平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2007年5月20日 いつまでも待たれる神

2007-09-13 23:21:43 | 2007年
ルカによる福音書15章11~32節
   いつまでも待たれる神

 ある人に二人の息子がいました。父親は、どちらの息子も同じように愛し、可愛がっていました。あるとき、弟息子が、父親に、自分がもらうことになっている財産の分け前をくださいと言いました。父親は、財産を二人に分け与えてやりました。当時は、長男は他の兄弟たちの2倍を受け取ることになっていたようで、そうしますと、この場合、二人兄弟のようですから、三分の二は兄が、三分の一を弟が受け取ったということになります。
 ところが、そうなった場合でも、その財産を運用する権利、処分する権利は、まだ生きている父親にあったらしく、弟息子のように、それらを全部金に換えるなどというのは、親の了解がなければほとんどできなかったようです。それでもときに、このようなむちゃくちゃな親不幸者がいたようです。ほとんどの者は、たとえ生前財産を譲り受けたとしても、父親が死んでからその財産を処分しておりました。
 しかし、そのときには、皆で築き上げた財産ですから、一つの共同体で得た富ですから、それらを処分するというのは、その共同体に対しては裏切り行為のようなものでもあったのです。そして、この場合、この父親は、生前にすでに、財産を処分することも許しているのです。
 ところで、運用する権利がまだ父親にあったというのは、事実だっただろうと思われるのは、ずっと父親といた兄息子は、財産を分けてもらったはずなのに、友人たちとの宴会のために子山羊一匹すらもらえなかったと不満を持っているのです。弟息子には、この父親は、財産を分け与え、処分することまでも許したのに、どうも兄息子にはそうではなかったようです。
 弟息子は、父親のもとを去ろうと考えました。それも父親が、先祖から受け継ぎ、蓄えたものを金に換えて、持ち去ろうとしたのでした。それはある種、父親のめんどうもみない、自分が生まれ育った家を捨てるような行為でした。父親を死んだ者として扱うような大それたことでもありました。
 一族皆が汗水たらして獲た富を彼は、何ほどもないといった態度で、金に換えて遠い国へ行くのです。遠い国に旅立ったというのは、それは、物理的なこともいっているでしょうが、神様のところから遠く離れて行ってしまった、罪ある人間の姿を描いているのです。それも、その神様からいただいた恵みすらも、大事にしようというのではなく、放蕩三昧をして無駄に使うことになります。
 父親は、その弟息子の言いなりです。弟息子は、自由に、勝手に、やりたい放題といった具合に振舞っています。罪ある人間の姿です。父親というのは、神様ですが、神様は私たちの振る舞いのままにされるのです。自分のところから去る自由も、また来る自由も、認めているかのようです。
 神様は、力づくで、私たちをご自分のところに引きとめようとはなさいません。私たちは、自分の自由意志によって、罪にそまり、滅びへと落ちることも、神様のもとへ戻ってくることも、どちらの道をも選ぶことが許されているのです。
 このような自由を与えておられる神様は私たちを愛しておられるでしょうか。神様は私たちを愛されているがゆえにロボットや奴隷のように、神様の意のままにしようとはなさらず、自由意志を与え、選びの自由を与えておられます。
 招詞で読んでいただいた詩篇の139編の13節からには、私たちが神様によって創造されたときの話が語られています。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。秘められたところで私は造られ、深い地の底で織りなされた」。
 私たち一人ひとりは、神様によって、御心のうちに造られた者です。神様は、天地創造をされたときに、創世記1:31「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と書かれてあります。
 創造されたもので何一つ神様の目からみて、よろしくないというものはないのです。その一人ひとりは、イエス様が、バプテスマを受けて祈られているときに、天から声があって、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22)と言われたというのですが、そのように、私たち一人ひとりにもこの御声は、届けられております。
 私たちもまた愛されている者なのです。なのに、神様のもとから離れていこうとするのです。これが罪です。イエス様も、バプテスマを受けた直後、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御声を聞かれたのですが、すぐに悪魔の誘惑に遭いました。悪魔の誘惑は、神様から愛されている者、私たちに襲い掛かります。
 そして、私たちを神様から引き離そうとします。例えば、そのとき、イエス様は、国の一切の権力と繁栄、また、すべてのものも自分を拝むならば、すべてはお前のものになる、と悪魔から言われましたが、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ、と書いてある」と、聖書を引用なさり、悪魔の誘惑にイエス様は勝利されたのでした。
 しかし、私たちは、実に弱いものです。この弟息子も、それらの悪魔の誘惑に打ち勝つことができなかったのでしょう。彼は、父の家に留まることをしませんでした。
 もっと他に、自由にできるところがあるだろう、もっと他に、楽しいことを体験できるところがあるだろう、もっと、自分に対して人々が、注目したり、自分を認めてくれるところがあるだろう、何か、もっとさらに莫大な富を一気に得ることのできるところがあるだろう、もっと他に自分を愛してくれるところがあるだろう、私たちは、この弟息子が、父の家を出て、遠い国へ行ったように、神様のもとから離れて、神様の恵み、神様の愛の中から遠く離れて、罪の中に自分の身をもっていくのです。
 それは、神様の愛を信じられない、神様が、あなたはわたしの愛する子だと言っておられる、そのことを信じることができない、そこから生まれていく罪です。神様の愛は、無条件です。それゆえに逆に理解しにくいのかもしれません。
 私たちに理解されやすいこの世の愛には、条件がついている場合が多いのです。外見がすばらしいとか、性格も素直で優しいとか、財産を持っているとか、憧れの仕事についているとか、もしあなたがそのようであるなら愛します。そうでなければ、どうして愛するでしょうか。しかし、神様の愛には、そのような条件はついていません。
 遠い国へ旅立って行った弟息子に何が起こったでしょうか。彼は、放蕩の限りを尽くしたとあります。酒と女性におぼれた毎日を過ごしたのです。彼の周りには、近寄ってくる多くの友らしい人々がいました。よそ者の彼でしたが、放蕩にふける仲間たちのなかではいつも物語の主人公のように振舞うことが許されました。
 ところが、いつまでもお金は続きません。彼は、父のところから持ってきた財産をすべて無駄に、使い果たしてしまいました。次第に、人々は、彼に関心を払わなくなりました。それどころか、よそ者に過ぎない彼を人々は冷たくあしらい、軽んじるようになりました。
 おりしも、その地方に飢饉が起こりました。彼は、食べることにも困るようになりました。彼と付き合っていた仲間たちは、もうこの放蕩息子が利用できないとわかるとさっさと彼を離れ、彼の存在はその地方にあって無用となったのでした。
 飢饉で食べることにも困るようになり、彼は、命をつなぐために職を探しました。よその土地であり、誰もほんとうには頼れる人はいないのですが、それでも何でもするからと、ある人のところへ身を寄せました。その家の主人は、この放蕩息子がおそらくユダヤ人であるとわかりながらも、彼に配慮することなどは致しません。
 その証拠に、ユダヤ人が、汚れた動物として忌み嫌っている豚の世話をさせられたのです。しかも、彼はその豚の食べるいなご豆をたべてでもお腹を満たしたいと願うほどだったのですが、そのような彼を見ても、誰も彼に食べ物を与えてくれる人はいなかったのです。
 今は、家畜飼料がありますが、私が小学生の頃まで、通学路に養豚場があり、そこを通るたびに、その豚の食べるえさを見る機会があったのですが、おそらく飲食店や学校給食での食べ残しや捨てられたものを集めてきて、それを豚に食べさせていたのだと思いますが、ドラム缶から注がれるそのえさを見ながら、子どもながらに、豚ってかわいそうだなあと思っていました。
 このときの豚のえさであったいなご豆がどのように処理されて豚に与えられていたのかわかりませんが、この放蕩息子は、豚がそれを食べるさまを見ながら、自分も食べたいと思ったというのですから、ぎりぎりのところへ追い込まれていたのでしょう。彼の中に、このままでは、飢え死にするかもしれないという予感が走りました。何よりも、彼のことを考えてくれる人が、ひとりもいないという現実、深い孤独感を味わうことになったのです。彼は、人々の目からも失われた者となっていたのです。
 ここに立ち至ったときに、はじめて、彼はいろいろな事柄に気づいたのでした。自分が選んだ道がどのようなものだったのか、そして自分はこれからどうなるのか、わかったのです。その道は、破滅へ至る滅びへの道でした。
 そこで彼は父の家へ帰ろうと思いました。そして、次のように考え、言おうと思ったのです。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、また、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』、と」。彼は、自分が落ちるところまで落ち、人々から見捨てられ、あたかも豚と同じような扱い方をされているなかにあって、わかったのです。
 そして、父親を捨ててきた自分は、もう息子と呼ばれる資格はないけれども、かつて、息子として扱われたときのことを、想い起こしました。彼は、それゆえに、父のところへ帰ろうと思いました。かつて、受けていた父の愛を思うことができました。帰っても、もう息子としての扱いは受けなくてもいい、それでも、父のもとにおられるならばと、帰る決心をしたのでした。彼は、父親のところから遠く去ることで、どんなにみじめな歩みをせざるをえなくなったか、また、人々からついには、見捨てられたという悲しみと苦しみを体験したのでした。しかし、同時に、父の家で受けていた恵みと愛の深さに気づくことができたのでした。
 彼は、父の家へ向かいました。どのような顔をして父のところへ戻っていけばいいのでしょうか。父親に会うことができたら、こう言おうと言葉も考えながら帰っていきました。その帰り道は、つらいはらはらするようなものだったでしょう。はたして、父親は、自分と会ってくれるだろうか、しかし、彼の気持ちのなかに、わずかながら、「あなたはわたしの愛する子」という声が聞こえていたのではないでしょうか。
 ただ、彼は、雇い人としての扱いで構わないと考えました。息子としてのかつてのような扱いは受けなくてもよいと。否、そのようなことを願うことなど、とてもできることではない、とんでもないと考えたのでしょうか。それとも、何とか父親のところへいさせてもらうための理由として、彼なりに考えついたものだったのでしょうか。
  この思いは、謙遜のようでありますが、少し問題もはらんでいます。それに雇い人ならば、いつでもまた、逃げ出せる、それほどの責任を負わなくてもよい、雇い主である父との距離も保てる、この発想は、謙遜のようで、実は、まだ、父の赦しをほんとうには、受け入れようとは思わない人間の姿が見え隠れするのです。どこかにまだ、自分が残っているのです。どこかにまだ自分の義をたてようとしている彼がいるのです。
 彼は、確かに、父の愛が必要でした。その愛に帰ってきたのです。しかし、かつて息子だったように、父親に、父なる神様の愛に、息子として自分の身を完全に委ねることを願うことこそが、最も必要なことだったのではないでしょうか。
 しかし、そのような彼を父親は、「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のでした。「まだ遠く離れていたのに」、父親の方から、走り寄っていったのです。まだ遠く離れていた、つまり、まだ罪の中にあったのに、神様の方から走り寄っていったのです。
 それはあたかも、神様の一方的な赦しの行為を表してもいるかのようです。私たちが神様に敵対し、罪の中にまだあったときに、神様はイエス・キリストを十字架におつけになって、一方的に私たちを赦された、そういうありさまです。息子は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」こう言ったのです。そのあと、彼の用意してきた言葉は、「雇い人の一人にしてください」と続くはずでした。
 しかし、その言葉を言う前に、否、父親は遮るようにして言ったのではないでしょうか、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と言ったのです。そのことが意味していたのは、息子としての扱いでした。特に、手の指輪は、息子のしるしでした。
 この父親は、この放蕩三昧して帰ってきた息子を前のように自分の息子として扱うのです。そして言うのです。「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。この父親の手放しの喜びようはどうでしょうか。もう、うれしくてうれしくて仕方がない、といったありさまです。死んでいた息子が生き返った、いなくなっていた息子が見つかった、これは、親としては最高にうれしいことに違いないのです。
 神様は、私たちが、神様のところへ戻ってくるのをいつかいつかとずっと待っておられるのです。まだ遠くいたのに、父親は、彼を見つけました。たまたまだったのでしょうか。否、息子が父の家を出て行ったときから、ずっと彼の帰りを戸外に出て、いつも待っていたのです。そうでなければ、まだ遠くにいる息子に気づくはずがありません。毎日毎日待っていましたから、ですから、父親の喜びは一層大きかったのです。私たちもまた、この神様から待たれています。
 私たちは今日も父なる神様のもとへ帰っていきましょう。あるいは、今日、父親であるこの神様のところへ戻っていく道のりの一歩を踏み出してみてください。

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