エゼキエル書33章1〜11節
これまで預言者エゼキエルは、都エルサレムから捕囚となってバビロンに来ている南ユダの人々に、悔い改めを迫る神様の言葉を伝えてきました。捕囚となった人々は、どうして、自分たちの国が、このようなつらい目に遭わねばならないのだろうか、自分たちのヤーウェの神様は、どうなってしまったのだろうか。私たちは見捨てられてしまったのだろうか。あちこちにあるバビロンの偶像の神々がほんとうの神様なのだろうか。
そして、自分たちが、神様を裏切るような行為をしたから、してはならないと言われていた罪を数多く犯したから、その罰としてこのような目に遭っているのだろうか、などなど、いろいろな疑念や不安、そして、絶望感が人々の間に蔓延しておりました。しかし、このときはまだ、エルサレムは残り、神殿も破壊されてはいませんでした。一抹の望は、あったのでした。
しかし、このあと、エホヤキン王が連れ去られたのちに、バビロンによって傀儡政権として立てられていたゼデキヤ王は、バビロンに対して謀反をおこし、それによって、徹底して、都エルサレムも神殿も破壊されてしまうのでした。33章の21節には、このように記述があります。「我々の捕囚の第12年10月5日に、エルサレムから逃れた者がわたしのもとに来て言った。都は陥落した、と」。
まだ、エルサレムも神殿も残っていると一抹の希望を持っていたバビロンの捕囚の人々も、この知らせにがっくりと来たことでしょう。ここから、エゼキエルの姿勢は、一転致します。それまでは、第一次バビロン捕囚となって連れてこられた人々に、悔い改めを迫り、裁きを語っていたのですが、34章からは、絶望している彼らに、むしろ、希望や慰めを語っていくことをするのです。33章は、その転換期にあたる部分となっています。
ところで、24章の15節からのところは、エゼキエルの妻の死が語られている場面です。神様の言葉がエゼキエルに臨みます。「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな。頭にターバンを巻き、足に靴を履きなさい。口髭を覆うな。嘆きのパンを食べてはならない」。
そして、その夕方、エゼキエルの妻は死んでしまいます。そこでは、エゼキエルは神様から言われたとおりにことを行います。それで、人々が、どうして、妻が死んだのにあなたはそのように嘆くこともせず、泣くことも、涙を流すこともせず、声をあげてなくこともしないのか、喪に服することをしないのかと尋ねるのです。そうしましたら、エゼキエルは、神様から言われたことをしているだけだ、と言いました。
そして、いずれ、ユダの人々が、誇りとし、目の喜び、心の慕うものであったエルサレムやそこにある神殿の聖所が汚され、お前たちの残してきた息子、娘たちは剣で滅びるであろう、と神様は言われている、私が、今こうして頭にターバンを巻き、口髭を覆うことをせず、足に靴を履いているが、そのようにお前たちもすることになる。そのとき、お前たちも、嘆いたり、泣いてはならない、お前たちは自分の罪のゆえに衰え、互いに嘆くようになる。
神様は、エゼキエルの妻が死んだときに、彼が神様から言われたとおりにしたことの意味が、実は、これから起こるであろう、自分たちイスラエルに関わることのしるしであることを知らされたのでした。そして、そのとおりになっていきます。
妻が死んで、一番つらかったのは、当然のことですが、エゼキエル本人でした。絶望の果てに、大声を張り上げて泣きたかったことでしょう。しかし、それはじっと胸に秘めて、耐えることを教えられるのです。それは、このあと、あのなつかしの都エルサレムは、バビロンによって、徹底的に破壊され、神殿も跡形もなく破壊しつくされます。そして、自分たちが残してきた子供たちや親族が殺害されるというつらい目に遭うことになります。そのときのために、今こうして心ぞなえのようなことを、神様はエゼキエルをとおして、イスラエルの捕囚の民にしておられるのです。
さて、今日の33章の前半の箇所は、神様の委託を受けた見張り、或いは預言者の役割、そして、それを聞く者たちの責任を述べています。見張りの者とは、ここでは預言者エゼキエルを真っ先にイメージ致します。彼は、妻の死後しばらく沈黙の時がありました。それは、神様のイスラエルへの沈黙の時でもありました。それは、滅びゆくエルサレム、崩される神殿、家族たちの死など、これからくることがらに対する沈黙でした。
しかし、南ユダの都エルサレムが、バビロンによって完全に滅ぼされたとき、エゼキエルに再び神様の言葉が臨みました。それは、ある意味では、これまでの預言者エゼキエルと捕囚の民たちの間にくり広げられた事柄でもありました。見張り、預言者の役割は、剣が、国に向かって臨むのを見たなら、つまり、敵の攻撃ですが、それを見たなら角笛を吹き鳴らして民に警告をすることです。そして、その警告をきいた民は、その剣を避けることができ、命を救うことができます。しかし、その警告を聞かないで殺されるなら、その血の責任は聞かなかった本人にあります。
また、見張りの者が、剣が臨むのを見たのに、それを知らさないで、民の一人でも殺された場合、たとえその者が罪のゆえに死んだとしても、血の責任は見張りの者にあるということです。そもそも滅びとしての死(肉体的だけではなく、魂をも含む)は、創世記のアダムとエバの物語にあるように、罪の結果、訪れるものと考えられておりました。
次の話しは、国ではなく、悪人と見張りの者、神様との関係です。また、「悪人よ、お前は必ず死なねばならない」と神様が言われるとき、見張りの者、預言者は、その悪人に警告し、彼が悪の道から離れるように語ることが大事で、そのように語ることをしなかった場合には、悪人が自分の罪のゆえに死んでも、血の責任を、見張りの者、預言者に神様は求めると言われます。
しかし、悪の道から立ち帰るように警告したにもかかわらず、悪人がそうしなかった場合には、悪人は自分の罪のゆえに死に、見張りの者、預言者は自分の命を救うことになります。ここでのお話を現代に生きる私たちは、どう受け止めていけばよいでしょうか。見張りの者とか預言者の役割を果たすのは、牧師だけではありません。キリスト者すべてがその役割を負っています。私たちは、この日本の社会にあって、悪とおぼしきことに手を染めている人々に、その悪事から離れなさいというべきです。
悪人とは、法律に違反している人々だけではありません。むしろ、法律の網の目をかいくぐって悪事を働いている人々の罪の方が大きいかもしれません。あるいは、取り返しのつかない災害を引き起こしかねない原発を稼働し続けようとする人々や平和憲法を壊して戦争のできる国にしようとしている人々も、神様の目から見ると、どうなのでしょうか。聖書では、列王記などを見ますと、歴代の北イスラエルと南ユダの王たちの多くが、異邦人の女性をめとることがきっかけとなり、異教の神々を拝むなどして神様を裏切ることをしています。それぞれの王の行ったことが記されたあと、最後に、彼らは神の前に悪とされることを行ったと記されています。
また、アモス書などにも、どこそこの国や地域でなされていた罪の内容が2章にしるされていますが、特にユダは、主の掟や教えを守らなかった、北イスラエルは、貧しい者や弱い者たちを痛めつけたり踏みつけたりしている、そのような罪の中身が内容として書かれています。ただし、新約聖書においては、パウロは、すべての人間が罪を犯していると指摘しておりますので、それで言えば、私たちもまた、ここで言われる悪人と50歩、百歩なのかもしれないのです。
しかし、それでもやはり、見張りの者、預言者としての働きは、私たちに求められています。注目したいことは、悪人に警告を発するときに、警告を発するだけでなく、「彼がその道から離れるように語る」ということが、求められていることです。ここは、悪の道から離れるように強く説得するというところまでの意味合いがあるように感じとれるのです。
あなたは間違っていることをしていますよ、悔い改めて、正しい道を歩みなさい。と同時に、私たちキリストによって救いに与った者は、どれほどの熱意をもって、人々にキリストの十字架と復活の出来事を語っているでしょうか。見張りの者としての使命をキリスト者たちは、それぞれのいただいているのでしょうけれど、人を救いに導くために、どれほどの真剣さと熱意と愛をもって、導こうとしているのでしょうか。ときには、悔い改めを迫るほどのことをしているでしょうか。私自身、その責任を強く問われるのです。
33章の10節には、「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか」と、悔い改め、嘆いているイスラエルの民の声があります。ここに至ってようやく、彼らは、自分たちは、神様への背きと過ちを犯したことを認めており、やせ衰えていっている現実を思い、もう生き延びることもできないと嘆いているのです。
これは、21節で、エルサレム陥落の知らせが届くのですが、その先取り的な部分にもなっています。それに対して、イスラエル(南ユダ)に、「彼らに言いなさい。わたしは生きている」と神様は言われます。神様は、おられる、あなたがたと共におられる、そのことを信じよと言われます。こういう状況になったけれども、それで終わりではない、ということです。もちろん、この「わたしは生きている」という言葉は、私は、はっきり言うが、誓っていうが、といった意味にもとれることばです。
そして、次のように言われました。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と神様は言われました。はっきりというが、わたしは悪人が死ぬのを決して喜ばない、これは神様の真実の思いであられます。これまで、イスラエルは神様に対して、偶像にひれ伏す、同胞の弱者を虐げる、そしていわゆる道徳的な乱れ等の罪を犯してきました。それも一度や二度のことではなく、幾度も幾度もでした。
しかし、神様は、イスラエルが滅び去るのを願っておられず、神様のもとに立ち帰るのを待っておられるというのです。「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。神様は、イスラエルの人々が、罪のゆえに死んで滅びてしまうことを願ってはおられないのです。
世の為政者の中には、ひとりよがりの正義を掲げて、罪のない人々を平気で殺害する人々がおります。ユダヤ人を殺害していったヒットラーもそうでしたでしょうし、初代教会のキリスト者たちを迫害し殺害した、ローマの皇帝たちもそうであったでしょう。現在のある国の大統領なども、麻薬で金儲けをしている人々が主なるターゲットになっているのでしょうが、その他の麻薬依存症の人々をも大勢殺害しております。剣が向かってくるのを見たのに、だまっているとすれば、私たちの責任も問われます。これは、日本社会であれば、原発の問題や憲法の問題なども同じでしょう。剣が向かっているのを見ているのに、だまっているということになりかねません。
神様は、正しい、裁き主なるお方ですが、旧約聖書の時代から、恵みの神様、赦しの神様でもあるわけです。しかし、イエス・キリストによって、旧約聖書における赦しの意味が、大きく変わったと言ってはよいかと思いす。それは、旧約聖書に描かれている神様は、この箇所からもわかりますように、悔い改めを迫り、それを受けて悔い改める者を顧み、赦してくださる神様です。何ら代償なしには、とは簡単にまいりません。
しかし、新約聖書における神様は、イエス様の十字架のゆえに、私たちには何も求められず、わたしたちを赦してくださったお方です。そして、私たちを新たに作ってくださる神様なのです。私たちは、イエス様の十字架と復活の出来事によって、新しい命をいただきました。それは、招詞コリントの信徒への手紙 II の5章17節にもありますように、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。私たちは、過去の過ちを曳きずることは無用です。イエス様を信じたときから、キリストと結ばれた私たちは、新しく創造された者となりました。それまでとは違う、新しい命に生きる者となりました。
一度、悔い改めイエス様の福音を信じたのなら、イエス様と結ばれたのなら、もう、過去を曳きずる必要はありません。ここが大きな違いです。まっさらな私たちで、生きることが許されるのです。神様は、私たちの滅びを望まれていません。そのことをイエス・キリストの十字架をとおして、わたしたちにお示しになられました。神様の悪人が死ぬのを喜ばない、イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか、という願いは、イエス・キリストによって、完全に成し遂げられたのです。
平良 師
立ち帰って、生きよ
これまで預言者エゼキエルは、都エルサレムから捕囚となってバビロンに来ている南ユダの人々に、悔い改めを迫る神様の言葉を伝えてきました。捕囚となった人々は、どうして、自分たちの国が、このようなつらい目に遭わねばならないのだろうか、自分たちのヤーウェの神様は、どうなってしまったのだろうか。私たちは見捨てられてしまったのだろうか。あちこちにあるバビロンの偶像の神々がほんとうの神様なのだろうか。
そして、自分たちが、神様を裏切るような行為をしたから、してはならないと言われていた罪を数多く犯したから、その罰としてこのような目に遭っているのだろうか、などなど、いろいろな疑念や不安、そして、絶望感が人々の間に蔓延しておりました。しかし、このときはまだ、エルサレムは残り、神殿も破壊されてはいませんでした。一抹の望は、あったのでした。
しかし、このあと、エホヤキン王が連れ去られたのちに、バビロンによって傀儡政権として立てられていたゼデキヤ王は、バビロンに対して謀反をおこし、それによって、徹底して、都エルサレムも神殿も破壊されてしまうのでした。33章の21節には、このように記述があります。「我々の捕囚の第12年10月5日に、エルサレムから逃れた者がわたしのもとに来て言った。都は陥落した、と」。
まだ、エルサレムも神殿も残っていると一抹の希望を持っていたバビロンの捕囚の人々も、この知らせにがっくりと来たことでしょう。ここから、エゼキエルの姿勢は、一転致します。それまでは、第一次バビロン捕囚となって連れてこられた人々に、悔い改めを迫り、裁きを語っていたのですが、34章からは、絶望している彼らに、むしろ、希望や慰めを語っていくことをするのです。33章は、その転換期にあたる部分となっています。
ところで、24章の15節からのところは、エゼキエルの妻の死が語られている場面です。神様の言葉がエゼキエルに臨みます。「人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな。頭にターバンを巻き、足に靴を履きなさい。口髭を覆うな。嘆きのパンを食べてはならない」。
そして、その夕方、エゼキエルの妻は死んでしまいます。そこでは、エゼキエルは神様から言われたとおりにことを行います。それで、人々が、どうして、妻が死んだのにあなたはそのように嘆くこともせず、泣くことも、涙を流すこともせず、声をあげてなくこともしないのか、喪に服することをしないのかと尋ねるのです。そうしましたら、エゼキエルは、神様から言われたことをしているだけだ、と言いました。
そして、いずれ、ユダの人々が、誇りとし、目の喜び、心の慕うものであったエルサレムやそこにある神殿の聖所が汚され、お前たちの残してきた息子、娘たちは剣で滅びるであろう、と神様は言われている、私が、今こうして頭にターバンを巻き、口髭を覆うことをせず、足に靴を履いているが、そのようにお前たちもすることになる。そのとき、お前たちも、嘆いたり、泣いてはならない、お前たちは自分の罪のゆえに衰え、互いに嘆くようになる。
神様は、エゼキエルの妻が死んだときに、彼が神様から言われたとおりにしたことの意味が、実は、これから起こるであろう、自分たちイスラエルに関わることのしるしであることを知らされたのでした。そして、そのとおりになっていきます。
妻が死んで、一番つらかったのは、当然のことですが、エゼキエル本人でした。絶望の果てに、大声を張り上げて泣きたかったことでしょう。しかし、それはじっと胸に秘めて、耐えることを教えられるのです。それは、このあと、あのなつかしの都エルサレムは、バビロンによって、徹底的に破壊され、神殿も跡形もなく破壊しつくされます。そして、自分たちが残してきた子供たちや親族が殺害されるというつらい目に遭うことになります。そのときのために、今こうして心ぞなえのようなことを、神様はエゼキエルをとおして、イスラエルの捕囚の民にしておられるのです。
さて、今日の33章の前半の箇所は、神様の委託を受けた見張り、或いは預言者の役割、そして、それを聞く者たちの責任を述べています。見張りの者とは、ここでは預言者エゼキエルを真っ先にイメージ致します。彼は、妻の死後しばらく沈黙の時がありました。それは、神様のイスラエルへの沈黙の時でもありました。それは、滅びゆくエルサレム、崩される神殿、家族たちの死など、これからくることがらに対する沈黙でした。
しかし、南ユダの都エルサレムが、バビロンによって完全に滅ぼされたとき、エゼキエルに再び神様の言葉が臨みました。それは、ある意味では、これまでの預言者エゼキエルと捕囚の民たちの間にくり広げられた事柄でもありました。見張り、預言者の役割は、剣が、国に向かって臨むのを見たなら、つまり、敵の攻撃ですが、それを見たなら角笛を吹き鳴らして民に警告をすることです。そして、その警告をきいた民は、その剣を避けることができ、命を救うことができます。しかし、その警告を聞かないで殺されるなら、その血の責任は聞かなかった本人にあります。
また、見張りの者が、剣が臨むのを見たのに、それを知らさないで、民の一人でも殺された場合、たとえその者が罪のゆえに死んだとしても、血の責任は見張りの者にあるということです。そもそも滅びとしての死(肉体的だけではなく、魂をも含む)は、創世記のアダムとエバの物語にあるように、罪の結果、訪れるものと考えられておりました。
次の話しは、国ではなく、悪人と見張りの者、神様との関係です。また、「悪人よ、お前は必ず死なねばならない」と神様が言われるとき、見張りの者、預言者は、その悪人に警告し、彼が悪の道から離れるように語ることが大事で、そのように語ることをしなかった場合には、悪人が自分の罪のゆえに死んでも、血の責任を、見張りの者、預言者に神様は求めると言われます。
しかし、悪の道から立ち帰るように警告したにもかかわらず、悪人がそうしなかった場合には、悪人は自分の罪のゆえに死に、見張りの者、預言者は自分の命を救うことになります。ここでのお話を現代に生きる私たちは、どう受け止めていけばよいでしょうか。見張りの者とか預言者の役割を果たすのは、牧師だけではありません。キリスト者すべてがその役割を負っています。私たちは、この日本の社会にあって、悪とおぼしきことに手を染めている人々に、その悪事から離れなさいというべきです。
悪人とは、法律に違反している人々だけではありません。むしろ、法律の網の目をかいくぐって悪事を働いている人々の罪の方が大きいかもしれません。あるいは、取り返しのつかない災害を引き起こしかねない原発を稼働し続けようとする人々や平和憲法を壊して戦争のできる国にしようとしている人々も、神様の目から見ると、どうなのでしょうか。聖書では、列王記などを見ますと、歴代の北イスラエルと南ユダの王たちの多くが、異邦人の女性をめとることがきっかけとなり、異教の神々を拝むなどして神様を裏切ることをしています。それぞれの王の行ったことが記されたあと、最後に、彼らは神の前に悪とされることを行ったと記されています。
また、アモス書などにも、どこそこの国や地域でなされていた罪の内容が2章にしるされていますが、特にユダは、主の掟や教えを守らなかった、北イスラエルは、貧しい者や弱い者たちを痛めつけたり踏みつけたりしている、そのような罪の中身が内容として書かれています。ただし、新約聖書においては、パウロは、すべての人間が罪を犯していると指摘しておりますので、それで言えば、私たちもまた、ここで言われる悪人と50歩、百歩なのかもしれないのです。
しかし、それでもやはり、見張りの者、預言者としての働きは、私たちに求められています。注目したいことは、悪人に警告を発するときに、警告を発するだけでなく、「彼がその道から離れるように語る」ということが、求められていることです。ここは、悪の道から離れるように強く説得するというところまでの意味合いがあるように感じとれるのです。
あなたは間違っていることをしていますよ、悔い改めて、正しい道を歩みなさい。と同時に、私たちキリストによって救いに与った者は、どれほどの熱意をもって、人々にキリストの十字架と復活の出来事を語っているでしょうか。見張りの者としての使命をキリスト者たちは、それぞれのいただいているのでしょうけれど、人を救いに導くために、どれほどの真剣さと熱意と愛をもって、導こうとしているのでしょうか。ときには、悔い改めを迫るほどのことをしているでしょうか。私自身、その責任を強く問われるのです。
33章の10節には、「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか」と、悔い改め、嘆いているイスラエルの民の声があります。ここに至ってようやく、彼らは、自分たちは、神様への背きと過ちを犯したことを認めており、やせ衰えていっている現実を思い、もう生き延びることもできないと嘆いているのです。
これは、21節で、エルサレム陥落の知らせが届くのですが、その先取り的な部分にもなっています。それに対して、イスラエル(南ユダ)に、「彼らに言いなさい。わたしは生きている」と神様は言われます。神様は、おられる、あなたがたと共におられる、そのことを信じよと言われます。こういう状況になったけれども、それで終わりではない、ということです。もちろん、この「わたしは生きている」という言葉は、私は、はっきり言うが、誓っていうが、といった意味にもとれることばです。
そして、次のように言われました。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と神様は言われました。はっきりというが、わたしは悪人が死ぬのを決して喜ばない、これは神様の真実の思いであられます。これまで、イスラエルは神様に対して、偶像にひれ伏す、同胞の弱者を虐げる、そしていわゆる道徳的な乱れ等の罪を犯してきました。それも一度や二度のことではなく、幾度も幾度もでした。
しかし、神様は、イスラエルが滅び去るのを願っておられず、神様のもとに立ち帰るのを待っておられるというのです。「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。神様は、イスラエルの人々が、罪のゆえに死んで滅びてしまうことを願ってはおられないのです。
世の為政者の中には、ひとりよがりの正義を掲げて、罪のない人々を平気で殺害する人々がおります。ユダヤ人を殺害していったヒットラーもそうでしたでしょうし、初代教会のキリスト者たちを迫害し殺害した、ローマの皇帝たちもそうであったでしょう。現在のある国の大統領なども、麻薬で金儲けをしている人々が主なるターゲットになっているのでしょうが、その他の麻薬依存症の人々をも大勢殺害しております。剣が向かってくるのを見たのに、だまっているとすれば、私たちの責任も問われます。これは、日本社会であれば、原発の問題や憲法の問題なども同じでしょう。剣が向かっているのを見ているのに、だまっているということになりかねません。
神様は、正しい、裁き主なるお方ですが、旧約聖書の時代から、恵みの神様、赦しの神様でもあるわけです。しかし、イエス・キリストによって、旧約聖書における赦しの意味が、大きく変わったと言ってはよいかと思いす。それは、旧約聖書に描かれている神様は、この箇所からもわかりますように、悔い改めを迫り、それを受けて悔い改める者を顧み、赦してくださる神様です。何ら代償なしには、とは簡単にまいりません。
しかし、新約聖書における神様は、イエス様の十字架のゆえに、私たちには何も求められず、わたしたちを赦してくださったお方です。そして、私たちを新たに作ってくださる神様なのです。私たちは、イエス様の十字架と復活の出来事によって、新しい命をいただきました。それは、招詞コリントの信徒への手紙 II の5章17節にもありますように、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。私たちは、過去の過ちを曳きずることは無用です。イエス様を信じたときから、キリストと結ばれた私たちは、新しく創造された者となりました。それまでとは違う、新しい命に生きる者となりました。
一度、悔い改めイエス様の福音を信じたのなら、イエス様と結ばれたのなら、もう、過去を曳きずる必要はありません。ここが大きな違いです。まっさらな私たちで、生きることが許されるのです。神様は、私たちの滅びを望まれていません。そのことをイエス・キリストの十字架をとおして、わたしたちにお示しになられました。神様の悪人が死ぬのを喜ばない、イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか、という願いは、イエス・キリストによって、完全に成し遂げられたのです。
平良 師