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迷歩録   いやみ

2017-06-12 13:57:12 | 日記
  <strong>梅雨空に  相手探して  ホーホケキョ  出会いはいつも  物語


                                  ひのひら  ろくべえ



   「いやみ」コミュニケーションを行う時に問題となるキーワードである。相手に不快感を抱かせる言葉や態度という事に

   なるが、その多くが、発信者ではなく、受けて側の判断で決まるのがこの「いやみ」ではないだろうか。

    発信者側が「嫌味を言ってやろうとか、態度を示してやろう」などと、決意をして伝える場面というのはそれほど多く

   ないのではないだろうか。つまり人間関係の破綻を目指す行為だから、意図的に行う事の少ない行為なのだが、受け取る

   側の立場が弱い場合には特に毒舌が「いやみ」として聞こえることが多いのではないだろうか。毒舌とはそのようなもの

   であろう。毒舌自慢をする人も多いが、人間関係の良好さを相手に委ねてしまうコミュニケーションは如何なものであろ

   うか。コミュニケーションはキャッチボール、サッカーにおけるパス回しのようなもの、発信者と受け手のコンデション

   が一致してこそ成り立つ行為ではないだろうか。それ故コミュニケーションをとろう、とりたいと考えたり、思ったりし

   た方が、そのコンデションを創らなければならないのであろう。つまり「いやみ」という不快感なコミュニケーションで

   はなく、互いに快適なコミュニケーション関係がつくれるように技術を持って配慮することが必要なのではないだろうか

    「いやみ」を発する人は、その一言が「いやみ」とは感じていないのかもしれない。自分としては当たり前のことを言

   ってるのに過ぎないのに、受け取る側の立場やコンデションで「いやみ」と受け取る場合が多いのが「いやみ」という問

   題ではないだろうか。勝手に「いやみ」と受け取り、相手の真意も確かめないままに「いやみ」を言われた「いやみ」な

   態度などと避けてしまうと、その人間関係は終息に向かう事となる。つまり受け手側の問題となっていることが多いので

   はないだろうか。

    このようなコミュニケーションにならないためには、相手のコミュニケーションレベルに合わせるだけの、幅の広い人

   間性を持つこと、さらには話題性を持つこと、如何なる人も受容できる心理的ゆとりを持てる自分を目指して日々努力す

   る必要があるのではないだろうか。

    「いやみ」と受け取るか、学びとして受け取るかは、随分と違った方向へ人間関係は進のであろう。対人援助の場で

   のコミュニケーションでは特に、学びとして受け取りその学びに応えようと自分を成長の軌道に乗せることが大切な事で

   はないだろうか。「いやみ」として受け取り、落ち込むことも多々あると思うが、その落ち込みを無駄にしないためにも

   「いやみ」は学びの教科書として、コミュニケーションを学んでほしいものである。