平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2007年10月28日 霊の執り成し

2007-12-31 20:18:13 | 2007年
ローマ8章18~30節
     霊の執り成し

 先週は、カリフォルニア州で、山火事が発生し、それがその土地特有の季節風にあおられて、大きな火災となりました。多くの被害が出ています。東京都のおよそ8割近くの土地が消失し、幾人かの死傷者と2千軒近くの住宅が燃えたと言われます。被災された方々への慰めをお祈りしたいと思います。

 と同時に、多くの被造物(動植物)が、犠牲になったことも頭に入れておきたいと思います。多くの木々や植物が燃えて、死に絶えました。その森に住んでいたであろう動物たちも逃げ場を失って、命を落としたものもあったでしょう。

 昨年から今年に入って、国内外を問わず、世界の各地で、大きな山火事が起こったというニュースを耳にしています。これもまた、地球温暖化で土地の乾燥があちこちで進んでいるからではないのかと思ったりもします。また、こうした大規模な火災によって、またもや多くの二酸化炭素が空中に放出されて、さらに温暖化に拍車がかかったのではないかと心配されます。

 たたでさえ、経済活動のグローバル化によって、世界規模で経済活動が活発となり、特に最近では中国経済の発展が深刻な環境破壊を促していると言われます。また、その他の国々も、飽くなき経済活動は留まるところを知らず、環境破壊、温暖化は進むばかりです。

 「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は、虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています」。ここで言う被造物(神様につくられた者)とは、自分の意志によるものではないとありますから、人間以外の被造物と理解した方がよさそうです。

 しかし、虚無に服しているけれども、希望を持っているとあります。その希望とは、「つまり、被造物も、いつかは滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」。人間以外の被造物の滅びも、人間の罪がもたらしたものでした。まさに、今、人間の行っている環境破壊、それに起因する地球温暖化により、人間以外の被造物がまずはじめとして、滅びに、死に瀕しています。

 人間もまた、被造物の中の一つですから、この危機から一人免れるはずはありません。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」。共にというのは、被造物同士がということです。多くの被造物がそのような状況にあるのです。被造物が苦しんでいる現象や状況を今や、あちこちに見るのです。

 彼らは、「神の子たちの現れるのを待ち望んでいます」神の子たち、つまり、ほんとうにキリストに従う者たちです。8章の14節、15節に次のようにあります。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、アッバ(父ちゃん)、父よ、と呼ぶのです」。

 そのような人々が大勢現れない限り、被造物もまた、滅びの縄目から解放されることはありません。神様からこの地球の管理を任せられた人間が、ほんとうにすべての被造物と共存して生きていけるように、ことを運んでいかねばなりません。しかし、このようにも言われています。「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきならが待ち望んでいます」。

 ここでいう霊の初穂を受けたというのは、聖霊をいただいてキリスト者になった、洗礼を受けたことを意味しています。しかし、ここでは、それ以上のこと、終末における救いのこと、体が贖われること、そのことをうめくように、切に祈り願い、求めている私たちキリスト者のありようを述べています。

 私たちは、現代のこの世において、神様から託された地球環境の管理をうまくやっていくというのも一つですが、同時に、それは、あらゆるものとの葛藤、自分の内なる欲望との葛藤など、心の中でうめきながらのお話であります。それは、また、私たち自身の真の意味での救いを待ち望む、これまたうめきに似た祈り、終末における完全なる救いを待ち望む、そのような願い、歩みをもまた、同時並行して求めていることなのです。

 そして、はっきりと言います。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」。私たちは今突きつけられている課題にどう向き合うかということと、終末という将来に対する希望にどのように生きるかということの2つの歩みを求められています。

 この終末を待ち望む姿については、「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」と記されています。それから、被造物の救いと人間の救いとは決して分離されてはいません。今の時代ほど、そのことを強く私たちに意識させる時代もなかったでしょう。

 26節にこのような言葉が続きます。「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちは、どう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。わたしたち現代に生きる者は、環境問題一つとっても、どのようにしていけばよいのか、頭を悩ませます。

 多くの成人した人々は、経済活動に携わっています。人々は、食品から電器製品、雑貨、自動車など、いろいろな商品を作り、それを売って、或いは、それを買って生活をしているのです。経済のグローバル化で、どの国でも、同じような品物が、手に入るようになり、同じようなスピードで、経済が回っていきます。大企業は、安い賃金コストを求めて、発展をいまだ十分に遂げていない国々へ移っていきます。

 自然に恵まれ、静かだった国々も、いつまでもそうはいかなくなっています。自然は破壊され、環境が荒廃し、悪化した地域、国々が増えて、広がっていきます。いわゆる先進国と言われてきた国々は、これからいろいろな物質的な豊かさを享受しようとしている国々へ向かって、あなたの国は地球環境が危機的な状況だからもう少し待ってください、やめときなさい、とはなかなか言えるものではありません。それぞれに葛藤があります。

 経済発展をして、物質的な豊かさを得たいとは誰もが思います。しかし、そうすれば、環境破壊が進み、自分たちの生存すら危うくなってきます。被造物を保護する責任も果たさなければなりません。どのように考えて、どのように手立てを講じればよいのか、難しい選択をしなければならないのです。

 現代に生きる私たちは、経済のグローバル化で、環境破壊は進み、競争は激化し、貧富の格差はひどくなるばかりですが、しかし、その反面、地球に住む人々が、こぞって地球のことを考える機会を与えられているというのも事実です。否、考えなければならないまでに、追い詰められていると言えるでしょう。

 これから先、負債に負債を重ねた挙句、国家という国家は滅びて、大きな企業だけが残る、そのような時代が来るのかもしれないという人もいます。確かに、現代人は、どのように祈るべきか、どのようにしていったらいいのか、もうわからないでいるのではないでしょうか。神様の前にどのように立つことが赦されるのか、わからないでいるのです。

 その姿は、さながら悶え、うめいているといったところではないでしょうか。しかし、聖書は私たちに「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちは、どう祈るべきかを知りませんが、霊、自らが、言葉に言い表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。聖霊が執り成してくださる、神様に対して、私たちのどうしていいのかわからない、うめかざるをえない苦しい思いを同じように、苦しみつつ、しかしそれでも、神様の前に言葉にならないうめきをもって、執り成してくださるというのです。

 聖霊の言葉にならないうめきは、私たちのうめきとは違いますから、神様の前に、整えられた言葉として、献げられているものだと信じます。「霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」。聖霊が、神様と人間との間を執り成すというのは、神様の御心です。

 つまり、この執り成しがあるゆえに、私たちは、救いを得られるのです。これから、どのように生きていけばいいのか、何をしたらいいのか、この問題をどう乗り越えていけばいいのか、どちらを選んだらいいのか、わからず葛藤し、右往左往して、頭を抱えこんでいる私たちの姿、思いを、聖霊はよくご存じであり、その苦しみを共に苦しまれ、整えられた言葉をもって、神様に執り成してくださるのです。

 「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くことを、わたしたちは知っています」。「共に働く」というのは、神様の力が共に働くということです。万事が益となるように、神様の力が働かれるのです。そして、そのことを「わたしたちは知っています」。

 神様を愛する者たちは、そのことを知っていると言います。キリスト者となった私たちは、万事が益となるということを多くの体験や経験を通して知らされています。あのときは、失敗だった、間違いだった、不運だった、災いだったとしか思えなかったことが、しばらくたって振り返ってみると、その後、それによってかえっていい結果につながったとか、今の自分をつくる基いとなった、益となっていた、そのようなことはたくさんあるではありませんか。

 私は、自分が就職で福岡にくることがなければ、牧師をしていただろうかと思います。当時、福岡に来ることは、目の疾患が原因で故郷の鹿児島で教員になる道を閉ざされた私には、敗北のように思われました。それは、自分の努力などとは関係のないところでの話でしたから、神様どうしてですかと、悲嘆にくれたのでした。

 しかし、福岡に教員としてくることになり、いろいろな方々との出会いや教会生活をとおして、私の献身の思いは育てられていきました。妻が連れ合いとして与えられたこともまた、私の献身の思いをなお一層強めたのではないかと思われます。それはすべて、神様のお導きと今や思えるのです。神様はわたしの献身の思いをこのようにして徐々に導かれました。

 そして、家を建てて、このまま教員としての生活を続けるのだろうと思った瞬間から、急激に献身の思いは強くなっていったのでした。決断すべきときがきたことを知らされたのです。しかし、少なくとも1年間は、どうすべきか苦しみました。まさに、あのとき、わたしはどのように祈っていいかわからなかった、どうしていいのかわかりませんでした。

 思い返せば、あのとき、霊、自らが、言葉にならないうめきをもって神様に執り成してくださったのではないでしょうか。しばらくして、私は、ようやく、決心することができました。一連の出来事から、私も、神様の御心は、当初は自分には理解できなくても、それがいずれ益となることを知ることになりました。私のような経験をされているキリスト者はどんなにか多いことでしょう。

 否、ほとんどすべての人々が、そのように理解されているのではないでしょうか。つまり、そのことがなかったら、今の自分はないということくらいの、あのときの出来事は大きいものであり、それは当初はつらかった、しかし、神様は万事を益としてくださった、そして、おそらくこれからも同じようにしてくださるということを知っているのです。

 今、地球環境は危機に瀕しています。経済のグローバル化は、これまでの経済の流れや仕組みを壊し、ある部分はいいのでしょうが、ある部分は悲鳴をあげています。大きなものはさらに大きくなり、小さなものは、その存在すらも危うくなっています。

 しかし、一つだけ確実によいと思われることがあります。多くの人々が、自分たちだけの国の環境や経済を考えていてはとてもだめだということがわかってきているのです。地球環境のことも、世界の人々がこぞって考えなければならなくなってきているのです。

 地球環境のことを、これほどに、すべての人々が自分のこととして、ごく身近に考えるようになった時代もなかったでしょう。ある地域は洪水に見舞われ、大きな台風や竜巻が発生する、かと思えば、一滴の雨も降らなくなって久しい地域がでてくる、大きな山火事が多発し、氷山は溶けて、海に埋没する島々もでてきています。

 生態系は変わり、地球上から消滅した生き物もあります。二酸化炭素が増えて、地球の温度がこのまま上昇すると、これから先、予想を超えるどのような危機的な状況がやってくるかわかりません。皆が、取り組まなければならないのです。日本のいろいろなビルでは、エアコンの温度を夏は、28度、冬は20度にあわせています。そうやって、二酸化炭素排出6パーセントに協力しています、と書いてあるところもあります。皆が、こぞって考え、取り組まなければならない事態になっています。世界中の人々の心が一つになれば、この危機を回避できるでしょう。

 しかし、一人ひとりが自分のことしか考えず、それぞれの国が、自分の国の利益だけを考え、企業が自分の会社の利益だけのことを考えるのであれば、どのような恐ろしい事態になるやもしれないのです。聖霊は、私たちのために執り成してくださっておられるでしょう。私たちは万事を益としてくださる主を信じ、今のこの危機的な事態を悔い改めの機会としてとらえ、そして、地球上の人々すべてが、力を合わせるよきときととらえて、与えられている課題に取り組まねばならないのです。今はそういう時代です。

 「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」とあります。私たちは、神様から、イエス・キリストに似たものにしようと、日々働きかけられている存在です。聖霊によって日々執り成されている者たちです。

 神様は、万事が益となるように、働いてくださっています。そう考えますと、この主に自分の身を委ねるだけで、何もいらないことがわかります。主が働かれるままに、導かれるままに、示されるままに、すべてを委ねて歩んでまいりましょう。


平良師

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