に、熊本で強い地震がありました。大きな被害がでました。その災害は小さいものであるようにと、当初祈りましたが、結局、この二度目の大きな地震が本震だったということで、その前の大きな地震とその後の余震、昨日の夜中にあった本震とそのあとの余震による被害は結構大きいものであることがわかってきました。
死者も40人を超えました。負傷者も2000人くらいに上るのではないかといっておりました。倒壊した建物や橋、ダムなどもございます。私もあの阿蘇大橋を渡って、南阿蘇の高森まで渓流釣りで行っておりましたので、あの光景を見たときにはショックでした。また、道路などもひびが入ったりと、これまで熊本県で起こった地震による被害のなかでは最大規模になるのではないかと考えている方もいるようです。現在、熊本で働いておられる教会員の方々もおられますし、バプテストの教会もございます。
怪我をなさった方はおられなかったのは幸いでしたが、食器などが激しく割れたとか、家具が散乱したという情報は入ってきております。私たちは被害に遭われた方々のことを身近におぼえてまいりたいと思います。召された方々やそのご遺族の方々に、慰めをお祈りしたいと思います。熊本にあるいくつかの教会から支援の要請がきておりますので、まずは、そのようなことに応えていきたいと思います。太平洋側での南海トラフと言われる大地震が近いうちにあるのではないかと言われてきました。
その備えは、太平洋側に面している各県ではなされているようですが、まさか、熊本でこのような大きな地震が起こるとは、誰が想像していたでしょうか。それもこの地震は九州の広範囲にわたっておりますし、それが中国、四国にまで及ぶのではないかといった心配をする方もおられます。まさかと言えば、12年ほど前の福岡の地震もそうでした。地震大国の日本では、ここの地盤は安全などと、安心できるところはどこにもない、そんな感じが致します。
初代教会の当時、ローマは、絶対の権力をもっておりました。当時の世界の秩序や平和は、ローマ帝国によってもたらされていると、自分たちが守ると、権力者たちは豪語しておりました。しかし、キリスト者たちは、迫害を受けておりました。ローマは、キリスト者たちが増え続けることは帝国の秩序を維持していく上で、危険であると考えたからでした。それは、戦国時代の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの為政者たちも同じでした。
キリスト者たちにとって、ローマ帝国が絶対の力をもっている時代は、少しも、平和な安心できる時代ではありませんでした。それでありながら、キリスト者たちの数は、弾圧を受ければ受けるほど、迫害されればされるほど、増えていったのでした。それは、彼らが、ローマ皇帝と同じように、軍隊などの強力な後ろ盾による力ある救い主をイエス様のなかに見たからではなく、逆に、救い主を、屠られた小羊に見たからでした。
そして、このお方が、自らの血で、神様のために自分たちを贖い、この方の示されることが時代を切り開き、幾多の困難にも勝利していくことになるだろうと希望をもったのでした。そして、このお方に感謝をささげ、この方を讃美していったのでした。そのことで、戦わずして、キリスト者たちは勝利していきました。遂に、ローマは、キリスト教を国教とせざるをえなくなっていきました。
この世の知恵と努力は、神様の前には、何ほどのこともありません。私たちは、繁栄と生活の安定を求めて生活していきます。南海トラフなど、大きな地震がくると予測されると、それに対して幾重にも備えをしてまいります。しかし、予想だにしないところに、また、次なるものが襲ってまいります。
人間の知恵は、神様の計り知れない御業のなかで、もろくも打ち砕かれていくように思えてきて、複雑な心境になります。否、このような自然現象を神様の御業と考えることは問題がある、という捉え方もありますから、ここらは慎重にならねばなりませんが、今回の熊本での大きな地震のように、噴火には厳重な備えをしてきたと思いますけれども、まさか、ここでこんな大きな地震が起こるなど、考えもしなかったのではないでしょうか。ですから、およそ人間のなす備えは、すべてのことをカバーしきることはできないのだと、心しておかねばなりません。
私たちキリスト者のすべてに対する備えは、ただキリストにのみに頼る、キリストにのみに憐れみを乞い願う、そのようなことであります。ローマの迫害に対して、それを上回る戦力を保持して戦おうとはキリスト者たちは考えませんでした。むしろ、屠られたような小羊を礼拝する道を選びました。このお姿に、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、讃美にふさわしいものを見出したのでした。日本人が、礼拝する対象は、偶像の神様である場合が多いのですが、それは何も神社仏閣における神々だけでなく、人間の造り出す力や富、また、科学の力を神様のように礼拝する人々も多いことでしょう。しかし、私たちが礼拝すべきお方は、ただ一人、この屠れたような小羊です。
このお方が、十字架につけられました。二人の罪ある人間の真ん中に立たれておりました。人間の罪のど真ん中にこのお方は、立たれたのです。そして、このキリストは、今や、すべての栄光の真ん中に立たれておられます。天上においても、地上においても、すべてのものがこの屠られたような小羊にひれ伏すのです。私たちが今日このときひれ伏して、感謝と讃美を捧げているのも、このお方です。
平良 師