平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2019年8月4日 神の告げるファラオの救いとは

2019-12-27 22:48:55 | 2019年
創世記 41章1節〜16節(17〜36参照)
神の告げるファラオの救いとは

 侍従長の妻の偽証によって、牢獄につながれたヨセフは、そこでも、看守長の目にかなう者となり、獄中の人のすることは、すべてヨセフが取りしきるようになりました。それから、獄中に王の給仕役と料理役が、エジプト王ファラオに過ちを犯し、投獄されたのです。そのとき、侍従長は、ヨセフに彼らを預け、彼らの身辺の世話をさせたのでした。ヨセフの、侍従長の妻に対する裏切り行為を侍従長は許したのでしょうか。何となく、相変わらず、ヨセフを信頼しているようなところがあります。
 それは、ヨセフ自身が、偽証により自分を陥れた侍従長の妻に対して復讐心を燃やすということもなく、おかれた場所で、坦々と誠実に生きていこうとしている姿が自ずと認められていたかもしれないのです。その牢獄に入ってきた給仕役と料理役の二人が、同じ夜にそれぞれ夢を見ました。その夢によって、二人がふさぎ込んでいるので、ヨセフが、彼らにその理由を聞くと、その夢を解き明かしてくれる者が誰もいないということでした。
 そこで、ヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と、彼らに言うのでした。ヨセフには、夢の解き明かしは、神様がなさることという神様への信頼があることがわかります。ですから、彼は、それを信仰によって成すことができたのでしょう。そして、ヨセフは、二人の夢の意味するところを解いてやりました。
 給仕役は、三日の後に、牢から解放されて前のように給仕役に復職できるということでしたが、料理役は、三日の後に、処刑されてしまうという悲しい結末でした。そして、結局、そのとおりになってしまったのでした。その際、ヨセフは、給仕役には、牢から出て復職した際には、自分のためにファラオに自分の身の上を話して、ここから出られるように取り計らって欲しいと願ったのでした。
 自分は、ヘブライ人の国から無理やり連れて来られ、ここでも牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです、と言い添えて、彼に何とかファラオに取り計って欲しい旨、おそらく熱心に願ったことでしょう。ところが、給仕役は、出獄してから、ヨセフのことをすっかり忘れてしまったのでした。
 それから、さらに、二年が経過しました。2年間は、730日ですから、7という完全数を念頭に入れて考えるならば、十分なときが過ぎ、機が熟したことを意味しています。聖書にはわざわざ「二年の後、ファラオは夢を見た」とあります。その夢は、実に不気味な夢でした。ファラオがナイル川のほとりに立っていると、突然、つややかな、よく肥えた7頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めました。
 すると、その後から、今度は醜い、やせ細った7頭の雌牛が川から上がって来て、岸辺にいる雌牛のそばに立ちました。そして、醜い、やせ細った雌牛が、つややかな、よく肥えた7頭の雌牛を食い尽くした、というものです。そこで、ファラオは目を覚ましましたが、再び眠りにつき、その日続けて、また、夢を見たのです。
 今度は、太って、よく実った7つの穂が、麦の穂でしょうか、一本の茎から出て来て、その後から、実が入っていない、東風で干からびた7つの穂が生えてきて、実の入っていない穂が、太って、実の入った7つの穂をのみ込んでしまったというものでした。7という数字も完全数ですから、他の夢のようにいかず、かなり気になったことでしょう。
 目を覚ましたファラオは、ひどく心が騒ぎました。おそらく、こういう類の夢を見たことがなかったのでしょう。意味不明です。夢というのは、再三述べてきましたように、人間の深層心理に関わるものがありますから、否、ほとんどがそうなのではないでしょうか。ですから、夢を見たものは、何でそういう夢を見たのかは、ちょっと心あたりがあったりするものです。しかし、このときのファラオの見た夢は、いつものとはちょっと違う、えたいのしれない、何か不気味な感じのするものだったのではないでしょうか。それで彼は心が騒ぎ、とても気になって仕方がなかったのです。
 ファラオは、早速、その日のうちにエジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めて、自分の見た夢を彼らに話しました。しかし、ファラオに夢を解き明かすことができる者はいなかったのでした。この夢の内容は、とても不気味なものですから、いい夢とは言い難いものだと思いますから、それでへたなことを言って、ファラオの怒りに触れるようなことになったら大変だと考えて、わからないという返事をした可能性もあります。
 そういったなかで、あの王の給仕役をしていて、王の怒りに触れ、投獄された際に、ヨセフに夢を解いてもらった男が、ヨセフのことを思い出し、そのことをファラオに告げたのでした。それで、ファラオはヨセフを呼びにやり、ヨセフは牢獄から連れ出されてきました。ファラオは、ヨセフに言いました。「わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」。ヨセフは「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と答えました。
 こうした回答の仕方を私たちキリスト者たちは許されているのではないでしょうか。否、それは、キリスト教徒だけではなく、信仰心を持つ他宗教の方々も、そのようなことを言うことはあるでしょう。このように動くことを決断したのは、私ではなく、神様がそのような道を示してくださったので、その道を選び取りました、と。
 そして、確かに、私たちは、そのように答えるしかないことがあることを告白しなければなりません。そういうときは、結構あるものです。これは、すべて神様の示してくださったことなのです、と。ファラオの見た夢は、実に、気持の悪いものであり、とても幸せや幸運をもたらすようなものとは思われませんでした。先ほども申しましたように、ですから、魔術師や賢者と言われるような人々も、ファラオに対して、その夢を解こうとはしなかったのでしょう。
 ファラオの見た夢は、神様がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったことであるとヨセフは述べました。それは、つややかな7頭の雌牛が、葦辺で草を食べていると、その後から、今度は貧弱で、とても醜いやせた7頭の雌牛があがってきて、初めのよく肥えた7頭の雌牛を食いつくしたという夢でした。
 その夢の意味は、これから七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れ、そのあとに七年間、飢饉が続き、エジプトの国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れさられてしまうほどになるということでした。痩せた雌牛が、太った雌牛を食べたのに、その後、何らかわることのないようすだった、「ところが、確かに腹の中に入れたのに、腹の中に入れたことがまるで分らないほど、最初と同じように醜いままなのだ」というのは、それほどに、後の7年間にわたる飢饉がすさまじいものであるかを表わしておりました。また、ファラオが二度も同じ日に、同じような夢を見たのは、神様がこのことを既に決心しておられ、神様が間もなくそれを実行されようとしておられるからです、とヨセフは、ファラオに答えました。
 それから、ヨセフは、ファラオに、次のような内容を国の政策として行うことを勧めるのでした。一つは、今すぐ聡明で知恵ある人物を見つけて、エジプトの国を治めさせること、二つ目は、国中に監督官を立てること、三つ目は、それらの監督官に豊作の7年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収するようにさせること、四つ目は、この豊作の7年間に集めた食糧は町々の食糧となる穀物であり、それをファラオの管理のもとに蓄えさせ、保管させることでした。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う7年の飢饉に対する国の備蓄となって、飢饉によって、国が滅びることはないと、ヨセフは、告げたのでした。
 ヨセフは、ファラオから、「お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」と聞かれたときに、「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と答えたのですが、それでは、「ファラオの幸い」とは、何であったのでしょうか。
 つまり、それは、これから訪れる7年の豊作のあとに続く、7年の飢饉の時代がくることを知らされ、それをどう乗り越えるかをエジプトの王として、その方策を立てる道を、ヨセフをとおして、神様が教えてくださったということでした。ファラオにとっての幸いという点では、国内外を問わず、この飢饉の時代に食糧をもっているということは、それによって、支配権をさらに強大なものにしていくことができたということも意味していました。
 民の財産も、その多くが、エジプトの国、ファラオのものとなっていきました。それでも、人々は、食糧があり、生き延びることができたことをファラオに感謝したのでした。ですから、ヨセフが、このときファラオの幸いというのは、何も、これから起こることを知って、しかも、それに対する方策が与えられて、すべてがうまくいく、恐ろしいことが7年後には、起こってくるけれども、大丈夫だといった安心感が与えられたというだけでなく、彼の権力や国力、財産が膨大なものになっていくことまでもが含まっていたのでした。
 さて、本日は、平和の日礼拝をまもっています。神様が、権力者エジプト王ファラオに与える幸いとは何だったのでしょうか。今日のこの箇所から言えることは、それは、まずは、自国の民を守ることができるということです。飢饉から国が滅びること、国、国民を守ることです。飢饉のときにも、食べていくことができること、これがまず第一です。それをしようとしない国のありよう、そうできない国のありようは、その国の政治をつかさどる者としては、その座にふさわしい者とは言えません。
 権力者としては、そのための対策をまずは立てることが求められています。そのとき、神をおそれない権力者は、すぐに戦争ということが頭に浮かぶかもしれません。武力でもって、他国の財産や食料を奪い取るということを考えるかもしれません。また、武力や暴力を背景に、他国に圧力をかけ、他国からそれらのものを貰い受けよう、奪い取ることをするかもしれません。しかし、神様が示される道は、飢える者が助かる道をいかに築きあげるか、でした。それは、平和の築き方だったと言えるでしょう。
 ここでは、そのために7年間の間の豊作による穀物を備蓄することをファラオは、具体的に示されました。豊作のときにも、贅沢に暮らすのではなく、その富を浪費するのではなく、備蓄することを示されました。どのような方法によって、それを行っていくのか、ということもヨセフをとおして教えられました。そして、そのことをファラオは信じたのでした。
 そもそも、彼に示された夢をファラオが、特別なものとして捉えたことが、すべての始まりでした。その夢は、神様が、見させた夢でありました。神様が、示されたしるしでした。結局のところ、神様が、すべてを始められたのです。そして、その夢の意味を知ったとき、ファラオは、どうすればよいかをヨセフをとおして、教えられ、そのことを実践に移していくのです。
 ですから、ヨセフが述べたように、この夢は、エジプトの最高権力者であるファラオに示され、彼の幸い、平和につながっていくものだったのです。国の平和、そして、自分の富へともつながっていきました。エジプトが7年の間、食糧を備蓄しておいたために、エジプトの人々は飢饉から救われました。そして、それは、エジプトだけではなく、周辺の国々、民族の救済にもつながっていきました。
 現にこのことによって、ヨセフの父ヤコブとその一族もまた、飢饉から救われることになったのですから。そして、この出来事は、将来的には、もっと大きい出来事、出エジプトの出来事、イスラエルの歴史、イスラエルの救いの出来事を作っていくことへと、大きな働きをなしていたのでした。


平良憲誠 主任牧師

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