平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2007年10月21日 悪しきものから解放される

2007-12-29 00:51:21 | 2007年
マタイ12章22~32節
  悪しきものから解放される


 悪霊という概念は、何もキリスト教だけではありません。およそ、宗教と名のつくものには、何らかの形で、登場してくるものです。人が突然の重い病気になったり、それも原因不明の病気などになった場合はなおさらのこと、また、災いが次から次に続くような場合にもそうでしょう、何か悪い霊がとりついた、そういうことを考える人は少なからずおられます。これは、昔から今に至るまで、そうなのではないでしょうか。

 今日の箇所もそうです。ここに登場している「目が見えず口の利けない人」というのが、まさにそう思われているのです。「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けない人が、イエスのところへ連れてこられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった」、そのような出来事が報告されています。悪霊に取りつかれていたのだ、そういう理解であります。

 また、病もそうですが、身体に障害のある人も悪霊が取りついていると思われていましたが、それはまた、罪の結果、一種の罰として、そのような結果になっているのだ、との理解もありました。ですから、こうした障害を負っている人々は、病や障害によって、苦しみを味わっていると同時に、自分に何か悪いものが取りついていると考えたり、自分が悪深かったからだ、或いは、親か先祖が何か悪いことをしたからだと考えておりましたから、ある意味では、身体の苦しみに加えて、精神的にも重荷を負わされていたのでした。

 ところで、現代に生きる私たちもまた、目が見えず、口の利けない方がおられたら、その人に向かって、あなたには悪霊が取りついているとか、あるいは、罪が深いからだと思ったり、伝えたりするでしょうか。そうは、思わないし、言わないでしょう。なぜなら、現代に生きる私たちは、専門家ではありませんが、ある程度、その病についての知識を持っているからです。病の発症の原因とか、その症状とか、また病のメカニズムとか、そのようなことについて知ろうと思えば素人なりに辞典程度には知ることもできます。

 こうした時代に生きていますから、悪霊が取りついているとか、罪の結果だと言われると、逆に、この人大丈夫かなと思われかねません。知らなかったからそう考えざるをえなかったということは、過去には、それぞれの時代の限界として当然あったでしょう。

 イエス様の時代も、多くの人々が病や災いの類を悪霊の仕業だと、そのように考えていました。それは、イエス様も悪霊を追い出すということをしておりますし、イエス様が、公的な活動を始める最初に、悪魔の試みに遭われたという話もあります。また、ヨブ記でも、神様からヨブへのかかわりを許された悪魔によって、ヨブが数々の災いに遭うようすが描かれています。

 ですから、聖書自らが、この悪霊の存在を記しているのですから、キリスト者である私たちが、その存在を考えざるを得ないのは当然であります。ただし、先ほども申しましたように、当時は、何の違和感もなかったことが、科学的にもいろいろと説明のできる状況がでてきたにもかかわらず、それをそのままに理解することは非常に困難であるということは多々あるのです。ですから、そういう場合は、当時の言葉や意味を現代に通ずる言葉や事柄に翻訳しなおさなければならないのです。つまり、聖書にどのように悪霊なるものが描かれているかをじっくりまずみるのです。

 そうしますと、例えば、創世記のヘビ、イエス様が公的な活動を始める前に、イエス様を誘惑したサタンなどがいい例なのですが、ヘビの場合は、エバを誘惑し、神様に背くという罪を犯せました。そして、そのエバによって、アダムもまた、食べてはいけないという木の実を口にしたのです。そして、二人は、神様から楽園を追放されてしまいます。また、罪の結果として楽園から追放された人間には死という滅びが与えられることになったのです。

 イエス様も悪魔から世の富や繁栄を見せられて、悪魔を拝むならばこれらのものを与えようと言われて、イエス様はそれを拒否され、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」とみ言葉を用いて対抗され、悪魔はそれによってイエス様から離れ去ったことが記されています。このようなことから、悪魔とは、私たちの心のすきや弱さをついて罪へと誘惑し、堕落させ、破滅へ導く大きな力だと言うことができるのです。そして、それに対抗できるのは、サタンに勝利したイエス様のお力だけなのだと、教えられているのです。

 イエス様は、当時の言葉や概念を用いて、当時の人々がわかりやすい形で、事柄を教えられたり、業をなしていったということがあったのではないでしょうか。私たちは、互いに理解しあえる言葉を通してしか、しっかりとした意志の疎通を図ることはできません。言葉のもっている意味や前提になっている事柄についての認識が共通していなければ、意志の疎通を図ることはできないでしょう。

 イエス様も当時の人々が、悪霊に取りつかれていると考えているのですから、そのように理解しているのですから、その線上に立って事をなしたということではなかったのでしょうか。弟子たちがあるとき足の不自由な人をさして、この人が、このような障害を負っているのは、本人が罪を犯したからなのか、それとも、両親が罪を犯したからなのでしょうか、というようなことを尋ねてきたときに、これは、本人が罪を犯したからでも、両親でもなく、神様のご栄光が彼の上に現れるためであると言われました。

 ここでイエス様は、当時の概念や価値観を越えるものの見方を示しておられます。このことは、当時にあって、イエス様は日頃は、あえて、当時の人々のものの見方や考え方に沿うような形で、発言されたり、ことを成していたのではないか、ということを逆に想像させるのです。

 しかし、聖書をどのように理解していくかは、一人ひとりに委ねられています。悪霊の存在をこのままに理解する方もおられるでしょうし、ある程度、理念化して考える方もおられるでしょう。それは、何も悪霊についてだけのことではありません。そして、こうしたお互いの信仰理解や姿勢は否定されるべきものではなくて、尊重されるべきです。そうはいうものの限度のようなものは、それでもあるようには思います。

 ああいうオカルト映画のように悪魔の存在を考えるということだけは避けていただきたいとは思います。あれは聖書に書かれている以上の世界をおもしろおかしくイメージさせています。どちらにしろ、先ほど申しましたように、聖書が描いている悪魔とは、私たちの心のすきや弱さをついて罪へと誘惑し、堕落させ、破滅へと導く大きな力だと言うことは間違いありません。

 さて、前置きが長くなりましたが、今日の聖書の箇所です。人々が、この障害を負っている人をイエス様のところへ連れてきて、その人をイエス様は癒されます。群衆は、イエス様のことを「この人はダビデの子ではないだろうか」と言いました。ダビデの子という言い方は、ダビデのようなメシア、力強い救い主、そのようにイエス様のことを考えたのでした。ところが、それを聞いたファリサイ派の人々はおもしろくありません。

 彼らは、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と悪口を言ったのでした。そこで、イエス様は、サタンがサタンを追い出せば、これは内輪もめであって、それでは国や町が成り立っていかないのと同じだ、だから、そのようなことをするはずがない、また、このような皮肉も言われました。「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」。

 神の霊だといえば、これは、悪霊の頭のベルゼブルしかできないと言ったではないか、ということになりますし、結局自分たちにはできないということになるのです。「あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」というのですから、ファリサイ派の人々もまた、こうした病の癒しの業を試みていたとも思われますが、しかし、大方は、この人には悪霊が取りついている、罪の結果だと、何とかしてあげたいというよりは、そのまま無視していただけなのかもしれません。

 無関心、無視していたと思われる証拠に、ファリサイ派の人々は、この目が見えず、口が利けない人が、ものが言え見えるようになったにもかかわらず、そのことに感動もせず、彼のことを喜んであげるというようなことは毛頭ありませんでした。

 彼が癒されたということが意味していたのは、単に身体的な機能が回復されたということだけではなく、彼を縛っていた悪霊から解放されたということでした。そして、悪魔から解放されたそのところには、すでに神の国が来ているのだとイエス様は言われたのです。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」、このように言われています。神様の霊によって、悪霊を追い出しているのであれば、私たちを罪へと誘惑する、堕落へと、破滅へと導く力に打ち勝っているのですから、そこには、神の国が到来した、神様の支配が完了しているのだというのでしょう。

 そこで考えさせられることは、私たちの悪霊からの解放という事柄です。私たちは、己を神様の霊、聖霊、神様の支配に委ねるということがなければ、いつまでたっても悪霊の支配の中にあるということになります。もちろん、キリスト者になっても、悪霊の罪への誘惑は、絶えず私たちに迫ってきます。ですから、なおさら、私たちは神様の霊の力、聖霊の力によって、守っていただかねばならないのです。

 病や身体の障害は、悪霊の仕業だと理解されていた当時にあっては、それらの癒しは、悪霊追放を意味していました。そして、それは神様の霊によってのみ実現可能なのだと、述べられています。今、私たちは、病や身体の障害を悪霊の仕業とはほとんど考えません。その癒しも、医療に任せられています。しかし、不治の病の人が、神様に祈ることで癒されるということはあるのでして、そうした形で神様のみ業が現れることはあります。

 ただ、病気が重く、癒されることはなくても、悪霊などに取りつかれているとか、罪の結果だなどとは、考えません。そうであるなら、人は皆死ぬのであって、結局、悪霊に最後には取りつかれたからだとか、罪の結果だとかになってしまって、私たちは罪赦された者であって、死の際においてもなお、主を証する者でありますから、そういう理解を受け入れることはできません。

 しかし、私たち自身が、日々、この悪霊、サタンの誘惑にさらされているのは確かなことではないでしょうか。私たちを罪へと誘い、堕落させ、破滅へと導く力というものに、晒されているのです。そして、誘惑されるままに、サタンに魂を売り渡す、そういう類のことさえも行っている私たちがいるのではないでしょうか。

 私たちは、主に守られて、この悪霊から解き放たれています。しかし、エフェソの信徒へて手紙6章10節からのところには、そうであるけれども、私たち自身の戦いの姿勢に対して触れています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」とパウロは奨めています。

 「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界と支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気強く祈り続けなさい」。

 もう一度、悪霊に対する聖霊というものについて目を留めてみます。「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊(聖霊)に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」とあります。「人が犯す罪や冒涜」というのは、人間の神様に対する罪や冒涜です。それは赦されるとあります。それから、「人の子に言い逆らう者」とありますが、これは、イエス様に言い逆らう者のことです。そして、この者も赦されるというのです。

  しかし、霊、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない、とあって、どうして、神様を冒涜したりイエス様に言い逆らう者は、赦されるのに、聖霊に言い逆らう者は、赦されないのかと思うのです。これは、赦しの事柄は、罪の告白やイエス様の主告白によります。そして、それらを導くのは、聖霊の働きだと聖書に書かれています。ですから、この聖霊の働きを認めるということが救いへ至る残された唯一の道なのです。この聖霊の働きをも認めないというのであれば、救われる道はもうありません。ですから、この今ここで働かれている神様の力、聖霊の働きに言い逆らうのは赦されませんよ、と言っているのです。

 私たちを罪の赦しのバプテスマへ導くのは、イエス様は主であるとの告白に導くのは、聖霊です。ですから、この聖霊の働きに言い逆らうことは、先ほど言いましたように、救いへの道を閉ざしてしまうことになるのです。

 悪しきものから解放してくださるのは、聖霊です。コリントの信徒への手紙二の3章17節には「主の霊のおられるところに自由があります」と記されています。この聖霊がほんとうに私たちを悪しきものの誘惑から守ってくださり、主告白へと導いてくださいます。そして、このお方に従う生活のなかで、真実に自由に生きることができるのです。


平良師

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