犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

林望著 『新個人主義のすすめ』より

2013-04-09 22:03:17 | 読書感想文

p.134~ 「民主主義は個人主義に立脚する」より

 もっとも大切なことは、本当の意味での民主主義というものは、もとより個人主義に立脚するということです。そして、自分の意見を堂々と述べることは大切ですが、しかし同時に、自分と違う意見を十分に聞くという度量も要求されるのです。それが個人主義ということなのですからね。

 しかし、日本では個人主義が根付いていないために、どうしてもみんなが相互依存的になり、寄らば大樹の陰的になり、赤信号みんなで渡れば的になっていきます。それはしかし、結局だれもが責任をとらない曖昧な社会のかたちで、本当の民主主義から隔たること遥かに遠い。

 民主主義と個人主義とは、かくのごとく、じつは全然矛盾しないのであって、むしろ日本のような衆愚的ポピュリズムのほうが民主主義と鋭く矛盾しているということに、もっとみな気付かなくてはなりません。

 そしてこういう情けない状態を打開する鍵は、ともかく一人一人がちゃんと現実に目を向けて(テレビの愚にも付かない芸能番組ばかりにうつつを抜かしていないで)、だれもが自分一個としての批判意識を持ち、そうして、それをはっきりと表明できるように自己訓練しなくてはなりません。


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 「日本ではまだ民主主義が本当の意味で成熟しているとは言いがたい」といった論評は、いつの時代にも言われることであり、この視点からは日本の民主主義は永遠に成熟しないのだと思います。「日本人は自分達が政治を動かしているのだという意識を持っていない」というような論評も同じです。これに対し、国民主権というフィクションを正確に述べているのが、「その国の政治家のレベルはその国の国民のレベルを表す」という命題だと思います。

 国民からの無理難題に対しても、「無理です」と言えば選挙に通らないとなれば、候補者は当選するためには無理難題に迎合せざるを得なくなるものと思います。しかし、これは元々無理な話なので、政治家はいつも嘘つきであり、期待はずれであると言われて非難を浴びます。この点は、選挙の結果に責任を負わない国民は非常に楽な立場だと思います。「民意の反映」「国民の声を聞く」という言い回しと、政治の劣化との相関関係は、一筋縄ではいかないと思います。