平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2007年12月9日 二人の王

2008-02-18 18:54:00 | 2007年
マタイによる福音書2章1~15節
     二人の王

 イエス様が、お生まれになったとき、ユダヤの王は、ヘロデでした。彼は、ローマ帝国の傀儡国家としてユダヤの地域を国として、ローマに認めさせ、自分がその国の王となりました。もちろん、独立国家ではなく、ローマの支配下にあったというところは変わりません。ところが、彼は、非常に権力欲のすさまじい男で、少しでも、自分の座の脅威となるような者がいたら、その人物を抹殺したといいます。大祭司、妻、妻の母親、息子たち、多くの人々を殺害したといわれています。
 彼は、エルサレムの神殿を再建した人物でした。その点では、当然、ユダヤ人の多くから慕われてもよかったでしょうが、彼は、そうではありませんでした。このように残忍で、他人を信用しようとしない男だったということもあったのでしょうが、ユダヤの王といいながら、ユダヤ人でなかったために、ユダヤ人たちからは認められなかったようです。彼は、ユダヤの王でありながら、ユダヤ人ではなく、異邦人だったのです。
 その彼のところへ、東方の占星術の学者たちがやってきます。彼らは、都のエルサレムへやってきて、ヘロデ王の宮殿へと向かいました。そして、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と聞いたのでした。ヘロデ王は、その話を聞いて「不安を抱いた」と書かれてあります。彼は、神殿を再建したほどの人でしたから、信心深かったというと、そうではありませんでした。彼はユダヤ人たちの人気とりのために、そのようなことをやったということも言われています。
 「ユダヤ人の王」という言葉が、イスラエルの人々が待ち望んでいるメシア、キリスト、を意味していることは知っていたでしょうから、彼が神様を畏れる者であれば、大いに喜んでもいいはずでありますが、そうではなかったのです。
 逆に、不安に思ったのでした。なぜでしょうか。それは、彼は、最初に説明しましたように、非常に権力欲の強い男だったからです。それで、自分の立場が奪われることに将来なるのではないか、と思ったのでしょう。そうでなくても、自分の知らないところで、自分の後に王になる人物が生まれたというのも、不安なことであったでしょう。彼は、祭司長や、律法学者たちを呼んで、メシアは、どこに生まれることになっていのかと問い正しました。彼らは、それは「ユダヤのベツレヘムです」と答えました。ヘロデは、まず、そのメシアが、ベツレヘムに生まれることを突き止めました。彼の中には、すでにキリストへの殺意が芽生えておりました。
 一方、祭司長や律法学者たちは、救い主の誕生場所を知っておりましたし、また、ヘロデがなぜ、救い主の誕生場所を尋ねたかも、ヘロデ王から事情を聞いて知ることになったと思います。ところが、それで、彼らが、それは一大事とばかりに、東方の博士たちと同じように、メシアを拝みに行こうとしたかといいますと、そういう行動にはでなかったのです。
 彼らにとって、そのことがどれほどの重みのある話だったのか、知っていたことと、そのことを信じることの間には、随分のギャップがありました。私たちもまた、そのことは同じではないでしょうか。聖書にこのように書いてあるというのは知っています。しかし、それを本気で信じるかというと、そうではないのです。
 それから、また、そのときに、不安になったのは、エルサレムにいる人々も同じであったと言います。ヘロデの抱いた不安とエルサレムの人々の不安がまったく同じということではなかったでしょうが、ある部分は、同じであったでしょう。エルサレムの人々は、ヘロデが知らないところで、ヘロデに代わる王が、生まれたというのですから、これから内紛が起こりそうな、社会が不安定になるのではないか、そうした類の不安が生じたことでしょう。
 また、その生まれた場所が、エルサレムではなく、ベツレヘムですから、ベツレヘムへ都が移動するのではないかと、そのようなことを不安に思った人々もいたかもしれません。そして、不安の共通点としては、自分たちの身の安全を思うときに生じるものでした。私たちもまた、このイエス・キリストが、それぞれの心のうちに訪れるということをうれしく思う人々もおれば、逆に、この光なるお方によって、闇の部分が明るく照らし出されるということを恐れ、その到来を望まない人々もいることでしょう。
 次に、ヘロデは、この占星術の学者たちを呼んで、いつ、その救い主誕生を告げる星が、現れたのかを確かめました。これで、生まれた子どもの年齢をつかみました。そのことは、あとで、二歳以下の男の子を殺すときの有力な情報材料になったのです。そして、ヘロデは、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ったのでした。毛頭、拝もうなどといったつもりはなく、殺害するための情報を集めようとしていたのでした。ベツレヘムのいったいどこに生まれ、今はどこらあたりに住んでいるのか、親たちは誰たちなのか、そのようなことを調べて、教えてくれるように、言ったのです。
 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」という夢のお告げで、彼らはヘロデのところへ立ち寄りませんでした。ヘロデは、学者たちが帰ってきて、情報を提供してくるのを待っていましたが、なかなか帰ってきません。そのうち、彼らが、自分をだまして、そのまま国に帰ってしまったことを知ったのでした。ヘロデは、腹を立て、怒りに任せてということもあったのでしょうが、持ち前の残忍性も手伝って、先に学者たちから確かめていたメシアが生まれたという時期に基づき、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させたのでした。
 情報を集め、それに基づいて、メシアとおぼしき、その子だけを殺害しようというのが、ヘロデの最初の計画だったのでしょうが、腹たち紛れに、また、学者たちへの見せしめもあったのでしょうか、罪もない多くの子どもたちを殺害したのでした。
 それも、用心には用心をということだったのでしょうか、ベツレヘムだけでなく、その周辺一帯も含めました。また、乳飲み子が対象だったでしょうに、2歳以下と、子どもの年齢に幅をもたせたのでした。こうした、話は、何もずっと昔のお話ではなく、例えば、テロリストがいるというので、そこらあたりに爆弾を落として、罪のない多くの一般市民を抹殺してしまう現代社会に見られる悲劇とあまり変わらないかもしれません。権力を持つ者の闇の部分をこのヘロデのお話は、うまいこと表しています。
 世の王、世の権力を握る者のありようが、また、人間の闇の部分が、このヘロデという人物を通して、現されています。そして、闇の部分を持っていたのは、何もヘロデ王だけではなく、祭司長や律法学者など、当時のユダヤ社会の支配層に位置していた人々や、エルサレムという都に住んでいた人々などもまた、人間の闇、罪を負う者として描かれているのです。
 それに対して、ヨセフは、天使からヘロデが幼子を殺そうとしているので、エジプトへ逃げるように告げられ、その日の夜のうちにすぐさま行動に移し、そのようにするのでした。そして、ヘロデ王が死ぬまで、エジプトに留まりました。神様は、その難からいかにして逃れたらいいのか、教えてくださいました。彼らは、すぐに、それに従ったのです。
 それから、ヘロデが死ぬと、また、天使が夢でヨセフに現れ、ヘロデが死んだからイスラエルの地に戻るように、告げられ、そうします。ところが、イスラエルの土地に入ってみると、今度は、ヘロデの息子のアルケラオが跡を継いでユダヤを支配しているということを聞きましたので、そこへ行くことに恐れを抱いていると、またもや、天使のお告げがあり、ガリラヤ地方のナザレという町に住むように言われたのでした。結局、ガリラヤのナザレでイエス様は大人として成長されるまで生活するのです。
 私たちは、この2章に描かれているこの世の当時のユダヤの王ヘロデとメシア、キリストとなるユダヤ人の王と呼ばれたイエス様が、とても対照的だと思います。イエス様の方は、何の力もなく、ただ、天使から逃げなさいといわれて、ただ逃げるしかない弱々しいお姿です。神様がヘロデを取り除いてくださればよいのにと思いますが、そのようにはされないのです。神様がしてくださるのは、逃げなさい、隠れなさい、そういうことです。そして、難を逃れなさい。助かりなさい、命を得なさい、そういうことなのです。神様から守られるということがどのようなことなのかを聖書は教えているかのようです。
 災いに遭いそうになるけれども、それを避けることができる、神様の指示に従って、そうすることができる、今の私たちのことでいうと、祈るなかで、道を示していただくのです。それに比べ、ヘロデは、策を弄し、ユダヤの王としての地位をつかむ、しかし、一旦手にした権力を握り締めて、決して放そうとはしない、むしろ、その座を脅かす者は抹殺してしまおうとまで考える、そのためには、大きな権力をもって罪のない幼子たちの犠牲をも何とも思わない、そういう罪の固まりのような人間として描かれているのです。ヘロデに現されているのは、どうしようもなく臆病者な弱い人間の一面です。
 一方は、ユダヤの王と言われた人物でローマによって権威が与えられており、一方は、ユダヤ人の王としてお生まれになった、と言われました。自ら権威ある者のようであり、人々の罪を背負うお方でした。人間の力に頼る者と、神様の力に頼る者との違いがありました。人間の力に頼る者は、自分以外の人間を真実には信用することはできません。殺意と憎悪に満ちていました。しかし、神様に頼る者は、神様をとおして多くの人々を信用することもできるのです。神様からの平和をいただくということは、神様に守られながら生きていくということです。
 私たちは、二人の王を見ました。私たちは、王ではありません。しかし、神様に従い守られながら生きる者と、自分の力により頼み、罪を重ね、破滅的に生きていく者との生き方の違いを示されるのです。一方は、平和に満ち、一方は、戦いへと向いていくのです。
 三人の学者たちは、「見つかったら知らせてくれ」と言ったヘロデに従わずに、夢の中のお告げに従いました。三人の学者たちは、ユダヤ人ではなく、異邦人でありました。彼らは真の神様を信じました。ですから、この幼子を見たときにも、それはおそらくベツレヘムの小さな家の中に、ひょっとしたらまだ畜小屋に寝かせられていたかもしれませんが、そのみすぼらしい幼子を、ひれ伏して拝んだのです。そして、宝の箱から、自分たちの大切にしているものを取り出して、献げたのでした。
 彼らは、ヘロデを恐れず、神様を畏れました。私たちもまた、このみすぼらしい幼子をひれ伏して拝むでしょうか。それとも、命令一つで、罪なきたくさんの人々を殺害しうる世の権力者たるヘロデを拝むでしょうか。
 今日、バプテスマを受けられたM.A.兄とH.J.姉は、この弱い、父なる神様に守られなければ生きながらえることのできなかった幼子に従う決意をされました。こうしてバプテスマが与えられるということは、教会にとっての最高の喜びであり、この世に対しての教会の勝利を意味しているのです。
 マタイによる福音書では、ピラトはイエス様に尋問したときに、一番にこう尋ねました。「お前がユダヤ人の王なのか」そして、裁判が終わったあと、兵士たちは、「ユダヤ人の王、万歳」といって侮辱し、ゴルゴタの丘に掲げられた十字架の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きが書かれてありました。確かに、イエス様は、ユダヤ人の王でありました。多くの辱めを受け、力なく、弱く、抵抗することもなく、最後には弟子たちからも見捨てられ、十字架につけられてしまった王でした。この王は、ヘロデのように、自分のために、人殺しをするようなお方ではありません。私たちのために、ご自分の命を献げてくださった王でした。
 世には、多くの王、あるいはそれと同じぐらいに、いやそれ以上に、権力を持っている人々がいます。その多くは、自分の利益のため、自分たちの利益のために、その保身を図る人々のなんと多いことでしょう。力が大きいだけに、人殺しでも平気で正当化できるような人々もいます。
 私たちは、どなたを主と王と仰ぐのでしょうか。ご自身のためには、何一つなさらなかったお方、生まれたときから、逃げ惑い、最後には、侮辱され、弱く、十字架につけられたイエス・キリストです。しかし、このお方が、私たちの王であり、平和の君であり、私たちの命を救ってくださったお方なのです。待降節のこのとき、私たちは、二人の方が、このイエス様をメシア、キリスト、真なる王として、従う決心をされたことをとても喜びます。この主が共におられます。


平良師

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