平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2015年2月8日 教会-イエス様の教えを生きる群れ

2015-05-04 17:20:35 | 2015年
ルカによる福音書10章25~37節
教会-イエス様の教えを生きる群れ

 律法に生きようとする人は、それを実行しなければなりません。ファリサイ派とまでは言わなくても、律法を研究している者たちは、それをいかに実行するかにも関心があったと思います。
私たちは律法に生きようとは思いませんが、イエス様の教えには従いたいと思います。
 今日の招詞ですが、ルカによる福音書の6章46節から49節です。「わたしを主よ主よと呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川がその家に押し寄せたが、しっかりと建ててあったので、揺り動かすことがきでなかった。
 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」。これは、私たちキリスト者たちの信仰生活の一つのたとえとして語られたことですが、キリスト者たちもここから、イエス様に教えられていることとその実行について考えないわけにはまいりません。
 ならば、律法を研究している者たちが、神様に従うために、いかにしてそれを守っていくかということに関心がなかったとは思えません。彼らもまた、関心が十分にあったと思います。
 さて、このお話の前には、イエス様が弟子たちの方を向いて、話された内容が書かれてあります。そこには、あなたがたの見ているものを見る目は幸いだとして、多くの預言者や王たちもあなたがたが見ているものを見たかったし、聞きたかったのだができなかった、しかし、あなたがたは、それが可能となっているのだと語られ、あたかもイエス様ご自身が、預言者たちの欲していたその人物だと言わんばかりの発言でした。
 それで、それほどまでに言うイエス様であるのなら、実際にはどの程度の者なのかを律法の専門家(以後律法学者と呼びます)は試そうとしたのでした。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いました。彼は当然、それについては、それなりの見識を持っておりました。ところが、イエス様は、この問いに対して、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に問い返したのでした。
 律法学者は、自分が試されることになりました。私たちの人生にも、イエス様に問うたはずが、逆に、イエス様から問われることになることは少なからずあります。「イエス様、どうしてこのようなことになってしまったのですか」、「あなたはどうしてだと考えるのか。その答えについて、聖書から理解を得られるであろう」そのように、言われることも少なからずあります。
律法学者は、イエス様の「律法に何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」との問いに、得意になって答えたともとれるし、馬鹿にするなといった気持ちで答えた可能性もありますが。彼は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とまず、申命記の6章の5節を引用して答えました。
 6章4節には、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」とあります。それに続いて、この「心を尽くし」云々となります。それから、次に、彼は、レビ記の19章18節の後半を引用して、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と答えました。ちなみに、18節の前半は、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない」とあり、続いて「自分自身を愛するように」云々と続きます。
 イエス様は、このように答えた律法学者に、「正しい答えだ」と言われました。正解でした。そもそもこれらの答えは、旧約聖書でモーセが神様からいただいた十戒の前半と後半を要約する内容だと言っても過言ではありません。
 イエス様は、しかし、そのあとに、次のように言いました。「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。律法学者は、この言葉を不快に感じたようです。なぜなら、あたかも、自分が実行することを怠っている者のような言われ方をしたからでした。それで、彼は、「では、わたしの隣人とはだれですか」と、聞きました。自分を正当化しようとして、そう言ったとあります。当時、隣人という概念は明らかでした。同じ、ユダヤ人で、しかも、律法を守って、罪を犯さないように生活をしている者たちでした。
 おそらく、この律法学者は、この枠内にある人々には、愛ある行動を心がけていたのでしょう。ところが、イエス様は、日ごとの生活を立てるのにいっぱいいっぱいで、律法を守れない、守ろうとしない罪人たちや明らかに当時としては罪人の範疇に入る取税人とも食事をするなど、律法学者からすれば、とても隣人として扱えない者たちと隣人付き合いをしていたのでした。
 ですから、このようなイエス様に、隣人とは誰か、といった問いの中には、あなたの隣人は、とても敬虔なユダヤ人からすれば、隣人とは言い難い人々ではないか、といった非難めいた気持ちもあったはずであります。
 ですから、「では、わたしの隣人とは誰ですか」と、聞いたのです。そこで、イエス様はこの善きサマリア人の喩話をされたのでした。
 このイエス様のなさったたとえ話もまた、実によくできたものでした。「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中」、つまり、都エルサレムからエリコへ下るというのですから、このある人とは、ユダヤ人である可能性が高いのです。この人が、追剥に襲われて、半殺しの目にあい、倒れておりました。そこへ、祭司がその道を同じようにくだってきて、その人を見ると、道の向こう側を通っていきました。
 次に、レビ人がやってきましたが、祭司と同じように、道の向こう側を通っていきました。この二人は、神殿で祭儀に携わる人々でした。下ってきたというのですから、エルサレムの神殿の仕事を終えてということで、疲れていてめんどうなことにかかわりたくないと考えたのでしょうか。あるいは、この二人は、このような職業の者たちでしたから、出血しているこの男に触れたくなかった、あるいは、死者であればなおさら汚れが移ると言う理由で、避けていったと考えられます。
 あるいは、もう少し善意に考えると、まだ、祭儀の予定があったので、ここで汚れる行為をするわけにはいかなったということです。いずれにして、律法学者が、神を愛し、隣人を愛することと答えた二つの戒めについては、祭司もレビ人もわかっている立場の人々でありました。それで、神様への礼拝が第一か、隣人を助けることを優先すべきか、そのことがこの登場人物の祭司とレビ人には問われることになったということです。かなりの葛藤があったのではないでしょうか。
 今回、私は、この二人には、わりきっていたというよりも、葛藤があったと考えました。いとも簡単にこの倒れている男を無視したのではなく、葛藤があったのだと考えたいと思いました。確かに見たけれども、否、見たがゆえに、向こう側を通っていったのでした。同じユダヤ人です。隣人の枠内にあるユダヤ人ですから、助けるのが当たり前のことでした。そのあたり前のことができなかったのです。逆に律法に生きようとしていたがために、助けることができなかったといった視点もあるでしょう。
 次にやってきたのは旅の途中のサマリア人でした。サマリア人というのは、当時は、ユダヤ人とは犬猿の仲にあった人々でした。もとは同じイスラエルの神への信仰をもっている仲間でしたが、歴史の流の中で、サマリア人は、ユダヤ人たちとは違い、エルサレムではなく、ゲリジム山で礼拝を捧げるようになり、ユダヤ人とは不仲でありました。そのサマリア人が、この倒れているユダヤ人に気付き、その人を見て、憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱したというのです。
 見たが、向こう側を通って行ったのではなく、見て憐れに思い、懇ろに介抱したのです。サマリア人は、この倒れている人が、ユダヤ人であると気付かなかったのでしょうか。否、いろいろな所作や雰囲気や何かで、気付いたと思います。それでもなお、サマリア人は、この倒れている人に同情し、介抱しました。それだけではありません。
 宿屋に連れて行った翌日、このサマリア人は、目的地を目指して、旅を続けなければならなかったとみえ、そこを後にするのですが、帰りにまたこの宿屋に立ち寄るというのです。そして、費用がもっとかかったら、帰りがけに自分が払うから、この人のめんどうをみてくれと言って、ひとまず、デナリオン銀貨2枚取り出して、宿屋の主人に渡します。宿賃の30日分くらいはあったのではないかという説もあります。それでも、ひょっとしたら、このサマリア人がかえりがけに立ち寄ったら、もう、ユダヤ人はある程度動けるようになって宿屋を立ち去り、サマリア人の彼が、お金だけを払うということになるかもしれないのです。
 半殺しのめにあい倒れていたユダヤ人と旅の途中のこの男を助けたサマリア人はどのような関係にあったというのでしょうか。何の関係もない二人です。サマリア人からすると犬猿の仲にある人で、助けたところで、何かの利益があるかというと、それもまったく考えられない人です。いわゆる、あかの他人です。なのに、憐れに思って、ここまでやってあげたのでした。
 イエス様は、このたとえ話を終えて、律法学者に聞きました。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法学者は、「では、わたしの隣人とはだれですか」と問うて始まったたとえ話でした。律法学者にとって、隣人とは同じユダヤ人で、律法を守っている人、という枠は、木端微塵に粉砕してしまいました。なぜなら、祭司もレビ人も同じユダヤ人で、神に仕え、当然、律法を守ることにおいても、一目おかれていたはずの人々でした。
 隣人とばかり思っていた同じユダヤ人は、隣人ではありえなかったのです。そもそも隣人とは誰それと枠に納めようとすることが間違っているのであって、このサマリア人のように、その人を具体的に助けた人、その人が、その倒れている人の隣人になったということなのです。隣人という人々が、どこそこいるのではなくて、助けたり、愛したりする行為によって、隣人が生まれるということでした。
 律法学者は、「その人を助けた人です」と答えざるをえませんでした。イエス様は、言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい」。
 今日は、会堂記念日礼拝です。教会の土台は、イエス様です。教会は、いろいろなところで礼拝を守ります。このような会堂を与えられているところもありますし、あえて、小さな教会形成を選び、信徒の家を開放してもらって、礼拝を守っている方々もおります。教会は、建物ではありません。その群れをさしております。
 しかし、建物があれば、それもまた、伝道に寄与します。建物もまた、伝道をするのです。そう言った意味では、私たちは、素敵な会堂を二つも与えられ、この福岡市のもっとも中心地において、伝道活動を行っていく使命を与えられています。神様が託してくださったこの会堂を用いて、これからも神様の宣教の業に参与させていただくことを願います。
 しかし、繰り返しますが、教会はあくまでも、その群れを指しています。イエス様の教えを生きる群れです。この律法学者に言われたことは、私たちにもまた、言われています。教会は、教会として、今、いくつの隣人になる行為をしているでしょうか。ホームレスの方々へ月に一度おにぎりを握っております。
 重症児障害児者施設に園外保育のために場所を提供し、また、そこで共にその子やご家族の方々とふれあい、この施設を地域におぼえてもらうために年に一度バザーも行っています。それから、東日本大震災で被災された方々を支援するために、バザーや催し物を行って送っております。そこにデコパージュミニストリーは作った作品などを販売して、献金にくわえてくれています。2014年度も12~3万の献金を送ることができるでしょう。
 そして、地域の幼子や小学生たちに、子育ての場や学習、楽しい活動の場を提供しています。また、こどもたちの悩み相談、薬物依存症の方々とそのご家族のために支援しているグループに、場所を提供しています。また、チャリティーコンサートや福祉関係のイベントにも協力しています。こうした、私たちの営みは、いわゆるユーマニズム、人道主義から行っているものではありません。すべては、イエス様の教えによるものです。「律法の専門家は言った。その人を助けた人です。そこでイエスは言われた。行って、あなたがたも同じようにしなさい」。
 私たちの教会の場合は、平尾と大名があって、これらの宣教活動も豊かにできています。そして、何よりも、二つの場所を用いて、3つの内容の違う礼拝を行い、多くの人々のニードに応えることもできます。自由で多様性のある教会として、私たちの教会は地域に立っております。奉仕者の問題や、二つで一つという捉え方や運営上の問題、課題はたくさんありますが、私たちはイエス様を頭とあおぎ、イエス様を土台としながら、イエス様の教会を建て上げてまいります。私たちは、これからも、イエス様のところに行き、イエス様のことばを聞いて、それを行う人でありたいと願います。
 それは、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人」としての教会の歩み、それぞれのキリスト者の歩みです。そのとき、この二つの建物も、有効に主を証しする建物として用いられることでしょう。礼拝を大事にし、イエス様を宣べ伝えることを第一とし、それと同じく、隣人に仕える教会として、これからも歩んでまいりましょう。二つの場所を有効に用いるならば、私たちは、ほんとうに豊かで多様性に富んだ宣教活動を行っていくことができます。
 解決しなければならない課題は、先ほど、言いましたように、たくさんあります。一つ一つを解決してくださる主に期待しながら、私たちに与えられた主の使命に生きてまいりましょう。教会は、イエス様が教えられたことを生きる群れでこれからもありたいと思います。二つの宣教の場所をお与えになられた主に感謝し、主のご期待に応えられるよう、共に手を取り合って歩んでまいりましょう。


平良 師

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