平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2012年4月1日 教会の熱心な祈りの中で

2012-07-22 15:49:25 | 2012年
使徒言行録12章1~17節
教会の熱心な祈りの中で


 今日のお話に登場してくるヘロデ王は、生まれたばかりのイエス様を殺害しようとしたあのヘロデ・アンティアパスではなく、その孫にあたるヘロデ・アグリッパ1世です。彼は、ローマ側にも幾人かの有力な知人がいたらしく、彼の時代にそれまでローマの属国になっていたユダヤが、一時期解放されることになりました。そのような彼でしたから、ユダヤ人たちからは、結構したわれていたようです。
 そして、最近増えてきたキリスト教徒たちの存在は、それまでのユダヤ人たちからすると、異端のように思われていたのですから、当然、ヘロデにとっても面白くない存在であったでしょう。彼は、教会のある人々を迫害しはじめました。そして、ヨハネの兄弟ヤコブ、あのイエス様の12弟子の一人であるゼベダイの子のヤコブですが、彼を剣で殺害します。
 ちなみに、17節に出てくるヤコブは、イエス様の兄弟のヤコブで、12人の一人ではなく、当時、エルサレム教会の主だったひとりになっております。殺されたこのヤコブは、彼の血のつながりのある兄弟ヨハネと共に、イエス様に、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と言って、イエス様から、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分っていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか」と言われて、「できます」と答えた一人でした。
 そして、そのとおりに殉教の死を遂げることになったのでした。ユダヤ人たちはイエス様の12弟子の一人のヤコブが殺害されたことをたいへん喜びました。それで、ヘロデは、ユダヤたちの人気をさらに得ようと、今度は、キリスト者たちの中心的な存在となっていたペトロを捕らえることにしました。ヘロデは、ペトロを捕え、過越祭のあとで、彼を民衆の前に引き出すつもりでおりました。そのときに、民衆の面前でペトロを殺害しようと考えていたのかもしれません。
 ペトロが投獄されたあと、「教会では、彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」とあります。教会では、とありますが、それは、いろいろな教会に、彼の投獄の知らせは届き、多くの人々が、彼のために祈りを捧げていたのか、或いは、直前までいた教会のことを指しているのかわかりませんが、とにかく、教会の人々は、ペトロの命が守られるように祈っておりました。解放されることを願い、そのことを一生懸命に祈っていた者もいたでしょう。教会の者たちは、ペトロのことで祈り続けておりました。
 この祈りが神様を動かしたのでしょうか。ヘロデ王が、ペトロを引き出そうとしていた前の夜に、天使が現れ、ペトロを牢から脱出させるために導きだしたのでした。ペトロは、そのとき二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っておりました。また、番兵たちも、戸口で牢を見張っておりました。そのような厳重ななかに彼はいました。4節には、兵士が、四人一組で、四組の兵士が、彼を監視していたと書かれています。ですから、外に出るなどとても無理な状態でした。しかし、ペトロが眠っていたときに、天使がやってきて彼のわき腹をつつき、起して、「急いで起き上がりなさい」と言いました。すると、鎖が彼の手から外れ落ちました。それから天使は、ペトロに「帯を締め、履物を履きなさい」と言いました。ペトロはそのとおりにした、とあります。それから、天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言いました。
 ペトロは、このとき、天使の言う一つ一つのことをその指示通りに致しました。彼の指示に従いました。もし、天使の言うことを信じなければ、彼が助け出されることはなかったでしょう。ペトロは、天使の指示に素直にしたがい、そのとおりにしました。私たちは、このような箇所を読みますと、聖書に書かれていること、御言葉を行うことの大事さを思います。御言葉は、行ってみるときに、その実りをいただくことができます。
 聖書に書いてあることを、ふんふんとうなずくだけで、実行に移すことや従うことがないのであれば、私たちは、何の恵みも味わうことはないのではないでしょうか。少なくとも、生きた神様、イエス・キリストの出会いは、ないでしょう。ペトロは、そんなことをしたら、兵士に見つかって捕えられてしまいます。できません、とは言いませんでした。天使の言うことに従ったのでした。
 そして、第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたのでした。そして、そこを出て、ある通りを進んでいくなかで、天使は彼を離れ去っていきました。そのとき、ペトロは、我に返ったとあります。それまでは、幻を見ているのだと、思っていたようです。そして、これら一連の出来事は、主が天使を遣わして、ヘロデ王の手から、また、ユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、自分を救い出してくだったことなのだと悟るに至りました。私たちもまた、そのときには、なんだか信じがたく、まるで幻でも見ているかのように思われても、振り返ってみたときに、それは、神様が自分に救いの御手を差し伸べていた、或いは、それは、神様のご計画だったのだと悟ることができる出来事があります。
 解放されたペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家へ行きました。そこには、大勢の人が集まっていて祈っていました。先日、あのヤコブが殺害されたばかりでしたから、ペトロに対する彼らの祈りは必死だったと思います。ペトロは、ヨハネの母マリアの家の門の戸をたたきました。すると、ロデという女中が取り次ぎに出てきたのですが、それがペトロの声だとわかり、喜びのあまり門をあけもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げたのでした。
 ところが、そこにいた人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言った、とあります。彼らは、神様がきっと自分たちの祈りを聞き届けてくださるはずだ、といった確信のもとに祈っていたのではなかったのでしょうか。ペトロが門の前に立っていますといったら「あなたは気が変になっている」とはどういうことだったのでしょうか。まさか、神様がわたしたちの願いを聞き届けてくださるはずがない、といった気持ちではなかったでしょうけれども、どこかでは、あのヤコブのように、ペトロも殺されてしまうのではないか、といった半ば諦めの気持ちが強かったのかもしれません。
 この聖書の箇所は、私たちの祈りの姿勢を反省させられます。私たちは、祈るとき、どれほどの信仰心をもって祈っているでしょうか。イエス様は、マタイによる福音書の17章20節で「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『ここから、あすこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」。そう言われていますが、私たちは、神様の御業が行なわれることに、どれほどの信頼と確信をもっているのでしょうか。
 ことが成就したら、もうけで、聞き入れられなくて当たり前、そんな気持ちでしょうか。中には、祈るけれども、まさか、そんなことはあるまい、と考えているのではないでしょう。このとき、神様は、教会の熱心な祈りを聞き届けてくださいました。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」。確かにそうであったでしょう。しかし、それとても完全なものではありませんでした。
 さて、今週は、受難週にあたります。6日の金曜日には、夜の7時30分から受難日キャンドルサービスを行います。夜ですから、出席される方は毎年多くはないのですが、キャンドルを灯して、イエス様の十字架に思いを馳せますとき、静かで厳かな空気のなかに、それなりに迫り来るものがあります。昨年までは、バッハのマタイ受難曲に合わせて、イエス様の十字架に思いを馳せておりましたが、今年は、また違う形の試みをしていただくことになっています。もちろん、イエス様の十字架に至るまでの聖書の箇所にそって、キャンドルサービスは行われます。
 熱心な祈りと言いますと、イエス様のゲッセマネの祈りを、まず、私たちは想い起こします。今日の招詞で読んでいただいたところです。マルコによる福音書の14章32節から36節「一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」。
 イエス様は、みもだえするほどに、苦しまれておりました。弟子たちに、「ここに座っていなさい」、と言われました。「ここを離れず、目を覚ましていなさい」、と言われました。イエス様は、これからのことを思うと、一人でこのときを過ごすことに耐えられなくなるほどでした。弟子たちにすら、背後で、祈っていて欲しいと願われたのでしょうか。ところが、しばらくして戻ってくると、弟子たちは眠っていたのでした。わざわざ、目を覚ましていなさい、と言っていたにもかかわらず、彼らは眠っていたのです。
 イエス様はペトロに言われました。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い」。しかし、私たちは、この弟子たちの姿をみて、決して人ごととは、思えません。イエス様が、ある意味では、自分のために目を覚ましているように言われてもそれをすることができませんでした。そして、次は、目を覚まして祈っていなさい、と言われたのですが、イエス様が、再び彼らのところへ来てみると、彼らは、また、眠っていたのです。心は燃えていても、肉体は弱い、とまさに言ったとおりでした。
 私たちは、今もなお、私のために十字架におつきになられたイエス様のために、それは、今目の前にいる弱く苦しんでいる友であり、倒れている兄弟姉妹たちであるかもしれませんが、彼らのために、寝ないで必死になって祈るなどということは、私たちには簡単にはできません。
 イエス様のなさった祈りは、ご自分の杯を取りのけてください、というものでした。それは、十字架を避けることを意味します。悶え苦しみ、ひれ伏して、イエス様は祈られました。しかし、わたしの願うことではなく、神様の御心に適うことが行われますように、と続けられました。つまり、自分の願いがあり、一方に、神様の思いがあります。どちらを先立てるのか、それは、イエス様のなかでは明らかでした。
 私たちは、イエス様の祈りの中に、祈りとはどのようなものかを教えられます。教会が、一人の友のために祈る、その祈りの大切さも、今日の箇所から教えられます。皆で、思いをあわせて祈るのです。礼拝や祈祷会などの祈りです。それも、真実の祈りが求められていることを教えられます。
 イエス様のこのときゲッセマネの園で祈られた祈りは、実に、孤独なものでありました。これまで、ずっと一緒に行動してきた弟子たちにさえ、理解されるものではありませんでした。イエス様が、悲しみ、悶え苦しんでいるのに、弟子たちの一人も、イエス様と寄り添うことができなかったのです。イエス様のために、目を覚まし、祈り続けることはできなかったのです。祈りとは、孤独なものであることを知らされます。イエス様も、弟子たちを残し、それから、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われましたが、最後は、少し一人進んで、とあるように、最後には、一人で、祈ることになるのです。わたしたちも、いずれは、一人で、神様と向き合わねばならないのです。
 そして、自分の願っていることを述べます。訴えます。自分を苦しみから解放してくださるように、願います。病が治るようにと、祈ります。いろいろな災いから守ってくださるように、祈ります。問題が解決しますようにと祈ります。他人のことをも祈ります。たくさんの祝福と恵みがあるようにと祈ります。しかし、最後には、神様の御心が行われましようにと、祈ります。これが、祈りです。
 私たちの願いが適えられないからといって、嘆く必要はありません。神様の御心が行われたからです。私たちが思い描いていたものとは違う形のものを神様は用意されているということです。それは死に至るとも、結局は、きっとよきものに違いありません。神様は、イエス様の願いではなく、神様の御心を成し遂げられました。それが、十字架の出来事でした。
 それは、神様に背を向けて歩んでいる私たちの救いのために、必要であられたのでした。イエス様の十字架を思うとき、そこには、イエス様の壮絶な祈りがありました。そこまでは、私たちには難しいかもしれませんが、それは、私たちに、教会の祈りに、求められている祈りの形です。


平良師

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