ルツ記4章
七人の息子にまさる嫁ルツ
ナオミが嫁のルツを連れてベツレヘムに戻ったとき、ナオミを知っている町の女性たちは、ナオミさんではありませんかと声をかけました。夫と二人の息子を失って帰って来ていたナオミは、自分のことをナオミ(快い、愉しみ)などとは呼ばないで、マラ(苦い、苦しみ)と呼んでくださいと言い、「全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」、「全能者がわたしを不幸に落とされたのです」と . . . 本文を読む
ルツ記 3章
神の慈しみとルツの真心とボアズの敬意
ナオミは、ベツレヘムへ帰る道すがら、二人の嫁に言いました。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれました。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように」(ルツ記1:8)。
また、ナオミが嫁ルツからボアズの親切について聞いたとき、言った言葉が「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを . . . 本文を読む
ルツ記2章1〜12節
生者、死者を問わず、慈しみを惜しまれない神
ナオミは、悲しみのなかをモアブ人の嫁ルツを連れてベツレヘムへ戻ってきました。彼女は、挨拶に来た町の女性たちに、自分をナオミ(快い、喜び)などと呼ばないでマラ(苦い、苦しみ)と呼んでくださいと言い、「全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」、「全能者がわたしを不幸に落とされた」と嘆きました。しかし、だからといって神様はおられないと . . . 本文を読む
ルツ記 1章1節〜7節
わたしの名はナオミ(快い)
エリメレクの家族がベツレヘムからモアブの野に移り住んだのは、国が飢饉となり、ユダの地にあったベツレヘムもまたその飢饉の影響を受けたためでした。ベツレヘムというのは、聖書ではイエス様がお生まれになったところです。何かしらの関係があるのでしょうか。また、ベツレヘムという言葉の意味は、「パンの家」ということですので、そのパンの家に、パンがなくなってし . . . 本文を読む
創世記45章1〜15節
わたしを遣わしたのは神
ヨセフは、兄弟のユダの語ることを聞いておりました。そして、ついに平静を装っておくことができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫び、人払いをしたのでした。そして、自分の身を明かし、声をあげて泣きました。
それまで、ヨセフは、誰と話していたかといいますと、自分を奴隷として売ろうと提案したあのユダでした。ヨセフは、カナン地方から穀物を買いに . . . 本文を読む
創世記41章37〜57節
神の霊が宿っている人
7年間の飢饉に備えて、ヨセフが提案した具体的な施策は、ファラオのヨセフに対する絶対的な信頼となりました。それは、あの侍従長と同じように、その背後に神様の力を見たからでした。「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」。
しかし、何ゆえ、ファラオはヨセフのことをそのように思ったのでしょうか。それには、幾つかの理由があったからだと思います。 . . . 本文を読む
創世記 41章1節〜16節(17〜36参照)
神の告げるファラオの救いとは
侍従長の妻の偽証によって、牢獄につながれたヨセフは、そこでも、看守長の目にかなう者となり、獄中の人のすることは、すべてヨセフが取りしきるようになりました。それから、獄中に王の給仕役と料理役が、エジプト王ファラオに過ちを犯し、投獄されたのです。そのとき、侍従長は、ヨセフに彼らを預け、彼らの身辺の世話をさせたのでした。ヨセフ . . . 本文を読む
創世記37章12節〜36節
人の思いを超える神の摂理
ヤコブは、羊の群れを飼っていた兄たちの所へ行って、無事を見届け、様子を知らせて欲しいとヨセフに言いつけます。この時、ヨセフだけは、兄たちと一緒に行かず、ヤコブのもとにいたようです。ヤコブは、ここでもヨセフを他の兄弟たちと同じように扱うことはせず、ヨセフを大事に考えて、家にいるようにしていたのでしょう。ここらのヨセフとヤコブの会話には、日ごろの . . . 本文を読む
創世記37章1〜11節
心に留める夢
聖書では、その人物のこれからの人生について、夢が神様の御心を示していたり、神様の導きがそこから始まったりします。ヨセフは、よく夢を見ましたが、他人が見る夢を解くこともできました。フロイトは、夢分析というものをやって、夢が人間の深層心理にあるものを反映していることを説明しています。それを読んでみますと、なるほど、そういうことはあるだろうなあ、と納得させられます . . . 本文を読む
フィリピの信徒への手紙 3章12節〜4章1節
なすべきただ一つのこと
「兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。私は、こうしたパウロのきっぱりとした姿勢に教えられます。信仰者として、憧れすら抱いてしまいます。イ . . . 本文を読む