平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2016年4月3日 アルファでありオメガである神

2016-07-14 16:39:25 | 2016年
ヨハネの黙示録1章1~8節
アルファでありオメガである神

 今週からしばらくヨハネの黙示録に耳を傾けてまいります。ヨハネの黙示録は、紀元1世紀ごろにローマ帝国の皇帝ドミティアヌスの激しい迫害のなかで、それに耐えていた教会、キリスト者たちへ向けての励ましのメッセージでした。著者のヨハネは、皇帝礼拝を拒み、そのためにエーゲ海のパトモス島に幽閉されています。そこで、イエス様の黙示が与えられました。
 黙示文学とは、独特な描写や表現を用いて、その状況の中にある者や意識のある者には分からせたいという意図をもって著された文学形態です。旧約聖書ではダニエル書やエゼキエル書、イザヤ書などにもそれらしい表現があります。聖書における黙示とは、覆いが取り除かれた神様の言葉とイエス・キリストの証しを意味しています。この時代のキリスト者たちは、かなり厳しい迫害にあっておりましたが、相手はローマ帝国ですから、直接には権力に抗議したり、反抗することはできませんでした。
 それで、このような文学形態が用いられることになりました。この黙示録は、現在起こっていることやこれから起こることを占ったりする者が、さもまことしやかに、或いは、興味本位で引用するケースがこれまでも多くありましたし、今もそのような傾向があります。
 しかし、基本的にふまえておかなければならないことは、繰り返しになりますが、ローマ帝国の激しい迫害のなかで、必死に耐えていた教会やキリスト者たちを励ます目的で書かれたものだということです。そして、一見何を言わんとしているのかわからないことも、当時の迫害のなかにある者たちには、ああ、あのことを言っているのだな、と理解できたということです。
 ところで、この黙示録ですが、アジア州の7つの教会に送られました。アジア州とは、小アジア西海岸、地中海沿岸とその周辺地域を指しました。当時は、アジア州には他にももっと多くの教会があったと言われていますが、完全数の7を用いて、7つの教会を代表させて、すべての教会へ向けてこのメッセージは語られたのだと理解できます。
 ただし、励ましと同時に、それぞれの教会が正されなければならないこともきちんと語られていました。しかし、それらは、当時のどこの教会においても、起こっている、起こりそうな事柄でありました。そして、現代の教会も例外ではないでしょう。
 この7つの教会に宛てられたそれぞれの書簡は、初めの方には、あなたがたの行いや労苦や忍耐、苦難や貧しさ、信仰、奉仕などをしっていますとねぎらいの言葉、評価する言葉が述べられ、後半からは、それでも、あなたがたの教会には足りないところ、非難すべきこと、注意すべきことなどがあると、その内容に触れています。しかし、いずれにしても、あなたがたが、今の状況に忍耐し、わたしの言うことを信じ、守り、努力するならば、勝利を得ることになるだろうと励ましが与えられています。
 最初のエフェソの教会は、悪者どもに我慢ができず、自ら使徒と称して実はそうではない者ども、つまり、偽使徒ですが、彼らの正体を調べて、偽りを見抜いたことを褒めています。しかし「初めのころの愛から離れてしまった」だから、「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」とあります。
 また、あなたたちの取り柄としては、ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだとあります。ニコライ派というのは、簡単に言えば、異端とおぼしきものだったのでしょう。しかし、初めのころの愛から離れてしまったのです。それは、イエス様があなたたちを愛してくださった、そして、今もなお愛しておられるということを忘れてしまっているということです。
 それは十字架と復活の理解にかかわることだったでしょう。それは、今に生きる私たちも、救われた当初のことを忘れますから、そうした原点に立ち戻ることはとても大事なことであると教えられます。
 次は、スミルナの教会です。彼らも、苦難や貧しさに耐えておりました。しかし、これからもさらに苦難が予想されています。しかし、覚悟のほどがまだ十分ではありません。そのことを指摘されているのでしょう。
 ペルモガンの教会は、サタンの玉座があるような場所(ローマ皇帝を神として拝ませる神殿があった)でしたが、わたしの名をしっかり守り、わたしの忠実な証人であるアンティパスという人物が殺されたときも、わたしに対する信仰を捨てなかったと評価されています。
 しかし、バラムの教えを奉ずる者がいることが指摘されています。バラムもまた、異端的なものでした。さらに、ここにもニコライ派の教えを奉ずる者がおりました。バラムの教えも、ニコライ派の教えも、もともとは同じキリストの教えであったはずですが、それが周辺のいろいろな宗教と合わさって変質していった結果、堕落したものになってしまったのでした。
 ティアティラの教会は、行い、愛、信仰、奉仕、忍耐をもって、ことに臨んでいるということです。最近の行いもますますよいと。しかし、あのイザベルという女のすることを大目に見ているところがあるというのです。この女は、自らを預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に捧げた肉を食べさせていると指摘されています。
 旧約聖書の列王記上、下にも、イザベルという女性がでてきます。彼女は、フェニキアの王の娘で、イスラエルの王アハズの王妃となりました。イザベルは、異邦人だったというだけでなく、異教を持ち込み、偶像崇拝を持ち込んだのでした。このティアティラのイザベルも、同じようなことをしていたのでしょう。そして、その彼女がやっていることを許していたのでした。
 次にサルディスにある教会です。「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ」とあります。「あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない」とあり、行いが、なまぬるいことを言っています。しかし、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいるとも述べています。
 フィラデルフィアの教会は、「あなたは力が弱ったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないとは言わなかった」と評価しています。しかし、この教会の群れをさして、ユダヤ人たちのなかにキリスト者たちを偽り者というものがいたが、むしろ、そういうユダヤ人たちこそがサタンの集いに属していて、彼らは真実のユダヤ人ではないのです。彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに伝えよう、と言われます。
 フィラデルフィアの教会の問題点は、ひょっとしたら、内々に、群れの仲間をさして、あなたたちは偽り者であるというユダヤ人のキリスト者たちがいたのかもしれません。
 7番目は、ラオディキアの教会です。彼らは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない、と言っているが、自分がみじめで、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることがわかっていない」と言います。彼らは、「冷たくもなく熱くものない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい」。「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」と述べています。
 また、黙示録では、天上のイエス様の姿が、これまた異様な形で描かれています。1章の12節からのところです。「わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台(これが七つの教会)が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。
 その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。右の手に七つの星(七つの教会の天使たち)を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった」こうしたイエス様のお姿は、これまで、語られてきたイエス様のイメージとは大違いです。
 それは、このとき、教会は、そして、キリスト者たちは、ローマの激しい迫害にさらされています。彼らの信じるイエス様は、神の子であり、権威に満ちた非常に強いお方だといったイメージを持つ必要があったのではないでしょうか。そのために、このようないかめしい強大な力をもっているお姿として、イエス様が描かれることになりました。
 ヨハネはこう語ります。17節からですが、「わたしはその方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。恐れるな、わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と黄泉の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうしていることを書き留めよ。あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は、七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である」。
 イエス様は、それぞれの教会に助言をします。エフェソには、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ、スミルナには、死に至るまで忠実であれ、ペルガモンには、悔い改めよ、ティアティラにも、悔い改めよと言われます。サルディスには、どのように受け、聞いたかを思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。フィラデルフィアには、あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守れ。ラオディキアには、熱心に努めよ。悔い改めよ。その多くは、悔い改めよという言葉です。
 それから、勧めに従い勝利した者たちに与えられる栄冠の内容が記されています。エフェソには、勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。スミルナには、勝利を得る者は、決して第二の死(来るべき裁きのときに、決定的に裁きに引き渡される滅びの時)から害を受けることはない。ペルガモンは、勝利を得る者には、隠されていたマンナ(イエス様)を与えよう。
 また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名(イエス・キリスト)が記されている、とあります。ティアティラには、勝利を得る者に、わたしも明けの明星(夜明けの天に残っている希望の輝く星)を与える。サルディスは、勝利を得る者は、白い衣(汚れなき主の衣、勝利を表す白い衣)を着せられる。
 わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。フィラデルフィアでは、「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから下ってくる新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」。ラオディキアは、勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせる。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」。
 教会が、また、一人一人のキリスト者が、時の権力などにより激しい迫害にさらされるとき、外からの圧力に屈して、自分たちの信仰を捨てたり、失わさせられる場合があります。しかし、そのようにときには、同時に、内側もまたもろくなり、異端的なものに変質してしまったり、サタンとおぼしき堕落した勢力が現れたりします。
 この7つの教会に送られている書簡は、初めのときの教えを守れ、大切なものを守れ、死ぬまで忠実であれ、間違った道にあるならば悔い改めよ、と忠告し、励ましを与えております。そして、この忠告と励ましに促され、最後まで、忍耐した教会、キリスト者たちには、大きな報いが与えられるのだ、と言っております。それは、楽園にある命の木の実であり、審判のときの赦しであり、イエス様そのものです。また、失われることのない希望、聖なる者としていただける恵み、命の書への記載、御国において神様が、そして、イエス・キリストが共にいてくださるという保障です。
 1章の8節に、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。わたしはアルファであり、オメガである」とあります。アルファもオメガもギリシャ文字であり、アルファはアルファベットのAで、オメガは、Zにあたります。つまり、最初であり、終わりです。
 アルファの部分は、ヨハネによる福音書の冒頭部に描かれています。「初めに言があった。言は、神と共にあった。言は、神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。
 そして、オメガは、1章の7節「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る」。22章の12節、13節では「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」とあります。そして、20節で「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」。わたしたちはこれからもこのアルファであり、オメガであるお方にすべての希望を託します。


平良 師

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