フィリピの信徒への手紙 2章1節〜11節
キリストの謙遜
キリスト者たちは、すべてにおいてイエス様が模範です。パウロが書いたこのフィリピの手紙の2章6節から11節は、いわゆる有名な、「キリスト讃歌」と言われるものですが、ここに書かれているイエス様のお姿が、まさに、2章の1節から5節にパウロが述べていることを考えるときの目安になるというのです。パウロは「何事でも利己心や虚栄心からするのではなく、へ . . . 本文を読む
ガラテヤの信徒への手紙 6章11節〜18節
新しく創造された私たち
私は、自分が牧師としての召命感をいただいて、一番よかったと思うのは、誰よりもまず、御言葉によって、自分が恵まれることです。自分が最初に、御言葉に感動させられることです。これが、最高の恵みです。このような難解なパウロが書いた手紙を何とかして、語らなければならない、ですから、必死になるわけですが、聖書は聖霊の働きによって書かれたもの . . . 本文を読む
ガラテヤの信徒への手紙 5章2節〜15節
自由を得るために召し出された
私たちキリスト者は、神様によって知られている者たちです。それについては、先週の説教でお話しました。それから、神様によって召し出された者たちです。そのことについては、今日、語らせていただきます。何のために、召し出されたかと言えば、自由を得るためであったとあります。「この自由を得さるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてく . . . 本文を読む
ガラテヤの教会の人々は、パウロが、当初伝えた福音から離れて、違うものを信ずるようになったり、かつての慣習へ舞い戻ったりしています。ガラテヤは、中近東にあった偶像崇拝の盛んなところでした。パウロは、そこでも福音を宣べ伝え、その偶像の神々の奴隷になっていた人々を改宗へと導いたのでした。エルサレムからやってきた者たちが、律法を守ることが救いの条件のように説いたり、割礼を受けることを強要したりしたとき、パウロは、そのことについて激しく抗議し、それを受け入れることをしないように勧めもしました。 同じように、ガラテヤの人々は、一旦、偶像の神々から離れて、イエス様をキリストと受け入れたにもかかわらず、またもや、無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしていたのでした。パウロは、そのことを叱責しています。彼らは、パウロが指摘しているように、いろいろな日、月、時節、年などを以前と同じように守るようになっていました。 パウロは、8節、9節で、かつて、ガラテヤの人々は、この地域の偶像の神々に奴隷として仕えていたけれども、今は、ほんとうの神様を知っていると言います。それは、むしろ、神様から知られているといった言い方がふさわしいのです。そして、神様に知られているあなた方は、それはどんなにか喜ばしい、光栄なことであり、恵みでしょうか。それなのに、あの諸霊(偶像の神々)の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのは、どういうわけですかと嘆いています。 八百万の神々がいると言われる日本、それでいて葬儀の多くは未だに仏教式です。日常生活のなかに、これらの宗教は深いかかわりを築いてきました。キリスト者になって、すべてこうした関わりから解き放たれたはずなのですが、地鎮祭、夏祭、法事などに出席させられることもあります。いつの時代でもつきまとう葛藤があります。 . . . 本文を読む
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです」。 パウロは、イエス様に出会わされるまでは、熱心なユダヤ教徒でした。しかも、指導者として将来を期待されていた人物でした。当然、律法にも詳しく、その実行に関しても一生懸命だったと思われます。わたしたちキリスト者は、律法がどのようなものかは、旧約聖書を通して、あるいは、福音書のイエス様とファリサイ派や律法学者たちとの議論をとおしてわかったつもりになっていますが、実際、それを実行したことはないので、ほんとうのところはわかりません。パウロは、律法に従って毎日を生きていた人物でしたから、それを実行しないで神様に義とされるということなど、とても考えられなかったと思います。 ですから、その彼が180度の違いを見せているのは、確かに復活のイエス様に出会ったという以外には考えられないことでした。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。 復活のイエス様は、パウロには十字架におかかりになっているお方として出会わされたのでしょう。そして、そのとき自分が生きているのは、パウロを愛し、パウロのために身を献げられた神の子イエス様に対する信仰によるものだと自覚したのです。ところで、私たちそれぞれに現れてくださったイエス様はどのようなお姿のイエス様であったのでしょうか。 . . . 本文を読む
パウロは、自らを弱いと言っていますが、私たちから見ると、なかなかどうして、強靭な精神の持ち主です。それは、ユダヤ教のエリートとしての道をまっしぐらに進んでいたときよりもさらに強くなったと思われます。彼の言動は、確信に満ちています。彼は、初代教会の指導者として活躍 した人でしたが、当初は、キリスト者を迫害するほどの熱心なユダヤ教の信徒でした。ですから、エルサレムで教会を作っていたイエス様の弟子たちよりは、どこに行っても格下の者のように思われていた向きもあったことでしょう。 ですから、1章1節の「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」という自己紹介をみるときに、自分の使徒としての権威は、神様から来ているといった主張は、生前のイエス様を知らないパウロにとっては、一種の戦いのようなものでした。私たちは、このパウロの姿勢に学ぶところが大きいのです。 それは、神様と直接につながった者だけが、自立した信仰を持ちうると教えられるからです。時に神様よりも人とつながっている方がおられます。人のことをほめ過ぎたり、過剰に敬意を抱く必要もありません。同じ人間として、どのような人にも愛情を注ぐことこそ大事です。生前のイエス様を知らないパウロよりは、エルサレムのペトロやイエス様の兄弟ヤコブたちの方に、初代教会の人々は権威を感じたことでしょう。 ここでも、せっかくパウロが、救いは律法を守ることで得られるのではない、といった福音の内容を告げ知らせていても、後にエルサレムからやってきたペトロが、割礼を受けることを主張して、パウロの説いたキリストの福音を台無しにするといったことが起こっていたのでした。パウロは、あくまでも、律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされるとの福音を語っておりました。 . . . 本文を読む
今日は、召天者記念礼拝を守っています。当教会の召天者記念礼拝は、教会員で既に天に召された先達たちはもちろんですが、教会員のご希望で、ご自分のご家族の誰かをおぼえて欲しい方、或いは、教会員ではなかったけれども、葬儀を牧師がしたことで、今日のこの日に、一緒に故人をおぼえたい方、また、その他の理由により、とにかく、故人を一緒に偲びたい方もどうぞというのが、私たちの教会が行っている召天者記念礼拝です。 ところで、その故人ですが、今、どのようなところにおられるのかということですが、カトリックでは、天国と地獄がありまして、その中間に煉獄というものがあります。そして、その煉獄では、小さい罪を犯した者は、この煉獄で悔い改めれば天国に行けるということになっています。プロテスタントでは、天国と地獄しかありません。それでは、そのイメージですが、これらについては、定かではありません。地獄は、火と硫黄の池、灼熱に苦しめられる、うじが尽きず、などといったことが書かれています。天国は、文字通り天にあります。 ヨハネの黙示録では、新しい都エルサレムということで表現されています。例えば、21章22節からのところには、「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである」。 とにかく、天国は輝くばかりの白色で満ちているといった印象です。これは、目に見える天国の印象です。しかし、イエス様は、いろいろなたとえを用いて、天国、神の国を示されました。あるときは、裁きを伴う事柄として、あるときは、人の行為よりは、憐み深い神様の一方的な恵みとして。 . . . 本文を読む
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を来て、毎日、ぜいたくに遊び暮らして いた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓 から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをな めた」。ここには、対照的な二人の姿が描かれています。一人は、金持ちで着物や食べ物など、 毎日ぜいたくに暮らし、1 人は、貧しく皮膚病を患い、食べる物も得ることができず、立つ力 さえもなく金持ちの門前で身を横たえているラザロでした。この金持ちが、ラザロに憐みを 抱いて何かを施すこともなかったようで、ただ、犬だけが、彼のところへやってきては、でき ものをなめて、慰めを与えているような具合でした。この金持ちは、ラザロの存在に気づい ていなかったのでしょうか。否、あとを読めばわかりますように、毎日、金持ちの屋敷の門前 で横たわっていたラザロのことを彼は知っていました。しかし、そもそも当時の価値観から すれば、こういうラザロのような人は、罪深かったからこのような事態になったのであり、 それは神様の救いからもれた人なのだといった見方があったのではないでしょうか。先週の 説教の箇所ですが、13 章の 1 節から 5 節で、事件や事故により、悲惨な形で死を迎えた者に 対して、弟子たちもそう思っているのではないかと考えて、他の者よりも彼らが特別に罪深 い者だったからという理由でそうなったのではないと、当時の一般的な人々の見方をイエス 様は否定されております。ですから、一般的な見方からすれば、ラザロも同情や憐みを得ら れるということにはならなかったのです。一方の金持ちは、神様に祝福された者であるから こそ、このような生活ができるのであって、死んでも天国へ行けるだろうと人々は考えてい たのです。ところが、金持ちは、陰府に落ち、ラザロは、天使たちによって宴席にいるアブラ ハムのそばに連れて行かれました。 . . . 本文を読む
このたとえ話は、何を言わんとしてなされたものでしょうか。9節にはこうあります。「そこで、わたしは 言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさ い。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれ る」。このことを述べようとして、弟子たちになされたたとえ話でした。 「あなたがたのうちのだれかに 友達がいて、真夜中にその人のところに行き」、「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」。なぜ、時刻が真夜中なのでしょうか。それほど、緊急なことだったのでしょうか。この時刻にパンを三つ貸してもらわなくても死ぬほどのこ ともなかったはずです。当然、この時刻ですから、次のようなことになりました。「面倒をかけないでく さい。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけ にはいきません」。治安も今の時代ほどではありませんし、戸締りは厳重になされ、一旦行えば、それを解くことにはまためんどうな手間暇がかかったのではないでしょうか。 しかも、子供たちがこの友人のそばで寝ているのですから、彼が動けば、子供たちが起きてしまいます。そもそも、パン3つくらいで、こんな時間帯にそれをもらいに来なくても、朝になってからではだめなのか、と友人は思ったのではないでしょうか。ですから、そう簡単ではないことが予想されます。 しかし、もし、あなたが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろうと、イエス様は言われます。執拗に頼まれるということは、この寝ている人にとっては、さらに困る事態になりますから、それは避けたい、そこで、パンを三つ与えることで帰ってくれるならとパンを渡すことになるという読みです。神様にも執拗に求めなさい、そうすれば与えられます。 . . . 本文を読む
イエス様一行は、ある村にお入りになりました。すると、マルタという女性がイエス様を自分の家に迎え入れ ました。彼女にはマリアという姉妹がおりました。マリアは、イエス様の足元に座って、その話に聞き入ってい たのです。あとで、マルタがマリアに注意して欲しいとイエス様に願っているところをみますと、マルタが姉の ようです。イエス様は、ここでの雰囲気からして、以前からこの姉妹のところへは、来られていたのではないか と思われます。 そして、この二人のようすは、このときだけではなく、いつもこうであったのかもしれません。 姉のマルタはもてなしに忙しく、妹のマリアはその間もイエス様の話に聞き入っているといようなことです。気 のきくしっかり者の姉とのんびり屋の優しい妹です。 この話の前には、「善いサマリア人」のたとえ話が語れています。そこには、ある律法の専門家が、イエス様に 何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるかと聞いて、イエス様から、逆に、律法には何と書いてあるかと尋 ねられ、第一に神様を誠心誠意愛すること、第二に、隣人を自分のように愛することだと答えるのです。そして、 イエス様からそれは正しいことだから、そのことを行うように言われるのでした。 そういうことで言えば、マル タのやっていることは、イエス様を愛し、イエス様一行に親切にしているのですから、褒められてもおかしくあ りませんでした。それなのに、イエス様は、妹に手伝うように言ってくださいと頼むマルタに、「マルタ、マル タ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良 い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われるのでした。このときのマリアにとっては、イエス様の お話に耳を傾けることが、イエス様に仕えることになっていたのでしょう。イエス様は、マルタの一生懸命仕え ている姿勢ではなく、マリアから取り上げる姿勢を戒められます。 . . . 本文を読む