平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2007年12月2日 主を待ち望む信仰

2008-02-06 23:12:56 | 2007年
ヨハネの黙示録21章1~8節
    主を待ち望む信仰

 本日からアドヴェント(待降節)に入ります。私たちは、今年も主のご降誕を待ち望みます。このお方は、既に二千年前にこの世に来られました。しかし、私たちは、毎年、イエス・キリストのご降誕をあたかも今年お生まれになるかのようにして、1月前からクリスマスの諸々の物語を思い起こしながら、その日を待つのです。

 天神や小倉の街並は、今年もクリスマスのこのシーズン、華やいだイルミネーションに彩られ、賑わっています。日本においては、この季節、当のイエス・キリストという主人公が、隅に追いやられているのは確かでしょう。恋人たちは、主人公不在のイブの夜を楽しみにしているのです。いったいどれだけの人々が、イエス・キリストのご降誕を待ち望み、真実に喜び、祝うのでしょうか。

 とは言え、このお方は、二千年前に来られました。そして、聖書を通して、このイエス様がどのようなお方であったかを私たちは知らされています。このお方は、降誕物語では御使いが、インマヌエルの神であると語っております。マタイによる福音書1章23節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられるという意味である」と書かれています。ですから、このお方は、二千年前に来られたお方ですが、今もなお、私たちと共におられるお方なのであります。

 そして、このお方は二千年前にこの世に来られてから、30歳くらいのときに十字架におかかりになり、復活されて、天に挙げられました。しかし、世の終わりのときに、再び来られると、告げられてもいるお方なのです。

 私たちは、キリスト教の信仰の奥義について知らされます。そのお方は、かつて来られ、今もなお共におられ、やがて来られるお方なのです。そして、二つの主を待ち望む信仰にはさまれて、今、このときを、キリスト者である私たちは生きているのです。

 二千年前、ユダヤは、ローマ帝国の支配下にあり、救い主が現れて、自分たちをこのローマから解き放ってくれると信じ、その救い主が来られるのを待っていました。ルカによる福音書の2章38節にもアンナという女預言者が、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。人々が、期待していた救い主は、かつてのユダヤの偉大な王様、ダビデのような強い王様としての救い主、メシア、キリストでした。その方は来られました。

 残念ながら、強い王様とは、ほど遠い方で、弱く、十字架におかかりになり、あっけなく死んでしまったのです。しかし、この方を神様は三日目に蘇らされて、主としてお立てになりました。そして、このお方は、ほどなく天に上げられました。人々は、このお方が十字架におかかりになることによって、自分たちの神様への背きの罪が赦されたことを知りました。人々は、神様の真実の愛と救いのできごとが、どのようにして成就したかを知りました。

 それから、しばらくして、イエス・キリストを信じた人々は、このお方を救い主として告げ広めて行きました。信じる人々が日に日に増えていき、ローマ帝国の脅威になるほどになりました。そこで、ローマ帝国は、キリストたちへの迫害を強めていったのです。ヨハネの黙示録の中にでてくる666という数字は、実際は自分自身で放火したと言われていますが、ローマの町に放火したのはキリスト者たちだったとして、厳しい迫害に及んだ皇帝ネロを暗示しているとも言われます。

 このヨハネの黙示録の内容は、その迫害に遭っているキリストたちへ、その迫害に耐えるようにとの励ましが主たるメッセージです。そして、迫害を耐え忍んだ者は、神様から神の子として迎えられることが述べられています。ですから、迫害の中にあるキリスト者たちは、早く、イエス様来てください、そう叫ばずにはおられなかったのです。彼らにとって、再臨の主を待ち望む思いには、切実で、強いものがありました。

 そして、この21章には、終末の情景の一端が描きだされています。その情景とは、古いこの世界が消え去り、新しい天と新しい地、新しいエルサレムが天から下ってくる幻です。つまり、終末というのは、この世の終わりですが、それは同時に新しい世界の幕開けとして描かれています。そして、その新しい世界では、神様と人が共に住むことになり、神様が、身元に迎えた人々の目から涙をことごとくぬぐいとってくださる、つまり、キリストにある信仰ゆえに迫害にあい、耐え忍んだ人々に与えられる神様の大きな慰めが述べられています。

 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや、悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは、過ぎ去ったからである」。

 最初のものというのは、死によって終わる、最初の秩序ということでしょう。死というものは、悲しみ、嘆き、労苦から私たちを解放するものでもあるのです。同じ、黙示録の7章13節からのところに、死に至るまで迫害を耐え忍んだ人々が、どのような扱いを受けるかが書かれています。この21章3節、4節と似ています。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」。

 目の涙をことごとくぬぐってくださるという表現は同じです。終末というのは、神様からのいっぱいの慰めを私たちが受けるときでもあります。涙をことごくですから、生前の苦しみ、痛み、嘆きなど、それらは、肉体的なもの、精神的なもの、いろいろだったでしょうか、ことごとくというのですから、隅から隅まで、すべてという意味です。この世にあったときに体験した多くの苦しみ、悲しみ、痛みをすっかりと取り除いてくださる、そして、大いに慰めてくださり、平安のうちにおいてくださるのです。

 しかし、キリストが二千年前に来られたとき、イエス様と出会った人々は、まさにイエス様によって、そのようにしていただいたのではなかったのでしょうか。あの自分の一人息子を亡くし泣いていたナインに住んでいたやもめの母親を、その息子を生き返らされて慰められました。また、徴税人の頭として、忌み嫌われていたザアカイの友となられました。姦淫の現場で捕らえられ、イエス様の前に突き出された女性を私もあなたを罰しないと言われ、今後は罪を犯さないようにと言われて、返されました。

 まさに、生前のイエス様が、子どもを亡くして嘆き悲しんでいる者、罪人として、疎外され孤独に生きていた者、そのほか、多くの病める人、罪人と言われていた人、貧しい人の痛み、悲しみを癒されたのでした。そのようにして、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださったのでした。

 私たちは、二千年前もキリストを待ち望んでいたし、これからも待ち望むのです。二千年前は、私たちの罪の赦しのためにキリストは来てくださいました。そして、終末に来られるイエス・キリストは、新しい世界の幕開けのために、わたしたちを永遠の命へと導かれるために来てくださるのです。

 神様は、このように言われます。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」。アルファベットのアルファはAにあたり、オメガは、Zにあたります。つまり、はじめであると同時に、最後でもあるお方なのです。それは、歴史を始められた方であり、同時に、歴史を終えられる方でもあります。この世界を創造された方であり、閉じられる方なのです。

 ヨハネによる福音書の冒頭は、「初めに言があった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った」とありまして、ここで言われている言というのは、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあるように、イエス様を指していますから、そうしますと、万物はイエス様によって成ったということが言えるのです。文字通り、このお方が、この世界を創造し、この世界を閉じられるお方なのです。

 このお方は、述べられます。「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」この言葉は、22章の17節にも出てきます。「霊と花嫁が言う。『来てください』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水の欲しい者は、価なしに飲むがよい」。来てください、というのは、イエス様に来てください、と言っているのです。渇いている者というのは、イエス様を真実に誠実に待ち望んでいる者ということです。イエス様による救いを待ち望んでいる者という意味です。

 その者にこそ、この命の水は、無料で与えられるのです。泉から湧き上がってくるのですから、汲めども汲めども尽きることはありません。命の水です。ヨハネによる福音書4章でイエス様がサマリアの女に言われた「この水(シカルにあったヤコブの井戸の水)を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」という、言葉を思い浮かべます。

 終末というのは、この世の閉じられるときですが、新しい世界の幕開けでもあります。そして、もう一つ、私たち一人ひとりに審判の下るときでもあるのです。そのことについて、「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」。勝利を得る者というのは、最後まで、迫害を耐え忍んだ者ということです。そして、今の私たちたちのことで言うなら、最後まで、信仰を全うした者ということでしょう。

 ヨハネの黙示録で言うなら7章14節「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」つまり、キリストのために最後まで信仰を貫きとおし殉教の死を遂げた、そうした人々であるということです。従うということは、命がけの事柄であります。そして、その人々に対して「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目の涙をことごとくぬぐわれる」のです。21章の「わたしはその者の神となり、その者はわたしの子となる」という言葉と重なります。

 しかし、逆の人々はどうかというと、「おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言うもの、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」とありまして、これらの者は、いわゆる地獄に落ちるというようなことがイメージされているのです。おくびょうな者、不信仰な者というのは、迫害をおそれ、神様を最後まで信頼できず、信仰を失った者たちのことです。今の私たちのことで言うなら、世のいろいろな試練や誘惑に負けて、信仰を喪失してしまった人々のことだと言えるかもしれません。  

 天国と地獄ということで、救いを説明するのは、単純でわかりやすいということはありますが、それではあまりにも短絡すぎる、場合によっては危険であるということも言えるでしょう。しかし、それらのことはまったく考えなくてよいとも言えないのです。聖書には、この黙示録をはじめ、神の国、天国、地獄に関する記述は出てくるのでして、それらの記述を無視することもできません。私たちは、これらについても、いったいどのようなことを意味しているのか、丁寧に読み進めていかなければならないのです。

 確かに、私たちは、自分たちの中で、それぞれの神の国、天の国のイメージを大切に持っています。言えることは、そのイメージは、どれもこれも聖書からいただいているものでなければなりませんし、それである以上、お互いの信仰は尊重されて当然だということであります。

 クリスマスを迎えるということは、遠い二千年前のクリスマス物語に思いを寄せるというだけではありません。新たなる思いで、今年もまた、イエス様を私の主として心のうちにお迎えするのです。しかし、私たちは、今このときも、終末に再び来られると言われた、あのイエス・キリスト救い主を待っているということを同時にしています。黙示録22章20節「以上、すべてを証しする方が、言われる。然り、わたしはすぐに来る。アーメン、主イエスよ、来てください」。

 そして、そのお方は、この世に来られて最初にマリアとヨセフに共におられたように、はじめから人と共におられるお方であり、今もなお私たちと共におられるインマヌエルの神様でもあられるのです。かつて、おいでになられ、そして、今もなお、共におられ、そしてやがて来られる救い主、それがイエス・キリストです。
 私たちが、私たちたのめにこの世に来られたことを喜び、祝おうとしているそのお方は、歴史をつかさどる方、永遠なる方、私たちの創造主であり、裁き主、そして、救い主であられます。私たちの信仰は、いつのときでも、イエス・キリストを待ち望む信仰です。


平良師

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